06/03/2026

Ano: 2009

ブラジル宮城県人会(中沢宏一会長)で七日と二十一日の両日、恒例の『青葉祭り』が同会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街一五二番)で開催される。第一土曜日の七日には天ぷらうどん、第三土曜日の二十一日には郷土料理のはらこ飯、きな粉餅、ずんだ餅、秋刀魚定食、イカポッポ焼き、ソースイカ入り焼きそばなどが県人会婦人部により振舞われる。 当日は武道医術の森山雅和師範が小児ぜんそくの患者を対象に脊髄矯正治療と、指圧・灸による健康相談を無料で実施する。また高橋幸衛家紋研究者による日本家紋の展示即売、岡崎幸雄氏が作ったこけしの販売、農協婦人部連合会(ADESC)の手作り製品とカッポン・ボニート地方直送の有機野菜の販売が行なわれる。 さらに会場では、無農薬無化学肥料販売企画として、聖州南西有機野菜協会連合会が扱う「詰め合わせ有機野菜セット」が販売されるなど、盛り沢山の内容だ。 案内に来社した鈴木運蔵同会副会長、河野雅郎青葉祭り協会協力委員は「多くの人の来場を」と呼びかけている。入場は無料。開催時間は七日が午前七時から午後一時、二十一日が午前七時から午後五時まで。問い合わせは、同県人会(電話11・3209・3265)まで。 写真:案内に来社した鈴木副会長(右)、河野協力委員 2009年11月6日付
二年に一度、沖縄県名護市(島袋吉和市長)に派遣されている同市子弟研修生の二〇〇八年度生が半年間の研修を終えて帰国。十月二十二日、ブラジル名護市親睦会の末吉業幸会長と来社、研修報告を行なった。 例年は一人ずつ派遣される研修生だが、ブラジル日本移民百周年記念だった〇八年は、同市に特別予算が組み込まれ、城間聖羌(まりみ)カリーナさん(二六、三世)と比嘉ベニテス・タシアナさん(二四、四世)の二人が参加。 研修は、当初の三か月間、名桜大学で午前中週四回、日本語を学習。同大学では、英語やポルトガル語のスピーチコンテストを手伝ったりもした。また、午後や後半の三か月間は、個人研修とし、それぞれ三味線、空手、琉球舞踊の郷土芸能等を学んだ。 二月には、同市主催の『家庭料理フェア』にマンジョッカ芋のボーロを出品し、市民との交流の場にも積極的に参加。帰国前には、島袋市長をはじめ関係者ら二十人に、感謝の気持ちを込めて、野菜サラダとフェイジョアーダ、ブラジル風に味付けしたご飯を振る舞い、喜ばれたという。 〇八年九月から〇九年三月まで研修した城間さんは、サンパウロ市出身の薬剤師。週に一度、病院の養護施設で介護実習を行なった。 シーツやオムツの交換、食事の補助等を実施し、時にはわがままな入居者から叩かれることもあったという。「大変だったけど、毎日新しい体験ができた。お年寄りが方言で話しているのが面白かった」と、実習を振り返っていた。 帰国後の変化については、「日常の挨拶でブラジル人にも会釈してしまう」と話し、「日本人っぽくなりました」と、笑顔で語っていた。今後は、十二歳から習っている琉球舞踊を通して、先祖、沖縄の文化を広く伝えていきたいとしている。 大学院で経営学を学んでいる比嘉さんは、カンポグランデ市出身。〇八年十一月から〇九年四月の研修では、週に一度、幼稚園で保育助手を経験。 五歳の子どもたちと一緒に太鼓の練習をしたり、サッカー等の球技をして遊んだ。実習中、悪ふざけをしている子を注意すると、言うことを素直に聞いてくれるので、「日本の子どもは躾が行き届いていて、とても行儀が良い」印象を受けたという。 「四世ということで、今まで遠くに感じていた日本が、帰国後は身近な存在になった」と語り、「ウチナンチューの血が流れていると感じるようになった」そうで、「これからは、感謝の気持ちを忘れずに生きていきたい」と、話していた。 写真:比嘉さん、末吉会長、城間さん(左から) 2009年11月6日付
兵庫県人会(尾西貞夫会長)恒例の会員親睦ピクニックが十月十一日に実施され、今年は「世界救世協グァラピランガ聖地」に尾西会長、県人役員、留学生・研修生OBら会員五十五人が参加した。 この日は快晴で、参加者のほとんどは同地を初めて訪問。一行は手入れの行き届いた施設に目を見張り、青空に映えたグァラピランガ湖を望むなど都会の喧騒を忘れて一日を楽しんだ。 日本庭園内の池には大小の錦鯉が泳ぎ、整備された食堂では会員同士が再会を喜びながらの昼食となった。 その後のビンゴ大会では、参加者からの寄付で集まった賞品が好評だった。また、今年もカンピーナス在住で百一歳の後藤留吉氏から寄贈された柿酢と梅酒が参加者全員に配られ、後藤氏への感謝が示された。 全員で記念撮影の後、来年の再会を約束し、一行は午後五時過ぎに同地を後にした。
ニッケイ新聞 2009年11月7日付け ブラジル兵庫県人会(尾西貞夫会長)では、10月11日に恒例の会員親睦ピクニックを行い、10年がかりで建築されたという世界救世教グァラピランガ聖地で、尾西会長はじめ各役員、元留学生・研修生、会員ら55人が楽しい一日を過ごした。先日まで曇り空だったのがうそのような快晴に恵まれた。予想外のピクニック日和となり一行は大喜び。ほとんどの参加者が同地初訪問で、立派に手入れの行き届いた「真、善、美」の文化の楽園に目を見張った。美しいグァラピランガ湖を望み、都会の喧騒を忘れて、一日ゆっくり会員同士の再会を楽しみ、1年分の会話を楽しんだ。日本庭園の大きな池には素晴らしい大小の錦鯉が優雅に泳いでいる。整備された広い食堂で、郊外の美味しい空気の中、全員お互いの再会を喜びながら和やかに昼食が進んだ。その後、お金を賭けないビンゴに移り、参加者からの寄付で集まった多数の賞品で大賑わいとなり、大変好評だった。また今年も、カンピーナス市の101歳、後藤留吉氏からピクニック参加者全員へ、美味しい柿酢、梅酒が送られて、参加者は大喜びで、「後藤さん、誠に有難う御座いました。心から感謝申し上げます」と役員らはお礼をのべていた。最後に、全員で記念写真に収まり、新鮮な空気を胸一杯吸って元気を補給し、午後5時過ぎには、予定通りサンパウロ市、県人会館前に到着、「また来年も必ず再会しましょう」と約束し、無事に終了した。(兵庫県人会通信)
ニッケイ新聞 2009年11月7日付け 長野県人会(北澤重喜会長、会員650)は会創立50周年式典を22日午前10時から、北海道協会(Joaquim Tavora, 605, Vila Mariana)で開く。長野県人会は1933年に宮坂國人、矢崎節夫、野村忠三郎氏ら18人が集まった「信友会」が前身。その後、母県の要請や他県人会の発足に後押しされ、59年11月15日に創立総会が開かれている。全伯に16支部があり、会員数は約650人。母県から村井仁知事、望月雄内県議会議長、小坂樫男・伊那市長(市長会)、藤原忠彦・南佐久郡川上村村長(町村会)ら、11人の慶祝団も駆けつける記念式典(矢崎逸郎名誉実行委員長)では、県から197人の高齢者、6人1団体(功労賞)が表彰を受ける。なお、記念事業として、来年1月の発刊を目指し、寄稿による『自分史』(仮題)の準備を進めているという。慶祝団一行は19日に来伯、慰霊碑参拝、アチバイアの農場視察、21日午前10時から、同県人会サロン(Praca da Liberdade, 130, 9o. andar)で留学生・研修生OBらを交えた懇親会を行い、23日に離伯する。案内のため、来社した北澤会長、土屋エンゾ副会長、石井賢治、新井均両相談役が16日に来社、「長野県人、ゆかりのある方の来場をお待ちしています」と呼びかけ、「一世最後の仕事と思っている。今回を機会に次世代にバトンタッチできれば」と意気込みを見せていた。詳しくは長野県人会(11・3106・1268)まで。
ニッケイ新聞 2009年11月6日付け ブラジル岩手県人会(千田曠暁会長)は、「第3回わんこそば食べ放題」を15日午前11時から同県人会館(R. Tomas Gonzaga, 95, Liberdade)で開催する。餃子6個付きで、そばが食べ放題。同イベントは5月の大会に引き続き今年2度目。好評なことから食祭りに合わせて再度開催される運びとなった。わんこそば大会も開催され、制限時間が前回の2分から3分に変更となる。案内に訪れた千田会長は「時間が長いほうが盛り上がるのでは」と期待する。今回は優勝者への賞品のほか、参加賞も用意される。千田会長は、「日本のそばよりもそば粉の含有量が多く、噛んだ時のはぎれが良い」と説明し、「ぜひその食感を楽しんで下さい」と来場を呼びかけた。前売り券は13レアル、当日券は15レアル。10歳までの児童は前売り券10レアル、当日券12レアル。大会出場者も募集している。申込みは、同県人会(電話=11・3207・2383)まで。
ニッケイ新聞 2009年11月6日付け マナウス市で慰霊碑を参拝後、ふるさと巡りの一行は碑の近くにある「アマゾン自然科学博物館」(橋本捷治代表)を見学。日本移民80周年の1988年に礼宮文仁親王殿下(当時)ご出席のもと開館した、国内で数少ない民営自然科学博物館だ。貴重な蝶や昆虫の標本、魚の剥製のほか、巨大な水槽ではピラルクーが悠々と泳ぎ、訪れた人を引き付ける。偶然見学中だった井上信治衆議にベレン、マナウスの両式典の感想を問うと、「気持ちがこもった手作りの式典と感じた。出席した皆さんも、苦労した昔を思い出して来ているのが分かった」。5度目の来伯で初アマゾン。「思った以上に発展している」と語り、「我々も協力できたら」と話していた。帰路、園田昭憲副会長が憩の園に県連40年誌を寄贈。バスはその後、ネグロ河畔に向かい、ソリモンエス川との合流地点を訪ねる船に乗り込んだ。「黒い川」を意味するネグロ川と、ソリモンエス川との合流地点に到着すると、茶色と黒、2色の水が混ざらないまま続いている。森に覆われた対岸を見ながら、参加者の中野文雄さん(88、福岡)は、少年時代に開拓へ挑んだ自身の体験と重ね合わせ、「今思えばあの頃は夢があったから、道なき道を20キロも30キロも歩いて作物を売った。今の人はできないでしょうな」と一言。船は川を上って水上レストランへ。この辺りの水上家屋は流木を組み合わせた上に建てられており、増水時にはそのまま浮かぶ仕組みだ。帰路は船でホテルへ。途中で作りかけの橋を通り抜けた。ベラ・ビスタ移住地の人たちを悩ませ続けたネグロ川、マナウスから対岸のマナカプルーまでの約3キロを結ぶ橋だ。来年に完成の予定という。次第に陽が沈み始める。陸地を見るとマンションが転々と建つ。「20年前にはホテルまで全部森だったけどね」、ビデオカメラを手に畑勝喜さんは感慨深げ。やがて船はホテルへ到着、ボイ・ブンバのショーを見ながら最後の夜を過ごした。▽   ▽いよいよ最終日。午前中は、日系進出企業の工場を訪れることになった。フリーゾーン設置から42年。マナウスにはホンダやヤマハ、パナソニックなど大手をはじめ30以上の日系企業が進出している。今回は、園田副会長ら8人ほどで、バイクのキーセットを製造するホンダロック社と、バイクのチェーンを製造するDID社を訪れた。その一つ、ホンダロック・ブラジルは宮崎県に本社があるホンダ子会社の車・バイク部品メーカー。3年前にマナウスへ進出し、現在は同地のモトホンダ・アマゾニア社向けのバイク・キーセットを年間100万セット以上生産する。従業員は約300人。工場長の藤本明さんに説明を受けて見学。藤本さんに従業員の様子を聞くと、「いろいろと『痛い』と言って休む人もいるし、真面目な人は真面目。来る前に調査しましたが、来てみていろいろと分かります」と話す。同社では進出に当たって在日ブラジル人を採用。日本で研修後、帰伯したブラジル人が現在、工場運営の中心に携わる。進出に伴う現地側でのコミュニケーション問題も、この方法によって乗り越えているようだ。今後もブラジル人を日本で育成し、伯国の工場で雇用することを検討しているという。工場見学後、ホテルへ。やがて一行を乗せたバスは空港へと出発、同日夜、無事にサンパウロへと到着した。アマゾン3カ所、計9千キロを移動した今回のふるさと巡り。参加者たちは共に80周年の節目を祝い、共に先人の苦労へ思いをはせた。前夜開かれたマナウスの祝賀会で与儀団長は、「これからも全伯で交流を強めていきましょう」と呼びかけた。ふるさと巡りの200余人によって蒔かれた種も、いつか芽生え、育っていくのかもしれない。(おわり、松田正生記者) 写真=アマゾンに沈む夕日とふるさと巡り参加者たち この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年11月6日付け ブラジル島根県人会(古田川英雄会長)は、「第5回慈善バザー」を8日午前10時から午後5時まで同県人会館(Rua das Rosas, 86 – Praca da Arvore)で催す。売上の一部は、老人ホームに寄付される予定。「家族でおこし下さい」と来場を呼びかけている。問い合わせは、同県人会(電話=11・5071・0082)まで。
ニッケイ新聞 2009年11月6日付け 青葉健康生活協会(中沢宏一会長)は、7日、21日の午前7時から午後5時まで宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で恒例の青葉祭りを開催する。同県人会婦人部による天ぷらうどん(7日)、はらこ飯、きな粉餅、ずんだ餅、さんま定食、イカポッポ焼き、ソースイカ入りやきそば(21日)などが販売される。両日農協婦人部連合会(ADESC)が有機野菜や手作り製品を販売、家紋やこけしの展示販売があるほか、小児ゼンソク背骨矯正治療や整体、指圧も行われる。また、コーペルオルガニカ生産者組合が「詰め合わせ有機野菜セット」の販売を企画するにあたり、両日サンプルを展示、現地係員が説明を行う。企画に対する意見を募るほか、会場で予約も受け付ける。案内に訪れた鈴木運蔵副会長と同祭を手伝う河野雅郎さんは、「新たな企画なので、ぜひ見に訪れて下さい」と呼びかけた。問い合わせは、同県人会(電話=11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2009年11月6日付け ブラジル名護市親睦会(末吉業幸会長)の2008年度名護市出身者子弟研修生、比嘉タシアナさん(24、4世)と城間カリーナさん(26、2世)が研修から帰国、報告に訪れた。二人は約6カ月の間沖縄県名護市で名桜大学の日本語コースで学んだほか、各分野で研修に励んだ。11月から4月に留学した比嘉さんは、子供が好きなことから、「あすなろ保育園」(同市)の5歳児クラスで子供たちの世話に力を注いだ。あまり日本語に自信がなかったという比嘉さんだが、「子供たちを相手にするとリラックスして話すことができた。子供たちからも多くの言葉を習いました」と笑顔で話す。そのほか書道、空手など滞在期間には多様な日本文化にも親しんだそうだ。城間さんは、9月から3月にかけて研修を行い、12歳から続けてきた玉城流玉扇会の沖縄舞踊を極めようと日本で同会に通った。「先生からブラジルでも皆さんがんばっているようですねと声を掛けられた」と嬉しそうに話す。「日本の人はとても上手、良い刺激になった」と感想を述べた。勝山病院で介護の手伝いも行っていたという城間さん、「年配の人に多く接する機会になり、沖縄方言も学べた」と振り返る。「さらに多くのことに挑戦したい。また絶対日本へ行きたい」と思いを語った。二人は1月に開催される名護さくら祭りを楽しんだほか、東京観光に参加し鎌倉や浅草、東京タワー、ディズニーランドを訪れた。名護市国際交流会館では、お世話になった市の職員にブラジル料理を知ってもらおうとフェイジョアーダを作ったそう。「おいしいと喜んでもらえました」と声を揃えた。
在伯青森県人会(玉城道子会長)創立五十五周年記念祝賀会が二十五日、聖市リベルダーデ区シケイラ・カンポス街にある同県人会館で開催され、母県から蝦名(えびな)武副知事、田中順造県議会議長、塩越隆雄国際交流協会会長ら十五人の慶祝団が来伯して出席。会場にはブラジリアから県人子弟に当たる斉藤準一空軍大将夫妻も駆けつけ、県人会員たち合わせて約百人が詰めかけるなど節目の年を祝った。 青森県人会は一九五四年十月二十八日、県人同士の親睦・助け合いを目的に母県からの要請も受けて、三十九人の創立会員によって発足。高坂美三初代会長を筆頭に、現在の玉城会長で十三代目となっている。 記念祝賀会では、午前十時二十分からの先亡者慰霊法要に続いて、午前十一時から記念式典が開催された。日伯両国歌斉唱、来賓紹介に続いて玉城会長が挨拶。県人会の歴史を振り返った後、今回の創立五十五周年について「内輪でお祝いするつもりだったが、築三十年の会館改修が自分たちの力ではどうにもならず、県庁はじめ民間の方々や県人会員の皆さんの支援を快く受け入れてもらい、補修作業を行なうことができた。来年の一月までに完成できればと思っている」と述べ、関係者への感謝の意を示した。 引き続き、蝦名副知事が三村申吾青森県知事のメッセージを代読。一九〇八年の笠戸丸移民から始まった日本移民の歴史を振り返り、県人の苦労を労うとともに伯国地域社会への貢献を褒め称えた。また、母県青森について来年十一月に東北新幹線が青森まで開通することや二〇一四年、一六年のW杯、リオ五輪にも触れ、成功を願った。 田中県議会議長、塩越国際交流協会会長の祝辞に続き、挨拶を行なった斉藤大将は、父母を含めた日本移民たちが伯国で困難を乗り越えながら農工業や子弟の教育問題に取り組んできたことに改めて敬意を示した。 引き続き、会館改修の補助金として県庁から五百万円、県議会から三十万年、「県人会を支援する会」をはじめとする民間から七百二十万円の計千二百五十万円分の目録が青森県人会に手渡された。 県人会から県側への感謝状贈呈に続いて、創立会員と百歳以上会員への表彰が行なわれ、鳴海忠夫さん(八六)、畑井健治さん(一〇二)、長内藤男さん(一〇一)と青森県人会リオ支部代表の斉藤光さんにそれぞれ賞状が渡され、式典は閉会した。 場所を地下の駐車場に移した祝賀会では、乾杯、ケーキカットの後、昼食懇親会が実施。午後からのアトラクションでは、NHK文化講師の渋谷伯龍氏が青森の「お国言葉」による川柳講演を行なった。 県人会創立総会を聖市セントロ区の中央市場付近の日本食堂で行なったことを覚えている創立会員の鳴海さんは、「あの頃は勝ち組の人が多く活気があったね。今は皆亡くなってしまったなあ」と感慨深げな様子。 長内さんは、「いつの間にか年ばかりが過ぎたが、無事ここまで生きて来られたことを有難く思っている」と表彰されたことを喜んでいた。 また、最高齢ながら今でも時々ゲートボールを行なっているという畑井さんは、「いやー、本当に嬉しいね」と万歳しながら満面の笑顔を見せていた。 写真:記念式典で挨拶する玉城会長(左端) 2009年10月31日付
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 西部アマゾンの中心地マナウス。1669年にポルトガル人によって開かれ、19世紀後半にゴム景気を謳歌したこの町は、1967年のゾナ・フランカ(免税地域、Zona Franca)設置以来、今も企業進出が続く。20世紀前半のゴム衰退後、企業進出時代までの隙間を埋めたのは高拓生らに代表されるジュート(黄麻)栽培だった。人口は約180万人。現在2014年のサッカーW杯に向けて州が600万レアルかけて施設を整備する計画もある。落ち着いたベレンの町並みとは対照的に、マナウスは成長を続ける都市の活気にあふれていた。ふるさと巡り一行はトロピカルホテルへ。その途中、アマゾナス劇場を訪れた。ゴム最盛期の1896年に完成したイタリア・ルネッサンス様式の同劇場。ベレンの平和劇場では石畳の代わりにゴムが敷き詰められたが、こちらでは演奏の音が外に漏れないよう、当時の有力者が壁の間にゴムを入れて音を遮断するよう提案したというエピソードもあるそうだ。劇場の向かいにはサンセバスチョン広場。中心に立つ記念塔は四方に船の彫刻が施され、各面にアメリカ、アジアなどと刻まれている。マナウスから世界へーという当時の活気を感じさせる。宿泊したトロピカルはとにかく広い。受付から記者の部屋まで200メートル近くあり、その奥にも部屋が続く。敷地内にはビジネスホテルや動物園も。ネグロ川沿いのプライアの端にあるリゾートホテルだ。その日の夕食は、市中心から離れた川魚料理のレストラン。ピラルク、タンバキと、アマゾンの川の幸が供され、にぎやかに過ごした。▽   ▽マナウス市には約5千人の日系人が暮らす。高拓生など戦前移住者の子弟や、戦後アマゾン各地へ移住した後に出てきた人、日系企業の駐在員や企業進出とともに国内から移ってきた人たちなどだ。日系人口が少ないこともあり、駐在員との交流は盛んだと言う。マナウス式典の会場となった西部アマゾン日伯協会の敷地には、同協会とアマゾナス日系商工会議所、ATSツールのほか、アマゾン高拓会の事務所も同居する。会館から2ブロックほど離れたところにはマナウス総領事館。同地の80周年記念行事も、これらが協同して進めてきたものだ。当初は空調が働かず、汗がにじむ中で式典は始まったが、やがて復旧し無事に終了。各地の参加者、一行はその後、同文協が運営する市内「憩の園」へ向かった。マナウスでは昨年の日本移民百周年を記念して空港入り口に鳥居が設置された。それが80周年にあわせて同園敷地の慰霊碑の入り口に移設されている。この慰霊碑はアマゾン移住50周年を記念して建立された。揮毫したのは故橋本龍太郎厚生大臣(当時)だ。一行も鳥居をくぐり、階段を上って碑に献花し、手を合わせた。鳥居の手前で一行に花を手渡していたのは、同日伯協会で働く辻田三千子さん(65、奈良)。辻田さん一家はベラ・ビスタ移住地より早い53年2月、戦後第一回ジュート移民としてイタピランガへ入った。ジュートの刈り取りで水に潜っていたことで「今でも少し耳が悪いんですよ」と話す辻田さん。4人の兄弟はマラリアや農薬で亡くなった。「56年は走馬灯のよう。苦労したかと聞かれても夢のようで、実感がないですね。残念だったのは、山の中で教育が受けられなかったこと」。炎天の下、麦わら帽子をかぶり、慰霊碑を訪れる慶祝団の一人一人に一輪の菊の花を手渡す。80周年を迎えて「感慨無量」と喜ぶ辻田さん。「家族が生きていたらと思います。私一人だけで、嬉しいけど寂しいですね。でも、皆さんが花をたむけてくれるからありがたいですよ」と言葉を継いだ。(つづく、松田正生記者) 写真=マナウス市内にある慰霊碑に手を合わせるふるさと巡り参加者たち この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 愛媛県海外協会とブラジル愛媛県人会が実施する海外交流研修事業で、9月に同県から研修生が来伯した。18日間の滞在で農業研修や視察、ホームステイなどを体験、帰国を前に藤原利貞会長と本紙を訪れた。同交流事業は隔年ごとに県・ブラジル側から4人ずつの研修生を派遣するもの。6回目となる今回は県から藤田香織さん(31)、森田紘人さん(21)、寺尾進太郎さん(23)、鈴木由美さん(35)がブラジルを訪れた。一行は9月11日に来伯。サンタカタリーナ州サンジョアキンや、クリチーバ、アチバイア、ピエダーデの県人農家で農業研修を行ったほか、聖州ボイツーバのサトウキビ畑・アルコール工場などを見学した。会員宅でのホームステイなども体験した。実家が専業農家という寺尾さんは、「皆さん自分の意思を持ってやっているから大きくなったと思う。勉強になりました」と話す。「移民の国だから、色々な所でいろんな国が見える」という藤田さんは、「日本の反対で日本が見えた」と感想。現在大学生の森田さんは「皆さん日本の人より日本の事を考えてくれていると思った」と語った。以前にコロニアで出版された本について問い合わせた際、書店がわざわざパンフレットを送ってくれたという経験のある鈴木さんは、「ブラジルは色んな民族が溶け合って、おおらかに暮らしていると感じた。会員の皆さんにも親切にしてもらった」と滞在を振り返る。一方で、デカセギや移民の歴史が日本で知られていないことに残念そうな様子も見せていた。藤原会長は「意外とブラジルのことが知られていない。各地を訪れることで理解が深まれば」としながら、「会員も協力的で、積極的に取り組んでくれるので、これからも制度を続けていきたい」と話した。
ニッケイ新聞 2009年11月5日付け 「かけがえのない機会を与えてくれた日本、先人に感謝」――。日本留学・研修が公式に始まり今年で50周年。全OB・OGの集まりであるASEBEX(日本留学生研修員ブラジルOB会、会員数2千以上)は10月31日夕方、聖市レストランで記念祝賀会を催し、小松ジェニ清香会長は目に涙を浮かべて、そう感謝の言葉を述べた。 日本人移民50周年がきっかけとなり翌1959年、二人の岡山県費留学生が祖国へと渡った。これを皮切りに50年間、多くの日系子弟が国費・県費・JICA・国際交流基金などを通じて日本で留学・研修し、現在各分野で活躍する。祝賀会には、留学生第1号の栢野定雄氏(ニッポン・カントリー・クラブ元会長、文協副会長)、アンドラジーナ市長の小野秋夫氏(元福島県人会長)を筆頭に、約300人のOB・OG、来賓が集まった。また来伯中の滋賀県庁関係者二人も出席し、日本の各知事からも祝電が届くなど日伯両国で祝された。力強い琉球國祭り太鼓の演奏で開幕。あいさつに立った小松会長は、「いろんな方々の努力で50年間続けれてこられ、かけがえのないチャンスを与えてもらったことに感謝」と涙をこらえながら話し、「次の50年に向け、この日伯友好の制度がますます発展することを願うとの期待を込めた言葉に大きな拍手が送られた。与儀昭雄県連会長、山下譲二文協会長代理、村上ヴィセンチJICAコーディネータ、高橋祐亮在聖領事館副領事が祝辞。与儀県連会長は、「県費留学を通じ、母県と県人会の関係を深めることができた。各制度が日伯友好の大きな掛け橋となり、友情を生み出してきた。時代は変わってきているが、今後も続いていくよう働きかけたい」と力を込めた。栢野氏が壇上へ呼ばれると、留学・研修の第一歩を歩んだ「大先輩」へ、全員が起立して温かい拍手を送った。船で45日間かけて渡日した栢野氏。「今とは違う時代だった」と当時の光景を振り返り、「この留学・研修制度は日伯間に大きく貢献してきた」と位置付け。「僕もまだ終わっちゃいない。ASEBEXのために何かできることがあったら協力する」と話し、会場から歓声と拍手が沸き起こった。活躍するOBらに表彰状、また県連、文協、領事館、JICA、海外技術者研修協会(AOTS)に感謝状が送られ、ASEBEXコーラス部による歌声が披露された後、鏡割り、元国費留学生の二宮正人氏(サンパウロ大学法学部教授、弁護士、CIATE理事長)の発声で乾杯、食事を囲んで親睦を深めた。表彰を受けた多田マウロ氏(45)は85年、岩手県費留学で学んだ電気工事設備設計を生かしてエンジニアとして働き、若き岩手県人会副会長として活躍している。「電話代が高いから、親に電話したのは日本到着後と帰国前の2回だけ。毎週手紙書いて送ってました」と目頭を熱くして振り返りながら、「人生で一番大事な時にチャンスをもらい、かけがえのない経験をさせてもらった。いつも県や親、県人会に感謝している」と話していた。
ニッケイ新聞 2009年11月4日付け 日本政府は11月3日に2009年(平成21年)秋の叙勲受賞者を発表した。ブラジル在住の邦人4人、ブラジル人1人の計五人。在サンパウロ、クリチバ、レシフェ、マナウス各総領事館の、4管轄内から選ばれた。 【在サンパウロ総領事館】旭日単光章を受勲することになった荻原孝行さん(79、広島、帰化人)=カンピーナス市在住=は、1973年から23年間、会長を務めたペードラ・ブランカ日伯文化協会の入植50周年記念式典の実行委員長を務めるなど活動の活性化、後継者育成に貢献。 同移住地は旧南伯産業協同組合を中心とし、果樹、特にゴイアバの生産地として栽培地を作りあげ果樹栽培農家の形成に力を注いだ。また、カンピーナス市と岐阜市との姉妹都市交流事業に積極的に参画し、訪伯団の受け入れ及び訪日団派遣に全面的に協力した。受章の知らせにあたり、「どうしてもやらなければいけなかったことばかりだった」と謙虚に話しながら、「こんな嬉しい事は初めて」と喜びを噛み締めた。瑞宝中綬章を受勲することになった坂手實さん(73、二世)=聖州ボツカツ市在住=は、ボツカツ日本文化協会の設立に尽力し、初代会長として日系人の地位向上、協会の発展に貢献。ブラジル青年協会では青少年講習会を定期的に開催して、日伯農村青少年指導者の育成に関わった。さらに、サンパウロ州立パウリスタ総合大学教授として、日本文化学術交流コーディネーターとして日伯間の文化学術交流にも尽力した。「有り難いばかり。我々の時代の日本人はみんな苦労した。これを一つの旗として、これからの日系人は今後の日伯の関係を作り、ブラジルの国づくりに努力して欲しい」と語った。 【在クリチバ総領事館】旭日双光章を受勲することになった今津貞利さん(77、福岡県)=パラナ州ローランジア市在住=は、ローランジア文化体育協会理事長、副理事長及び会計主任として地域の日系社会の親睦並びに文化、スポーツの振興を図り、協会の発展と共に生活の向上に大きく寄与した。また、パラナ老人福祉和順会ローランジア支部長として困窮日本人、日系人の福祉施設の発展に大きく貢献した。ローランジア農業センター長として農業実習講習会を毎月実施する他、日本から農業高校研修生の視察・受け入れを行い、センター内に慰霊碑、移民碑、移民史料館、記念塔、パラナ開拓神社の建立にも関わった。パラナ日伯文化連合会の役員として、1978年の日本人移民70年祭を始め、天皇皇后両陛下(当時、皇太子夫妻)や皇太子殿下、礼宮様(現秋篠宮殿下)など、皇室を合計4度迎えた。「皇室の方々を身近に感じることが出来た。良い思い出です。(受賞を)最初はピンとこなかったが有り難いことです」と感想を述べた。 【在レシフェ総領事館】旭日双光章を受勲することになった宮本武弘さん(71、静岡県)=バイア州イツベラ市在住=は、イツベラ移住地文化協会会長として、個人所有の農地を移住地全体で使用する農場試験場用地として無償で提供。ランブータンやマンゴスチン、クプアスーなど様々な熱帯果樹を同地に導入した。同移住地日本語学校初代校長として、同校設立に尽力。バイア日伯文化協会連合会会長として、親睦組織の基礎を固め、及び日本語教育の質向上に貢献した。宮本さんは、「みなさんの支援があり、好きでやってきたからこそ」とニッケイ新聞の取材に答えた。 【在マナウス総領事館】旭日小綬章を受勲することになったジョゼ・ナッセルさん(63、ロンドニア州ポルト・ベーリョ市出身)=アマゾナス州マナウス市在住=は、日本進出企業のマナウス・フリーゾーン参入、また、日本とアマゾナス州の経済交流への貢献をした。さらに、同ゾーンにおける日伯環境プロジェクトの推進や、日本企業と合同での人材育成へ尽力した。
ニッケイ新聞 2009年11月4日付け ベレン滞在3日目も午前中、平和劇場(Teatro da Paz)へと向かった。道すがら、栃木県人会長の坂本アウグスト進さん(64)と話す。終戦直後1945年8月15日に聖州グァラサイで生まれたという坂本さん。昨年まで聖市で薬局を経営、ふるさと巡りに参加するのは初めて。ベレンの名所のひとつである平和劇場が完成したのは、ゴム景気の最盛期だった1879年。劇場周囲を走る馬車の音を防ぐため、石畳の代わりにゴムを敷き詰めたというエピソードは当時の繁栄ぶりを偲ばせる。一行は内部を見学、97年に天皇皇后両陛下歓迎式典が行われた際の観覧席に入ることもでき、記念撮影をする人も。その後は、昔の刑務所を宝飾品工房・販売所に改修した「Museu de Gemas do Para Joias」、自然公園「Mangal das Garcas」を訪れた。ニワトリの先祖ジャクチンガを眺めていると、「昔食べたことがあるよ」と、隣にいたふるさと巡り参加者。「オンサも蛇もアンタ(バク)もね。今では考えられないな」。思い思いに園内を散策する一行。89歳で同旅行に参加した林田豊さんは、「忙しいけど、いい旅ですね」と話す。父親はグァタパラ耕地に入った第5回移民。東京植民地で生まれた林田さんは戦前に父親と帰日、日本の学校で学んだ。再び渡伯中に戦争が始まり、父親は当地で亡くなったという。アララクアラ線終点のサンタフェ・ド・スールで20年間バールを営み、今はリベイロン・プレットに住む。ホテルへ戻り、ベレンの式典会場へ。今回は全員が参加し、80周年祭典の節目を見届けた。式典終了後は階下のアマゾニア祭り会場で食事を取る。最終日で金曜日ということもあり、かなりの混雑だ。 ▽   ▽ 19日は朝の時間を利用して県連の伊東さん、長崎県人会の野口圭三会長とベル・オ・ペーゾ市場へ向かった。重さを量る「ver o peso」がそのまま名前になった同市場は、庶民の台所だ。塩をまぶして山盛りにされた海老、ピラルクーなど川魚の塩漬け、アセロラなどの熱帯果実を扱う店が所狭しとならぶ。その横にはマンジョッカから作るトゥクピーを容器に移す女性たちの姿。野口会長は、さっそく海老を一山購入した。 ▽   ▽ ベレン空港に到着した一行の中、1回目から同旅行に参加している和田一男さん(85、二世)は、95年のふるさと巡りで訪れて以来のアマゾン訪問。「今回は人数が多くて誰が誰だか分からないですね」としながらも、トメアスー訪問を振り返り、「町も新しくなったし、組合もきれいになった。皆さん苦労したでしょうけど、もう二、三世の時代ですね」と話していた。同じくふるさと巡り参加者の押切壮(つよし)フラビオさん(71、山形)は叔父が戦前トメアスーに入植しており、55年から3年間同地で暮らした。「当時はピメンタが一番すごい頃。会館の周りは整然と畑が広がっていたけど、今では面影がないですね」。敗戦後の日本から移住した押切さんの目には、ピメンタ景気に沸く移住地は「生活レベルが違うな」と感じられたという。また、ベレンへ進学した子弟と戦前移民の親たちとの間で言葉の問題も出ていたそうだ。押切さんはサンパウロに出て日系企業で働き、現在は弁護士として活動する。「80年の開拓はたいへんだったろうと思います」と今回の訪問を振り返り、「あまりにも時間が過ぎてしまって、年をとったな、と実感します」と話した。一行を乗せた飛行機は一路マナウスへ。アマゾン東部から西部へ、1600キロの距離をたやすく飛び越える。約90年前のペルー下りの日本人は、どれだけの時間をかけてベレンまでたどり着いただろうか。(つづく、松田正生記者)...
ニッケイ新聞 2009年10月31日付け マンゴー並木が延々と続くアマゾン河口の港町ベレン。19世紀中頃から20世紀前半にかけてゴム積出港として栄え、今は人口150万人を有する東部アマゾンの中心都市だ。1616年にマラニョン州サンルイスから移ったポルトガル人により開かれたこの町には、今も外部からの侵略に備えた要塞の跡が残る。日本人が同地に残した足跡はトメアスーより早く、1900年代初頭にペルーからアンデスを越えて入った「ペルー下り」までさかのぼる。15年にはグレーシー柔術の生みの親コンデ・コマ(前田光世)が移っている。現在の日系人口は約1万2千人でサンパウロ、クリチーバに次ぐ国内3番目の集住地だ。トメアスー式典終了後、16日夜にベレンへ戻ったふるさと巡り一行は翌朝から市内観光へ。アマゾンの動植物を見ることができる自然公園「エミリオ・ゲルジ博物館」を散策した後、港の近くにあるカテドラル、要塞の跡に石器時代からの出土品を展示した「Museu do Forte do Presepio」などを見学した。続いて市中心部にあるナザレ教会(Igreja Basilica de Nazare)を訪問。毎年10月第2週に行われるカトリック行事「ナザレ祭(Cirio de Nazare)」の時には、カテドラルから6キロ離れたこの教会までナザレ像を運ぶパレードが行われる。アパレシーダに次ぐ同祭には各地から約200万人が訪れるという。午後5時からベレン式典会場となるコンベンションセンター「HANGAR」で祭典委員会による来賓・慶祝団の歓迎会が開かれた。日伯議員連盟を代表して来伯した井上信治衆議、福岡県慶祝団、島内憲大使や名井良三ベレン総領事などが出席し、一行もバスで会場へ。今年3回目となる日本文化イベント「アマゾニア祭り」でにぎわうセンターへ入ると、着物姿の女性たちが迎える。最初に歓迎委員長の山本陽三さん(74、香川)があいさつ。「遠方からたくさん来ていただき感激している」と一行を歓迎し、「戦前移住者は六世、戦後でも三世が生まれている。80周年を次世代にバトンタッチする意味も含めて祝っていきたい」と述べた。続いてサンパウロの慶祝団を代表して、ふるさと巡りの山田康夫団長が一行を紹介。生田勇治ベレン祭典委員長は先駆者への感謝とともに、「100周年、200周年に向けて日本文化のいい所をブラジル人に、ブラジル文化のいい所を日本人へアピールしていきたい」と決意を表した。この日ベレンに到着したという井上衆議は「開拓者の魂が子孫に受け継がれ、すばらしいアマゾン日系社会になっていると思う。皆さんの活躍を目に焼きつけて帰国したい」と述べ、80周年に祝意を表した。今村忠雄・日本海外協会会長の発声で乾杯。食事の間には、マラジョー島の民族舞踊「カリンボー」のグループが出演し、華やかな踊りで歓迎会を盛り上げた。1954年に19歳でトメアスー入植、現在パラー日系商工会議所副会頭を務める山本委員長。「たくさんの人に盛り上げてもらえ、心から嬉しい」と笑顔を見せながら、「世代交代が進み、80周年は節目だと思います。私も最後のお手伝いですよ」と語った。(続く、松田正生記者) 写真=エミリオ・ゲルジ博物館でふるさと巡り参加者たち この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html
ニッケイ新聞 2009年10月31日付け 百周年協会(上原幸啓理事長)とブラジル日本協会(Instituto Brasil-Japao、中矢レナット理事長)が共催する100周年評価シンポジウムが26~27日に、聖市の国際交流基金日本文化センターで行われ、この百年間の日本移民やその子孫の伯国社会への貢献を八つの分野に分けて評価した。会場は常に8割以上が埋まる盛況ぶりで、感心の高さが伺われた。 開会式で渡部和夫実行委員長は「百周年は一般社会から予期しない大歓迎を受けた。その期待に応えるよう日系社会はこれからも建国への貢献を続けなくては」とシンポの主旨が説明された。飯星ワルテル伯日議連会長も、日伯交流におけるデカセギの存在の重要性を強調して「グローバル化した世界における日系人の役割を再考する時代になった」と語り、日伯社会保障協定(年金通算など)が来年初めにも結ばれる可能性があることを明らかにした。島内憲駐伯大使は「デジタルTV、新幹線、バイオ燃料など日伯関係の新モデルが生まれている」と絆を強める方向にあるとのべた。☆    ☆最初のテーマ「百周年とメディア」でコーディネターのオクバロ(保久原)ジョルジ氏は、04年7月にエスタード紙が組んだ「百周年への道」という最初の特集号を紹介、グローボ局では昨年3月からの3カ月間で250本のもの百周年関連の報道がなされるなど大量に報道された様子を振り返り、日本の全国紙での主な連載記事名を連ね、その中で最多の署名記事を書いたのは朝日新聞の石田博士特派員(当時)だったと紹介した。「団体行動精神と日系社会の組織」で桜井セリア教授は「和太鼓とマンガ、アニメなどが若者を取り込む牽引力となっている。昨年を機に休眠状態にあった日系団体が復活している」とし、与儀昭雄県連会長も「沖縄系では建築資材店網で110店も加盟するところや化粧品で70店という例もある。昔を懐かしむ会活動だけでなく、商業的なつながりのなかで日系活動を広げている」との実例をのべた。「運動と娯楽」編では、バルテル・フェウデマン聖市スポーツ局長が参加し、「私はユダヤ系子孫でゲットーという言葉には敏感。日系はそうならず、運動分野で社会統合を成し遂げている」と称賛、百周年で市がポン・レチーロ野球場を改修したことを強調した。「知的分野」編で原田清弁護士は米国、カナダ、ペルーの日系社会と比較し、一般社会が戦争中に強い反日風潮を形成したため、戦後も伯国のような幅広い日系人の社会上昇が見られなかったとし、学術、医学、軍、法曹など各界での目覚ましい活躍を列挙した。翌27日の「農業」編では、農業大学だけで105人もの日系教授がおり、農業者としてだけでなく学術面からも支えていると強調した。「デカセギ」編で愛知淑徳大学の小島祥美講師は、デカセギ子弟で英語検定試験(TOIEC)で900点とってカナダに留学している例を紹介し、「バイリンガルになる可能性がある」と述べ、日本の公立校も外国人児童受入れ態勢を試行する中で変化してきたとの肯定面を披露した。二宮正人CIATE理事長は「日本移民が伯国の大学に入るまでに25年かかったが、在日ブラジル人は20年でたくさんの卒業者を出した。帰伯子弟の中にはUSP法学部に入学した者もいる」とした。「日本文化」編で同基金の高橋ジョー氏は、百周年関連で伯国全体で2500もの行事が行われ、大手紙だけで990本の記事、テレビで350本、ラジオで1500本、ネット上には2千もの記述があったとの成果を報告し、同日伯協会が米国NYのジャパンソサエティのような存在になることで更に文化普及に貢献できると提言した。「総括」の中で桜井教授は「今までは若者が日系団体から離れる〃内から外へ〃という動きだったが、百周年を機に〃外から内へ〃に変わってきている」などと若者層取り込み策が課題であるとし、中矢理事長は「我々の子孫は200周年を祝うだろう」との希望を語った。
地元コロニアとの交流少ない旅に 式典途中退席、ツアー趣旨や如何に? 九月十八日、ベレン八十周年式典日は快晴。午前中は、前日に引き続きベレン市内の観光だ。マンガルダス・ガルサス・エコロジー公園、鉱物資源博物館、パス劇場を訪問。三号車では、花土淳子さん(七二、岡山県)が誕生日ということでパラベンスを合唱し、和やかな一日のスタートを切った。 ゴム景気の折、パリとミラノの劇場をモデルに、一八六九年から十年をかけて建設されたというパス劇場。三種の高級木材を使用した床や、種々の輸入資材、当時の階級差などについて、係員が詳しく説明してくれる。 マナウスのアマゾナス劇場よりも古くて収容人数も多く、贅の限りを尽くした当時の建造物は、一見の価値あり。観覧席にも入れてもらい、天井絵などをカメラに収めることができた。 午後三時からの式典は、前日の前夜祭と同じ会場で行なわれた。ただ三号車は、六人が式典に参加せず自由行動を取ることになった。前日、山田団長が「出たくなければ出なくてもいい」と呼びかけたからだった。 「式典は長引くのが常。形式張っておもしろくないのはわかっているから、無理強いはしない」という趣旨の発言で、これを聞いた参加者らは、「県連の人がそう言うのだから」となってしまった。 式典は結果的に長引き、予定時間を大幅にオーバーしたものの、それが予測できたからといって、慶祝ツアーの趣旨や団長としての立場を考えると、軽率な発言だと思わざるを得なかった。 観光地のエスタソン・ダス・ドッカスに向かうため、式典から途中退席したのも残念だった。出席者の五分の二にあたる人数がすっぽりといなくなったものだから、会場は閑散となってしまった。 式典後は、日本舞踊や箏曲演奏などのアトラクションも用意されており、隣の文化週間会場では、日本から来た舞踊劇団・曼珠沙華(まんじゅしゃか)や歌手の宮沢和史氏のステージも盛り上がったし、地元の人と話すチャンスもあった。 上杉美樹サンドラさん(四一、二世)は、ベレン近郊のイガラペー・アスーの初の日系郡長。父親の嘉幸さん(七〇、静岡県)は東京農大拓植科卒。同期九人とトメアスー入りし、同地に十四年間踏みとどまり、胡椒栽培などに従事した。 アマゾンにジュートをもたらした尾山良太氏の子息、万馬氏の未亡人である尾山片岡エミさん(八〇、二世)は、父親が笠戸丸移民。母親は高知県出身で、坂本龍馬の従兄妹だとか。 また、『群馬の森』を管理している、岡島博さん(六七、群馬県)など、地元民らしい人に声を掛けると、いろいろな話を聞くことができた。従来のふるさと巡りのように、「移住地を回って慰霊しつつ、現地の人と交流する」ことができない分、貴重な時間だった。 常連参加者らは、「ふるさと巡りの何がいいって、思いっきり日本語ワールドで旅をして、昼は観光、夜は地元の人との交流ってね。今回は慶祝だから主旨が違うと分かっていても、ちょっと寂しいね」と話していた。(つづく・上岡弥生記者) 写真:地元コロニアの上杉さん、尾山さん、岡島さんたち(右から) 写真:係員からパス劇場の説明を聞く
ニッケイ新聞 2009年10月30日付け 9月16日、トメアスー入植80周年式典当日の朝、第一回移民が到着した桟橋へ出かけた。ホテルから5分ほどの距離。ちょうど一隻の船が停まり、野菜や海老などの食品を下ろしていた。すぐそばには、かつて使用していたと思われる桟橋も。川の先は今も鬱蒼とした森が広がり、移民が到着した80年前と変わっていないようだ。式典は文協で開かれるため、会場の関係で、ふるさと巡り一行からは与儀団長、県人会長と菊地援協副会長、大原毅文協評議員会長などが別行動で代表出席。やはりスーツにネクタイ姿、北伯ではさすがに暑そうだ。8時過ぎ、それ以外の一行は、文協前の通りで行われた記念パレードを見学後、トメアスー農協や果樹栽培の現場などを見学に出かけた。会館の入り口で日本海外協会の今村忠雄会長が文協関係者と話をしていた。今村会長の手には一枚の額。トメアスー移住地を造成した南米拓殖株式会社の株券だそう。出資者の鈴木五市氏の家族から譲り受け保管していたが、80周年を機にトメアスーへ寄贈するため東京から持参したとか。「めったにないもの」と海谷会長らも喜ぶ。会場に入ると一人の男性を紹介された。8月に日系初のアマゾニア連邦農牧大学学長に就任した沼沢末雄さん(57)だった。同学長の一家は戦前にトメアスーへ入植。自身が育った50年代はまさに胡椒景気の黄金時代だった。巣立った生まれ故郷の節目の日。父・谷蔵さんに教わったことは――と尋ねると沼沢学長は、「規律を守り、素直であること、それと献身。それを守って学長になれた。子供たちにもそう教えています」と話した。式典が終わり昼食会の時間になると、代表団は一行と合流。15日の夕方に出発した第2陣の姿も見え、ようやく全員がそろったようだ。80周年記念の俳句コンクールで特選に選ばれた三宅昭子さん(66、秋田)が、ポルト・アレグレ在住の和田好司さん(69、兵庫)、恵子さん夫妻と話している。和田さんと三宅さんは62年のあるぜんちな丸の同船者だ。一行で7人、トメアスーには11人の同船者がいるという。和田さんが同船者の近況をたどった「40年目のビデオレター」の取材で訪れて以来7年ぶり。この間に亡くなった人もあるが、「元気な姿が見られてうれしい」とお互いの再会を喜ぶ。会館の前ではミナス州カルモ・ド・パラナイーバでカフェ栽培に従事する下坂匡さん(72、福島)夫妻と、パラー州パラゴミナスでマホガニー植林などを手がける岡島博さん(67、群馬)、トメアスー文協元会長の穎川幸雄さん(74、熊本)が談笑する。「僕の胡椒栽培は下坂さんのカフェが模範」と話す岡島さん。「あんちゃん」と呼ぶ下坂さんとは30年以上の付き合いだ。03年に下坂農園を訪れたという穎川さんも「時間があれば家に連れて行きたい」と話す。189人の日本人から始まったトメアスー移住地。市制施行から50年が過ぎ、今では人口5万人の町へと育った。式典では、クアトロ・ボッカスで約40年間雑貨店を経営するジョゼ・サルストリアーノさん(73)も、文協行事へ協力してきた貢献により感謝状を受けた。父親の代から変遷を見つめてきたサルストリアーノさんは、「昔この辺りは全部森とピメンタ畑だったけど、今ではビラからカピタルになった」と歳月を振り返った。午後3時過ぎ、一行のバスが出発する時間が来た。会場を出ようとしたところで、地元の久保田忍さん(75、宮崎)と話した。68年に第2トメアスーへ入植、今は息子が農業を継いでいるが、自分でもピメンタを栽培する。「トメアスーはいい所ですよ。自由だし、友達も多い。ここにきたら苦労なんかふっとぶよ」と話す久保田さん。「良かった。こうして色んな行事をするのはいいこと」と式典を振り返り、笑顔を浮かべた。(続く、松田正生記者) 写真=式典当日の朝、トメアスー文協前で記念撮影するトメアスー文協関係者と地元来賓、ウー連議、サンパウからの慶祝団。(左端は柴田アゴスチーニョ空軍少将) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-matsuda1.html