Escrito por Célia Abe Oi Sex, 09 de Dezembro de 2011 16:36 Os mestres de cerimônia, Tuyoci...
Dia: 9 de dezembro de 2011
海外でのネットワーク構築目的に 「自由で平和な大学」を基本理念に置く日本の国立大学である広島大学(浅原利正学長)は、海外でのネットワーク構築を目的に3日午後7時半から聖市リベルダーデ区の広島文化センターで同大ブラジル校友会の設立総会を開催し、同大留学生OBや縁のある人々など約50人が出席した。設立総会では、岡本哲治副学長(歯学博士)による基調講演が行われたほか、ブラジル校友会初代会長として大西博巳広島県人会長が就任した。 下田修二同大国際交流グループリーダーの話によると、同大校友会は2007年2月に発足し、正会員は現在9649人で、準会員81団体に及ぶという。海外での校友会は、中国、韓国、台湾、ベトナムに続き、今回のブラジルでの発足が5か国目となる。 同大は2009年から聖市の広島文化センター内に事務所を置き、10年にはサンパウロ総合大学(USP)と学術提携関係を結んでいる。 海外からの留学生は、40年前にはわずか28人だったのが、現在は1090人(伯国からは5人)と年々増加しており、「今後5年間で2千人に増やす計画だ」(岡本副理事長)という。 また、同大卒業生は12万人で博士号修得者1万人、修士課程修得者は3万人に上る。 この日の設立総会では岡本副学長が、3月の東日本大震災による津波被害で発生した福島第一原発事故に対する同大の対応活動などについて講演を実施した。それによると、同大緊急支援チーム38班1926人を福島県に派遣し、被ばく対策委員会を設置。除染作業の指導や内部被ばく者特別検診などを行ったという(講演の詳細内容については後日掲載予定)。 講演後のブラジル校友会会長選出で下田氏からの推薦を受けて就任した大西会長は、自身が72年に県費留学生として広島大学で世話になったとし、伯国三菱重工での勤務の後、00年から広島県人会長に就任し11年にわたって活動してきたことに言及。「広大のOBなど皆さんの協力を得て、校友会活動を一緒にやっていきたい」とあいさつした。 大西会長は校友会の今後の活動について、「今まで留学生OBが集まることはあまりなかったが、まずは関係者や縁のある人たちに集まってもらい、互いに知恵を出し合っていきたい」と話している。 2011年12月9日付
ニッケイ新聞 2011年12月9日付け ブラジル日本都道府県人会連合会には、おそらく世界で唯一、47県全てが揃っている。米国にも多くの県人会があるが、地域ごとに活動しており、全国規模でまとまった連合会活動をする組織はないようだ。 ほとんどの県人会がサンパウロ市、なかでもリベルダーデ区に集中しており、この高密度な状況は世界でも特徴的だ。だからこそ、地元開催としては世界一の規模である「日本祭り」が可能になる。母県との強い絆を持つ各県人会、それらを束ねる県連という存在が相まって、当地の日系社会の〃日本らしさ〃を強く演出する。 ☆ ☆ そんな47県人会の中でも、沖縄県人会は最多の44支部を持つ。うち18支部が会館を持っており、各支部が通常の「県人会」規模か、それ以上に活発な活動をしている。沖縄県人会は単なる「県人会」というより、亜国のように「沖縄県人会連合会」を名乗ってもおかしくない規模だ。 調べてみると、実は戦前(1934―35年頃)にはなんと72支部もあった。当時はジュキア線や南麻州カンポ・グランデに沖縄県系が集中していた。県人会の前身である球陽協会がジュキア線で1926年に創立したのは、その状況を反映している。 沖縄県人は「差別」を受けて他県人よりも移住開始が遅かったが、ブラジルでも2回、日本国外務省から渡伯禁止された歴史がある。笠戸丸こそ半数近くを占めたが、同県人の耕地逃走やストライキが頻発したことから、外務省は1913年から16年までと、1919年から1926年まで渡伯禁止にした。球陽協会は移住の本格解禁を訴え、受け入れ態勢整備のために作られた。このような創立経緯を持つ県人会はおそらく他にない。 戦後、出聖者が激増し、大聖市都市圏が急激に増えた。支部数自体は減ったが、聖市周辺の各支部の人数は急激に増えた。大聖市都市圏だけで現在10支部あり、そこだけで全沖縄県系人15万人の半分が集中していると見られる。 『沖縄県人移民史』(00年、同県人会、以下、『沖縄90年史』と略)の250頁、1973年時点で会員数最多はカーザ・ベルデ支部(371人)、ビラ・カロン支部(346人)となっている。いまもこの2支部が県人会の両輪ともいえそうな地区だ。 両方とも那覇市内の一つの「字」(通り)である小禄(オロク)出身者が最多を占める地区だ。百周年協会理事長を務めた上原幸啓さん(準二世)、県連で沖縄県系人としては初めて県連会長を務めた与儀明雄(二世)前会長らが小禄出身者、同子孫として有名だ。 この地区は第2次大戦中、日本帝国陸軍の飛行場があった地区で、米軍は上陸する前に徹底した艦砲射撃や空爆を行い、地上にあったものは跡形もなく吹き飛ばされ、残ったのは蜂の巣のような爆弾跡だけだったという場所だ。戦後移民がここに集中したのには悲しい歴史があった。 同県人会の与那覇朝昭(ともあき)事務局長によれば「戦前よりも戦後移民の方が多い印象がある」という。通常、どこの県人会でも戦前の方が多い。戦前は約20万人、戦後はわずか5万だから当然だ。 ではなぜ沖縄の場合は戦後移民の存在感が強いのか。第2次大戦で唯一の地上戦を体験した歴史と無縁ではないだろう。 『沖縄90年史』の116頁によれば、戦後移民の総数は6175人にもなり、全戦後移民の1割を軽く超え、3500人前後の2位、3位を大きく引き離している。戦後に大きな団塊世代を持っていることが、現在も同県人会が活発に活動を続ける理由の一つだ。例えば3番目に大きなサントアンドレ支部には戦後移民が集中している。 一般の日本移民は戦前と戦後各1回ずつ団塊世代を形成しているが、沖縄県系人には3回ある。次節からその流れを追いつつ、沖縄県系の歴史的特徴に迫る。(深沢正雪記者、つづく) 写真=前夜祭の帰還バレードで圧倒的な存在感をみせる伯国勢 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
