06/03/2026

Dia: 30 de novembro de 2011

ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  全47都道府県人会が県連に――。唯一県連に加盟していなかった富山県人会(市川利雄会長)が27日、アクリマソン区の同会会館で開いた役員会で県連に再加盟することを決議、正式に復帰した。会に出席、定款の確認などを行った県連の園田昭憲会長は「欠けていた部分がようやく埋まった。積極的に活動に参加して欲しい」と明るく語り、県連の結束力向上に期待した。  市川会長は脱退の理由を次のように説明する。「当時、県連の定款には会計に関する説明がなかった。県連主催『日本祭り』には00年の第3回まで参加したが、同祭の赤字分を各県人会に負担させると決めたことへの不満が県人会役員内で高まった」。 当時の会長で現会長の兄、市川良一氏が県連に手紙を出し、01年に正式に脱退した。 「毎月の代表者会議で一方的な報告が多かったことも一因だったようです」(市川会長)。 その後、県人会内では何度も復帰の検討がされたが、県連の運営方法や定款に不安を唱える声もあり実現しなかった。 進展があったのは今年6月。県連の新定款について市川会長と園田昭憲県連会長で話し合い、会計面を含めた内容の改善を確認したことで復帰に向けて準備を開始した。今月、県連と同県人会との間で合意に達し、役員会での承認を待つのみとなっていた。 役員会には園田会長が出席し、新定款や県連基金などに関して説明。役員による採決が行われ、全会一致で復帰が決定した。同時に県連からも加入が自動承認され、12月度の代表者会議から出席する。市川会長は「以前の県連から大きく変わったと感じた。『第15回日本祭り』への参加は未定だが、他県人会への行事参加や若い世代の交流を期待したい」と話した。 ■  富山県人会は1960年に創立、現在会員は300家族。昨年8月には県人移住百周年、県人会創立50周年を祝う式典を開催、記念誌「富山県からブラジルへ」(日ポ両語)を刊行。また県費留学・研修生の派遣を毎年行うなど活発に活動を行っている。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  第1回ハワイ移民団27人をのせて1899(明治32)年12月5日に那覇港を出港した薩摩丸は、1900年1月8日にホノルルに到着した。これを結成したのが〃沖縄移民の父〃當山久三(きゅうぞう)だ。 当時の奈良原繁(しげる)第4代知事(1892―1908年)は薩摩藩出身であり、強権を持って県政に望んだとウィキペディアにはある。明治政府は1879年に実施した「琉球処分」で琉球王国は消滅し、沖縄県が新たに設置された。この時に〃王国〃をなくした喪失感が代々に受け継がれ、沖縄県人の強い同族意識の原点を形作ってきたようだ。 移民送り出しに「時期尚早」と否定的な知事にとって、東京で自由民権運動の影響を受けた當山は政敵ともいえる存在だった。「移住する権利」を獲得することは県民への差別撤廃を意味し、當山の悲願だった。そんな強い向かい風の中、ハワイ移民を実現した。 『沖縄県史7・移民』(沖縄県教育委員会、1974年、以下『県史7』)によれば、初移民の後、3年間の中断期間を経て、出移民が全盛になったのは1903年以降、1904年には日本全体の移民総数の5・7%を占めるようになり、翌1905年以降10%以上の年が多くなる。 1885年に始まった本土からの移民事業に遅れること17年、堰を切ったように沖縄の移民は増加した。そんな1908年、米国政府はハワイ行き日本移民を禁止した。つまり、笠戸丸が出港した1908年は沖縄から見た出移民が助走を終えて最高速になった頃だ。米国での日本移民排斥が強まるに従い、ブラジル行きが急浮上した。笠戸丸移民の半分近くが沖縄県人だったのには、そのような背景があった。 1925年時点で、都道府県別に見た住民1万人当りの出移民数統計(『県史7』12頁)の堂々の1位は、沖縄県の429人だ。単純計算すれば25人に一人、一族に必ず一人は移民がいるという状態だった。2位は和歌山県110人、3位は広島県69人、4位は熊本県59人だった。 さらに時代が進むと沖縄の移民比率はもっと高まる。母県人口に占める海外在留者の人口比率統計(同13頁)によれば、1940年時点で海外在住者5万7283人に対し、沖縄県人口は57万人余だったので、人口の1割にも達していた。熊本県は4・8%、広島でも3・9%だから断然トップの比率といえる。 海外移民は母県の家族に必死で送金し、家計を支えた。沖縄県の場合、移民送金額を1929年の県歳入総額に比較すると、なんと66・4%に達していた。逆にいえば、それだけ母県の経済は疲弊しきっており、移民する以外に生活手段がなかった。移民事業はまさに母県経済の大黒柱であった。他県ではありえない依存度、移民との関係といえる。 1908年から1922年までの期間の最多送り先は1位がハワイ、2位がブラジル、3位がペルーで、この3つだけで全体の86%を占めた。1924年に米国が全土で排日移民法を実施するにいたり、行き場を失った移民はブラジルに集中するようになった。 1935(昭和10)年の調査で、沖縄県の市町村別にどれだけの人がハワイに渡ったかを調べた調査がある。トップは沖縄本島の中頭郡からの47・9%で、実に出移民の半分がハワイへ渡った。2番目が島尻郡の35%、3位は国頭郡の16%となっている。同じ地域出身者が固まって移住し、海外でも集団を維持した。沖縄県人会に多くの村人会という独特の存在があるのは、このような歴史に由来する。 世界のウチナーンチュ大会は移民大県だった歴史を逆手にとった発想だ。歴史をふり返り、そこから未来を発想する。ここに現在に至る県人の強いつながりの秘密があるのかもしれない。(深沢正雪記者、つづく) 写真=〃沖縄移民の父〃當山久三 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  財団法人オイスカと宮城県が東日本大震災で壊滅した仙台市名取の松林再生運動を実施するとし、そのキャンペーンの一環として日本の歌手・岡史朗さんを招いて19日、宮城県人会でチャリティーコンサートが開かれ、約100人が訪れた。ニッケイ新聞が主催、海外友好協会および飯星ワルテル連邦下議が後援した。  1987年から始まった岡さんによるコンサートは今年で10回目。今回は19日の聖市公演を皮切りに、サントス、グアルーリョスなど全9市でコンサートを行なっている。 初めに全員で被災者に黙祷を捧げた後、岡さんが岩手県、宮城県それぞれの名曲「北国の春」、「青葉城恋歌」を歌って犠牲者を追悼した。  同県人会の中沢宏一会長が、「震災の被害は甚大で1年や2年ではどうにもならないが、一緒に根気よく運動していきたい。こうした特別な年に来てもらったことに感謝する」と挨拶をした。続いて10回目を記念し、岡さんおよび同協会の奥田敏子会長に表彰状を手渡した。 岡さんは「知ってる歌は大きな声で歌ってくださいね。長生きしますから」「皆さん今何歳?お若いね」などとユーモアを込めて観客とやり取りを交わしながら、「親メドレー」、師匠の曲を集めた「岡晴夫メドレー」、「川の流れのように」や「千の風になって」など、人気曲もふんだんに盛り込み約60曲を熱唱し観客を楽しませた。  昨年度も見に来たという金子多恵子さん(74、二世)=聖市=は、「師匠の晴夫さんの歌を若い頃から聞いていた。今日も好きな歌がたくさんあった」と喜んでいた。 三島せいさん(85、北海道)=聖市=は、「私たち移民のために、好意で来てくれたと思うと嬉しい。本当に心にしみて、一生に一度の思い出になった」と感激した様子で話した。 なお、集められた保存食はサントス厚生ホームへ寄付された。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  富山県人会の県連復帰で、全都道府県人会が加盟したことになる。「そういえば岐阜は…」との声を聞き、山田彦次会長に確認したところ「08年に復帰している」とのこと。というのもリベルダーデでも飲食店を持つ岐阜県人が「日本祭り」で出店するため〃便宜〃を図ったよう。その証拠に県連会議には参加していない。11月の段階で19県人会が会費を未納となっているが「会費は会が払います」とのこと。色んな加盟の仕方があるものだ。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  ブラジル佐賀県文化協会(吉村幸之会長)は恒例の忘年会を来月18日午前11時から、同会会館(Rua Pandia Calogeras, 108, Aclimacao)で開く。参加費会員25レアル、非会員30レ。  ブッフェ式昼食の後、カラオケやビンゴなど余興も用意される。  問合せは同県人会(11・3208・7254)まで。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  広島大学(東広島市)はこのたびブラジル校友会を設立するにあたり、同大出身者、元留学生に呼びかけ、来月3日午後7時から、広島文化センター(Rua Tamandare, 800, Liberdade)で「設立会合・懇親会」を行なう。同大の岡本哲治副学長らが出席する。  同大学国際センターは「ブラジル在住の卒業生、留学生の連絡先を把握しておらず、これを機会に連絡を密にしていきたい」と話している。  詳しくは広島県人会(11・3207・5476)まで。
ニッケイ新聞 2011年11月30日付け  やはり年末は紅白歌合戦、そして被災地の子供たちに愛の手を―。ブラジル日本アマチュア歌謡連盟(NAK、北川好美会長)は『第17回ブラジル紅白歌合戦』を来月4日午前9時から、文協大講堂で盛大に開く。在聖日本国総領事館、汎米日系人協会の後援。入場無料。  1995年の日伯修好百周年を記念して始まった同イベント。今年で17回目を数える年末コロニアの風物詩ともなっている。 NAKバンドの伴奏で老若男女各30組が、03年にNHKからブラジル紅白歌合戦に贈られた優勝旗を競いあう。総合司会は井川ルシアさんと渡辺美枝さん、紅組は原房子さん、白組は小島一夫さんがキャプテンを務める。  なお、午後に予定される震災支援特別イベント「がんばれ援歌―東日本大震災を想う」では、ゲスト司会に藤瀬圭子さんを迎え、母県への支援活動を行なうブラジル宮城県人会の中沢宏一会長や、今年6月に訪日、日本アマチュア歌謡連盟・東北連合会(正木章会長)に約83万円の義捐金を手渡した北川朗久NAK名誉会長らが復興に対する思いを語る。  会場では千羽鶴も飾られ、募金した人には折鶴一羽が贈られる。今回寄せられた浄財全額が宮城県人会を通して、被災地の子供たちへ千羽鶴と共に届けられる。  作詞家もず唄平さんによる「がんばれ援歌」をポ語で歌う北川会長は「今年はどちらに軍配が上がるか予想もつきません。年末のひと時を楽しんで欲しい」と話しながらも「イベントを通じて被災地にコロニアの思いを伝えたい」と多くの来場を呼びかけている。  問い合わせは志田若代実行委員長(11・9655・6636)まで。
29日付本紙で「10月16日に開催された九州ブロック芸能祭に、県連(園田昭憲会長)設立の『県連・県人会活性化基金』が助成された」と掲載したが、園田会長によると「県連で余っていた水を提供したが、基金からの助成金は出ていない」という。 同基金は、日本祭りの収益金を県人会や地区ブロックのほか日系団体の活性化に向けて有効的に使おうと発足した。 現在は、運用に向けて詳細な助成基準を作成している段階。来月15日に予定されている12月度代表者会議までの間に3度開かれる執行部会で、ポルトガル語と日本語の助成基準が決定すれば、代表者会議で通知される。その後運営委員会を設立し、同委員会が基金を運用する。 委員会設立後は、すでに県連が持っている複数の口座のうち一つを基金用とし、積み立てを始める。積み立てる資金は用意できており、積み立ては、早ければ12月度代表者会議後に始まる計画だ。 園田会長は「現段階では、基金の積み立てを行っていないので助成金は調達できない上、どこの団体からも申請を受けていない」としている。 また、ある執行部の役員は「日本語は、ポルトガル語に付随するものなので『県連・県人会活性化基金』という日本語での表記自体、正式に決まってはいない」と指摘した。 ただ、同基金では申請の段階で使い道を記載する必要はなく、催しや事業の名称と、希望する助成金の金額のみ提出することになっている。そのため、「助成金で飲料水を購入しても構わない」と園田会長は話している。 園田会長はさらに、基金の助成額について「申請額の全額は適用されない。また、焼きそば祭りやカラオケ大会など、団体の運営費を捻出する催しに対しては助成しない」と強調した。 2011年11月30日付