06/03/2026

Dia: 19 de março de 2009

ニッケイ新聞 2009年3月19日付け 大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は二十九日午前九時から同会館(ドミンゴ・デ・モライス街1581)で第六十二回慈善バザーを催す。午後五時頃まで。年に三回開かれる恒例の同バザー。同会では売上げから年末助け合いに協力するほか、九六年から年に一度、希望の家福祉協会に車椅子二台を寄付している。今回も婦人部による手芸品や協賛業者の各種商品を販売。食堂では寿司、なにわうどん、天ぷら、お汁粉、おはぎなどの料理を販売する。同会婦人部から久保美恵子部長、役員の松原信子さん、桑原妙子さんが案内に訪れ、来場を呼びかけた。問合わせは同会(11・5549・7226)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月19日付け ブラジル京都会(杉山エレーナ会長)は二十九日午前十時(第二次招集)から、二〇〇九年度定期総会をレストラン「ニュー美松」(ガルボン・ブエノ街475)で開く。主な議題は〇八年度事業および会計報告、〇九年度事業計画および予算案の審議、役員改選など。終了後、懇親昼食会を催す。詳細は電話11・5011・7245(杉山)または3209・5905(大野)まで。
ニッケイ新聞 2009年3月19日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(与儀昭雄会長)は二十六日午後四時から栃木県人会館(Rua Capitao Cavalcante,56,Vila Mariana)で二〇〇九年度定期総会を開く。主な議題は〇八年の事業および会計報告、〇九年度事業計画・予算案の審議、監事補選出など。
ニッケイ新聞 2009年3月19日付け 鳥取県人会の郷土芸能「しゃんしゃん傘踊り」のグループがブラジリア日系団体の招待を受け、二月十五日に同地で開かれた日本舞踊イベント「日本舞踊民舞」に参加した。ブラジリアから招待を受けたのは、同グループのみ。交流を記念して、聖市のカルモ公園で育てられた桜の苗の植樹も行なわれた。 同イベントはブラジリア老人会(高橋実会長)、ブラジリア日伯文化協会(松永竜雄会長)、直轄区日系協会(Nikkey-DF、梅田寛ヴァルデマール会長)が共催。傘踊りグループがポッソス・デ・カルダスの日本週間に出演した際にブラジリアの関係者と知り合ったことがきっかけで、今回の招待が実現したという。聖市からは同グループの五十人のほか、本橋幹久県人会長、加藤恵久前会長などが同地を訪問した。一行は十四日に衛星都市タグアチンガに到着後、市内の公園に桜の苗二本を植樹した。この苗はカルモ公園桜植樹委員長などを務めた西谷博・県人会元会長が育てたものだ。同日夜にはタグアチンガ日伯文化協会の会館で交流会が開かれ、傘踊りも披露するなどして親睦を深めた。十五日、本番の「日本舞踊民舞」はキリスト教系社会団体LBVの講堂で開催。全部で三十一の演目のうち、地元日系団体の芸能関係者が十の出し物、傘踊りグループの一行が残り二十一の演目に出演した。傘踊りのほか、日本舞踊やカウボーイダンスなども披露。最後は会場全体で百周年記念曲「海を渡って百周年」を踊り、盛況のうちに閉幕した。本橋幹久県人会長は訪問を振り返り、「たいへん喜ばれ、大成功だった。会としてもブラジリアの人たちとの良き交流ができ、とてもよかった」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年3月19日付け サンタクルース日伯農村協会では昨年九月二十七日、約二百五十人が集まって創立七十周年が祝われた。オザスコ生まれの宮田聖二会長(70、二世)は「昔ここにおった人もサンパウロなどから駆けつけてくれた。とても盛大だったよ。今は記念誌を作ろうと調べているところ」という。『リオ州日本移民百年史』(〇八年、同編纂委員会、二百八頁)には、州最古の植民地は三二年に創立したカショエイラ植民地とあるので、ここは二番目のようだ。第一次入植者の保科静江さん(86、茨城)は、大統領が野菜の出来具合を視察にきた一九三九年九月二十三日を創立記念日としたことから、この日に式典を行ったと説明する。三八年にエスタード・ノーボ(新国家体制)という独裁政権が成立した。当時、大統領といえば絶対的権力者だ。ところが保科さんは、視察に来た大統領を間近にみたが、「普通のおじさんのようでした。全然怖くなかったですよ」と思い出す。一次入植者が到着した日をもって創立記念日とすることが多いが、旧都リオゆえに特別だ。その到着日は実は六月二十三日だった。当時、十五歳だった保科さんは「サンジョアンの前日でしょ。花火がバンバン上がってたのを憶えてます。モジにいた時は、黒人なんて見たことなかったけど、ここは黒人ばっかりでびっくりした。でもよくしてくれましたよ」と微笑む。「トマトだって細長いのしかなかったし、このヘンじゃ、みんな食べ方も知らなかった」。文字通り一からの出発だった。渡辺一喜さんは、第二次大戦開始後も「汽車でリオまで一日に何千箱ものトマトを出荷したよ。それでサンタクルース種のトマトが生まれた」という。保科家も一晩で二百五十箱のトマトを出荷したこともあったという。「サンタクルース種は一喜さんの父、一(はじめ)さんが作り、後に全伯の日系農家に広まった」と証言するように、ここはかつてトマトで有名だった。『ブラジル日本移民八十年史』(同編纂委員会、一九九一年)には、「一九四〇年、コチア組合はリオ州サンタクルース植民地に入植した十数家族の組合員にこの種子を送り、集団的に栽培・出荷させたところ、リオ市場で品質が良好という声価を得て、市場の仲買人にトマト・サンタクルースと呼ばれるようになり、それが今日に引き継がれて『サンタクルース種』となった。そのあと現在に至るまで、各地の熱心な生産者、産業組合、種子業者らが、このサンタクルースから選抜抜種しているものが多く、有名なものだけで二十数品種に及ぶ」(二百九十八頁)との記述がある。保科さんは「ヴァルガス大統領のおかげで、戦争中もサンタクルースの日本人には、暴力とかまったくなかった」という。「唯一の迫害らしい迫害といえば、戦争中に日本語の本を取り上げられて焼かれたこと。それだけ」と振り返る。公の場で日語をしゃべっただけで連行された聖市とは大違いだ。『リオ州百年史』によれば、当時イタグアイの警察は「『万が一危害を加える者が居たらすぐに連絡しなさい、徹底して逮捕するから。だから、安心してたくさん野菜を作って、ブラジルのために食を供給したまえ』と、敵性国人である日本人にたいして、本末転倒とも言える待遇を与えていた」(二百十七頁)との体験談が書かれている。大統領肝いり植民地ゆえに、戦争中の待遇も他とはまったく違うものだったようだ。(つづく、深沢正雪記者)写真=左側の2人目から順に渡辺三吉さん、保科静江さん、渡辺一喜さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa2.html