「火葬できただけありがたい」
東日本大震災が発生して11日で1年を迎えた。日本国内の中でも特に被害が甚大だった岩手、宮城、福島の3県はいまだ復興のめどが立たずに苦しんでいる人々が数多い。また震災の影響で人生そのものが変わり心の傷が癒えない人々も少なくない中、その一方で時間がたつにつれ、当時の悲惨な出来事が徐々に忘れ去られつつあることも否めない。本紙では「忘れてはならない記録」として、震災被害を受けた日本の家族及び親戚を思いやる伯国在住の人たちと日本の人々との絆を2回連載で紹介する。(編集部)
「遺体が見つかって、火葬ができただけでもありがたいと考えなければ」―。聖州アチバイア市タンケ区に在住する及川君雄(74)・東子(とうこ、73)夫婦(岩手県一関市=旧東磐井郡大東町)は、口をそろえた。
2011年3月11日、東子さんの実兄で岩手県陸前高田市に住んでいた佐々木誠志(せいし)さん(享年82歳)は、好きな油絵の画材を購入するために大船渡市まで車を運転していたところ、その途中で津波にのみ込まれた。
誠志さんの息子が捜索願いを出していたこともあり、その1週間後に車内で遺体が見つかった。しかし、地元では震災被害により火葬場がないため、岩手県内に住む東子さんの妹が誠志さんの遺体を遠野市の火葬場まで運び、荼毘(だび)に付したという。
誠志さんの家は陸前高田市の比較的高台の場所にあり、実家そのものは津波の被害には遭わず、地震当初に自宅にいたならば被害には遭っていなかったかもしれない。
及川夫婦の話によると誠志さんは戦後、地元の小中学校の教師となり、図工を担当していたという。また、晩年は県内各地の学校で校長を歴任。同じ小学校の幼なじみだった及川夫婦は誠志さんから教えてもらったこともあり、「悪さをすると鞭(むち)打ちされたこともあり、教育熱心な兄でした」と東子さんは当時を振り返る。
学校退職後も教育関連の仕事に携わるなど多忙だった誠志さんの趣味は、油絵を描くこと。現役教師時代の夏休みには東京の美術大学に短期で通うなど、単なる趣味の領域を超えていたとも思われる。
1959年に渡伯し、聖市近郊のイタケーラ、インダイアツーバを経て68年から40年以上にわたって現在のアチバイアに住み続ける及川夫妻が渡伯後に何回か訪日した際、プレゼントされたのが誠志さんが描いた油絵の数々だった。
現在、貴重な遺品となった油絵の一つは及川夫婦の家の壁に掛けられている。郷里の山「氷上(ひかみ)山」を背景に、誠志さんが好きだった海岸沿いの松林の風景が描かれた作品だ。
昨年の正月に誠志さんと国際電話で連絡を取った東子さんは、誠志さんがぜんそく気味で「プロポリスがいいみたい」と言われたため伯国からプロポリスを送ったが、これが兄と直接話した最後の言葉となった。
誠志さんの不運な死について及川夫婦は「不幸なことには変わらないが、好きな絵を描くために画材を買いに行き、自分の希望の途中で亡くなった。まだ行方が分からない方も大勢いる中で、遺体が見つかって火葬ができただけでもありがたいと思わなければ」と誠志さんの死をしのんだ。
(つづく、松本浩治記者)
2012年3月13日付
