ニッケイ新聞 2009年5月30日付け 多くの移住者が日本最後の数日間を過ごした旧神戸移住センター。神戸市が中心となって同センターを「海外移住と文化の交流センター」として改修・再整備する事業に対し、ブラジル側に呼びかけられていた募金がこのほど締め切られた。ブラジルのほか、パラグアイからも寄せられた寄付は計約二十八万レアル。当初の目標額二千万円には及ばなかったが、個人・団体からの多数の寄付に対し、ブラジル側で連絡役をつとめた澁谷吉雄カワサキ・ド・ブラジル社長は喜びと感謝のコメントを寄せた。 六月三日に開館予定の「海外移住と文化の交流センター」(神戸市中央区)への寄付金は、昨年来伯した西村正日伯協会理事長(同協力委員会委員長)がブラジル側に呼びかけ。同センターに設置が計画されている在日ブラジル人や中南米の日系人を対象にした教育設備に充てられるものとして、昨年末から募金運動が本格化していた。ブラジル側ではカワサキ社ほか県連、文協、百周年協会が窓口となって募金を受け付けた。県連では五月二十八日現在で六百三十五の個人・団体・企業などから六万七千四十レアルが集まり、同日文協ビルで開かれた代表者会議の席上、本橋幹久副会長から澁谷社長に手渡された。県連が受け付けた寄付金には、沖縄県人会(二千レアル)など各県人会、南米産業開発青年隊協会、日本海外学生移住連盟ブラジルOB会など聖市にある各団体だけでなく、パナソニック・ド・ブラジル、モトベル重機販売、ヤンコール山本商会、岡島農工商亊、ホテル&レストランセンタロウスなどの企業、マナウスの西部アマゾン日伯協会、エフィジェニオ・デ・サーレス自治会など地方団体からのものもあった。文協、百周年協会で受け付けた募金額は、今月十三日現在で四万三千五百三十五レアルに上った。澁谷社長によれば、そのほか、リオの日系四団体から一万レ、パラナの日系団体から二万九千レ、パラグアイ日本人会連合会から二万五千レ、またヤンマー・ド・ブラジル社長、ブラジル日本商工会議所会頭などを務めた後藤隆さん(現商議所顧問)から五百万円の寄付があり、合計約二十八万レアルの寄付が集まった。澁谷社長はニッケイ新聞の取材に対し、「目標額に近づき、みなさんの協力に感謝する。昨年暮れにはほとんど集まっていなかったので驚き慌てたが、これだけ集まって大変良かった」と感想を語った。改修落成後の同センター内には、寄付者、または寄付者が希望する氏名が刻まれる。なお県連からは、園田昭憲副会長が落成式典に出席する。
Ano: 2009
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 駐ブラジル日本国第三代公使の杉村濬(ふかし)をブラジル移民政策へと駆り立てた背景には何があったのか――。杉村公使は一九〇五年四月にリオ州ペトロポリスに着任早々、ミナス・ジェライス州とサンパウロ州を視察し、「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」「伯剌西爾移民事情 附・貿易状況」などを提出。初代、二代目公使の珍田捨巳、大越成徳の否定的な報告とはうってかわって日本人移民導入に肯定的な内容だった。当時は北米における日本人排斥の動きの中、一八九七年にハワイ移民が上陸を拒否され、一九〇〇年には日本外務省が北米・カナダ移民を禁止した時代。日露戦争に勝利したものの十分な賠償金を得られず、国民の不満を抱えていた日本にとって、同報告書は明るい手を差し伸べるものだったと言える。「ブラジルは移住に適したところである」。報告書は政府によって刊行され、大阪朝日新聞に掲載されるなど、多くの人の目にとまった。「〃移民の父〃水野龍、〃最初の移住者〃鈴木貞次郎、〃最初の入植者〃隈部三郎、〃最初の商店開業〃藤崎三郎助、〃最初の一般渡航者〃三宅栄次郎。ここに挙げた者たちは皆、この報告書を読んで渡伯を決意した」(リオ州移民百年史)。一方の伯国側も、奴隷解放後の労働力として期待していたヨーロッパ移民が、劣悪な労働環境などの理由からつぎつぎに政府によって禁止されている。労働力確保の矛先が、大国ロシアに勝利した日本へと向いたのだった。杉村公使自身、一八八九年から二年四カ月、在カナダ領事館に赴任し移住促進のために働いたが、日本人排斥運動の風潮の中、忸怩たる思いで帰国している。ブラジル移民導入の条件は揃っていた。杉村公使があらゆる視察先で受けた歓迎ぶりは相当なものだったようだ。「通過したどの駅でも多数の群集が一行の到着を待ち構え、口々に『日本バンザイ!』と叫んだ」。リオ州移民記念史は半ページに渡って熱狂的なまでの歓待の様子を伝えている。さまざまな時流が合致し、その要を演じきった杉村公使。そして、赴任して一年一カ月後の〇五年五月十九日、ドラマチックなまでの突然の死。享年五十八歳だった。その死はブラジルでも偲ばれた。政府によって霊柩列車が特別用意され、ペトロポリスの公使館からリオへと棺が運ばれた。国葬といっていいほど敬意を払われたものだったという。 ▽ ▽ コルコバードの丘からリオの街を見渡すと、ポン・デ・アスーカルの手前に杉村公使の眠るサンジョアン・バチスタ霊園が見える。岩手県人会(千田曠曉会長)一行は、杉村公使墓参旅行二日目の二十三日午前八時、キリスト像から真っ青な空の下に広がる絶景を楽しみ、サンパウロから持参した花と線香を手に墓参りへと向かった。旅行団団長の多田マウロ副会長(45、二世)は途中、記者にこう気持ちを語った。「先輩たちが昔から大事に守っている墓。自分もそうしていきたい」。杉村公使の働きを後世に伝える使命に溢れていた。「ほら、あんな高いところからキリストが見守ってる。公使は幸せですね」。墓から景色を見渡して、参加者の女性はそう笑みを浮かべた。杉村公使の墓碑は、昨年、岩手県人会が会創立五十周年と移民百周年を記念して改修したものだ。六月十三日、式典参加のため来伯した達増拓也県知事らとともに除幕式を行った。「大地に広く受け入れられるようにね」。千田会長の言葉どおり、建てられた黒御影の石碑は空に向かって両手を広げるように円を描き、杉村公使の遺影がはめられている。「杉村公使がこの地に亡くなり百三年。みなさんと墓参りできて感激しています。遺族や母県の方々も喜んでくれているでしょう」と千田会長。十一歳から八十九歳までの三十一人は線香をあげて、またの再訪を約束して帰路についた。 (おわり、渡邉親枝記者) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
ニッケイ新聞 2009年5月29日付け 「評価ゼロの土地」から州随一の養鶏集団地へ―。南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地は今月二十三日、「入植五十周年記念祭」(沖島義智実行委員長)を約五百人の出席者を迎え、盛大に執り行った。アンドレー・プチネリ州知事、ジェルソン・ドミンゴ州議会議長、同移住地のあるテレーノ市のウンベルト・ペレイラ市長、JICA聖支所の千坂平通支所長らが出席した。第一陣として入植、現在も同移住地に住む金崎英司さん(71、山口)は、「開拓中に亡くなった人や移住地を後にした人もいるけど、みんなで五十年を祝うことができた」と喜んだ。 バルゼア・アレグレ移住地は、旧海外移住振興会社(JAMIC)が一九五八年、約三万六千三百六十三ヘクタールを邦人自営農受入地として購入、造成した。翌五九年の五月十五日、第一陣九世帯五十四人が入植した。小沢太郎山口県知事(当時)が造成中に視察、移住者には長期貸付金を融資したこともあり、同県出身者が多く入り、「山口村」とも呼ばれる。入植後三年間、雨が降らず、不作が続いた。移住者の中には、代替移住地を求めたり、訴訟を起こす者もいたという。こうした動きから、六二年に外務省、JAMIC、在伯山口県人会(現・ブラジル山口県文化協会)などによる共同の実態調査が行なわれ、「(土地の)評価ゼロ」の判定が下されている。米やフェイジョン、綿などを作ったが、どれも移住地を潤すことはなかったが、飼料用のミーリョが安かったことから始めた養鶏が当った。六二年に産業組合を設立、年々成長を続け、現在では八十万羽を所有する州内最大の採卵養鶏集団地に成長した。文協会館で行なわれた式典では、先没者に一分間の黙祷、日伯国歌斉唱、記念碑の除幕が行なわれた。プチネリ州知事は、五十年間の貢献を褒め称え、来年には国道から養鶏場までの一・七キロをアスファルト舗装することを確約。「五十一年目はピンガの『51』同様、いいことがある」と会場を笑わせた。歴代文協会長、婦人部長、教育関係者への功労賞授与、七十五歳以上の高齢者への表彰状、記念品が手渡され、会場から拍手が送られた。第二部の食事会では、乾杯の後、それぞれが半世紀の歴史に思いを馳せながら、和やかに食事を楽しんだ。余興では、児童、婦人の舞踊などが行なわれ、最後はバルゼア・アレグレ音頭に合わせ、来場者が笑顔で踊りの輪を作った。八〇年代にJAMIC職員として二年間、同移住地に滞在した千坂JICA聖支所長も約三十年ぶりに訪れた。「若かった自分も色々ご指導頂いた。懐かしい、元気な顔を見て安心した」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年5月28日付け この人抜きには日本人ブラジル移民史を語ることができない――。一九〇五年四月十九日、駐ブラジル日本国第三代公使として着任し、日本にブラジル移民への種を蒔いた杉村濬(ふかし、岩手県盛岡市出身)。着任してからわずか一年一カ月後の翌〇六年五月十九日、脳溢血で倒れ、今もコルコバードの丘に建つキリスト像に見守られながら眠る。ブラジル岩手県人会(千田曠曉会長)の一行三十一人は、二十二日から一泊三日の墓参旅行を行い、日伯の掛け橋となり移民開始のきっかけを作った杉村公使の数奇な運命を辿った。(渡邉親枝記者) リオ州オールゴンス山脈のセーラ・ダ・エストレーラ頂上付近に位置するペトロポリス。海抜八百四十メートルの同地の朝は冷え込む。一八四五年、ドン・ペドロ二世の統治時代にドイツ移民が入植して作られた町並は、異国情緒をかもし出している。今も百年以上前の王室の避暑地だった頃の雰囲気を随所に残す。この地には、八九年の共和制移行後も、黄熱病が猛威をふるっていたリオを避けて各国大使・公使館が集まっていた。一八九五年に国交を樹立した日本もここに公使館を開設。そして一九〇五年、杉村公使の着任とともにブラジル移民開始への歯車が回り始める。 ▽ ▽ 二十三日午前六時前、鹿田明義リオ州日伯文化体育連盟理事長の出迎えを受けた一行は、最初の目的地であるペトロポリス市の第二代公使館へと向かった。杉村公使が妻ヨシと娘三人と過ごし、息を引き取った場所。数年前まで、「公使館はペトロポリスにあった」というのみで、在リオ総領事館にすら記録は残されておらず、詳細は誰にも知られていなかった。その歴史を発見したのが、同地在住三十六年の安見(あみ)清さん(69、茨城)。今回、岩手県人会の一行は、安見さんの案内で杉村公使が過ごした公使館兼住居に初めて足を運んだ。杉村公使が、日本の移民路線をブラジルへ向けることとなった報告書を作成したであろう「移民の発祥地」(安見さん)だ。安見さんは地元図書館の助力を受けて百年前の新聞を読み解き、また孫の新さんが所蔵していた杉村公使が日本へ送った絵葉書などから場所を確定。「リオデジャネイロ州日本移民百年史」(リオ州日本移民百年史編纂委員会)に執筆するために調査しはじめてから、実に二年の歳月がかかった。公使館は、百年前の市中心部全景が写ったその絵葉書「白ク細ク高キ建物ハ隣家ノ独逸寺院ナリ」(杉村公使の注釈)と同じ、白く細長い塔をもつドイツ系ルーテル教会の隣に残っていた。一九三九年に二階から三階に建て増ししているものの、政府の保存地域となっていたためだ。当時十二歳だった杉村公使の長女が、還暦を迎えて自叙伝を出版している。そこには当時の公使館の間取りが書かれており、「内装はほとんど手が加えられていないことが分かる」(安見さん)。天井の高い玄関を通って大広間に足を踏み入れると、円形に飛出た窓が目に入った。「食堂」と書かれた自叙伝の間取り図にある通りだ。現在は、パリ在住の持ち主により二〇〇七年末から売りに出されている。不動産会社によれば、土地面積は一千八百平米、述床面積は八百六十一平米で、価格は百二十五万レアル。安見さんは「ここは『移民発祥の地』。文化施設として残すべき」と提案している。(つづく) 写真=百年前、杉村公使の自宅兼公使館だった邸宅(23日) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-norie3.html
県連主催の第一回県人会マレット・ゴルフ大が六月二十一日午前八時半から、イタペセリカ・グランデ・サンパウロ・マレット・ゴルフ場で開催される。競技が団体と個人戦。【参加費】個人=十レアル、団体=十二レアル。二十一日、案内に来社した園田明憲県連副会長、新留静コチア青年連絡協議会会長は「多くの人の来場を」と呼びかけている。 申し込みは県連及び各所属の県人会と(電9771・1107)及び村上氏((4147・1459)田畑氏、まで。
在伯北海道協会(木下利雄会長)は、今年、道人移住九十周年、協会設立七十周年、会館竣工十周年の記念式典を八月三十日に実施する。この記念式典では、高橋はるみ知事の来伯が予定されており、高橋知事から北海道出身者で八十歳以上の高齢者へ感謝状と記念品が贈られることになった。 このため、同協会では該当者の申し込みを受け付けている。条件などは次の通り。 これまでに高齢者表彰を受けていない北海道出身者で、同協会会員だけでなく、非会員でも可。該当者は、姓名(ふりがな付き)、生年月日、出身地、現住所、電話番号、着伯年月日を明記の上、同協会に申し込むこと。締め切りは六月十五日必着のこと。 申し込み先:Associ acao Hokkaido de Cultura e Assistencia 住所:Rua Joaquim Tavora,605 CEP:04015-001 SaoPaulo-SP 電話:11・5084・6422 ファックス:11・5539・0751
九州八県人会合同による「第七回九州ブロック親睦運動会」が十七日、ジアデーマ市の沖縄文化センター運動場で行なわれた。木多喜八郎文協会長、安部順二前モジ・ダス・クルーゼス市長などの来賓も訪れ、青空の下、五百人を超える参加者で賑わった。援協からは診療チームと救急車も派遣され、大会の安全サポートにあたった。 開会式では、国旗掲揚、戦没者への黙祷に続いて、大会総裁が挨拶。福岡県人会の南アゴスチーニョ俊男会長は、「船上運動会から数えたら百一年目。若い人には、二百年目もやってほしい。一等でもビリでも楽しみましょう」と激励した。 競技は、徒競走、リレー、玉入れといった一般的なものから、『土産探し』、『魚釣り競争』、『花婿・花嫁探し』等の趣向を凝らしたものまで、全二十種目。 徒競走では勢い余って転ぶ少年の姿が観客を沸かせ、『花婿・花嫁探し』では、その場夫婦の男女ペアが、義理の親役を必死に探す姿に笑いと歓声が起こっていた。 ある日本人留学生は四種目に出場。「楽しかった。日本よりも日本らしく、声援が嬉しかった」と閉会後も興奮冷めやらぬ様子で話していた。 なお、参加者数が最多の県人会は、運営を担当した福岡県。百人に迫る会員が参加し、記念品を獲得した。
「これ、どうやるが?」、「オイヤ、見てよこれ」、「アシン・ノン・ダー」―。十七日、高知県人会料理部(高橋マリア部長)の料理講習会を覘くと、土佐弁、コロニア語、ポ語が飛び交う中で、女性を中心とした約三十人が土佐の郷土料理にチャレンジしていた。 講習会は、世代交代を宣言した同県人会が、若い世代をひきつけるため新たに企画したもの。初回講習会は、人気の「蒸し」だったためか、「予想を上回る」(高橋部長)受講者が参加。若者、男性、他県出身者、非日系人などが和気あいあいと、「はちきん」の婦人連中に代表料理を習った。 鯛の腹に海老やおからを詰めた人気の「蒸し」は、そのレシピを狙って参加があったほど。大きな鯛を惜しげもなく使い、中に大ぶりの海老もふんだんに入れた豪快料理に人気が集中。わざわざミナス州からやってきた人もいた。 土佐市という県中西部に伝わるこの伝統料理は、十五年にわたって料理部長を務める高橋部長が、同地出身の父親からレシピを譲り受けたもの。「自称助手」の正木清寿さん(八五)らとともに、県人の集まりごとに提供し、好評を得てきたものだ。 この日は、午前六時にセアザに行って買ってきたという四十センチ級の鯛八尾が用意されていた。参加者らは、手本を示す高橋部長に倣って、魚の腹におからなどを詰め、布巾に包んで、直径八十センチほどの蒸し器にセット。 蒸しあがるまでの四十分間は、別室でタラとミンチのボーリーニャに挑戦した。 ここでは、元研修生など若手や男性陣も活躍。マンジョッカ芋を潰す挽肉機を一手に引き受け、婦人から喝采を浴びていた。ただ、形を整える作業となると手馴れた女性陣にタジタジ。背後からそっと見守るという微笑ましい光景も見られた。 調理テーブルの女性陣は初対面同士であっても、「塩は?」、「きれいに作って」、「あんまり大きくしたらみんなにあたらん!」と冗談を飛ばしながら和気あいあい。「所違えど勝手知ったる台所」という感覚であっという間に作業を終えた。 その時ちょうど、「蒸しあがったよ」と知らせがあり、一同は調理場へと移動。「熱いよ、気をつけて」と声がかかる中、蒸し器からは蒸気を立てた鯛が登場。「うわぁ」という感動の声が沸いた。 形を整えるため、トレイを使って鯛を二度、三度とひっくり返すのは、緊張の瞬間だ。「和食を習いたいから」と果敢に挑戦したソンニャ・リベロさん(二六)は「味見した時もおいしかった」と昼食会が待ちきれない様子。 代わる代わるトライし、無事皿に乗せ終わった鯛は、柿やみかんを周囲に飾って最後の仕上げ。ほんのり桜色の鯛と、鮮やかなオレンジ色の柿が好対照をなして、自然と「きれい」という声が洩れていた。 この他、土佐風そうめん、ほうれん草の和え物、サラダ、シュラスコなども用意され、昼食会では、各料理に舌鼓を打ちながら会話を弾ませる参加者らが目立っていた。 高橋部長は、「思ったよりも人が来てくれた」と安堵の表情。「父から習ったことを教えているだけ。郷土料理の良さを、若い世代にも伝えていきたい」と話していた。 写真:「鯛の蒸し」 写真:高橋部長(右端)の手本に見入る参加者ら
「アマゾン日本人移民発祥の地」として、入植八十周年記念式典を九月十六日に行なうトメアスー。同地実行委員長で、トメアスー文化農業振興協会会長でもある海谷(かいや)英雄氏が、同式典をはじめとする記念行事の案内状配布を主な目的に今月二十日から来聖、四日間にわたってサンパウロに滞在した。海谷委員長は、文協、県連、百周年協会といった日系主要団体やスポンサー企業、日本政府関連機関などを訪問。「一世が現役で行なう最後の移民祭となる気持ちで臨む」と意気込みを見せ、式典への協力と出席を広く呼びかけた。 記念碑建立、記念誌刊行も 広く全伯から協賛募金求める 「トメアスー日本人移民八十周年記念祭実行委員会」は〇七年七月に発足し、十三の小委員会から構成。これまで毎月一回の割合で会議を開き、各種イベントの準備や実行を推進している。 すでに決定している行事は、九月十六日に同文化農業振興協会会館で開催される記念式典をはじめ、前日十五日のトメアスー西本願寺での先没開拓者慰霊法要のほか、農業物産展示会(十六日、十七日)、記念碑建立(協会敷地内)、芸能祭、移民史料館整備、会館改装、八十周年記念誌発刊、「移民の森」や「初期移民の家」整備などが進められている。 これまでに、一月の麻雀・相撲大会を皮切りに、ミス・ニッケイ・コンテスト(二月)、俳句(三月)、将棋大会(四月)を実施済み。今後、運動会・盆踊り(七月)、敬老会・囲碁(八月)、ゴルフ(九月)、野球・ソフトボール、空手(十月)、ゲートボール(十二月)を予定している。 二十二日午前に来社した海谷委員長は、九月の記念祭案内状とともに、九九年のアマゾン移民七十周年記念誌で先月四月にようやく完成したという「アマゾンの自然と調和して」を持参。記念誌編纂委員がそれぞれの仕事を持ち、諸事情で作業が思うように進まなかったことを説明した上で、「八十周年記念誌は専門家に入ってもらって、この十年分と日ポ両語で新たに編纂し、二〇一〇年の末には発刊したい」との抱負を述べた。 海谷委員長は今回の来聖で、到着した二十日に早速、文協、県連、レアル銀行、トヨタ、ホンダなどの企業を訪問。翌二十一日にJICAサンパウロ事務所、百周年協会、移民史料館などに足を運んだ。 約四十五万レアルが見積もられている記念行事の総予算の中で、現在地元を中心に協力券を発行して資金を募っているとし、今後も北伯地域やサンパウロの企業などにスポンサー協力を呼びかけていく考えだ。 海谷会長は「移民の八〇%は農業移民で、八十年の歴史の中でコショウをはじめ、クプアスー、アサイなど熱帯果樹の現物を物産として展示したいと思っている。各委員会には、二世、三世の若い人たちに実働部隊として積極的に入ってもらい、次世代に引き継いでもらうことを考えているが、八十周年は一世が主導となる最後の移民祭になるという気持ちで臨んでいる」と述べ、今年のアマゾン日本人移民八十周年記念祭典への意気込みを見せていた。
アマゾン、トメアスーで九月にある入植八十周年式典。県連からは「ふるさと巡り」で約二百人が出席するが、全員が会場に入りきらないことから、川下りのツアーや自然保護区への訪問、作物の視察などを用意し、対応するとか。 来聖し、二十日に県連役員と調整を行なった海谷英雄・祭典実行委員長は、「現在取り組んでいる森林農業(アグロ・フォレストリー)などを見て行ってほしい」と呼びかけている。
ニッケイ新聞 2009年5月23日付け ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、与儀昭雄会長)が主催する「第一回県人会対抗マレットゴルフ大会」が六月二十一日、イタペセリカ・ダ・セーラのグランデ・サンパウロ協会マレットゴルフ場で開催される。新留静・同協会相談役(元会長)と園田昭憲県連副会長が本紙を訪れ参加を呼びかけた。園田副会長は「百一年目の新たなスタートにあたり、県連で開催を決めました。一回目なのでぜひ参加してください」と熱く語った。募集要項は以下の通り。▼日時=六月二十一日、八時半集合受付、九時半プレー開始。▼競技人員=各県人会から最低五人。▼カテゴリー=個人は、カテゴリーA(ハンディキャップ0~8)、B(ハンディキャップ9~11)、C(ハンディキャップ12)に分けられ、他に県人会対抗の団体戦がある。▼各賞=入賞(団体は三位まで、個人は各カテゴリー五位まで)、ホールインワン(三カ所)、ロングドライブ(男性及び女性)、ニアピン(男性及び女性)。▼ハンディキャップ=マレットゴルフ連合会及び所属コースのローカルハンディキャップを適用。▼参加費用=十レアル、食事は別に十二レアル。参加希望者は出身県(二世以降は両親の出身県)と生年月日を添えて、各愛好会、県人会、県連で申し込む。問い合わせは電話=11・9771・1107(上村さん)、4147・1459(田畑さん)まで。
ニッケイ新聞 2009年5月23日付け アマゾン日本人移住発祥の地、パラー州トメアスー移住地で今年九月、移住八十周年記念祭典・関連事業が行なわれるにあたり、海谷英雄・記念祭実行委員長(65、山形)が来聖、領事館、JICA、県連など各方面と調整を行なった。式典が同月十六日に開かれるほか、胡椒のモニュメントや鳥居の建設、農産展の準備などが行なわれているという。海谷実行委員長に聞いた。 一九二九年九月、トメアスーに入植した四十二家族百八十九人が日本人アマゾン移住の嚆矢。密林開拓から、ピメンタ(胡椒)の一大生産地となったことから、「トメアスー」は、苦闘と成功の代名詞でもある。パラー州都ベレンから直線距離で南約百キロに位置するトメアスー郡の人口は現在、約六万人。そのうち日系人口は、約千五百人で八割が熱帯果樹の生産などに従事している。海谷委員長によれば、「一世は約三割で第一回移民は三人が元気に生活している」という。記念行事はすでに相撲大会(一月)、ミス日系(二月)、俳句大会(三月)などが実施されており、運動会、盆踊り、スポーツ大会など、各種記念行事が年間を通して予定されている。メインとなるのは九月。十五日には、慰霊追悼法要、翌十六日に、トメアスー文協で式典が行なわれる。島内憲日本国大使(名誉総裁)、アナ・J・V・カレッパ州知事(総裁)のほか、近隣移住地から五百人の出席を見込む。農業やスポーツなど各分野に分けた功労者表彰もあり、サンパウロからは、ブラジル都道府県人会連合会(県連)が主催する「第三十二回ふるさと巡り」の一行約二百人も駆けつけ、共に祝う。記念事業としては、八十周年記念誌編纂、文協会館の改装のほか、ベレンからの州道のトメアスーへの入り口に、幅八×高さ十五米のアーチを建設する計画が進められている。「ベレンからの船で入植者全てが踏んだ」桟橋を軍が修復中で、トメアスー文協も協力しているという。邦人社会の中心地となったクアトロ・ボッカスに記念碑の建立も勧められており、「ピメンタをモチーフにしたもの。九月の式典に落成式を行ないたい」と海谷委員長。同移住地設立に尽力した千葉三郎氏の銅像がある日本公園(造園は七九年)の改修と共に、鳥居建設の計画も。九月十五、六日にある物産展では、JICA協力による写真展も開催される。「歴史を感じてもらいながら、八十年のなかでトメアスーの特産物がどう推移してきたかが分かってもらえるのでは」なお、〇三年に創立された市立トメアスー日系学校(Escola Nikkei do Tome Acu、生徒数百三十人)では、日本政府による草の根無償資金による校舎建設が検討されているという。海谷委員長は、「マラリアや開拓の苦難の歴史を乗り越えた八十年だった。多方面から式典にご出席頂ける方には、アマゾン移民発祥の地を肌で感じてもらい、これを機会に交流を深めていきたい」と話している。
「十四歳の頃、日本語が大事だと理解した―」。丁寧な日本語で来場者らに語りかけたのは、岐阜県人会(山田彦次会長)二〇〇八年度県費留学生の渡辺量平リカルドさん(二六、三世)。十六日午後二時半から、同県人会会館サロンで講演会『日本での留学を終えて―今後の日系人と私たちの役割』が行なわれ、日本語は日本人の文化であるとともに、国際社会の中で日語が果たす役割、日語を覚えることの大切さを強調した。 留学で知る日系人の役割 県人会活動には積極的参加を 「日本語が分かりづらい方はいますか」。来場者に尋ねると、渡辺さんは、ポ語での講演を急遽、日語に変更し、留学時の体験を話し始めた。 渡辺さんは、岐阜県の朝日大学大学院法学研究科で、商法の今井潔教授に指示を仰ぎ、一年間日本の法律や慣習について学んだ。 学生生活の中で、「努力をする、先生や先輩に対して尊敬の念を持つ、時間を厳守する、物事に全力投球であるといった慣習が日本人には身についていることに驚き、感心した」と話し、欧州やアジア諸国からの留学生も多いことから、「生きた国際交流、諸外国の慣習を自然に学べることは素晴らしい環境だ」と振り返った。 また学外では、県庁の総合企画課で出稼ぎ問題を目の当たりにし、「子どもの教育が犠牲になっている現状を何とかしたい」と強く感じ、県の取り組みについて学んだ。 一方で、ブラジル人労働者の大半が、日本の慣習を知ろうとしない状況に、「ゴミの分別、夜遊び、近所迷惑、騒音などルールを守らない行動がブラジル人全体のイメージを悪くしている」と指摘した。 講演の後半は、「留学生は県人会、日伯協会、日系社会に協力する義務がある」と述べ、今後若い世代の自分たちがどうしなければならないのかということに熱弁を振るった。 日本の伝統文化や慣習を代々伝えていくためにも目上の人と対話をするべきと考え、「県人会の会議やイベントに積極的に参加することで、移民の歴史など、しっかり話を聞いて少しでも理解できれば、子や孫の代に伝えていける」と来場者らに力強く語っていた。 渡辺さんは、日系社会についても「日本文化の継承には日本語が欠かせない」と日語の持つ意義を示し、日語の家庭普及や会議の日語化など、具体的な提案も示した。その上で、「まずは日語に興味を持ってもらうことが大切」と自らが祖母との生活の中で必死に覚えた体験談を披露した。 最後に「留学生がリーダーシップを発揮して、一人一人が社会の一員として行動していけば、日系社会もまとまっていく」と締めくくった。 会場には、終始真剣な眼差しで語られる青年の熱い思いに、拍手の音が響きわたった。 講演後、山田会長は、「日本語は何故必要なのか、何故学ぶのか」と来場者らに問い掛け、会場は即席討論会の場へと姿を変えた。 家で父母と日本語を学んだという女性は、「祖父母とは日語でしか話せない。日語が理解できたから働く際にも役に立った」と、語学としての利点を述べた。 出稼ぎから帰国した女性は、「日本に行ったら、法律や文化を理解するために必要だった。生活する上で、学ばなければならなかった」と日本における日語の必要性を示した。 また、日本から来た留学生は、「ブラジルの中で日本人社会が長い間守られてきたことを考えた。ポ語を勉強して、将来両国の架け橋になれれば」と意気込んだ。 山田会長は、「日本語がなくなれば、移民の歴史を語り継ぐことができなくなる」と日系社会への危機感を表し、「日系人としての社会への役割を消さないためにも日語の存在理由についてもっと議論すべきだ」と訴えた。
聖市リベルダーデ区の宮城県人会(中沢宏一会長)で毎月開かれている青葉祭りの一環として、ADESC(農協婦人部連合会、内海千代美会長)による初めての児童絵画教室が、十六日午前と午後の二回にわたって同県人会館で開かれ、サンパウロ近郊から集まった六歳から十七歳までの幼少年らが一同に集まった。 午前の部は午前九時から始まり、サンパウロ市内をはじめ、遠方はピラール・ド・スールなどから十二の日本語学校生徒ら約百人が参加した。 開会式では、はじめに中沢会長が主催者の挨拶を行ない、ADESCが毎年「家の光」児童画展に協力していることに触れ、七月十二日の「七夕祭り絵画教室」への参加も呼びかけた。 ADESCの内海会長は「自分の思う気持ちを存分に絵に出してもらい、一人でも多くのお友達をつくってください」と激励。参加した子供たちは年齢別に席に座り、指導者の五木田綾子氏が少しずつ描いていく見本の絵を見ながら真剣な表情で取り組み、絵画教室の一日を楽しんだ。 イタペセリカ日本語学校に通っているペレイラ・ミチエさん(一一)は、「絵画は学校でも時々やっています。今日はとても面白い」と笑顔を見せる。 絵画教室に参加するために生徒たちとともに早朝五時半に地元を出てきたというピラール・ド・スール日本語学校教師の岡田エリーナさん。「今日は他にも行事があって、本当はもっとたくさんここに来たいという生徒もいました」と話しながらも、午前中の部の出席者の中で一校からの参加生徒数が二十四人と最も多く、同絵画教室への関心の高さをうかがわせた。 内海会長は初めての児童絵画教室開催について「これまでの『家の光』へのお礼も兼ねて、去年からやりたいと思っていました。宮城県人会さんの協力で実現できたことに感謝したいです」と述べ、今後も様々な活動を行なっていく考えを示していた。
ニッケイ新聞 2009年5月22日付け ブラジル茨城県人会(小林操会長)は、三十一日午前十時から同会館(ブエノ・デ・アンドラーデ街756)で恒例の敬老会を催す。毎年約百二十人が来場するという同会の敬老会。今年もビンゴなど楽しい催しが実施されるほか、七十五歳以上の敬老者にはプレゼントが用意される予定。同会事務局長の山口昭康さんが案内のため本紙を訪れ、「家族と共に多くの敬老者に集まって欲しい」と参加を呼びかけた。問い合わせは、同県人会(電話=11・3209・8515)まで。
ニッケイ新聞 2009年5月21日付け ブラジル島根県人会(古田川英雄会長)は二十四日午前十一時半から同会館(Rua das Rosas,86、地下鉄プラッサ・ダ・アルボレ駅)でやきそば会を開く。やきそばは一皿十二レアル(前売りは十一レ)。そのほか巻寿司、稲荷寿司、お菓子などを販売する。会場ではビンゴも行われる。問い合わせは同会(11・5071・0082)まで。
ニッケイ新聞 2009年5月20日付け 広島文化センター(大西博巳会長)、リベルダーデ文化援護協会(池崎博文会長)、ブラジル日系協会(京野吉男会長)が共催する日系著名人講演会第一回が十五日晩、同センター会館で行われた。世界最大手の砂糖エタノール生産会社コザンの水谷イサム・ペドロ副社長は「エネルギー業界に躍進するブラジルとコザン」をテーマにポ語で講演し、「コザンだけで国内の全フレックス車の二カ月間に使用するエタノールを補給できます」などと景気の良い数字を並べ、集まった約百人は感心しながら聞き入った。 「ブラジル農業の最大の問題は、世界がその潜在能力に気付いていないことだ」。世界有数の企業の副社長らしく、視点の高さ、発想の大きさは世界を相手に商売をしているエリートの雰囲気に溢れている。エタノール生産世界一は米国で、全生産量の半分を占める。二位がブラジルで三七%、三位はEUの五%となる。他国では、変換効率が悪く、食品価格に影響を与えるトウモロコシやビーツ(赤甜菜)であるのに対し、伯国はサトウキビである点を説明し、同社だけで六十万ヘクタールを植え付けているという。「弊社の荒挽きサトウキビの生産量は四千四百二十万トンで、国に例えれば伯、印、中、タイ、パキスタン、墨に次いで世界七位です」。同社の砂糖生産量は三百三十万トンで、州に例えれば、聖州に次いで二位にもなる。バガス(絞りカス)を燃やして自家発電できる発電量は千二百五十メガワットで、九十万人の都市(サントス市二つ分)に電力を供給できる。二世である水谷副社長の父マモルさんは愛知県出身、母テルコさんは広島県出身だ。「〃約束の地〃に住む日系人として、自分の仕事に誇りを持っている」。USP工科を卒業後、一九九〇年から財務担当理事、〇一年から財務や輸出戦略担当の専務理事、〇六年から運営審議会のメンバー兼副社長となった。ちなみに、聖州内の農場経営者には伝統的にイタリア系が多く、「コザン社もやはり社長がイタリア系だ」という。そんな中で唯一の日系人として、気を吐く存在だ。「経済の発展が自然破壊を伴うものであってはいけない。ブラジルはまだ余地が大きい。日系人が日本を説得し、ブラジル農業の可能性に気付かせて欲しい」と一時間余りの講演を締め括った。来場者の一人、汎アメリカン・ブラジル日系人協会の矢野敬祟会長は「コザンがこんなに大きくなっていたとは知らなかった。その副社長を日系人がやっているのはすごいこと。こっちも頑張んなきゃという思いです」と感激した面持ちで感想をのべた。コーディネータの平崎靖之さんは、「斉藤準一空軍総司令官など著名な日系人に講演してもらえるようにお願いしているところ。ぜひ聞きに来てほしい」と次回への参加を呼びかけた。
ニッケイ新聞 2009年5月21日付け 在伯群馬県人文化協会の第三回「やきそば祭り」が、十七日午前十一時から同県人会で行われ、やきそば三百二十杯のほか郷土料理のうどん「お切り込み」も五十杯を完売する賑わいを見せた。群馬県人会のやきそば祭りは、県費留学生OBらが中心になって始めたもの。群馬の象徴となる料理を盛り込もうという意図から、今回初めて郷土料理の「お切り込み」も用意された。「お切り込み」は、野菜をふんだんに使った煮込みうどん。群馬では「三度の食にお切り込み」と言われるほど馴染みのある家庭料理だという。同県人会の主婦八人が前日ボランティアで夕方までかけて作ったダシに、会員の寄付で集まった新鮮な野菜を使った。会場を訪れた三十代の女性は、「うどんのダシと、とろみが最高」と満足の表情。中には、うどんとやきそばの両方を食べて帰った人もいたそうだ。同県人会で行なわれている日本語クラスからも十人の子供たちが手伝いに駆けつけ、クラスで学んだ日本語で客をもてなし、料理を運ぶ姿が見られた。当日新たに三人の子が、クラスに参加したいと申し出てきたという。前日から準備に携わった同県人会管理人の大矢みどりさんは、「おいしいという声が聞けて嬉しい。友人も来てくれて、楽しかった」と感想を語った。同県人会の萩原建暁事務局長は、「今回のようなイベントは県人会同士の交流の場でもある。互いのイベントに参加することで県人会を共に盛り上げていけたら」と話していた。今年好評だったことから、同会では来年以降も郷土料理を紹介していく考えだ。
ここ数年、活動をしていなかった四国ブロック(香川、徳島、愛媛、高知の各県人会)が復活する動きを見せている。十二日午後七時から香川県人会館で四県代表の十五人が集まって会議を行ない、今年十一月予定の運動会開催を目処に具体的な催しを行なっていく考えだ。 今年の担当県である香川県人会の菅原パウロ農夫男会長によると、以前の四国ブロックの活動は、カラオケ大会やゲートボールなどを行なっていたが、特にゲートボールは人の集まりが悪く、三年ほど前にブロックとしての活動が停止したという。 その間、「何回か復活しようとの話もあったが、実現できなかった」(菅原会長)とし、今回の会議で四国四県がまとまることを目的に、再びブロック化の必要性が強調された。 十二日の会議では、「十一月頃に運動会をやろうか」などの意見は出たというが、具体的な活動案はほとんど出されず、六月三十日に開かれる次回の会議で各県人会が具体案を煮詰める予定。 菅原会長は「(ブロック化を)辞めた時も香川県人会が担当だったが、再び始まる時も我々が担当県となった。四県のまとまりを強くするためにも、次の会議でいろんな意見を出していきたい」と話している。
瀬古 義信氏 瀬古義信(せこ・よしのぶ)氏が十三日、膵臓病のため死去した。九十六歳。岐阜県海津郡出身、一九二六年十二月、らぷらた丸で渡伯、モジアナ線セラナ駅トランズバール耕地入植、二九年、ノーバフローラ耕地、三O年、バカラ耕地、三四年、アンジェラで独立農、市一年、ロンドリーナ市郊外に転居、農園を経営。若いときから川柳を嗜み、指導者として、ブラジル川柳社代表、全日本川柳者幹事を務め、川柳の普及、後進の育成に尽力した。岐阜県人会顧問。『いい友が居て貧乏が苦にならず』。(クリチーバ・間嶋正典氏通信)
