06/03/2026

Mês: dezembro 2011

ニッケイ新聞 2011年12月15日付け  父が臣道聯盟員だった保久原淳次さん、父が勝ち組だった玉木さんは、親を通して〃明治の沖縄〃を引き継いでいる。二人に共通するのは、国や郷土を愛する想いが親に強かったことだ。沖縄ブラジルの絆の土台には、このような切ない志の積み重ねがあった。 ☆  那覇市内の沖縄青年会館で10月15日晩、沖縄ブラジル協会(西原篤一会長)と沖縄産業開発青年協会(伊集盛元理事長いしゅう・せいげん)が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会で様々な関係者の声を聞いた。彼らこそ戦後の〃団塊世代〃、沖縄版第3弾を代表する集団といえる。 訪伯3回を数える同青年協会の伊集理事長は「南米に行った時、沖縄では使われなくなったウチナーグチが今も使われていることに驚いた。沖縄が失ってしまったものがブラジルには残っている」との印象を強調した。子孫に色濃く残る〃明治の沖縄〃が母県関係者を感動させている。 沖縄産業開発青年協会の創立は1953年の復帰前であり、本土の南米産業開発青年隊とは別組織だ。そこでポ語教師をしていた玉木良子さんは「あの頃は大型機械の免許とったり技術をつけても仕事がなかった」と世情をふり返る。 琉球政府の政策で次男三男がブラジルを中心に亜国、ボリビアに送り込まれた。57年2月に第1次隊約30人が出発し、62年ごろまでに15回に分かれて約300人余りが海を越えた。本土の南米産業開発青年隊は全部あわせても326人であり、沖縄だけでそれに匹敵する若者を送り込んだことになる。 この第1次隊の東恩納盛正さん(ひがしおんな・もりまさ、74、南城市なんじょうし)=サントス在住=は、「僕は南洋生まれだから最初から移民を目指していた。外国の方がいい、とにかく沖縄から出たいと思っていた。19歳でブラジルに来て小学校からやり直した」という苦労人だ。 県人会サントス支部長を務め、孫2人をつれて2回目の大会参加を果たした。「おじちゃんの生まれたとこを見たいと孫がいうんで連れてきました。こっちきたら『自分のうちに帰ってきたみたいだ』と孫が言うんで、先祖が何か伝えてくれたんじゃないかと思います」と微笑んだ。 西原会長にブラジルの魅力を尋ねると「スケールの大きさにしびれた。それにウチナーの肝心(チムグルル)がある。訪問する度にとても盛大に歓迎してもらった。若い人で方言を使える人がいたりする。今の沖縄には欠けているものがブラジルにはある」という。 沖縄ブラジル協会は52年5月に創立し、西原さんは会長を10年間務めている。初訪伯は93年の那覇サンビセンチ姉妹都市提携15周年の時だった。以来18回の訪伯を数えるから、毎年来ている勘定になる。 伯国からの研修生はすでに41市町村が受け入れているが、「さらに態勢の充実を図る」という。現会員は50人ほどで、当地に親戚のいる人、引上げ者が多いという。 会場となった沖縄青年会館の城間良和(しろま、よしかず)理事長は、「ブラジルはどんどん成長し、今に日本を追い越す勢いだ。沖縄にある南西石油はペトロブラスが買収した。これからはブラジルからいろいろと学ばなければいけない。次のウチナーンチュ大会ではもっと盛大な歓迎会をしたい」と語った。 このような母県側の組織がどの国の海外県人会にも必ずある。この受けいれ組織と、戦後の〃団塊世代〃は車の両輪の関係だ。戦後の団塊世代が多いことが各国の県人会活動を活発化させ、母県側の受け入れ団体との連絡を密にさせている。両側ががっぷりと四つ組んだ体制が、世界に散らばるウチナーンチュの強固な国際交流の足場を形成している。(つづく、深沢正雪記者) 写真=歓迎する沖縄ブラジル協会、沖縄産業開発青年協会のみなさん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 県連の園田会長は10日、九州ブロック忘年会に出席し「県連基金から九州ブロック芸能祭に補助はなかった。県連にあった飲料水を分けただけ」と強調した。県連は15日の12月度代表者会議で正式に基金運用基準を示したポルトガル語の定款を発表し、県連基金を立ち上げる。その際、基金運用や、基金補助の是非を決定する「県連基金委員会」を設置し、公正で透明性のある運用を行っていくという。委員会のメンバーとして内定している県人会長は「きちんとした計画を持っているところに有意義に基金を使ってもらいたい。委員会は問題にならないようにしっかり管理しなければ」と話した。 ◎  県連基金の正式運用開始前に九州ブロック芸能祭への「飲料水」提供疑惑が上がったことにより、結果的に多くの人が注意深く県連基金を見守っていくという雰囲気ができたと言える。コロニア全体でしっかり運用していきたいものだ。多くの団体が同基金を活用したいと考えている様子で、正式運用開始後は申し込みが殺到するのではないだろうか。なお、県連は年内に文協ビル5階へと引越しして新年は新事務所で迎えるようだ。まさに師走の忙しさ。事実上、申し込み受け付けは年明け以降か。
 ブラジル鹿児島県人会(園田昭憲会長)は4日、聖市パカエンブー区の同会会館で12月度定例役員会と忘年会を催した。 役員会の中で園田会長は「設立100年を過ぎても名前を残し活動できる会にしておこう」とあいさつした。  また、いまだ進展しない県連の事務所移転問題について現状を説明した。県連が移転先に予定している援協名義の文協ビル5階は、今なお手放すための書類がそろわず、1年近く足踏み状態が続いている。県連としては、来年3月の役員改正以前に、現在の役員で同問題を収束させたい考えだ。  園田会長によると、援協から県連へ「コンドミニオだけで良いから入ってほしい」といった内容の手紙が届いた。それを受け両者の代表が会談し、書類がそろうまでの間、家賃は支払わず共同管理費の662レアルのみで県連が使用できることになったという。  この決定により、県連は12月末で現在の事務所がある文協ビル3階を引き払い、来年1月から5階で業務を行うことが決まった。ただし、書類がそろうまでは改装に着手しないという。  また園田会長は、書類がそろわない時期から県連が援協名義の事務所を使うことにより税金問題に問われた際は、援協が全責任を負うことを加えて発表した。  役員会の後は忘年会が行われ、集まった会員は井料堅治参与の音頭で乾杯を行い、持ち寄った食事を楽しんだ。 在伯都道府県人会の中で最も古い歴史を持つ鹿児島県人会は、2013年に設立100周年を迎えるため、来年は100周年に向けての準備が本格的に進められる。  大羽豪三記念誌編さん責任者は、記念誌は見て楽しめるものを目指し、頁数を少なくし写真を多く掲載すると明らかにした。  また、これまでの記念誌は日本語の全訳がポルトガル語で収録されたが、100周年誌には要約したポルトガル語訳のみ記載する予定だという。  大羽編さん責任者は「大変な忙しさになると覚悟しているが、連絡を取る手段がある限り、全伯の県人に寄稿を呼びかけたい」と意気込みを語った。 2011年12月14日付
ブラジル熊本文化交流協会(小山田祥雄会長)は11月20日、聖市ビラ・マリアーナ区の同会館でたけのこ祭を開催した。同祭は、長瀬隆元会長の私有地の竹林で、たけのこがたくさん取れることがきっかけとなり開かれた。開催は今回で3度目となる。 当日は、同県人会員や、同会館で開講しているカラオケ教室や健康体操の受講者とその家族ら約200人が訪れ、同県人会婦人部(衛藤チエコ部長)手作りのたけのこ料理に舌鼓を打った。 衛藤部長によると、当日は午前6時半から部員が集まり、調理や用意を行ったという。用意されたたけのこ料理は、炊き込みご飯、煮物、ぬか漬け、みそ漬け、酢漬け。加えて赤飯、唐揚げ、みそ汁と熊本名物の高菜飯が振る舞われ、昼食時は満席となった。 衛藤部長は「長瀬元会長のたけのこはアクが少なく、軟らかい」と太鼓判を押した。初めて来場したという安東マイラさん(29、3世)は「炊き込みご飯が一番おいしかった。家でも母が作ります」と笑顔で話した。 また会場では、同会館で行っている竹細工教室の作品も販売された。材料の竹は、たけのこ同様長瀬元会長の所有する竹林から調達している。 特に人気の作品は、竹を輪切りにしたものを土台に使った針山。針を刺す部分は、丸い形を生かしてフクロウやてんとう虫を模しており、針刺しとして使うだけでなく、置物としても楽しめる愛らしさで来場者の目を楽しませていた。 竹細工教室と同会婦人部が協力して制作しているという針山は、中身に針が錆(さ)びにくい素材を採用するなど、こだわっている。連日15~20人で制作しているが、好評で供給が間に合わないほどだという。 小山田会長は「来場者が例年より多かった。特に女性は、休日は家事も休もうと誘い合って来ているようだ」とこれまで以上の反響を喜んだ。 2011年12月14日付
ニッケイ新聞 2011年12月14日付け  「日本が勝っていると信じて、父は終戦後の1954年、20歳だった私を連れて沖縄に帰ってきました」。那覇市内の青年会館で10月15日晩、ブラジル沖縄協会と沖縄産業開発青年隊が共催したブラジル県人会役員歓迎懇親会の場で、玉木良子さん(たまき・よしこ、78、二世)=那覇在住=は、初対面の記者にいきなりそう告げた。 今大会にあわせて出版した自伝『大洋にかける橋』(沖縄自分史センター、11年)を手渡し、「全てがここに書いてあります」と畳みかけた。 父宇根良治(うね・りょうじ)は42歳の時、モンテビデオ丸で1926(大正15)年に渡伯した。一般の日本移民と同じ戦前の〃団塊世代〃に属し、沖縄県系人にとっては第2弾世代となる。 日本国外務省は沖縄県人の耕地逃亡やストライキ多発に手を焼き、2回目の渡航禁止処分にし、ようやく解禁し始めたときだ。沖縄県人は球陽協会を組織して本格解禁を要請したまさにその年、宇根さんは渡伯した。 県人が集中するジュキア線ムザーセアに農地を買い、バナナ園を経営した。大戦勃発後、地区の顔役であった父にDOPSから出頭命令が下り、聖市で拘留された。地域住民が嘆願書を書いて釈放運動をし、ようやく出される手筈になった。 ところが拘置所の「門の出口まで来た所で難関があり、父は試された。出口に『天皇陛下の写真と日の丸の国旗』がしかれていたのだ。踏んで出るように言われ、父は踏めずに残る道を選んだ」(同57頁)。そしてアンシェッタに〃島送り〃にされ2年を過ごした。 出所した父を見て、「泣くまいと心に決めていたが、久しぶりの父の姿を見たとたん、涙があふれ出た」(同59頁)。父はその時点で帰国することを決意していたが、母は様態が急変し52年9月に亡くなった。一家は54年6月に念願の帰国の途についた。 「当時の沖縄は太平洋戦争の傷跡がまだ残っており、復興途中の何もない島だった。一方ブラジルは、経済的にも栄華を極め、食料も物資も町にあふれていた」(同64頁)。しかも米軍統治の時代だ。誰もが豊かなブラジルへ向かう中、「勝ったはず」との父の信念から宇根家だけ逆方向を辿った。 あまりに珍しいので当時写真入りで地元紙に報道された。父はすでに61歳だった。「父は日本に帰ってからも決して『負けた』とは言いませんでした。それぐらい強い意志を持っていた。だからみながブラジルに向かうなか、復興前の沖縄に帰ってきてやり直すことができた」。 良子さんは「日本行きはイヤだった。2、3年したら帰ろうと思っていたのに、そのままになってしまった」とふり返る。ブラジルで洋裁を学んでいたので資金を融通してもらって洋裁店を開き、「帰伯するための費用」と思って懸命に稼いだ。そんな時、夫の玉木正明さんと出合った。 玉木さんの父は琉球政府の移民課長で送り出し側の責任者だった。ブラジル帰りの良子さんに目をつけて、55年に設立された沖縄開発青年隊でポ語教師をするように依頼し、彼女は喜んで引き受けた。当時、田畑の軍用地収容を受けた沖縄では、青年たちの働き場はなく豊かな伯国はまさに新天地だった。 良子さんは「ブラジルじゃステーキの大きいのが毎日食べられるわよと言ったのを聞いて、渡伯を決めた隊員もいる」と思い出し笑いをする。 正明さんと結婚し、72年に玉木病院を開院した。県系の伊波興裕サンビセンチ市長(当時)の申し入れにより、78年に那覇市と姉妹都市になった時、良子さんが仲を取り持った。「万国津梁の気概を忘れずに世界をつなごう、それが私たちに託された使命」(111頁)。同書はそう締めくくられている。(深沢正雪記者、つづく) 写真=著書『大洋にかける橋』を手にする玉木さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月13日付け  「ここはお国を何万里、はなれて遠きブラジルの、赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下」。そんな「戦友」の替え歌が戦前移民の間ではよく歌われていた。夢に見る故郷は、いつも自分が離れた時そのままであった。 全日本移民25万人の過半数である13万人を占めた「団塊世代」(1926年から35年までの10年間に大量移住した世代)の家長は、明治後期から大正期に人格形成した。その気質が家庭を通して子孫に伝えられ、後に大きな影響を与えた。 日本では終戦という大鉈によって〃明治の精神〃の感性は分断された。だが、当地子孫の一部には家庭を通して純粋培養して伝えられた。 日本移民全般でみると、戦前の大型団塊世代と、戦後の小型団塊世代(1956年~1961年の6年間に約3万5千人)と2回形成している。 ところが沖縄県系人にはもう1回ある。保久原淳次さんの父正輝さんは1918(大正7)年に叔父の保久原牛(うし)夫妻に連れられて13歳で渡伯した。家長の牛は明治に生れ育っており、沖縄版団塊世代第1弾だ。 1917年(全渡伯者の55%)と18年(同37%)の2年間に渡航した沖縄県人は合計4342人もおり、18年現在の全日本移民の17%を占めた。当時6人に1人は沖縄県人だった。 これは、日本国外務省による最初の沖縄県人渡伯禁止令を解除した直後だ。その間に溜まっていた希望者がドッと押し寄せたので、一般の日本移民よりも早い段階で独自の団塊世代を作った。 『曠野の星』(56年8月号、8頁)によれば、沖縄系集団地の南麻州カンポ・グランデ市日語学校の山城興長(こうちょう)校長は「家庭内では親と子の会話の80%はブラジル語で、20%が沖縄語とポ語を混ぜている。日本語を不自由なく話すには3年かかる。敗戦によって自信を失った為、日語の熱意を失った」と分析している。この世代と日本語は遠い。 沖縄方言で育った淳次さんの世代は人格形成期に、父を通して牛が持つてきた〃明治の沖縄〃の薫陶を受けたのだろう。 ☆   ☆  普通はどこの県人会も若者を巻き込むことに苦心している。では二世、三世への県系意識継承のためにこの大会はどんな効果があるのか。 大田正高さん(まさたか、55、豊見城市)=聖市在住=は、2歳で親に連れられて渡伯した。「開会式で世界中の旗が立ち並んだ光景を見て、世界中にウチナーがいるんだと実感した。それが今ここに集まっているという団結感に感動した」と興奮冷めやらぬ様子だ。那覇生まれだが、すでに日本語を忘れた世代がそんな感想を持ったという。 聖市ジャルジン・ダ・サウーデ区在住の比嘉セルジオさん(68、二世)は、「初めての沖縄、初めての大会だがとても感動した。ここが自分のルーツだと実感する。叔父や叔母に会い、本家の仏壇に線香を挙げたら何か心が洗われるような気がした。またきっと沖縄に戻ってくる」と祖父の地に初めて足を踏み下ろした感動を語った。 呉屋春美さん(57、やえせ町)=聖市=は「3回連続参加だ。従兄弟や親戚から『お帰りなさい』と熱烈歓迎されるのを一度体験したら来ないではいられない。県人の絆の深さに心から感動する」と顔を紅潮させる。5歳で移住したが「故郷をはっきりと覚えている」と強調した。 県人会の与那嶺真次会長(二世)は、「ある旅行社では大会ツアー参加者のうち80%は日本語が分からない世代だった。今回沖縄を訪れた二世のほとんどは祖父の地を訪れ墓参りをし、本家にいって位牌に手を合わせてきた。祖父はここで生まれ、自分の根っこはこの村にある、自分の家族はここから始まった、そんな思いを深めたはず」と見ている。 保久原さん同様、自分の中に親から埋め込まれてきた沖縄性を再認識することで、すごい規模でルーツ意識の覚醒が起きている。(深沢正雪記者、つづく)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月10日付け  ブラジル最大手エスタード紙の論説委員、保久原ジョルジ淳次さん(65、二世)は息子を連れて世界のウチナーンチュ大会に初参加した。 彼は今年の講演会で「4年前まで自分が日系人だと意識したことはなかった」とブラジル人性を強調していたが、今回「まるで家に帰ってきたみたいだ」と興奮している様子を見て驚いた。明らかにルーツ意識に目覚めていた。 父正輝さん(1905―1966)は臣道聯盟員というだけで監獄に送られたが、無罪判決を受けて釈放された。ところが『Coracoes Sujos』(国賊、Fernando Morais, Campanhia das Letras、2000年)が一部の特殊な事件を誇張して、臣道聯盟が組織的にテロ活動をしたかのように描いた。そのため聯盟員を父に持つ多くの二世は親の歴史を恥じるようになっていた。 保久原さんは「父はテロリストではない。特殊な事例ではなく、父のような普通の聯盟員の姿、想いを描きたかった」と考え、『O Sudito (Banzai, Massateru)』(臣民、Terceiro Nome、2006年)を出版した。 ブラジルでは日本語をほぼしゃべらない保久原さんだが、那覇では積極的に日本語で話しかけてきた。なにかが変わった。自分が日本語をしゃべっている姿を息子に見せたいのかもしれない。 聞けば、幼少期には家庭内では沖縄方言で人格形成したようだ。「母は家の中でウチナーグチだけだった。それが日本語だと思って日系の友達にしゃべりかけると変な顔をされ、ああ、これは方言だったんだと子供心にコンプレックスを感じた」と思い出す。 沖縄県系人の密集地域に生活している二世には沖縄方言しかしゃべれない世代があり、他の日系二世から差別を受けた。沖縄子孫ゆえの引け目だ。家庭内言語がウチナーグチであれば、日本語もポ語も〃外国語〃に過ぎず、同じ学習の苦労をするならポ語に集中して一般社会でより高い地位に就いた方がいい――そんな考え方はこの世代には珍しくなかったという。 移民の家庭では、親に欠けている何かを子供が補おうとする傾向がある。父が右よりの日本愛国者だった反動か、保久原さんはUSP時代に左翼学生運動に走り、結果的に同じように監獄に叩き込まれた。各家族には「精神的な振り子」という作用が働いている。父が右に振れ過ぎれば、バランスを取ろうとして子供が左に振れて、家族として安定を保つような心理作用だ。 最終的にはあるべきところに落ち着く。親が日本の保守であったのと同じように、保久原さんはブラジルの保守言論の中軸を支えるエスタード紙の論説委員に上り詰めた。国は違えど、思想傾向には血筋を感じさせる。 保久原さんは続ける。「前夜祭の帰還パレードで沿道のご婦人に、方言で語りかけたら『この人すごい。私が使わなくなった言葉をしゃべっている?!』と驚かれたんだ」との話を披露した。沖縄では方言に敬意が払われることを体験し、長年の引け目意識から開放されたようだ。 息子タデウ・直紀さん(なおき、29、三世)を指差し、「息子は僕のような言葉のコンプレックスはとっくに卒業し、新しいウチナー意識を持ち始めている」とうれしそうにいう。直紀さんも「本当にきてよかった。感動したよ」と繰り返す。 保久原さんが日系人の自覚をもったのは確かに百周年直前かもしれないが、幼少時からすでに県系意識はあった。講演会で彼が言った言葉は、そういう意味だったようだ。 二世は終戦後、勝ち負け抗争の影響もあって一般社会から日系人であるだけで引け目を感じたが、沖縄県系二世はもう一つ沖縄県系であることのコンプレックスも乗り越えなくてはならなかった。 ところが、世界のウチナーンチュ大会では、むしろそれゆえに尊ばれることが分かり、二世には精神のカタルシス(浄化)作用が生れたようだ。(深沢正雪記者、つづく) 写真=息子のタデウ・直紀さんと保久原ジョルジさん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
海外でのネットワーク構築目的に  「自由で平和な大学」を基本理念に置く日本の国立大学である広島大学(浅原利正学長)は、海外でのネットワーク構築を目的に3日午後7時半から聖市リベルダーデ区の広島文化センターで同大ブラジル校友会の設立総会を開催し、同大留学生OBや縁のある人々など約50人が出席した。設立総会では、岡本哲治副学長(歯学博士)による基調講演が行われたほか、ブラジル校友会初代会長として大西博巳広島県人会長が就任した。  下田修二同大国際交流グループリーダーの話によると、同大校友会は2007年2月に発足し、正会員は現在9649人で、準会員81団体に及ぶという。海外での校友会は、中国、韓国、台湾、ベトナムに続き、今回のブラジルでの発足が5か国目となる。  同大は2009年から聖市の広島文化センター内に事務所を置き、10年にはサンパウロ総合大学(USP)と学術提携関係を結んでいる。  海外からの留学生は、40年前にはわずか28人だったのが、現在は1090人(伯国からは5人)と年々増加しており、「今後5年間で2千人に増やす計画だ」(岡本副理事長)という。 また、同大卒業生は12万人で博士号修得者1万人、修士課程修得者は3万人に上る。  この日の設立総会では岡本副学長が、3月の東日本大震災による津波被害で発生した福島第一原発事故に対する同大の対応活動などについて講演を実施した。それによると、同大緊急支援チーム38班1926人を福島県に派遣し、被ばく対策委員会を設置。除染作業の指導や内部被ばく者特別検診などを行ったという(講演の詳細内容については後日掲載予定)。  講演後のブラジル校友会会長選出で下田氏からの推薦を受けて就任した大西会長は、自身が72年に県費留学生として広島大学で世話になったとし、伯国三菱重工での勤務の後、00年から広島県人会長に就任し11年にわたって活動してきたことに言及。「広大のOBなど皆さんの協力を得て、校友会活動を一緒にやっていきたい」とあいさつした。  大西会長は校友会の今後の活動について、「今まで留学生OBが集まることはあまりなかったが、まずは関係者や縁のある人たちに集まってもらい、互いに知恵を出し合っていきたい」と話している。 2011年12月9日付
ニッケイ新聞 2011年12月9日付け  ブラジル日本都道府県人会連合会には、おそらく世界で唯一、47県全てが揃っている。米国にも多くの県人会があるが、地域ごとに活動しており、全国規模でまとまった連合会活動をする組織はないようだ。 ほとんどの県人会がサンパウロ市、なかでもリベルダーデ区に集中しており、この高密度な状況は世界でも特徴的だ。だからこそ、地元開催としては世界一の規模である「日本祭り」が可能になる。母県との強い絆を持つ各県人会、それらを束ねる県連という存在が相まって、当地の日系社会の〃日本らしさ〃を強く演出する。 ☆    ☆  そんな47県人会の中でも、沖縄県人会は最多の44支部を持つ。うち18支部が会館を持っており、各支部が通常の「県人会」規模か、それ以上に活発な活動をしている。沖縄県人会は単なる「県人会」というより、亜国のように「沖縄県人会連合会」を名乗ってもおかしくない規模だ。 調べてみると、実は戦前(1934―35年頃)にはなんと72支部もあった。当時はジュキア線や南麻州カンポ・グランデに沖縄県系が集中していた。県人会の前身である球陽協会がジュキア線で1926年に創立したのは、その状況を反映している。 沖縄県人は「差別」を受けて他県人よりも移住開始が遅かったが、ブラジルでも2回、日本国外務省から渡伯禁止された歴史がある。笠戸丸こそ半数近くを占めたが、同県人の耕地逃走やストライキが頻発したことから、外務省は1913年から16年までと、1919年から1926年まで渡伯禁止にした。球陽協会は移住の本格解禁を訴え、受け入れ態勢整備のために作られた。このような創立経緯を持つ県人会はおそらく他にない。 戦後、出聖者が激増し、大聖市都市圏が急激に増えた。支部数自体は減ったが、聖市周辺の各支部の人数は急激に増えた。大聖市都市圏だけで現在10支部あり、そこだけで全沖縄県系人15万人の半分が集中していると見られる。 『沖縄県人移民史』(00年、同県人会、以下、『沖縄90年史』と略)の250頁、1973年時点で会員数最多はカーザ・ベルデ支部(371人)、ビラ・カロン支部(346人)となっている。いまもこの2支部が県人会の両輪ともいえそうな地区だ。 両方とも那覇市内の一つの「字」(通り)である小禄(オロク)出身者が最多を占める地区だ。百周年協会理事長を務めた上原幸啓さん(準二世)、県連で沖縄県系人としては初めて県連会長を務めた与儀明雄(二世)前会長らが小禄出身者、同子孫として有名だ。 この地区は第2次大戦中、日本帝国陸軍の飛行場があった地区で、米軍は上陸する前に徹底した艦砲射撃や空爆を行い、地上にあったものは跡形もなく吹き飛ばされ、残ったのは蜂の巣のような爆弾跡だけだったという場所だ。戦後移民がここに集中したのには悲しい歴史があった。 同県人会の与那覇朝昭(ともあき)事務局長によれば「戦前よりも戦後移民の方が多い印象がある」という。通常、どこの県人会でも戦前の方が多い。戦前は約20万人、戦後はわずか5万だから当然だ。 ではなぜ沖縄の場合は戦後移民の存在感が強いのか。第2次大戦で唯一の地上戦を体験した歴史と無縁ではないだろう。 『沖縄90年史』の116頁によれば、戦後移民の総数は6175人にもなり、全戦後移民の1割を軽く超え、3500人前後の2位、3位を大きく引き離している。戦後に大きな団塊世代を持っていることが、現在も同県人会が活発に活動を続ける理由の一つだ。例えば3番目に大きなサントアンドレ支部には戦後移民が集中している。 一般の日本移民は戦前と戦後各1回ずつ団塊世代を形成しているが、沖縄県系人には3回ある。次節からその流れを追いつつ、沖縄県系の歴史的特徴に迫る。(深沢正雪記者、つづく) 写真=前夜祭の帰還バレードで圧倒的な存在感をみせる伯国勢   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 日系5団体(文協、援協、県連、日文連、老ク連)共催の天皇誕生日祝賀会が、7日午前9時から聖市リベルダーデ区の文協ビル9階移民史料館で開かれ、天皇陛下のご健康と皇室の変わりのない弥栄(いやさか)が祈られた。今回から「世界に一つ」と言われる天皇皇后両陛下の肖像画が同階で常設展示されていることもあり、開催場所が例年の貴賓室から史料館に変更された。  祝賀会には、在サンパウロ総領事館日系社会担当の成田強領事部長、JICAサンパウロ支所調整班長の村上ビセンテ氏を来賓に迎え、山下譲二文協副会長、菊地義治援協会長、園田昭憲県連会長、中谷アンセルモ日文連会長、内海博老ク連副会長の共催団体代表をはじめ、約70人が出席した。  祝賀会では、共催団体代表紹介に続き、文協合唱団約20人のコーラスにより日伯両国歌が斉唱された。  5団体を代表して山下文協副会長が祝辞を述べ、「天皇皇后両陛下はブラジルには特にお心寄せいただき、再度にわたって来伯され日伯親善外交の大きな役割を果たされた」と尊敬の意を示した。また、1997年の来伯時に史料館9階増設の開所式に立ち会われたことや、78年の史料館開設(7、8階)時にも両陛下(当時は皇太子・妃殿下)がガイゼル大統領とともにオープニングに参加されたことにも触れ、「史料館は両陛下と日系社会にとって絆の深い場所」と強調した。  さらに山下副会長は、東日本大震災被災者に対して両陛下が自身の体調を顧みずに被災地を訪問されたことに「身の引き締まる思い」と述べ、天皇のご健康と皇室の変わりのない繁栄を祈った。  引き続き、成田領事部長が、2001年7月頃に両陛下がハンガリーを訪問された際にレセプション担当だった時のエピソードを披露。同国王夫妻が退席した後も両陛下は出席者と気軽に話し、在留邦人の労をねぎらわれたという。 園田県連会長による万歳三唱の後、菊地援協会長が乾杯の音頭を取り、祝賀パーティーへと移行した。 2011年12月8日付
 ブラジル鹿児島県人会(園田昭憲会長)は11月20日、聖市パカエンブー区の同会会館で創立98周年記念式典と敬老慰安会を開催した。  当日は聖州内だけでなく、パラナ州やブラジリアといった遠方からも会員や関係者が集(つど)い、約70人が出席した。 敬老慰安会で小森広相談役は「2年後に100周年を迎える県人会として、先没した先輩が築いてくれた歴史を受け継ぎたい。日系社会の模範となるような団体の一つでありたい」とあいさつした。  同会では、来場した75歳以上の会員へ紅白餅が手渡された。同県人会には75歳以上の会員が89人所属している。 高齢者を代表して井料堅治参与(79)が謝辞を述べ「高齢になると、歳を重ねることを普通と感じるが『若いですね』と言われると気持ちが良い。これからも、一緒に元気に生きていきましょう」と晴れやかに語った。  餅を手にした杉尾コトさん(92、姶良市)と穂園佐武郎さん(78、曽於郡大崎町)は「毎年もらっているが、今年もうれしい」と笑顔で話した。 2011年12月8日付
来年の再会誓って  和歌山県人会(木原好規会長)主催の忘年会が、4日正午から聖市アクリマソン区にある同県人会館で開かれ、子どもから高齢者まで約60人が一堂に会した。  木原会長はあいさつで今年1年を振り返り、県人会員へ感謝の気持ちを表した。会では、青年部が焼くシュラスコに舌鼓を打ち、ビンゴゲームなどで盛り上がった。  また、和歌山県人会員で元サンタンデール銀行取締役の清水オリジオ夫妻、下本八郎元聖州議夫妻も姿を見せた。 最後に会員らは「また来年元気にお会いしましょう」と抱き合い、同県人会は今年の公式行事を納めた。 2011年12月8日付
ニッケイ新聞 2011年12月8日付け  「ぺルーの日系団体で一番大きいのは沖縄県人会、でも全体を統括しているのはペルー日系人協会です」。首都リマで旅行社を経営する玉城ルイスさん(76、二世)は、そう語り、全日系人口は8万~10万人でウチナーンチュはその7割を占めると補足した。 世界のウチナーンチュ大会の参加者数に関しては、第4回大会には400~500人参加していたので、今回はそれより若干少ないという。 「第4回大会までは一世が多かったが、今回は非常に少ないのが特徴。あと他府県人が20%ぐらい来ている。二、三世にも沖縄ブームが起きており、日本語は出来ないが一度は沖縄に見にきたいという人がこの機会に来ている。そして大会に来てみな感動している」 日系の国会議員は何人も出ているが、「2期務めたのは私だけだ」と胸を張って琉球新報10月9日付けに談話が掲載されているのは、松田サムエルさん(70、与那城町系二世)だ。96年12月に首都リマで起きたセンデロ・ルミノソによる日本大使公邸占拠事件の時、解決までの126日間、最後の人質3人の一人だった人物だ。フジモリ大統領の側近として知られ拘束され続けた。 同紙に「これまでの人生で一番困難で恐ろしい出来事だった。今でも時々思い出し、身震いすることがある」とコメントを寄せている。 それもそのはず、政治家になったのは92年に同大統領支持母体である「カンビオ90」から出馬して初当選している。00年にフジモリ政権が終わった際、国会議員を辞任した経緯がある。激動のペルー史のど真ん中を生きてきた人物といえそうだ。 ブラジルでも沖縄県系の政治家は数多いが、これはほかの国にも共通する傾向のようだ。 ☆    ☆  今回、新ウチナー民間大使に就任したボリビア沖縄県人会の宮城和男会長(62)によれば、ボリビア国内の日系人は約1万6千人で、沖縄県系人は同地全日系の6割を占めるという。日系社会全体を統括するのはボリビア日系協会連合会(FENABOJA)だ。 宮城会長は、同国の現状と課題を次のように話す。コロニア・オキナワ(約890人)などの「移住地なら日系社会は残るが、都市部に出た人は、どんどんボリビア社会に溶け込んでいく。そういう次世代をどう引き止めるかが、これからの課題です。町に出た世代は、よっぽど努力しないとウチナー気質は維持できない。ブラジルは県人会85周年をあれだけ盛大に祝った。ブラジルに見習うべきことは多い」と見ている。 最後に「文化継承にマニュアルはない。どんな偉い大学の先生にも分からない。次世代への対応は試行錯誤の連続です。強い次世代を育てるためには、各国それぞれの県人会が、子孫に強制するのではなく、自然にアイデンティティを受け継いでもらうような風にするしかない」と眉間にしわを寄せた。 ☆    ☆  世界には40万人もの沖縄県系子孫がおり、ブラジルにはその3分の1が住んでいる。そんなにいても、世界の日系250万人の6割、150万人がブラジルに集中しているため、当国の沖縄県系人の比率は1割に過ぎない。 ただし、南米全体でみれば亜国、ペルー、ボリビアのようにその比率は6~7割と高く、大半の国で過半数を占め、大きな存在感を示している。逆に言えば、ブラジルの日系社会は世界の中でも特殊な存在なのだ。 日本の人口においてはわずか1%を占めるに過ぎない沖縄県だが、世界においては比率が逆転し、県系人は各国日系社会の過半数、もしくは最大派閥となっている。この大会の目的は、そのような海外における最大派閥「世界のウチナーンチュ」との絆を強めことといえる。(深沢正雪記者、つづく) 写真=宮城和男ボリビア県人会長   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月7日付け  移民史研究家の津田睦美さんはNC県人会の誕生を記述する一文をこう締めくくる。 《日本人の血をひくということだけで差別の対象になった時代、日本人の父親に対する愛情や記憶を封印せざるをえなかった二世は戦争被害者であり、60年以上の時を経て、ようやくそこから這い出し、自分たちの記憶を忘却の彼方から呼び戻すことができるようになった。そして、今や六世が誕生する中、遠い過去の物語ではなく、現在につながる「家族」の物語として、移民史を大切に語りついていかなければならない》 戦争によって日本人というルーツを封印する心理は、戦中戦後に10代だった当地の二世とも共通するものだ。それが百周年でブラジル社会から祝福されてコンプレックスが解消されたように、NC子孫も世界のウチナーンチュ大会に参加することによって心理的に解放されるものがあるのだろう。 移民史は学者が作るものではなく、本来それぞれの家族が語り継ぐべき家族の歴史なのだ。それが寄り集まった集大成が移民史であり、一家族、一家族の歴史こそがすべての基礎だ。 10月9日付け琉球新報によれば、NC沖縄日系人会はこの11月22日、同島のポワンディミエ市に集会室や展示室を備えた会館「沖縄の家」を開所した。 340平米の用地に、州政府からの補助を受けて、現地の料理を観光客に提供するレストラン、集会室、沖縄から持ち帰った資料を展示する部屋等が設けられるという。 祖父が名護市出身の同日系人会前会長(58、三世)は、この会館をテコにして「文化やスポーツを通して少しずつ交流を広げ、沖縄との姉妹都市提携につなげていきたい」と同紙にコメントしている。現地に県人会設立、母県に受け入れ団体設立、大会参加、会館建設まで実現し、次の夢は姉妹都市提携という段階までやってきた。 ☆    ☆  思えば、ブラジルにある多くの県人会は、とっくにそこまでの〃夢〃を実現している。そして、そこで止まっていないだろうか。姉妹都市提携の先には何かあるのか。母県との成熟した関係はどうあるべきか。 ブラジルの県人会では一般に、「二世になると日本語が分からないから県庁とのやり取りが出来なくなり、活動が停滞する」との言う事が多い。 しかし、NCの場合は最初からフランス語で、混血も進み、顔だけ見てもほとんど分からない、日本文化もまったく知らない三世、四世世代がゼロから立ち上げた。 それでも、県人会活動が復活する場合があるとすれば、ブラジルのようにすでに50年以上も会が継続し、県費研修生や留学生がいるところなら、いつ活発化してもおかしくない。 120年間の間に二度の世界大戦があった。日本というルーツは完全に忘却の彼方に過ぎ去っていたはずだ。それが、三世代、四世代、五世代を経て呼び戻されるという現象は、ブラジル日系社会にとっては非常に興味深い。 たとえ今後50年間のうちに日系ブラジル人の大半が日系意識を失ってしまったとしても、取り組み次第では移住200周年で甦ることがありえるという証拠だからだ。 この大会は在外子孫にとってはルーツ掘り起こしのイベントであり、回を経るごとに若年層の参加が増えるという質的な変化が起きている。いったいこれは何なのかと考え込まされた。(深沢正雪記者、つづく) 写真=「沖縄の家」を報じる琉球新報10月9日付け   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 【ブエノスアイレス発・植木修平記者】11月27日に行われた第14回南米ゲートボール連合選手権大会に続き、「南米うちなんちゅゲートボール大会」が翌28日、アルゼンチンのブエノスアイレス市近郊の在亜沖縄県人会連合会「うるま園」で開催された。  大会には南米選手権と同様に亜国、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ペルー、ボリビア6か国、約350人が参加して行われた。32チームが参加した高齢者の部(70歳以上)では「ブラジル2」が、同じく32チームで争われた壮年の部(69歳以下)では「ラパス(パラグアイ)」がそれぞれ優勝した。  同大会は数年前までは各国の沖縄県人会所属の選手しか出場できなかったが、近年は門戸を開放しており非日系以外の参加者も多い。  試合会場でひときわ目を引くピンクのユニホームで大会に出場したパラグアイチームは「パラグアイからは35人がバスで15時間かけてやって来た。ブエノスアイレスは暑いと聞いたがパラグアイのほうが暑い」とテレレを飲みながら話した。  ウルグアイからは選手30人が船と車を乗り継ぎ、4時間かけて大会に参加。選手らは「ウルグアイには日系人が少なく、ゲートボールをする人も少ない。だからいろんな人を誘って南米大会にもよく出かける」と笑う。  非日系のウルグアイ人で日本語を理解できないルイス・カロシアさん(68)はゲートボールを始めて3か月。「ゲートボールは楽しい」と初めての大会参加を喜んでいた。  現在、ゲートボールは4大陸40か国に普及しており、世界ゲートボール連合(小野清子会長)はオリンピック公式種目として認定される基準「5大陸80か国」を目指して積極的に各国で普及活動を行っている。近年では、南アフリカ共和国での普及を目指して活動している。同協会の理事らは「ゲートボールは世界中で地域形成、世代間交流、国際親善を担うスポーツだ」と今後の展望を語っていた。  大会成績は次の通り。【高齢者の部】1位=ブラジル2、2位=ペルー、3位=サルミエント(アルゼンチン)、ブラジル1 【壮年の部】1位=ラパス(アルゼンチン)、2位=コルドバ(アルゼンチン)、3位=ブラジル1、富士(アルゼンチン) 2011年12月6日付
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  国立広島大学(東広島市)が伯国校友会の設立会合、ならびにライフサイエンス分野の新技術説明会を開くにあたり、同大の岡本哲冶副学長(56、徳島)、国際センター国際交流グループリーダーの下田修二氏(52、広島)、平野裕次主査(40、長崎)が30日に来伯した。 同大では海外在住の卒業生や元留学生らとの連携を強化することで国際的なネットワークの構築を図っており、その一環として伯国にも校友会を設立する運びとなった。 一昨年、聖市の広島文化センター内に広島大学のサンパウロ事務所を開設し、サンパウロ総合大学(USP)と学術交流協定を締結している。 現在同大では海外127の大学と大学間で、130の大学と学部間等で学術協定を締結している。大学同士の提携としては南米ではUSPが初めて。 3人は今回の滞在中、在聖総領事館、東山農場、USP日本文化研究所などを訪問予定。岡本副学長は「実際に学生の往来が始まればずっと交流は幅広くなるはず。そのための下地を作れれば」と話していた。
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  世界のウチナーンチュ大会の開会式会場には不思議な集団が座っていた。沖縄県系人というよりは、普通の白人の一群だ。 「誰だろう」と疑問を感じて声をかけると、初参加のニューカレドニア(以下NC)沖縄日系人会の一団45人だった。オーストラリア大陸の北東部からさらに1200キロほど東の太平洋に浮かぶ島だ。 仏ル・ニッケル社からの労働者を求める要請を受けた外務大臣・榎本武揚が、1892年にニッケル採掘の露天掘り鉱夫を送り込んだことからNC日本移民は始まった。沖縄からは900人弱が渡った。もちろん永住ではなく、5年契約のデカセギだった。日本人全体では1892年から1919年までに6880人が渡り、ほとんどが男性であった。 しかし契約終了後もそのまま島に居残り、現地人女性と所帯を持って子供を作る人が多くいた。「移住」は常に気まぐれな一時滞在から始まり、気がついたら永住に切り替わっている。 「沖縄移民の100年」サイト(rca.open.ed.jp)にある石川友紀琉球大学教授の総論「沖縄の移民」によれば、大戦前には南北米の大陸ほかに、東南アジアのフィリピンに2万人、シンガポールに3千人、南洋群島に5万人、台湾に2万人、満州に3千人が在留していた。この南洋群島への移民というのも沖縄県系の特徴だ。 NC移民は送り出し側の人脈的にはブラジル移民とつながりがある。田崎慎治(長崎県出身)が関係していたからだ。 田崎は、長崎商業在学中からフランス政府のNCニッケル鉱採取夫送り出し事務所に勤務し、海外移住に強い関心を持っていた。その後、上京して東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、英国留学を経て、1908年4月、水野龍が切歯扼腕して実現した笠戸丸の神戸出港を目にして南米移民に強く心を奪われたという人物だ。 その後、神戸高等商業学校(現神戸大学)の教授となり、その教え子からはのちにアマゾン移民導入の立役者で高拓生送り出しを実現した上塚司、辻小太郎、南米銀行創立に関わる宮坂国人、その他、粟津金六、九十九利雄らがいた。その田崎が送り出したNC移民の末裔がここにいる。 ☆   ☆  子孫らと同席していた移民史研究家の津田睦美さん(49、奈良)に話を聞くと、「長かった空白をようやく埋めているところ。感動のルーツとの再会ですよ」と解説してくれた。敗戦により、1946年に日本人は全て島から強制送還された。しかし、現地人である母親と混血児は資産没収の上で残され、差別を受けて大変な苦労の中で生活し、日系人としての意識を完全に失っていた。同地の日系人総数は約8千人といわれる。 一方、日本移民である父と共に日本に強制送還された子供たちは「タツラキッズ」と呼ばれた。 津田は同県人会の誕生を記述する一文の中で「タツラキッズ」をこう説明する。「敗戦直後の日本に初めてやってきた彼らは、外国語なまりの日本語を話し、敵国にいたことなどを理由に学校でいじめられ」るという悲しい子供時代を〃祖国〃で過ごした。混血の二世、三世、四世ら世代が、ようやく正面から自分のルーツと対面し、子供時代の記憶を封じ込めていた呪縛から解き放たれたのが、この大会参加という瞬間であったと津田さんは強調する。 07年にようやく沖縄県人会を結成し、母県側に受け入れ団体「沖縄ニューカレドニア友好協会」も組織され、今大会が初参加になった。いわば約120年ぶりの〃祖国〃訪問だ。(深沢正雪記者、つづく) 写真=ニューカレドニア子孫の到着を報じる沖縄タイムス10月8日付け   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html