06/03/2026

Mês: dezembro 2011

ニッケイ新聞 2011年12月22日付け  3月11日に発生した東日本大震災を受け、世界各国の日系人・日系団体から日本赤十字社等を通じて寄せられた義捐金額が、今年9月時点で少なくとも16億1千万円を超えていたことがわかった。海外日系人協会(神奈川県横浜市、田中克之理事長)が「海外日系人」(69号)などで発表した。祖国の悲劇に迅速に反応し、様々な形で温かな救いの手を差し伸べたのはブラジルのコロニアに留まらなかった。  同協会の調べによると、金額的に最も大きかったのはアメリカ日系社会から送られた7億6千万円、次いでブラジルが6億円と群を抜く。カナダ(9千)、メキシコ(5600)、パラグアイ(3200)、アルゼンチン(2500)、オーストラリア(2100)、ペルー(2千)、ボリビア(600)と続く=単位は万円=。 同協会に義捐金を寄託した団体は少なくとも30団体以上に上り、伯国の団体以外ではボリビアのサンフアン日本ボリビア協会、サンフアン学園、ボリビア・ラパス日系人協会、サンタクルス中央日本人会、パラグアイからは日本人会連合会、都道府県人会連合会や各県人会、ラパス日本語学校などが挙げられる。 ハワイ州では州知事の呼びかけでキャンペーン「アロハ・フォー・ジャパン」が立ち上がり、街頭募金、コンサート、チャリティーイベントなど様々な活動で義捐金が集められた。7月末で同キャンペーンとハワイ日米協会が集めた総額は650万米ドルを超えた。 また、マウイ島にNPO「アロハ・イニシアティブ」が設立され、「ハワイに避難しませんか」運動を同島副郡長が推進。被災者の心の傷を癒すことを目的に、7月に98人を同地に招いた。 またハワイ日米協会主体で立ち上がった「レインボー・フォー・ジャパン・キッズ」プロジェクトでは、7月に東北3県の20人の中学生を1週間ホームステイに受け入れた。 ロサンゼルスでは主要日系団体が連携を取り、震災発生3日後から本格的な募金活動を展開した。在ロサンゼルス総領事館、米日協会、南カリフォルニア日米協会、リトル東京防犯協会、邦字紙「羅府新報」などを経由し、広範囲から支援が寄せられた。 サンフランシスコでは、地震発生当日に同地の大型日系団体「北加日本文化コミュニティセンター」が募金活動を開始した。 約5カ月間で約2億7600万円が集まったほか、シアトルでは震災の翌日、日系社会内の被災地支援ネットワーク組織「シアトル・ジャパン・リリーフ」が発足。米国赤十字社など3団体を通じてオンラインで募金できるシステムが構築され、25万ドル以上の義捐金が寄せられた。 そのほか、カナダのトロントでは震災直後に基金が設立され、7月25日時点で109万6千ドルが集まり、オーストラリアでも各地で活発に街頭募金、チャリティー活動が展開された。 マレーシアでも多くの団体や学校、企業、政府機関が募金活動や慈善事業を行い、日本大使館、クアラルンプール日本人会に義捐金が寄せられたという。
 ブラジル日本アマチュア歌謡連盟(北川好美会長)が4日に聖市リベルダーデ区の文協で開催した「第17回ブラジル紅白歌合戦」(志田若代実行委員長)は、紅組が勝利を収め好評のうちに幕を下ろした。  東日本大震災の被災者を励まそうと企画された「がんばれ援歌―東日本大震災を思う」では、北川会長自らマイクを手に熱唱する場面もあった。  当日は、震災で親を亡くした被災孤児を支援するため義捐金を募った。集まった義捐金約2千レアルは、母県が被災した宮城県人会(中沢宏一会長)へ届けられた。  中沢会長は、同連盟会員の折った千羽鶴とともに、クリスマスプレゼントとして子どもたちに贈るという。 開会式では、北川朗久名誉会長の長年にわたる日伯音楽文化交流の功績に対し、サンパウロ州議会からの記念プレートが進呈され、出席した羽藤ジョージ聖州議員が贈呈した。  また同連盟は、10年以上にわたり慈善福祉団体に協力している。 寒野正留広報担当理事によると、年間10万レアルを目標に支援歌謡祭を行っており、今年は総額10万レアルを超す寄付金のほか食料品、衛生用品、掃除用具など約100キロを寄贈した。 2011年に開催した催しは次の通り。 3月=援協「カンポスさくらホーム支援歌謡祭」4月=社会福祉法人・救済会「憩の園支援歌謡祭」7月=児童教育援護施設「サント・アントニオの家支援歌謡祭」8月=援協「サントス厚生ホーム支援歌謡祭」9月=「マナブ・マベ日伯近代美術館建設支援歌謡祭」11月=知的障害者援護施設「希望の家支援歌謡祭」  このほか6月には、北川名誉会長が東北地方を訪れ、同連盟東北連合会へ義捐金83万7千円を直接手渡し喜ばれたという。 北川会長は「来年も引き続き支援歌謡祭、紅白歌合戦を開催したい」と話し、日系コロニアへ理解と協力を仰いだ。 2011年12月21日付
小西さんが来伯中  宮崎県人会(谷広海会長)が1982年から続けている「宮崎県農業青年ブラジル国派遣研修」制度を利用して、小西尊秀さん(26)が来伯、黒木慧同県人会名誉会長の案内で来社した。  昨年は、母県で発生した鳥インフルエンザと家畜伝染病「口蹄疫(こうていえき)」の影響で受け入れを休止したものの、今回より募集を再開した。毎年母県とブラジルで人的交流を行っている。  小西さんは延岡市でブドウ、茶、アスパラガス、玉ねぎなどを生産している専業農家。研修に向けて、「実家の農家ではブドウに力を入れているので、パラナ州の農家で予定されている1か月の研修が楽しみ。果物の知識を深められれば」と期待を込めた。  小西さんは今月8日から来年2月29日までの約3か月間滞在。当地の農業を学ぶほか、各地の県人との交流、2月中旬にはパラグアイの訪問も予定している。  同行した昨年度宮崎県海外留学生の塩月カルロスさん(31、3世)は、「ブラジルの大自然の中で、日本と異なる農業を学んで役立てて下さい」と声援を送った。 2011年12月21日付
ニッケイ新聞 2011年12月21日付け  聖市メトロのイミグランテ駅から徒歩5分の場所にある神奈川県人会館(Rua Major Newton Feliciano, 75, Vila Mariana)では、宿泊希望の日本人や日系人を探している。1泊なら30レアル、2泊目以降は20レアルになるという。駐車場も3台あり、無料。すぐ近くにスーパーや公園もある高級住宅街の一角。申込みや詳細問い合わせは同会館支配人、橋本明美さん(電話=11・9117・2714、11・5082・3141)まで。「特に聖南西の方が出聖した折りなどにご利用いただきたい」と同会館関係者は呼びかけている。
ニッケイ新聞 2011年12月21日付け  「全国テストの沖縄の結果は全国最低、若年失業者は全国最高。笑えない数字です。我々はこの状況を移民の先人に学び、逆転の発想で乗り越えなくてはならない。若者を海外に出すことで救う、万国津梁人〃財〃という考え方で短期交換留学をしたらどうでしょうか」。 10月15日、宜野湾市・沖縄コンベンションセンターのワールドウチナー・シンポジウムで金城和光さん(沖縄ヒューマンキャピタル社代表取締役)は、講演でそのような提案をした。 沖縄を小国にたとえ、08年世界競争力年鑑5位のルクセンブルグに学ぶヒントとして、「語学力と多国籍の事業集積が競争力の源泉」だと論じ、沖縄が経済発展するには「中国およびインドのアジア市場を見据え、英語、中国語の徹底した教育とアジア市場への事業展開が必須」とする。 さらにシンガポールや香港から参考にすべき点として、人材育成・教育に投資してバイリンガル人材を積極的に育成している点を挙げた。また世界の華僑ネットワークが4千万人でアジア、北米などに幅広く展開していることを指摘した。 沖縄県の現状は15歳~39歳までの若年失業者が3万人もおり、生活保護受給者が1万8千世帯に414億円もかかっている。完全失業率は7・5%(09年)と全国最高で、中学レベルの全国学力テストの県別集計で最低点を記録したことを関係付けた。 県の大学生へのアンケート調査で「自分を変えたい」「自分の夢や目標、やりたいことを見つけたい」というのが願望であることを挙げ、彼等こそ「グローバル人〃財〃」になる可能性があるとして「万国津梁人材育成」のモデルを掲げた。 海外の県系人の家庭に、県内の中高校生や大学生の夏休みの短期ホームステイを受けいれてもらい、代わりに県系人の若者を母県で受けいれ、航空料金のみで相互国際交流ができるという仕組みだ。この制度を通じて、英語、中国語、スペイン語、ポ語に通じた人材を育成し、県の発展に役立つ人材とする構想だ。 さらに、在外者の視点から県に提言する役職で、大会シンポなどの機会に自分の考えを述べるウチナー民間大使と、世界の県人会代表が集まって論じ合う会議でも、この提案が議論された。 結論として、若者の海外留学や在外子弟を受けいれるなどの交流を進めるために100億円規模の万国津梁(しんりょう)基金を作る提言がまとめられ、仲井眞弘多知事に提出されて実施に向けて動くことになった。 大会において琉球王朝はただの歴史ではなく、伝統となって生き続け、「あるべき理想像」を現代に照らし返している。 ☆   ☆  もう一つの会議、グローバル若者シンポで提言されたことの一つに、今まで南米の沖縄系若者だけで行なってきた「ニセイタツウ」(若者交流会)を、来年のブラジル大会から若者版世界のウチナーンチュ大会に拡大するという提案がある。 今までペルーで1回、ボリビアで1回、アルゼンチンで2回行われてきた。企画も実施も運営も若者が中心になってやり、元々は一緒に観光旅行したり、フェスタをする交流会だ。 しかし、来年のブラジル大会からは母県も含めて世界中の沖縄系の若者が集まることになった。与那嶺会長は「南米だけでひっそりやっていたんだけど、急に県庁からもコンビッチをくれっていう話になって大きなイベントになり、僕らの方がびっくり」と大会の成果を喜ぶ。5年の一度の世界ウチナーンチュ大会の間に、若者版が海外で開かれることになった。 100億円の基金を作って人材育成に投資し、次世代に向けた若者の交流に重点を置くという、20年後、30年後を見据えた動きが本格化した。(深沢雪記者、つづく) 写真=金城和光さんが「問題提起」した文面   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月21日付け  2012年の新年を祝い、新年祝賀会を1月1日午前10時からリベルダーデ区の文協大講堂(Rua Sao Joaquim, 381)で開催する。在聖日本国総領事館、文協、援協、県連、商工会議所、日伯文化連盟が共催。 文協合唱団のリードによる日伯両国歌斉唱、木多喜八郎文協会長、大部一秋総領事の祝辞、「一月一日の歌」合唱などのあと、大サロンで祝賀パーティーを行う。 問い合わせは各共催団体まで。
ニッケイ新聞 2011年12月21日付け  「こじんまりしたコロニアですが団結して頑張ります」。聖南西のサンミゲル・アルカンジョ市に位置するコロニア・ピニャール文化体育協会の西川修治会長は、そう胸を張る。来年8月5日に入植50周年を祝うべく、記念事業として会館横に体育館を建設するなど準備を進めている。 1060平米ある体育館の総工費は60万レアル。福井県からの支援を含め、3年前から同地に住む資産家の天野鉄人さんからまとまった援助もあったという。 1962年12月に第1陣が初入植した。1ロッテが5アルケールほどで、大半がブドウや柿などの果物、野菜を作っているという。当初から50家族という数はほとんど変っておらず、うち福井県出身者が17~18家族おり、〃福井村〃との名称も持つ。 今も南伯農協が残っている数少ない場所でもある。元会長の山下治さんは「南伯には37単協あり、組合法改正の時に各地で独立させたので、本部が解散した時も生き残れた。ピニャールも解散当初は借金もあったが、今は全てを買い取った」と振返った。 20周年では会館が完成し、同じ頃に天野さんが青年図書館(日本語書籍約7万冊)と宿泊施設(風呂、カラオケ設備あり)も作った。移民百周年では移住地入口に天野さんの支援で鳥居と記念碑も建立した。昨年に天野さんの土地の中にパークゴルフ場、マレットゴルフ場、今年10月には剣道などに向いた総板張りの武道場「輝号記念館」も完成させた。ただし、同移住地に剣道部はなく、これらの施設は聖市などの愛好者に使って欲しいという。 西川会長は「ぜひ来年8月の式典には、所縁のあるみなさんに出席して頂きたい」と呼びかけた。
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  大会誕生の内幕には諸説あるが、84年から琉球新報が世界のウチナーンチュを紹介する500回もの長大な連載をしたのが契機だったようだ。 さらに沖縄テレビでは前原信一(まえはら・しんいち)さんがディレクターを務めて「沖縄発われら地球人」「世界ウチナーンチュ紀行」など210本にわたるシリーズを放送してさらに気運を盛り上げた。一般的には、その流れの中で故西銘順治知事(在任期間78―90年)が「世界のウチナーンチュ大会」を発想し、任期最終年の90年からこの大会が始まったといわれる。 実はブラジル県人会の与那嶺会長も大会原案に一枚噛んでいるという。86年に西銘知事一家が来伯した際、田場ジョルジ聖市議(当時)と与那嶺さんは聖市のテラッソ・イタリア最上階の高級レストランで接待した。 与那嶺さんは思い出す。「いい機会だからと思って『二世として折り入ってお願いがある』と知事に言ったんです。自分達は親を日本に行かせようと頑張ってきた。でも自分では沖縄には行かない。アルゼンチンでは二世が十数人も軍事政権に殺された。ブラジルでも具志堅ルイス(のちの大統領府広報長官)、荻堂オメロ(連邦下議)とか偉い県系二世が出ている。彼等を沖縄に呼んで、その国の言葉で挨拶させたい。言葉は違ってもウチナーの魂を持っていることを、沖縄の人々に理解してもらうだけでいいじゃないかと提案したんです」。 88年に与那嶺さんが那覇に知事を訪ねた時、基地反対運動が盛り上がっていた折で、知事室のすぐ外まで反対派の人たちが来て凄い騒ぎになっていた。そんな緊迫した情勢の中で知事は、こっそりと「あと二年したらあの大会ができるよ」と耳打ちした。そして与那嶺さんと田場さんが第1回大会のウチナー民間大使に指名された。 与那嶺さんは「大会実現の原動力になったのは、知事の報恩の気持ちだ」という。「西銘知事は戦後の苦しいときに海外からの支援物資を送ってもらったことを感謝していた。だからブラジル各地に会館を作るときにも手を貸してくれ、大会実現にも力を注いでくれた」と感謝した。 ☆    ☆  大会前から地元紙では関係記事が連日、1面トップを飾る。大会の経緯を振返る沖縄タイムス10月7日付け記事によれば、西銘知事は幼少時に南洋パラオで育った。85年に基地縮小の対米交渉を目的に訪米し、アトランタで県人から大歓迎を受け、皆とカチャーシーを踊って感激し、在外県人の存在を強く印象付けられた。沖縄県系人が母県の来賓と共にカチャーシーを踊る姿は今でも欠かせないものだが、そこから全てが始まった。 その後、87年の海邦国体開催時に世界7カ国から515人の代表を集めてワールドウチナーンチュフェスティバルを開催して好評を得て、89年に大会事務局を立ち上げたと同記事にはある。 また、閉会式を報じた琉球新報は通常ならスポーツ新聞でもありえない紙面レイアウトで盛り上がりを報じた。一面と最終面の見開きを一枚の巨大なカラー写真で埋めたのだ。繊毛のようにびっしりと天に向かって伸びる手が写しこまれており、観客の興奮をはっきりと伝えるド迫力の写真だ。力の入った紙面構成であり、大会の盛り上がりは、このような地元メディアの力の入れ方を抜きにして考えられない。 大会の始まりから地元メディアは深く関わり、盛り上げ続けてきた。知事自らがアイデアを出し、分け隔てなく海外子孫の意見に耳を傾けて具体案を練り上げ、さらに大学の研究者、県庁職員、中学高校、海外子孫などが一体になって全ウチナーで盛り上げてきた。つまり、大会自体がすでに世界のウチナーンチュが作り出した「作品」といえる。(深沢正雪記者、つづく) 写真=琉球新報による迫力の記事   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  毎年キャンセル待ちが出るほどの人気ぶりを見せる県連の「ふるさと巡り」。来年3月の第37回ではバウルー、ボツカツなど聖州の移住地4カ所を回り、各地の日本人会と交流を深める。本橋幹久県連副会長によれば、先週の初めから募集を始めたところ、既に30人近くの希望者が集まっている。遠くの珍しいところより、知り合いがいる、昔行ったことがある、など参加者にとって身近な場所の方が実は人気があるとか。
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け  東京都友会(坂和三郎会長)は新年会を1月21日正午からリベルダーデ区のニッケイパレスホテル(Rua Galvao Bueno, 425)を開く。 例年は1月最終土曜だが、今回は一週間早い開催となる。 午前11時半に受付開始、藤間流日本舞踊学校による踊りが披露されるほか、カラオケ、抽選会も行われる。 案内のため来社した坂和会長と多羅間俊彦名誉会長は「会員でなくても、東京を愛する人なら誰でも参加下さい」と呼びかけた。 参加費50レアル、1月18日までに同会へ申込みが必要。電話・FAX(11・3254・3540)、Eメール=toyukai@nethall.com.br
好評の餅つき大会  岩手県人会(千田曠曉会長)は10日、聖市リベルダーデ区の同会館で餅つき大会を開催した。当日は、午前8時前から同県人会婦人部や青年部員が準備に訪れ、同大会の成功に尽力した。  同県人会の餅つきは4年ぶりの開催。千田会長は「開催が決まると、会員らは積極的に携ってくれた」と協力に謝意を述べた。  今回準備した餅米は約95キロ。同県人会員の作ったレジストロの餅米は評判が良いという。当日券での来場者が多く、混雑時は餅を待つ人で列ができるほど好評を得た。会員らは「IWATE」と書かれたエプロンを着用し、対応に追われていた。  千田会長は「若い人が日本の風習である餅つき文化に携わることは良いことだ」と話し、「今回で自信を付けて今後も餅つきを続けていけたら」と継続に向けた考えを述べた。 2011年12月17日付
聖市は20日午前10時半から、同市リベルダーデ区タグア街で桜の植樹を行う。これは、同市が推進しているリベルダーデの緑化運動の一つで、この運動には、日系団体をはじめとして韓国、中国、台湾などの団体も積極的に協力している。 日系社会からは、日伯援護協会の菊地義治会長、ブラジルニッポン移住者協会の小山昭朗会長、ブラジル宮城県人会の中沢宏一会長らが中心となり、住民らにさらなる協力を呼びかけている。 6月に始まったこの運動では、リベルダーデ大通り、サンジョアキン街、タグア街、グロリア街の一部と、通りに面した私有地などにこれまで約70本の桜を植樹した。 今回の植樹では50本の桜を新たに植え、最終的には同市で初めてとなる桜並木の完成を目指す。植樹には誰でも参加でき、作業後には宮城県人会館で桜とサクランボを使用した料理で茶話会を開く。 2011年12月17日付
代表者会議で発表  富山県人会(市川利雄会長)は15日、12月度県連代表者会議に出席し、園田昭憲県連会長は「富山県人会が正式に県連に復帰した。これで全47都道府県が県連に加入した」と発表した。  市川会長は「これからお世話になります。今後は県連と県人会の発展のために、今まで以上に努力したい」とあいさつすると、会場からは歓迎の大きな拍手が起こった。  同県人会の発足は1960年。2010年8月には県人移住100周年、県人会創立50周年、母県と聖州との友好提携25周年の記念式典を実施するなど積極的な活動を行っている。  また、今年4月20日には、東日本大震災への義捐金として会員から寄せられた約7千レアルを在聖総領事館の口座に送金した。 このほか、県人会記念誌『富山県からブラジルへ』(日ポ両語)を執筆・刊行するなど活発な活動を行っており、県連に力強い仲間が加わったと言える。 2011年12月17日付 [Tweet]
ニッケイ新聞 2011年12月17日付け  沖縄県の近代史をめくると、その最初には「ペリー来航」が記されているが、実は、本土の歴史とは少々違う。 通常は1854年に7隻の軍艦を引き連れて横浜沖に迫り、3月に日米和親条約を調印したことはよく知られている。ところが、その直ぐ後、その船団は那覇に寄港して7月に、琉球王国とも「琉米修好条約」を締結している。米国によるこの行為が後の歴史を大きく左右することになる。 さらに歴史を紐解くと、日米和親条約の前年1853年5月に黒船は那覇に初来航している。そこでペリー提督は開港を求め、薩摩藩は幕府に判断を仰ぎ、琉球の開港を許可した。この時点で本土に先駆けて沖縄から「開国」が始まっていた。 ペリー提督は琉球が開港に抵抗した場合は、武力をもって占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。しかし、歴史的には琉球は独立国ではない。1609年に薩摩藩が3千の兵力で琉球侵攻を行って以来、薩摩藩の付庸国となっていた。 つまり、江戸幕府が琉球を〃別扱い〃したことで、日本とは異なる国家だとの第一印象を米国は持ってしまった。 ☆   ☆  その後、沖縄県は大正から昭和初期にかけて大恐慌の渦中に巻き込まれた。同規模県の2倍もの国税を徴収される苦境におかれ、沖縄の農地の6、7割は銀行の担保に入っていた時代だったという。ソテツ以外に食べるものがない「ソテツ地獄」に苦しみ、海外移住以外に生き残りの活路は見出せなかった。その中で明治政府に対するある種の抵抗運動のようにハワイ移民は始まり、大量の移民子孫が南北米大陸にちらばった。国内のゆがみがここに集中したために移民が多く生まれた構図だ。 太平洋戦争が終結した時、日本を占領した米国は沖縄県と奄美群島を本土から分割統治した。ウィキペディアの「琉球独立運動」の項目には次の説明がある。 分割統治したことに関して、《これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという第二次世界大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。 占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本(琉球)側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった》。 1949年から冷戦が激化すると、沖縄本島は極東最大の米軍基地が置かれるようになり、米国から〃太平洋の要石〃とまで言われた。 ☆   ☆  かつては日本国内、アジア地域の歴史的な力関係のひずみが、その中間に位置する沖縄に集約的に現われ、その結果、独特の国際的なバランス感覚を育んできた。 グローバル時代には中国の代わりに米国が覇権国の位置を占めるようになり、日米の狭間で二文化を使い分けるようになってきたようだ。 ゆがみゆえに押し出された大量の移民は、いち早く新大陸で地歩を築いた。その結果、出身地(旧世界)の秩序がひっくりかえる現象が起き、沖縄系が南北米諸国で最大派閥を形成する結果となった。そんな移民や子孫を国際的な〃宝〃だと発想したのが今大会だ。(つづく、深沢正雪記者) 写真=ペリーから始まる沖縄の近代史(『沖縄の百年』第1巻人物編・近代沖縄の人々、1969年、琉球新報、11頁)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  前節で見てきたように沖縄県では方々で「海外には〃明治の沖縄〃が残っている」との言葉を聞いた。海外県系人がウチナー意識を継承している姿をみて、母県側の市民は自らのあるべき姿を再確認しているようだ。郷土愛ともいえるし、ナショナリズム傾向、エスニック志向のような方向性も内包しているようだ。 ☆   ☆  ブラジル県人会の与那嶺真次会長は、この現象を「裏表の鏡」と興味深い表現をする。ブラジル子孫は沖縄という鏡を見て「やっぱり自分はウチナーンチュだ」という気持ちがわいてくるが、母県市民も海外子孫が〃明治の沖縄〃を継承している姿をみて、「自分達はもっと伝統文化、根っこを大事にしなきゃ行けない」と自覚を深める。お互いがそこに何かを投影し、自覚を深める「裏表の鏡」になっている。そして手を携えて、ひとつの方向に向かう。 これは一見「遠隔地ナショナリズム」のように見える。祖国を遠く離れた移民集団が祖国の現状を憂い、遠隔地からナショナリズム色の強い意見を発して、祖国に影響を与えることだ。ところが沖縄の場合は、実は母県側がそれを誘発して海外勢が乗り、一体化して盛り上げている図式があるように見える。 母県の方から「明治の精神」をブラジルに投影し、それに似合った事象を選び出して報道し、会議で取り上げることで「やっぱり伝統的な沖縄を残すべきだ」という母県の世論を盛り上げる社会心理があるようだ。 海外在住者からすると、少し別の現実も見える。実際の県系人の大半はすでに意識が薄れている。県人会の与那覇朝昭事務局長によれば現会員数は2800人だが、1973年当時では3648人もいた。明らかに減少傾向であり、「若い人はあまり県人会活動に関心を示さない」と心配する。 それに「子孫が沖縄方言をしゃべる」からと言って、〃明治の沖縄〃の精神まで残っているのだろうか――という根本的な疑問も湧く。 しかし、大会参加者だけを見れば選りすぐりの高い意識を持つ層だ。旅費を負担して大会に参加する人は自覚が強い人ばかりで、〃明治の沖縄〃があるように見える。普通どの県でも海外子孫の県人意識は世代が進むごとに薄れる。この自然の摂理に対して、この大会は流れに棹差すような方向性を持っている。 前堂(まえどう)和子さん(かずこ、70、沖縄)=神戸在住=は大会に参加した感想を、「震えて、涙が出そうで、堪らなかった。世界に散ったみんなの心がひとつになるのを感じた。沖縄のDNAが私の心の中に、魂の中にはっきり生きているのをこの大会で感じた」とのべた。神戸に住んでいる彼女も、海外子孫と同列だと意識していることが分かる。大会では東京、大阪などの県人会等〃内地〃勢と海外勢が肩を並べて熱い議論を交わした。 那覇在住7年のフリージャーナリスト高橋哲朗さん(50、埼玉)は、ブラジルに3年、米国に7年、オーストラリアに1年住み、国際的な視野から取材活動をしてきた。 「沖縄県人は愛郷心がすごく強い。島を離れたのなら、本土でもブラジルでも大差ないという感覚がある。離島ならではの意識、ここを中心とした一つの世界がある」と分析する。そのような意識が強いから、沖縄の人は自分達を〃ウチナー〃、本土の人間のことを〃ナイチャー〃(内地人)と区別する。米軍統治時代の意識の名残りか、今でも「外地」にいると感じているようだ。 その意識を反映して、沖縄の地方紙には独特の「県系人」という言葉遣いまである。一般な日本語でいえば「県人子孫」だ。ウチナー意識の延長線上に「県系人」という概念を作り出し、今ではそこまでウチナー自体の範囲が広がっている。 高橋さんは「日本という国の、一番歪んだ部分の現実をここでは観察できる。本土のしわ寄せがここに集まっている」と繰り返す。国境を超える強い血縁意識の原動力となるのが、この「ゆがんだ部分の現実」かもしれない。(つづく、深沢正雪記者) 写真=沖縄探見社を創立し、平田進の生涯を描いた『国会議員になった「隠れキリシタン」』など4冊を出版した高橋哲朗さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の『第37回ふるさと巡り』が来年3月31日~4月3日の4日間実施されるにあたり、県連では現在参加者を募集している。 今回は聖州ボツカツ、バウルー、パラグァスー・パウリスタ、アヴァレーの4カ所を訪れる。 バウルー訪問はふるさと巡りとしては初。パラグァスー・パウリスタはかつて、米国への日本移住者の入国が禁止されたときに計画された「文化移住地」があった場所。 31日朝にリベルダーデ広場を出発。ボツカツ、バウルーの日本人会館で交流を行い、1日午前ピラチニンガ温泉を訪れ、午後にパラグァスー・パウリスタの日本人会館で交流を行う。 2日はオランダ移住地として造られたパラマパネマ市オランブラ・セグンドの花園、果樹園を観光。その後はアヴァレーを訪れ、3日夕刻に帰聖する。 参加費用は移動・宿泊費、食費、日本語添乗員、旅行保険などが込みで、二人部屋で一人あたり1290レアル。一人部屋は1560レアル。 申し込み、問い合わせはグローバル旅行社(11・3572・8990)。
ニッケイ新聞 2011年12月16日付け  日伯音楽協会(蛯原忠男会長)主催『第17回ブラジル紅白歌合戦』が11日、宮城県人会館であった。52組104人が舞台に立ち、約300人が声援を送った。 震災復興支援を目的とした今年、出演者や会場から募った4395レアルが宮城県人会へ寄託された。 紅組は菊地悦子、白組は高畑正二各氏をキャプテンに進行、審査委員長は上岡正雄音協名誉会長が務めた。歌謡団体の推薦を受けた出場歌手達は豪華な衣装に身を包み、カラオケの音楽に乗って堂々と喉を披露した。 途中の8組は羽田宗義エトワール楽団の生演奏で歌唱、羽田さんの「高原列車は行く」で大きな拍手が起こった。 後半では大橋サユリさん(24)が08年の「NHKラテンのど自慢大会」の優勝曲「帰らんちゃよか」を熱唱。「心の強い日本人だから、震災から必ず立ち直ると思います」とエールを送った。 中間発表で優勢だった紅組がそのまま勝利し、菊地キャプテンにトロフィーが授与された。 尾迫鉄次さん(82、鹿児島)=聖市在住=は「皆さんとても上手。私も子供の頃から演歌好きなので、来年も新しい曲を覚えて歌いたい」と笑顔で話していた。
九州B懇親会で報告  九州地区の県人会員が集う第68回九州ブロック懇親会が10日午前10時より、聖市ビラ・マリアーナ区の熊本県文化交流協会で行われ、2011年度事業の報告と12年度の活動について話し合われた。  このうち、10月に行われた第9回九州ブロック芸能祭の収益が1832レアルに上ったことが報告され、これを各県人会で分配することが決定した。  続いて、12年度の各事業担当県が振り分けられ、カラオケ大会は長崎、運動会は沖縄、忘年会は福岡がそれぞれ受け持つこととなった。  12年度に予定されている式典は、長崎県人会の創立50周年記念式典が9月にあり、母県から知事をはじめとした訪問団を迎え開催する。 また、懇親会後には忘年会が行われ、会員らは杯を交わしてさらなる躍進を誓い合っていた。 2011年12月15日付