ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 駐ブラジル日本国第三代公使の杉村濬(ふかし)をブラジル移民政策へと駆り立てた背景には何があったのか――。杉村公使は一九〇五年四月にリオ州ペトロポリスに着任早々、ミナス・ジェライス州とサンパウロ州を視察し、「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」「伯剌西爾移民事情 附・貿易状況」などを提出。初代、二代目公使の珍田捨巳、大越成徳の否定的な報告とはうってかわって日本人移民導入に肯定的な内容だった。当時は北米における日本人排斥の動きの中、一八九七年にハワイ移民が上陸を拒否され、一九〇〇年には日本外務省が北米・カナダ移民を禁止した時代。日露戦争に勝利したものの十分な賠償金を得られず、国民の不満を抱えていた日本にとって、同報告書は明るい手を差し伸べるものだったと言える。「ブラジルは移住に適したところである」。報告書は政府によって刊行され、大阪朝日新聞に掲載されるなど、多くの人の目にとまった。「〃移民の父〃水野龍、〃最初の移住者〃鈴木貞次郎、〃最初の入植者〃隈部三郎、〃最初の商店開業〃藤崎三郎助、〃最初の一般渡航者〃三宅栄次郎。ここに挙げた者たちは皆、この報告書を読んで渡伯を決意した」(リオ州移民百年史)。一方の伯国側も、奴隷解放後の労働力として期待していたヨーロッパ移民が、劣悪な労働環境などの理由からつぎつぎに政府によって禁止されている。労働力確保の矛先が、大国ロシアに勝利した日本へと向いたのだった。杉村公使自身、一八八九年から二年四カ月、在カナダ領事館に赴任し移住促進のために働いたが、日本人排斥運動の風潮の中、忸怩たる思いで帰国している。ブラジル移民導入の条件は揃っていた。杉村公使があらゆる視察先で受けた歓迎ぶりは相当なものだったようだ。「通過したどの駅でも多数の群集が一行の到着を待ち構え、口々に『日本バンザイ!』と叫んだ」。リオ州移民記念史は半ページに渡って熱狂的なまでの歓待の様子を伝えている。さまざまな時流が合致し、その要を演じきった杉村公使。そして、赴任して一年一カ月後の〇五年五月十九日、ドラマチックなまでの突然の死。享年五十八歳だった。その死はブラジルでも偲ばれた。政府によって霊柩列車が特別用意され、ペトロポリスの公使館からリオへと棺が運ばれた。国葬といっていいほど敬意を払われたものだったという。 ▽ ▽ コルコバードの丘からリオの街を見渡すと、ポン・デ・アスーカルの手前に杉村公使の眠るサンジョアン・バチスタ霊園が見える。岩手県人会(千田曠曉会長)一行は、杉村公使墓参旅行二日目の二十三日午前八時、キリスト像から真っ青な空の下に広がる絶景を楽しみ、サンパウロから持参した花と線香を手に墓参りへと向かった。旅行団団長の多田マウロ副会長(45、二世)は途中、記者にこう気持ちを語った。「先輩たちが昔から大事に守っている墓。自分もそうしていきたい」。杉村公使の働きを後世に伝える使命に溢れていた。「ほら、あんな高いところからキリストが見守ってる。公使は幸せですね」。墓から景色を見渡して、参加者の女性はそう笑みを浮かべた。杉村公使の墓碑は、昨年、岩手県人会が会創立五十周年と移民百周年を記念して改修したものだ。六月十三日、式典参加のため来伯した達増拓也県知事らとともに除幕式を行った。「大地に広く受け入れられるようにね」。千田会長の言葉どおり、建てられた黒御影の石碑は空に向かって両手を広げるように円を描き、杉村公使の遺影がはめられている。「杉村公使がこの地に亡くなり百三年。みなさんと墓参りできて感激しています。遺族や母県の方々も喜んでくれているでしょう」と千田会長。十一歳から八十九歳までの三十一人は線香をあげて、またの再訪を約束して帰路についた。 (おわり、渡邉親枝記者) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
Dia: 29 de maio de 2009
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 「評価ゼロの土地」から州随一の養鶏集団地へ―。南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地は今月二十三日、「入植五十周年記念祭」(沖島義智実行委員長)を約五百人の出席者を迎え、盛大に執り行った。アンドレー・プチネリ州知事、ジェルソン・ドミンゴ州議会議長、同移住地のあるテレーノ市のウンベルト・ペレイラ市長、JICA聖支所の千坂平通支所長らが出席した。第一陣として入植、現在も同移住地に住む金崎英司さん(71、山口)は、「開拓中に亡くなった人や移住地を後にした人もいるけど、みんなで五十年を祝うことができた」と喜んだ。 バルゼア・アレグレ移住地は、旧海外移住振興会社(JAMIC)が一九五八年、約三万六千三百六十三ヘクタールを邦人自営農受入地として購入、造成した。翌五九年の五月十五日、第一陣九世帯五十四人が入植した。小沢太郎山口県知事(当時)が造成中に視察、移住者には長期貸付金を融資したこともあり、同県出身者が多く入り、「山口村」とも呼ばれる。入植後三年間、雨が降らず、不作が続いた。移住者の中には、代替移住地を求めたり、訴訟を起こす者もいたという。こうした動きから、六二年に外務省、JAMIC、在伯山口県人会(現・ブラジル山口県文化協会)などによる共同の実態調査が行なわれ、「(土地の)評価ゼロ」の判定が下されている。米やフェイジョン、綿などを作ったが、どれも移住地を潤すことはなかったが、飼料用のミーリョが安かったことから始めた養鶏が当った。六二年に産業組合を設立、年々成長を続け、現在では八十万羽を所有する州内最大の採卵養鶏集団地に成長した。文協会館で行なわれた式典では、先没者に一分間の黙祷、日伯国歌斉唱、記念碑の除幕が行なわれた。プチネリ州知事は、五十年間の貢献を褒め称え、来年には国道から養鶏場までの一・七キロをアスファルト舗装することを確約。「五十一年目はピンガの『51』同様、いいことがある」と会場を笑わせた。歴代文協会長、婦人部長、教育関係者への功労賞授与、七十五歳以上の高齢者への表彰状、記念品が手渡され、会場から拍手が送られた。第二部の食事会では、乾杯の後、それぞれが半世紀の歴史に思いを馳せながら、和やかに食事を楽しんだ。余興では、児童、婦人の舞踊などが行なわれ、最後はバルゼア・アレグレ音頭に合わせ、来場者が笑顔で踊りの輪を作った。八〇年代にJAMIC職員として二年間、同移住地に滞在した千坂JICA聖支所長も約三十年ぶりに訪れた。「若かった自分も色々ご指導頂いた。懐かしい、元気な顔を見て安心した」と話していた。
