06/03/2026

Dia: 5 de novembro de 2009

在伯青森県人会(玉城道子会長)創立五十五周年記念祝賀会が二十五日、聖市リベルダーデ区シケイラ・カンポス街にある同県人会館で開催され、母県から蝦名(えびな)武副知事、田中順造県議会議長、塩越隆雄国際交流協会会長ら十五人の慶祝団が来伯して出席。会場にはブラジリアから県人子弟に当たる斉藤準一空軍大将夫妻も駆けつけ、県人会員たち合わせて約百人が詰めかけるなど節目の年を祝った。 青森県人会は一九五四年十月二十八日、県人同士の親睦・助け合いを目的に母県からの要請も受けて、三十九人の創立会員によって発足。高坂美三初代会長を筆頭に、現在の玉城会長で十三代目となっている。 記念祝賀会では、午前十時二十分からの先亡者慰霊法要に続いて、午前十一時から記念式典が開催された。日伯両国歌斉唱、来賓紹介に続いて玉城会長が挨拶。県人会の歴史を振り返った後、今回の創立五十五周年について「内輪でお祝いするつもりだったが、築三十年の会館改修が自分たちの力ではどうにもならず、県庁はじめ民間の方々や県人会員の皆さんの支援を快く受け入れてもらい、補修作業を行なうことができた。来年の一月までに完成できればと思っている」と述べ、関係者への感謝の意を示した。 引き続き、蝦名副知事が三村申吾青森県知事のメッセージを代読。一九〇八年の笠戸丸移民から始まった日本移民の歴史を振り返り、県人の苦労を労うとともに伯国地域社会への貢献を褒め称えた。また、母県青森について来年十一月に東北新幹線が青森まで開通することや二〇一四年、一六年のW杯、リオ五輪にも触れ、成功を願った。 田中県議会議長、塩越国際交流協会会長の祝辞に続き、挨拶を行なった斉藤大将は、父母を含めた日本移民たちが伯国で困難を乗り越えながら農工業や子弟の教育問題に取り組んできたことに改めて敬意を示した。 引き続き、会館改修の補助金として県庁から五百万円、県議会から三十万年、「県人会を支援する会」をはじめとする民間から七百二十万円の計千二百五十万円分の目録が青森県人会に手渡された。 県人会から県側への感謝状贈呈に続いて、創立会員と百歳以上会員への表彰が行なわれ、鳴海忠夫さん(八六)、畑井健治さん(一〇二)、長内藤男さん(一〇一)と青森県人会リオ支部代表の斉藤光さんにそれぞれ賞状が渡され、式典は閉会した。 場所を地下の駐車場に移した祝賀会では、乾杯、ケーキカットの後、昼食懇親会が実施。午後からのアトラクションでは、NHK文化講師の渋谷伯龍氏が青森の「お国言葉」による川柳講演を行なった。 県人会創立総会を聖市セントロ区の中央市場付近の日本食堂で行なったことを覚えている創立会員の鳴海さんは、「あの頃は勝ち組の人が多く活気があったね。今は皆亡くなってしまったなあ」と感慨深げな様子。 長内さんは、「いつの間にか年ばかりが過ぎたが、無事ここまで生きて来られたことを有難く思っている」と表彰されたことを喜んでいた。 また、最高齢ながら今でも時々ゲートボールを行なっているという畑井さんは、「いやー、本当に嬉しいね」と万歳しながら満面の笑顔を見せていた。 写真:記念式典で挨拶する玉城会長(左端) 2009年10月31日付
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 西部アマゾンの中心地マナウス。1669年にポルトガル人によって開かれ、19世紀後半にゴム景気を謳歌したこの町は、1967年のゾナ・フランカ(免税地域、Zona Franca)設置以来、今も企業進出が続く。20世紀前半のゴム衰退後、企業進出時代までの隙間を埋めたのは高拓生らに代表されるジュート(黄麻)栽培だった。人口は約180万人。現在2014年のサッカーW杯に向けて州が600万レアルかけて施設を整備する計画もある。落ち着いたベレンの町並みとは対照的に、マナウスは成長を続ける都市の活気にあふれていた。ふるさと巡り一行はトロピカルホテルへ。その途中、アマゾナス劇場を訪れた。ゴム最盛期の1896年に完成したイタリア・ルネッサンス様式の同劇場。ベレンの平和劇場では石畳の代わりにゴムが敷き詰められたが、こちらでは演奏の音が外に漏れないよう、当時の有力者が壁の間にゴムを入れて音を遮断するよう提案したというエピソードもあるそうだ。劇場の向かいにはサンセバスチョン広場。中心に立つ記念塔は四方に船の彫刻が施され、各面にアメリカ、アジアなどと刻まれている。マナウスから世界へーという当時の活気を感じさせる。宿泊したトロピカルはとにかく広い。受付から記者の部屋まで200メートル近くあり、その奥にも部屋が続く。敷地内にはビジネスホテルや動物園も。ネグロ川沿いのプライアの端にあるリゾートホテルだ。その日の夕食は、市中心から離れた川魚料理のレストラン。ピラルク、タンバキと、アマゾンの川の幸が供され、にぎやかに過ごした。▽   ▽マナウス市には約5千人の日系人が暮らす。高拓生など戦前移住者の子弟や、戦後アマゾン各地へ移住した後に出てきた人、日系企業の駐在員や企業進出とともに国内から移ってきた人たちなどだ。日系人口が少ないこともあり、駐在員との交流は盛んだと言う。マナウス式典の会場となった西部アマゾン日伯協会の敷地には、同協会とアマゾナス日系商工会議所、ATSツールのほか、アマゾン高拓会の事務所も同居する。会館から2ブロックほど離れたところにはマナウス総領事館。同地の80周年記念行事も、これらが協同して進めてきたものだ。当初は空調が働かず、汗がにじむ中で式典は始まったが、やがて復旧し無事に終了。各地の参加者、一行はその後、同文協が運営する市内「憩の園」へ向かった。マナウスでは昨年の日本移民百周年を記念して空港入り口に鳥居が設置された。それが80周年にあわせて同園敷地の慰霊碑の入り口に移設されている。この慰霊碑はアマゾン移住50周年を記念して建立された。揮毫したのは故橋本龍太郎厚生大臣(当時)だ。一行も鳥居をくぐり、階段を上って碑に献花し、手を合わせた。鳥居の手前で一行に花を手渡していたのは、同日伯協会で働く辻田三千子さん(65、奈良)。辻田さん一家はベラ・ビスタ移住地より早い53年2月、戦後第一回ジュート移民としてイタピランガへ入った。ジュートの刈り取りで水に潜っていたことで「今でも少し耳が悪いんですよ」と話す辻田さん。4人の兄弟はマラリアや農薬で亡くなった。「56年は走馬灯のよう。苦労したかと聞かれても夢のようで、実感がないですね。残念だったのは、山の中で教育が受けられなかったこと」。炎天の下、麦わら帽子をかぶり、慰霊碑を訪れる慶祝団の一人一人に一輪の菊の花を手渡す。80周年を迎えて「感慨無量」と喜ぶ辻田さん。「家族が生きていたらと思います。私一人だけで、嬉しいけど寂しいですね。でも、皆さんが花をたむけてくれるからありがたいですよ」と言葉を継いだ。(つづく、松田正生記者) 写真=マナウス市内にある慰霊碑に手を合わせるふるさと巡り参加者たち この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 愛媛県海外協会とブラジル愛媛県人会が実施する海外交流研修事業で、9月に同県から研修生が来伯した。18日間の滞在で農業研修や視察、ホームステイなどを体験、帰国を前に藤原利貞会長と本紙を訪れた。同交流事業は隔年ごとに県・ブラジル側から4人ずつの研修生を派遣するもの。6回目となる今回は県から藤田香織さん(31)、森田紘人さん(21)、寺尾進太郎さん(23)、鈴木由美さん(35)がブラジルを訪れた。一行は9月11日に来伯。サンタカタリーナ州サンジョアキンや、クリチーバ、アチバイア、ピエダーデの県人農家で農業研修を行ったほか、聖州ボイツーバのサトウキビ畑・アルコール工場などを見学した。会員宅でのホームステイなども体験した。実家が専業農家という寺尾さんは、「皆さん自分の意思を持ってやっているから大きくなったと思う。勉強になりました」と話す。「移民の国だから、色々な所でいろんな国が見える」という藤田さんは、「日本の反対で日本が見えた」と感想。現在大学生の森田さんは「皆さん日本の人より日本の事を考えてくれていると思った」と語った。以前にコロニアで出版された本について問い合わせた際、書店がわざわざパンフレットを送ってくれたという経験のある鈴木さんは、「ブラジルは色んな民族が溶け合って、おおらかに暮らしていると感じた。会員の皆さんにも親切にしてもらった」と滞在を振り返る。一方で、デカセギや移民の歴史が日本で知られていないことに残念そうな様子も見せていた。藤原会長は「意外とブラジルのことが知られていない。各地を訪れることで理解が深まれば」としながら、「会員も協力的で、積極的に取り組んでくれるので、これからも制度を続けていきたい」と話した。
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 「かけがえのない機会を与えてくれた日本、先人に感謝」――。日本留学・研修が公式に始まり今年で50周年。全OB・OGの集まりであるASEBEX(日本留学生研修員ブラジルOB会、会員数2千以上)は10月31日夕方、聖市レストランで記念祝賀会を催し、小松ジェニ清香会長は目に涙を浮かべて、そう感謝の言葉を述べた。 日本人移民50周年がきっかけとなり翌1959年、二人の岡山県費留学生が祖国へと渡った。これを皮切りに50年間、多くの日系子弟が国費・県費・JICA・国際交流基金などを通じて日本で留学・研修し、現在各分野で活躍する。祝賀会には、留学生第1号の栢野定雄氏(ニッポン・カントリー・クラブ元会長、文協副会長)、アンドラジーナ市長の小野秋夫氏(元福島県人会長)を筆頭に、約300人のOB・OG、来賓が集まった。また来伯中の滋賀県庁関係者二人も出席し、日本の各知事からも祝電が届くなど日伯両国で祝された。力強い琉球國祭り太鼓の演奏で開幕。あいさつに立った小松会長は、「いろんな方々の努力で50年間続けれてこられ、かけがえのないチャンスを与えてもらったことに感謝」と涙をこらえながら話し、「次の50年に向け、この日伯友好の制度がますます発展することを願うとの期待を込めた言葉に大きな拍手が送られた。与儀昭雄県連会長、山下譲二文協会長代理、村上ヴィセンチJICAコーディネータ、高橋祐亮在聖領事館副領事が祝辞。与儀県連会長は、「県費留学を通じ、母県と県人会の関係を深めることができた。各制度が日伯友好の大きな掛け橋となり、友情を生み出してきた。時代は変わってきているが、今後も続いていくよう働きかけたい」と力を込めた。栢野氏が壇上へ呼ばれると、留学・研修の第一歩を歩んだ「大先輩」へ、全員が起立して温かい拍手を送った。船で45日間かけて渡日した栢野氏。「今とは違う時代だった」と当時の光景を振り返り、「この留学・研修制度は日伯間に大きく貢献してきた」と位置付け。「僕もまだ終わっちゃいない。ASEBEXのために何かできることがあったら協力する」と話し、会場から歓声と拍手が沸き起こった。活躍するOBらに表彰状、また県連、文協、領事館、JICA、海外技術者研修協会(AOTS)に感謝状が送られ、ASEBEXコーラス部による歌声が披露された後、鏡割り、元国費留学生の二宮正人氏(サンパウロ大学法学部教授、弁護士、CIATE理事長)の発声で乾杯、食事を囲んで親睦を深めた。表彰を受けた多田マウロ氏(45)は85年、岩手県費留学で学んだ電気工事設備設計を生かしてエンジニアとして働き、若き岩手県人会副会長として活躍している。「電話代が高いから、親に電話したのは日本到着後と帰国前の2回だけ。毎週手紙書いて送ってました」と目頭を熱くして振り返りながら、「人生で一番大事な時にチャンスをもらい、かけがえのない経験をさせてもらった。いつも県や親、県人会に感謝している」と話していた。