06/03/2026

Mês: dezembro 2011

ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  海外日系人大会開催中の10月27日、有馬庄栄氏(有馬鐘江保険サービス)が呼びかけ、参議院会館で興石東民主党幹事長と日系団体代表者らの懇談会が開かれた。 県連の園田昭憲会長、ブラジル日本文化福祉協会の木多喜八郎会長、サンパウロ日伯援護協会の菊地義治会長、ビバビーダの野口重雄代表取締役、本紙の高木ラウル社長が出席した。 日系団体代表者らは、初めに東日本大震災と福島原発に対して哀悼の意を表し、ララ物資に継ぐ日系コロニア一丸となった義援金活動を実施していることを説明、国の復興を願う旨を伝えた。 続いて商用ビザに続く観光ビザ免除協定および、縮小しつつある県費留学・研修制度の活性化に向け、日本側の協力を依頼した。 「県費留学制度の研修者は毎年100人。5千人余りのOBの存在は、進出ラッシュの日本にとって貴重な存在」など現状を説明すると、輿石幹事長は「民主党からもバックアップしていく」との意向を示した。 ほかにも食、文化、人的交流の促進や、日本語教師の本邦研修生制度の継続、日系社会における高齢者や自閉症者に関する技術提携の協力要請、観光国としてのアピールなどを行なった。
ニッケイ新聞 2011年12月6日付け  熊本県人会ロンドリーナ支部(平川俊六会長、60家族)は同会創立60周年・婦人部発足40周年を祝う記念式典を13日、同市の東本願寺会館で開催した。サンパウロの同会本部(小山田祥男会長)より7年早く結成されている。同州セルタネージャ、マウアー・ダ・セーラなど近郊からも会員が参加したほか、本部からも小山田会長をはじめ23人が訪れ、約100人が出席して喜びを共に分かち合った。  同会は、1951年に熊本県出身の柔道家・木村政彦を団長とする使節団が来伯した際に催された歓迎会の席上で結成。吉田甫(はじめ)を会長に8人で発足。中川芳則現名誉会長の父で初代会計を務めた初若氏は、サンパウロの熊本県人会本部創立に関わっている。 創立20年を機に71年に婦人部を結成、90年代には近郊都市の出身者も同会に招き入れ、最大70家族まで増えた。 08年には熊本県出身で最後の笠戸丸移民・中川トミさんの記念公園造成への募金活動、東日本大震災にも本部を通じて6千レアルを寄付した。また、5年ごとに記念式典を開くほか、新年会や年1回の温泉旅行などの活動を行っている。 式典に先立ち、本堂で先没者追悼法要が営まれた。前日から降り続く雨で肌寒い中、参拝者は手を合わせた。 会場を会館に移して式典が開始した。平川会長は「60年を本部会員とともに祝えることを嬉しく思う」と挨拶。 中川名誉会長は、本部でも会計役を10年務めたことに対し「私たちは、本部と一番近い支部だと感じている。更に結びつきを深めたい」と話した。 本部と支部で記念品の交換が行われた後、小山田会長は九州新幹線開通を祝って10月に県人会で訪日したことに触れ「今度は一緒に帰省しましょう」と話すと、平川会長は「ぜひとも。本部主催の演芸会にもまた皆でお邪魔します」と笑顔で返した。 功労者表彰に続き、80歳以上の敬老者22人に表彰状が手渡された。101歳を迎えた中川政行さんには特別表彰として県知事からの記念品が贈られ、会場から拍手が上がった。 婦人部長を10年間務めている大塚節子さん(86、熊本)も表彰状を手に「皆の助けがあったお陰、気が付けば活動が続いていました」と笑顔を見せた。 サンパウロ本部の柳森優名誉会長による乾杯の音頭で昼食会が始まり、続けて行われた演芸会では本部と支部双方から出演、日本舞踊、琴の演奏、漫談など多彩な演目が披露され、参加者達は和気藹々と会話を楽しんだ。 功労者表彰を受けた平山ペードロさん(69、二世)は隣町のマウアー・ダ・セーラ市で暮しており、催しのたびに果物などを寄付している。「生まれはブラジルですが、なぜか皆と馬が合う。私達二世にとっても必要な団体なんです」と笑顔を見せる。 サンパウロから訪れた本部会員の高原恵美子さん(80、熊本)は56年、家族でロンドリーナに入植した。「私が入植した時は鉄道沿い全てがコーヒー園。日本の発展を耳にし、『こんな田舎にいられない』と焦って聖市に出たけれど、こんなに発展するとはね」としみじみ語った。 中川名誉会長が「会員の高齢化で5年後はどげんなるか分からん。ばってんまた今日みたいに皆で楽しく集まりたいと願っとります」と熊本弁で挨拶すると、参加者は拍手で応え、式典は終了した。
ニッケイ新聞 2011年12月3日付け  【既報関連】10月26日~28日、東京都内で催された『第52回海外日系人大会』に参加した文協、援協、県連、CIATEの各代表による訪日報告会が先月16日、文協ビルであった。 今大会に参加した25カ国180人のうち、50人がブラジル人。被災地支援活動を行った日系ブラジル人によるスピーチもあり、県連の園田昭憲会長は「義捐金活動報告に熱心に耳を傾けてもらい、ブラジルの存在感の強さを感じた」と振り返る。 以前大会に参加したCIATEの二宮正人理事長は「9万人近くの伯人が帰国したが、在日ブラジル人が組織化してネットワークを作っており、権利意識が向上している」との感想を語った。 大会宣言では、東日本大震災の支援や日本語教育の推進を宣言する一方で、日伯両国間における査証免除協定締結などを要望した。 また、大会の前後には政府関係者との会談を行った。藤村修官房長官や輿石東民主党幹事長、衆参両議員らを訪問し、観光ビザ免除や県費留学生・研修生制度の継続を訴えた。 園田会長は「観光ビザについては藤村官房長官から『関係省庁のまとめには私が直接当たる』との返答があった。日語教師の本邦研修生制度については『継続を決定する』との発言が得られた」と手ごたえを感じたようだった。 会談で援協の菊地義治会長は日系高齢者の福祉や自閉症学級の取組みに触れ「政府は日系社会を通したブラジルへの貢献を」と発言した。 最後に園田会長は「訪日を通し、4団体の意思疎通が図れたことが一番の収穫だった」と締めくくった。
 いよいよ年末だが、年が明けると日系社会は各団体で役員改選に向けた色々な動きが出てくる。このうち県連の園田昭憲会長は「県連会長として2期目はない」と言い切る。本当なのかと問うと、「鹿児島県人会長としては2013年の創立100周年事業を成功させなければという気持ちはあるが、組織は絶えず変化しなければならない。私が長く上に立つべきではない」と自らの考えを述べた。 ◎  しかし、今年の3月にも日系社会の重鎮から推されて県連会長になった経緯があり、情にもろい園田氏の言葉を額面どおり受け取るわけにはいかない。また「県連基金の設立など、いろんなことで私が急いでいるのは私に2期目がないから。3月までに次に誰が県連会長になっても県連がしっかりとしたものになるような仕組み作りができればいい」と話すが、神輿(みこし)を担ぐ人はそう簡単には降ろしてくれないだろう。 2011年12月3日付
 【既報関連】11月30日に来伯した広島大学の岡本哲治同大理事・副学長、下田脩二国際交流グループリーダー、平野祐次同グループ主査の3人が同日、本紙を訪れた。  今回の来伯の目的は「サンパウロ総合大学との交換留学生制度の確立」と「OB会の設立による産学官連携の礎を作ること」としている。 3氏は12月1日、同大学の新技術説明会を広島文化センターで行い、それ以外にも商工会議所を訪問した。3日に同文化センターで広島大学に留学したOB会の発足式も行われる。詳細は同センター(電話3207・5476)まで。 2011年12月2日付
ニッケイ新聞 2011年12月2日付け  亜国からは今回、最多の200人が参加した。大会取材3回目の『らぷらた報知』編集の崎原朝一さん(77、沖縄)は、「僕自身もう今回が最期かもしれないと思っている。一世はみな、そんな想いがあるから子や孫を連れてきた。だからこんなに人数が増えたんだと思います」と分析する。 最初の移民集団は笠戸丸移民であり、その意味で伯国とは兄弟のような関係だ。亜国日系社会は3万人、うち沖縄県系は7割以上だという。首都ブエノスアイレスで一番立派な日系会館は、在亜沖縄連合会(通称沖連)のそれだという。 「アルゼンチンと日本が正式な移住協定を結んだのは、実は1961年。その直ぐ後に日本の高度経済成長が始まる。つまり、アルゼンチンに直接入った人は少なく、戦前はブラジル、戦後はパラグアイ、ボリビアからの転住者が多いという特徴がある」と要約する。 ブラジルでは戦前、大半がコロノ(農業契約労働者)として生活を始めた。ところが亜国では転住者が多く、ブエノスアイレスなどの大都市で工場労働者、バールや洗濯屋などの自営業者が多かった。戦後、ミッソンイスでは開拓があったが、例外的だという。 ブラジルでは終戦後に勝ち負け抗争が起きたが、亜国では起きなかった。亜国は南米では一番最期まで中立を保ち、3邦字紙が発行禁止にされたのは1945年3月末で、それまで日本の戦況が刻々と伝えられていた。 戦争の関係で、日本の報道機関の特派員は北米にはおらず、ブラジルが連合国側にたった1942年以降、アルゼンチンに特派員が集中していた。ドイツ移民、イタリア移民が多い国柄もあって欧州の貴重な情報はもちろん、欧米の動向に関するニュースもここから発信されていた。そのような特派員から直接、戦況を聞くことあっただろう。 『アルゼンチン日本人移民史』(06年、在亜日系団体連合会)の編集委員長も務めた崎原さんは「『南亜日報』の最期の新聞は3月28日付けで、米軍が慶良間諸島を攻撃し、沖縄侵攻が始まったというものでした」と説明する。 ところが、政府が許可した最後の日付の新聞は3月27日付けだった。「米軍の慶良間攻略を報じた新聞はひそかに印刷だけして、社員が手分けして秘密裏に配達した」という〃幻の28日付け〃だった。大勢を占める沖縄県系人にとっては「慶良間諸島まで来た」というニュース自体が衝撃的で、その後の展開は予想できるものだった。 それに「みな都会生活しているから、勝っていると信じたいが、実情も肌感覚でわかっていた。だから集団での勝ち組は生れなかった」と崎原さんはみている。 「戦場となり、占領された郷里を持つ沖縄県人はかえる場所を失い、家族の消息も不明になり、絶望のふちに追いやられた」。戦後徐々に手紙が届くようになり、状況が分かるようになる。「沖縄県人有志は自らの報道機関を求め、1948年に株式会社の新聞社を立ち上げた。永住の気持ちが広がっていた」という経緯から『らぷらた報知』は創刊された。 『亜国日報』が91年に幕を閉じて以降、『らぷらた報知』は同国唯一の邦字紙として週3回の発行を続ける。『亜国日報』が廃刊した直接の原因は、記者が居なくなったことでも、読者が居なくなったことでもなかった。「植字工がデカセギにいってしまい、代わりが居なかった」ことだった。南米に共通したデカセギブーム当時を髣髴とさせる逸話だ。同国コロニアの7割を占める県系読者をしっかりつかんだ新聞が生き残り、「沖縄系に偏らない日系社会ニュース」を社の方針としているという。(深沢正雪記者、つづく) 写真=慶良間攻略を伝える幻の『南亜日報』3月28日付け(アルゼンチン日本人移民史、戦後編、13頁)   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
 青葉健康福祉協会(中沢宏一会長)主催の「青葉祭り」の12月の開催は、3日と17日。両日とも午前7時から午後3時まで、宮城県人会館(聖市リベルダーデ区ファグンデス街152番)で行われる。  会場では、ADESC農協婦人部連合会とカッポン・ボニート地方の有機野菜や、手作りの大豆製品などが販売される。 4階の食事処では、3日は天ぷらうどん、油麩(ふ)うどん、17日はずんだ餅やはらこ飯といった宮城の郷土料理や、きなこ餅、さんま焼き定食、冷やし中華などが用意される予定。 2011年12月1日付
 日系5団体(文協、援協、県連、老ク連、日文連)共催の天皇誕生日祝賀会が、7日午前9時から文協ビル9階の移民史料館(聖市リベルダーデ区サンジョアキン街381番)で開かれる。  文協では、「毎年天皇誕生祝賀会は2階の貴賓室で行われていましたが、今年は9階の移民史料館となりますので、お間違いのないようよろしくお願いします」と来場者への注意を促している。 詳細は文協事務局(電話11・3208・1755)まで。 2011年12月1日付
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  ブラジルでは1970年代前半以降、ほぼ新来者は途絶えたが、ハワイではまだ続いている。 ハワイには1924年までに20万人もが渡ったが、戦後もアメリカ人との婚姻者に加え、戦前移民の呼び寄せが3親等(現在は1親等のみ)まで認められていたことから数万人が渡った。 『ハワイパシフィックブレス』紙の仲嶺和男社長身も、琉球新報で記者として5年ほど働いた後、40年前に親戚の呼び寄せでハワイに渡った戦後移民だ。 仲嶺さんは戦後の特徴として、「米軍人と結婚した日本人女性が7千人もいる」という。それに加え、「今でも日本人は毎年、300人ぐらい抽選で永住権をもらって米国に移住しています。その多くがまずはハワイで慣れてからと寄っていくので、実はけっこう新しい日本人が今でも増えている」と米国ならではの事情を説明した。 ☆    ☆  米本土からの参加者の中にもアメリカ人の夫を持つ女性の比率が高く、やはり進駐軍と結婚した女性が移り住んでいる割合が高いことを反映しているようだ。米国日系人の特徴の一つだろう。 米国在住40年のサンフランシスコ沖縄県人会(約200人)のルズフォード千鶴さん(72、沖縄)は4回目の参加だ。「ただのウエルカム(いらっしゃい)ではなく、ここではウエルカム・ホーム(お帰り)といってもらえるのが嬉しい」としみじみ語る。 カリフォルニア州だけで沖縄県人会は4つもある。千鶴さんは近くのサクラメント県人会にも顔を出すという。「毎月集まるグループもあって、ウチナー同志食べて笑って楽しむ。20~30人集まる時もあるんですよ」と楽しそうに笑う。 ただし、「50州もあるから全米の県人会員がみんな集まるのは難しい」とも指摘した。世界のウチナーンチュ大会前夜祭の帰還パレードでも、人数の上では最多の米国勢は各地域ごとにバラバラにシャツを作っており、ハワイ以外の米国勢が圧倒的な存在感を見せることはなかった。 その点、伯国は聖市の沖縄県人会とジアデマの沖縄文化センターが全伯の本部機能を担い、南麻州カンポ・グランデのような遠距離でもものともせずに、統一行動をする点に特徴があるようだ。 千鶴さんは「息子はテキサスに住んでいて、年に一度会うだけ。進駐軍だった夫とは英語ですが、息子は幼い頃から日本語を話して聞かせたので会話はできる」と胸をはる。3回目の参加のオーバーホルサー敏子さん(71、今帰仁村)は在米30年、米国籍に帰化しているが、「毎年沖縄に帰ってくる。自分ではアメリカ人というよりウチナーンチュだと思っている。向こうの土に骨を埋めるつもりだが、元気なうちは毎年帰りたい」との気持ちを吐露する。 敏子さんは進駐軍だった夫と1970年に結婚、「夫が大の沖縄好きで、日本語も日常会話ならOKなので、家庭の中は日本語で通した。子供が日本語を話せるようにするというのは、彼の願いでもありました。普通の夫は英語にこだわるので、特別な環境だった」と微笑む。 「子供にも行こうと誘ったが今回は断られた。きっと次回は連れてくるつもり」とのこだわりを見せた。(深沢正雪記者、つづく) 写真=オーバーホルサー敏子さん   この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2011/2011rensai-fukasawa8.html
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  青葉健康生活協会(中沢宏一会長)は「青葉祭り」を3、17日の午前7時から、宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade)で開く。 同県人会婦人部による天ぷらうどん、油麸うどん(3日)、はらこ飯、きな粉餅、ずんだ餅、さんま焼き定食、イカポッポ焼き、親子丼、冷やし中華(17日)などが販売される。 農協婦人部連合会(ADESC)が産地直送有機野菜や手作り製品を販売、小児ゼンソクを患う子供に背骨矯正治療、指圧や灸の施術、家紋やこけしの展示販売も。 問い合わせは同県人会(11・3209・3265)まで。
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  ブラジル日本文化福祉協会(木多喜八郎会長)は『天皇誕生日祝賀会』を12月7日午前9時から、9階の移民史料館(Rua Sao Joaquim, 381, Liberdade, 9o. andar)で開く。参加自由、申込み不要。 サンパウロ日伯援護協会、ブラジル日本都道府県人会連合会、ブラジル日系老人クラブ連合会、日伯文化連盟の共催。 肖像画を掲げ、今年で78歳を迎えられる天皇陛下の誕生日を祝う。国歌斉唱、文協女子コーラス部によるコーラス、挨拶の後乾杯が行なわれる。 問合せは文協(11・3208・1755)まで。
ニッケイ新聞 2011年12月1日付け  聖州立カンピーナス大学(UNICAMP)の日本人留学生らが設立したボランティア団体『サンパウロFor Japan』が13日、ブラジル日本文化福祉協会大講堂で東日本大震災の復興支援コンサートを開催し、約260人の観客が訪れた。 同大学内で震災の状況を伝える講演会、募金や千羽鶴作りから始まった活動は、メンバーの柴田大介さんが指揮学を選考していたことから今回の企画へと繋がった。 文協、援協、在聖総領事館、宮城、福島両県人会やフジフィルムなど20団体が協力した。 同大およびサンパウロ大学、パウリスタ大学の音楽学生にプロの演奏家を加えた約30人のオーケストラを組織した。 リオ連邦大学副学長で音楽アカデミー会員でもあるマルコス・ノゲイラ氏が、宮沢賢治の詩を基に作曲した「Shizuka~雨にも負けず」は今回初公演、緊迫感ある演奏に合わせて学生が詩を熱唱した。モーツァルトの「ジュピター」では曲調が一転し、明るく爽やかな音で観客を和ませた。 ヴィラ・ロボスの「ブラジル風バッハ第9番」のほか「からたちの花」など日本の曲も披露、学生らの堂々たる演奏や指揮に観客は立ち上がって拍手を送った。 来賓として訪れた山下譲二文協副会長は「音楽は国境がない。音楽を通じて大震災の復興支援に参加できたのは、私たちにとっても貴重な機会だった」と語った。 谷口康史さん(30、岐阜)=聖市=は、どの曲もすごくよかった。宮沢賢治の曲はチャレンジしている感じがよくでていた」と話した。 コンサートの収益金5176.46レアルはすでに同総領事館に送金されており、日本赤十字社を通して被災地に届けられる予定。