06/03/2026

Dia: 14 de dezembro de 2011

 ブラジル鹿児島県人会(園田昭憲会長)は4日、聖市パカエンブー区の同会会館で12月度定例役員会と忘年会を催した。 役員会の中で園田会長は「設立100年を過ぎても名前を残し活動できる会にしておこう」とあいさつした。  また、いまだ進展しない県連の事務所移転問題について現状を説明した。県連が移転先に予定している援協名義の文協ビル5階は、今なお手放すための書類がそろわず、1年近く足踏み状態が続いている。県連としては、来年3月の役員改正以前に、現在の役員で同問題を収束させたい考えだ。  園田会長によると、援協から県連へ「コンドミニオだけで良いから入ってほしい」といった内容の手紙が届いた。それを受け両者の代表が会談し、書類がそろうまでの間、家賃は支払わず共同管理費の662レアルのみで県連が使用できることになったという。  この決定により、県連は12月末で現在の事務所がある文協ビル3階を引き払い、来年1月から5階で業務を行うことが決まった。ただし、書類がそろうまでは改装に着手しないという。  また園田会長は、書類がそろわない時期から県連が援協名義の事務所を使うことにより税金問題に問われた際は、援協が全責任を負うことを加えて発表した。  役員会の後は忘年会が行われ、集まった会員は井料堅治参与の音頭で乾杯を行い、持ち寄った食事を楽しんだ。 在伯都道府県人会の中で最も古い歴史を持つ鹿児島県人会は、2013年に設立100周年を迎えるため、来年は100周年に向けての準備が本格的に進められる。  大羽豪三記念誌編さん責任者は、記念誌は見て楽しめるものを目指し、頁数を少なくし写真を多く掲載すると明らかにした。  また、これまでの記念誌は日本語の全訳がポルトガル語で収録されたが、100周年誌には要約したポルトガル語訳のみ記載する予定だという。  大羽編さん責任者は「大変な忙しさになると覚悟しているが、連絡を取る手段がある限り、全伯の県人に寄稿を呼びかけたい」と意気込みを語った。 2011年12月14日付
ブラジル熊本文化交流協会(小山田祥雄会長)は11月20日、聖市ビラ・マリアーナ区の同会館でたけのこ祭を開催した。同祭は、長瀬隆元会長の私有地の竹林で、たけのこがたくさん取れることがきっかけとなり開かれた。開催は今回で3度目となる。 当日は、同県人会員や、同会館で開講しているカラオケ教室や健康体操の受講者とその家族ら約200人が訪れ、同県人会婦人部(衛藤チエコ部長)手作りのたけのこ料理に舌鼓を打った。 衛藤部長によると、当日は午前6時半から部員が集まり、調理や用意を行ったという。用意されたたけのこ料理は、炊き込みご飯、煮物、ぬか漬け、みそ漬け、酢漬け。加えて赤飯、唐揚げ、みそ汁と熊本名物の高菜飯が振る舞われ、昼食時は満席となった。 衛藤部長は「長瀬元会長のたけのこはアクが少なく、軟らかい」と太鼓判を押した。初めて来場したという安東マイラさん(29、3世)は「炊き込みご飯が一番おいしかった。家でも母が作ります」と笑顔で話した。 また会場では、同会館で行っている竹細工教室の作品も販売された。材料の竹は、たけのこ同様長瀬元会長の所有する竹林から調達している。 特に人気の作品は、竹を輪切りにしたものを土台に使った針山。針を刺す部分は、丸い形を生かしてフクロウやてんとう虫を模しており、針刺しとして使うだけでなく、置物としても楽しめる愛らしさで来場者の目を楽しませていた。 竹細工教室と同会婦人部が協力して制作しているという針山は、中身に針が錆(さ)びにくい素材を採用するなど、こだわっている。連日15~20人で制作しているが、好評で供給が間に合わないほどだという。 小山田会長は「来場者が例年より多かった。特に女性は、休日は家事も休もうと誘い合って来ているようだ」とこれまで以上の反響を喜んだ。 2011年12月14日付
ニッケイ新聞 2011年12月14日付け  「日本が勝っていると信じて、父は終戦後の1954年、20歳だった私を連れて沖縄に帰ってきました」。那覇市内の青年会館で10月15日晩、ブラジル沖縄協会と沖縄産業開発青年隊が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会の場で、玉木良子さん(たまき・よしこ、78、二世)=那覇在住=は、初対面の記者にいきなりそう告げた。 今大会にあわせて出版した自伝『大洋にかける橋』(沖縄自分史センター、11年)を手渡し、「全てがここに書いてあります」と畳みかけた。 父宇根良治(うね・りょうじ)は42歳の時、モンテビデオ丸で1926(大正15)年に渡伯した。一般の日本移民と同じ戦前の〃団塊世代〃に属し、沖縄県系人にとっては第2弾世代となる。 日本国外務省は沖縄県人の耕地逃亡やストライキ多発に手を焼き、2回目の渡航禁止処分にし、ようやく解禁し始めたときだ。沖縄県人は球陽協会を組織して本格解禁を要請したまさにその年、宇根さんは渡伯した。 県人が集中するジュキア線ムザーセアに農地を買い、バナナ園を経営した。大戦勃発後、地区の顔役であった父にDOPSから出頭命令が下り、聖市で拘留された。地域住民が嘆願書を書いて釈放運動をし、ようやく出される手筈になった。 ところが拘置所の「門の出口まで来た所で難関があり、父は試された。出口に『天皇陛下の写真と日の丸の国旗』がしかれていたのだ。踏んで出るように言われ、父は踏めずに残る道を選んだ」(同57頁)。そしてアンシェッタに〃島送り〃にされ2年を過ごした。 出所した父を見て、「泣くまいと心に決めていたが、久しぶりの父の姿を見たとたん、涙があふれ出た」(同59頁)。父はその時点で帰国することを決意していたが、母は様態が急変し52年9月に亡くなった。一家は54年6月に念願の帰国の途についた。 「当時の沖縄は太平洋戦争の傷跡がまだ残っており、復興途中の何もない島だった。一方ブラジルは、経済的にも栄華を極め、食料も物資も町にあふれていた」(同64頁)。しかも米軍統治の時代だ。誰もが豊かなブラジルへ向かう中、「勝ったはず」との父の信念から宇根家だけ逆方向を辿った。 あまりに珍しいので当時写真入りで地元紙に報道された。父はすでに61歳だった。「父は日本に帰ってからも決して『負けた』とは言いませんでした。それぐらい強い意志を持っていた。だからみながブラジルに向かうなか、復興前の沖縄に帰ってきてやり直すことができた」。 良子さんは「日本行きはイヤだった。2、3年したら帰ろうと思っていたのに、そのままになってしまった」とふり返る。ブラジルで洋裁を学んでいたので資金を融通してもらって洋裁店を開き、「帰伯するための費用」と思って懸命に稼いだ。そんな時、夫の玉木正明さんと出合った。 玉木さんの父は琉球政府の移民課長で送り出し側の責任者だった。ブラジル帰りの良子さんに目をつけて、55年に設立された沖縄開発青年隊でポ語教師をするように依頼し、彼女は喜んで引き受けた。当時、田畑の軍用地収容を受けた沖縄では、青年たちの働き場はなく豊かな伯国はまさに新天地だった。 良子さんは「ブラジルじゃステーキの大きいのが毎日食べられるわよと言ったのを聞いて、渡伯を決めた隊員もいる」と思い出し笑いをする。 正明さんと結婚し、72年に玉木病院を開院した。県系の伊波興裕サンビセンチ市長(当時)の申し入れにより、78年に那覇市と姉妹都市になった時、良子さんが仲を取り持った。「万国津梁の気概を忘れずに世界をつなごう、それが私たちに託された使命」(111頁)。同書はそう締めくくられている。(深沢正雪記者、つづく) 写真=著書『大洋にかける橋』を手にする玉木さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html