06/03/2026

Dia: 4 de novembro de 2009

ニッケイ新聞 2009年11月4日付け 日本政府は11月3日に2009年(平成21年)秋の叙勲受賞者を発表した。ブラジル在住の邦人4人、ブラジル人1人の計五人。在サンパウロ、クリチバ、レシフェ、マナウス各総領事館の、4管轄内から選ばれた。 【在サンパウロ総領事館】旭日単光章を受勲することになった荻原孝行さん(79、広島、帰化人)=カンピーナス市在住=は、1973年から23年間、会長を務めたペードラ・ブランカ日伯文化協会の入植50周年記念式典の実行委員長を務めるなど活動の活性化、後継者育成に貢献。 同移住地は旧南伯産業協同組合を中心とし、果樹、特にゴイアバの生産地として栽培地を作りあげ果樹栽培農家の形成に力を注いだ。また、カンピーナス市と岐阜市との姉妹都市交流事業に積極的に参画し、訪伯団の受け入れ及び訪日団派遣に全面的に協力した。受章の知らせにあたり、「どうしてもやらなければいけなかったことばかりだった」と謙虚に話しながら、「こんな嬉しい事は初めて」と喜びを噛み締めた。瑞宝中綬章を受勲することになった坂手實さん(73、二世)=聖州ボツカツ市在住=は、ボツカツ日本文化協会の設立に尽力し、初代会長として日系人の地位向上、協会の発展に貢献。ブラジル青年協会では青少年講習会を定期的に開催して、日伯農村青少年指導者の育成に関わった。さらに、サンパウロ州立パウリスタ総合大学教授として、日本文化学術交流コーディネーターとして日伯間の文化学術交流にも尽力した。「有り難いばかり。我々の時代の日本人はみんな苦労した。これを一つの旗として、これからの日系人は今後の日伯の関係を作り、ブラジルの国づくりに努力して欲しい」と語った。 【在クリチバ総領事館】旭日双光章を受勲することになった今津貞利さん(77、福岡県)=パラナ州ローランジア市在住=は、ローランジア文化体育協会理事長、副理事長及び会計主任として地域の日系社会の親睦並びに文化、スポーツの振興を図り、協会の発展と共に生活の向上に大きく寄与した。また、パラナ老人福祉和順会ローランジア支部長として困窮日本人、日系人の福祉施設の発展に大きく貢献した。ローランジア農業センター長として農業実習講習会を毎月実施する他、日本から農業高校研修生の視察・受け入れを行い、センター内に慰霊碑、移民碑、移民史料館、記念塔、パラナ開拓神社の建立にも関わった。パラナ日伯文化連合会の役員として、1978年の日本人移民70年祭を始め、天皇皇后両陛下(当時、皇太子夫妻)や皇太子殿下、礼宮様(現秋篠宮殿下)など、皇室を合計4度迎えた。「皇室の方々を身近に感じることが出来た。良い思い出です。(受賞を)最初はピンとこなかったが有り難いことです」と感想を述べた。 【在レシフェ総領事館】旭日双光章を受勲することになった宮本武弘さん(71、静岡県)=バイア州イツベラ市在住=は、イツベラ移住地文化協会会長として、個人所有の農地を移住地全体で使用する農場試験場用地として無償で提供。ランブータンやマンゴスチン、クプアスーなど様々な熱帯果樹を同地に導入した。同移住地日本語学校初代校長として、同校設立に尽力。バイア日伯文化協会連合会会長として、親睦組織の基礎を固め、及び日本語教育の質向上に貢献した。宮本さんは、「みなさんの支援があり、好きでやってきたからこそ」とニッケイ新聞の取材に答えた。 【在マナウス総領事館】旭日小綬章を受勲することになったジョゼ・ナッセルさん(63、ロンドニア州ポルト・ベーリョ市出身)=アマゾナス州マナウス市在住=は、日本進出企業のマナウス・フリーゾーン参入、また、日本とアマゾナス州の経済交流への貢献をした。さらに、同ゾーンにおける日伯環境プロジェクトの推進や、日本企業と合同での人材育成へ尽力した。
ニッケイ新聞 2009年11月4日付け ベレン滞在3日目も午前中、平和劇場(Teatro da Paz)へと向かった。道すがら、栃木県人会長の坂本アウグスト進さん(64)と話す。終戦直後1945年8月15日に聖州グァラサイで生まれたという坂本さん。昨年まで聖市で薬局を経営、ふるさと巡りに参加するのは初めて。ベレンの名所のひとつである平和劇場が完成したのは、ゴム景気の最盛期だった1879年。劇場周囲を走る馬車の音を防ぐため、石畳の代わりにゴムを敷き詰めたというエピソードは当時の繁栄ぶりを偲ばせる。一行は内部を見学、97年に天皇皇后両陛下歓迎式典が行われた際の観覧席に入ることもでき、記念撮影をする人も。その後は、昔の刑務所を宝飾品工房・販売所に改修した「Museu de Gemas do Para Joias」、自然公園「Mangal das Garcas」を訪れた。ニワトリの先祖ジャクチンガを眺めていると、「昔食べたことがあるよ」と、隣にいたふるさと巡り参加者。「オンサも蛇もアンタ(バク)もね。今では考えられないな」。思い思いに園内を散策する一行。89歳で同旅行に参加した林田豊さんは、「忙しいけど、いい旅ですね」と話す。父親はグァタパラ耕地に入った第5回移民。東京植民地で生まれた林田さんは戦前に父親と帰日、日本の学校で学んだ。再び渡伯中に戦争が始まり、父親は当地で亡くなったという。アララクアラ線終点のサンタフェ・ド・スールで20年間バールを営み、今はリベイロン・プレットに住む。ホテルへ戻り、ベレンの式典会場へ。今回は全員が参加し、80周年祭典の節目を見届けた。式典終了後は階下のアマゾニア祭り会場で食事を取る。最終日で金曜日ということもあり、かなりの混雑だ。 ▽   ▽ 19日は朝の時間を利用して県連の伊東さん、長崎県人会の野口圭三会長とベル・オ・ペーゾ市場へ向かった。重さを量る「ver o peso」がそのまま名前になった同市場は、庶民の台所だ。塩をまぶして山盛りにされた海老、ピラルクーなど川魚の塩漬け、アセロラなどの熱帯果実を扱う店が所狭しとならぶ。その横にはマンジョッカから作るトゥクピーを容器に移す女性たちの姿。野口会長は、さっそく海老を一山購入した。 ▽   ▽ ベレン空港に到着した一行の中、1回目から同旅行に参加している和田一男さん(85、二世)は、95年のふるさと巡りで訪れて以来のアマゾン訪問。「今回は人数が多くて誰が誰だか分からないですね」としながらも、トメアスー訪問を振り返り、「町も新しくなったし、組合もきれいになった。皆さん苦労したでしょうけど、もう二、三世の時代ですね」と話していた。同じくふるさと巡り参加者の押切壮(つよし)フラビオさん(71、山形)は叔父が戦前トメアスーに入植しており、55年から3年間同地で暮らした。「当時はピメンタが一番すごい頃。会館の周りは整然と畑が広がっていたけど、今では面影がないですね」。敗戦後の日本から移住した押切さんの目には、ピメンタ景気に沸く移住地は「生活レベルが違うな」と感じられたという。また、ベレンへ進学した子弟と戦前移民の親たちとの間で言葉の問題も出ていたそうだ。押切さんはサンパウロに出て日系企業で働き、現在は弁護士として活動する。「80年の開拓はたいへんだったろうと思います」と今回の訪問を振り返り、「あまりにも時間が過ぎてしまって、年をとったな、と実感します」と話した。一行を乗せた飛行機は一路マナウスへ。アマゾン東部から西部へ、1600キロの距離をたやすく飛び越える。約90年前のペルー下りの日本人は、どれだけの時間をかけてベレンまでたどり着いただろうか。(つづく、松田正生記者)...