県人を支えた連帯意識と「頼母子」
今年、沖縄の日本本土復帰 40周年の節目の年を迎え、母県沖縄のみならず国内外に幅広く「琉僑(りゅうきょう)」とも言えるネットワークを構築しているウチナーンチュ(沖縄県人及び県系人)たち。昨年10月に母県で開催された「第5回世界のウチナーンチュ大会」では各国の人々が一堂に会し、交流を深めたことは記憶に新しい。日本の関西地域には、大阪沖縄県人会連合会(大阪市大正区、嘉手川重義会長)があり、同地域の県人会員を統括している。同連合会を中心に、関西で活動する人々に焦点を当てる。(松本浩治記者)
JR大阪環状線の大正駅を下車、「鶴町4丁目」方面の大阪市内バスに乗車して六つ目の停車場にある大正区役所。同区役所前交差点を隔てて反対側の道路を2ブロックほど南に歩くと、「大阪沖縄会館」と書かれた大阪沖縄県人会連合会の4階建てビルが見えてきた。
同会館2階の事務室で応対してくれた名幸祥夫(なこう・よしお)事務局長(70)は、大阪で生まれた「沖縄県人2世」。長年、大阪市地下鉄の運営管理の仕事に就いていた。現在、ボランティアで連合会事務局長を務めており、「2年前までは(連合会傘下の)都島地区沖縄県人会長もやってたんやけどね」と流ちょうな大阪弁を話しながら気さくに答えてくれた。
同連合会は戦後間もない1946年4月に創立され、昨年65周年記念イベントが大々的に開催されたという。傘下団体は大正区をはじめ、西成区、住之江区、港区、此花(このはな)区、北区、都島区、中央区、西淀川区、堺の10地区の県人会と「在阪支社懇話会」の11支部から構成されている。
また、同連合会以外に兵庫、京都、奈良県などの関西地域にも県人会組織があり、その数は「把握しきれていない」(名幸事務局長)ほどだ。
連合会が所持する資料によると、沖縄県人は明治時代からハワイやブラジルなど海外に移住しているが、大阪に初めて県人が来たのは大正初期(1910年代)だという。その頃、木材(製材業)、鉄工業、紡績業などの工員に従事する人や自由労働者も多かった。当時の港区(現・大正区)には製材工が数多く、特に現在の連合会館にほど近い北恩加島(きたおかじま)町には、その頃の全人口の5分の2を沖縄県人が占めていたそうだ。
大阪の工業、商業、経済界の中で各種業務に従事する人がいる一方、独立経営する人たちも増えていった。そうした中、沖縄の人たちを支えたのは各地区に住む県人の連帯感と、県人同士による「頼母子講(たのもしこう)」だった。
戦時色が濃くなり、大阪在住の県人の家長たちの多くが徴兵。その留守家族救済のため各地区の県人会が最大限の努力を行ってきた。しかし、45年3月と6月に大阪は大空襲に見舞われ、県人出身者たちは米軍による地上戦で焦土と化した故郷・沖縄に帰ることもできず、戦後各地区の県人会を中心に団結していく機運が高まった。
こうして翌 年、全国的に沖縄県人連盟結成の動きが広まり、同年4月には大阪市中之島中央公会堂に各地区県人会役員や会員約3000人が集結。協議した結果、「南西諸島連盟」を結成し、「沖縄人連盟関西本部」「沖縄人連盟大阪本部」と改称を経て、52年5月に現在の「大阪沖縄県人会連合会」となった。
(つづく)
2012年3月7日付
