06/03/2026

Dia: 9 de novembro de 2011

平成23年度兵庫県若手地域農業リーダー海外派遣団(藤本喜龍団長)15人(引率2人を含む)が、5日から16日間の日程で滞伯している。5日午後7時から聖市リベルダーデ区のニッケイパレスホテルで兵庫県人会(尾西貞夫会長)役員との懇談会が行われた。 同事業は今年で33回目。これまでに兵庫県内の農業高校生や大学校生467人が派遣されており、今年度の13人を合わせると480人となる。 一行の日程は、聖州ミランドポリスの弓場農場での研修後、聖州アプカラーナ市で地元農業高校生と交流。兵庫県加古川市と姉妹都市提携を結ぶパラナ州マリンガで5泊6日のホームステイを行った後、クリチーバ市を経由してイグアス、リオなども視察する。 今年度の一行のスローガンは「縁 すべての出会いに感謝」とし、研修生全員で決めたという。藤本団長によると、兵庫県内では「大地の会」と呼ばれる若手農業生産者の会があり、県産のブランド品確立なども実践しているそうだ。 生徒団長で兵庫県立農業大学校畜産課程で和牛の研究育成を行っているという衣笠優(きぬがさ・ゆう)さん(19)は、「ブラジルの牛のことも含めて、日本では見ることのできない大規模農業を自分の目で見てみたい」と意気込みを示していた。 藤本団長は、「16日間という短い日程だが、ブラジルに移住された先人の偉大な足跡を一部でもたどり、開拓精神を学ぶことで今後の若い人の育成に役立てることができれば」と期待している。 懇談会では、尾西会長、藤本団長のあいさつに続き、酒井芳樹兵庫県人会副会長の音頭で乾杯。食事の後、それぞれ自己紹介が行われ、生徒たちは「日伯農業の違いを知りたい」「バイオエタノールについて興味がある」などの希望を語った。 2011年11月9日付
サンパウロ日伯援護協会(菊地義治会長)は10月27日、10月定例理事会を聖市リベルダーデ区の援協福祉センターで開いた。菊地会長は公務のため不在だった。 会の中で、山下忠男副会長から県連の本部移転問題で、援協の書類不備が邦字紙で話題となっていることに関して、与儀昭雄財産管理委員長に説明を求める場面があった。 援協は、公益社会福祉法人の認可を受けているにもかかわらず、所有している文協ビル5階にIPTU(固定資産税)、PIS(社会統合基金)、COFINS(社会保険融資納付金)が課税されたことを受け、国を相手に訴訟を起こした。第1~3審とも援協が勝訴し、国が援協を公益団体として認知していることが証明された。当初は、9月中に売却に必要な書類がそろうはずだったが、未だ書類はそろっていない。 与儀委員長は「私より菊地会長が詳しいが」と前置きした上で、「問題が解決した旨が記載されている書類の複写を弁護士から預かっている。弁護士とは密に連絡を取り合っており、26日に連絡した際は『10月中には書類がそろう』と言っていた」と説明した。 それに対し「早く解決できないのか」との声が上がり「県連からも迅速な対応を求められている。問題の原因の一つ、IPTUに関しては、援協は手続きする必要はなく、文協が動かなければいけない」と、援協は関係各所から待たされている立場であることを改めて強調した。 2011年11月9日付
長崎県人会(川添博会長)主催の敬老会が、10月30日午前11時から聖市リベルダーデ区の山形県人会館で開催された。敬老会では75歳以上の高齢者が表彰され、この日は12人が会場に足を運び元気な姿を見せた。 会では、敬老者の名前が1人ずつ呼ばれ、紅白の饅頭などの記念品が配られた。この日、初めて県人会に参加した岩永エミコさん(77)は「今まで忙しくて県人会に参加することができなかった。友達を作ることができら」と話した。また、余興ではビンゴゲームやカラオケなどが行われ、会に花を添えた。終始活気に満ちあふれ、参加した高齢者たちは楽しい時間を過ごしていた。 2011年11月9日付
ニッケイ新聞 2011年11月9日付け 「日本に行って、南米の人の温かさを改めて実感した」と話すのは、参加者一行と積極的に会話し、写真を撮っていた津留アントニオさん(40、二世)=ラ・プラタ市内在住=。九州大学に留学経験があり、日本語が流暢だ。同地福岡県人会の会計も務めている。アントニオさんも学んだラ・プラタ日本語学校には現在、日系150人、非日系40人の計190人が在籍する。日本語をもう一度学びたい大人向けの「補習クラス」も週一回開かれている。かつて6校に散在していた日本語学校は87年に統合の動きが始まり、91年に本格始動した。1年後に統合校がラ・プラタ日本人会館内に設立され、現在ウルキーサのほかラ・プラタ、東部ラ・プラタ、エル・パト、サンタ・モニカの5カ所の移住地(約400家族)から生徒が集まっている。アントニオさんの父、浩さん(69、福岡)と話し込んでいた親が同郷の参加者、齊藤利治さん(70、二世)は、「色々と福岡のことを話しました。会えて嬉しかった」と笑顔を浮かべた。食事と歓談を楽しんだ一行は最後、全員で「ふるさと」を合唱した。馬屋原会長が「懲りずにもう一度来てください!」と声を張り上げると、大きな拍手が沸き起こった。交流会で本橋団長(鳥取県人会長)と歓談していた坪倉広加さん(77)と君枝さん(76)は、「レンガの家と倉庫、広い土地が最初から用意されていました。だからブラジルの人に比べたら苦労らしい苦労なんてしていないんです」と謙遜する。再来年には金婚式を迎える鳥取県出身の夫妻だ。君枝さんは、数十年前に婦人会の旅行で伯国を訪れた。「サンパウロ、アチバイア、オランブラに行きました。日系の人が多くて、きれいな町でよかったですよ」。市から約20キロの地点にあるウルキーサ移住地は、ペロン政権時代に国営農業審議会によって首都、およびその周辺都市への野菜供給地にする目的で造成され、一区画8ヘクタール余りの土地が住宅付きで用意されていたという。イタリアから数家族が入植したが、ペロン政権が崩壊したため約10年間中断、放置され、60年代に入って再入植が始まった。日本人移住者としては61年に伯国から1家族、62年にドミニカ、ボリビア、パラグアイからそれぞれ1家族、63年に4家族、同年に日本から派米短期農業労務者制度(派米短農)で7家族が入植した。この制度は、外務省が農村の中堅青年を米国カリフォルニアの農家に3年間派遣し、実習と研修を通して米国農業を習得させ、日本の農業の近代化を図ったもの。その派米青年がウルキーサ入植に適格だと考えられた。君枝さんは、この制度を利用して米国で研修を行った夫の広加さんとともに63年、ウルキーサ移住地に入った。主に花作りに従事し、カーネーションから始まり、現在はガーベラを生産している。野菜も栽培するが頻度は1~2年に一度。野菜作りは、ここでは主にボリビア人が行っているという。現在、息子のホセルイス正弘さん(46、二世)が主に引き継ぎ、全収入の2割を稼ぎ出している。坪倉さん宅を訪れると見渡す限り、7町歩の土地にハウスが広がっていた。7町歩のうち1町歩をガーベラ専門に使用し、ハウスの数は全部で42、そのうち32を使用している。「アルゼンチンの景気も決して良いとは言えない。でも花はいつの時代も必要。製品勝負でやっています」と広加さん。そんな夫とともに日本を出た君枝さん。理由を尋ねると、「新聞に載っていた花嫁募集の広告を見て、これだと思った」という。(つづく、田中詩穂記者) 写真=坪倉さん一家(左から広加さん、ホセルイスさん、君枝さん)。ガーベラのハウスで(上)/会館で交流を祝し乾杯する一同 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-tanaka4.html