古川元久国家戦略担当大臣・内閣府特命担当大臣(経済財政政策)が、今月27日からブラジルと米国を訪問する。同氏は、6月の国連持続可能な開発会議(リオ+20)を前に、同会議に向けた日本政府の方針やエネルギー、環境政策等についてブラジル政府関係者らに説明する。 聖市には28日に到着し、翌29日に日系社会関係者や現地進出企業関係者との意見交換を行う。また、同日、イビラプエラ公園内の開拓先没者慰霊碑を参拝後、ブラジル日本移民史料館を視察する。 30日はブラジリアでパトリオッタ外務大臣ら伯国政府要人と会談する予定。米国では、シリコンバレでIT産業の現状や今後、ベンチャー企業や起業家の育成支援のあり方等について聴取し、5月3日に帰国する。 2012年4月28日付
Mês: abril 2012
県連の園田昭憲会長は、3月29日に開催された定期総会で「各委員会には意思決定権を持ってもらう」と話しており、今後は県連各委員会の活動に注目が集まってくる。 園田氏は本紙の取材に対し「現在、県連の活動は多岐にわたっており、執行部だけでは大変になっている」と話す。現在、県連に設置されているのは22委員会。執行部でなくとも「入会したい人はどの委員会にも入ることができ、県連の意思決定にかかわることができる」という。委員会の開催頻度は週に1度で、各委員会の人数に制限はない。 今年度の委員会案は次の通り。カッコ内は委員名(敬称略)。日本祭り=前田ネルソン(三重)、坂本アウグスト(栃木)、山田康夫(滋賀)、川合昭(秋田)。日本祭りテーマ=杉本教雄(静岡)、吉村幸之(佐賀)、小山田祥雄(熊本)。日伯ロードレース・ジョギング=前田、市川利雄(富山)、川合。国際交流=本橋幹久(鳥取)、小山田。CIATE=原島義弘(千葉)。ゲートボール=山田、玉城道子(青森)。イビラプエラ公園慰霊碑=木原好規(和歌山)、原島。サントス上陸記念碑=原島、木原、坂本。マレットゴルフ=川合。ふるさと巡り=本橋、山田、玉城。ホームページ=本橋。弁論大会=本橋、山田。事業報告書作成=木原。県連センター=吉村。県連基金=杉本、小山田、内山住勝(群馬)、千田昿暁(岩手)。法務=高野ジョルジ(山梨)、市川。財務=市川、吉村。広報=本橋、小山田。震災義捐金=山田。事務局=山田、高野。代表者会議議長=山田。書記=市川。同案は5月初旬に正式決定される見込み。 2012年4月28日付
今回のふるさと巡りでは、旅程の1~2日目にボツカツ、バウルー、パラグアス・パウリスタの3カ所でそれぞれの日系団体と交流を楽しみ、後半は観光に充てられた。 3日目はオランダ人が入植してつくった街、オランブラⅡで果樹園を見学した。オランブラⅡの人口はわずか1万人(1991年にジャガリウナ市から独立)。1940年ごろにオランダは人口増加し、第一次世界大戦で国土が荒れたため伯国にも移民を送り出した。 同地はカンピーナス近隣のオランブラの子弟がつくった街で、ここでは日系社会と同様にオランダ人による果物や花卉(かき)を生産する協同組合がある。組合にはオランダ人以外も入ることは可能だが、経営の面で厳しいハードルが課されているという。ツアー参加者らは「コチアも南銀もつぶれちゃったけど、ここはしっかり続いているのね」とオランダ人の経営手腕に感心しながら、ゴイアバ(グアバ)のジュースを飲み、採れたての新鮮な果実の味を楽しんでいた。 最終日に昼過ぎまで滞在したアバレー市は、聖市からカステロ・ブランコ街道を通って263キロの地点にある市で、人口は約8万3000人。聖州が指定した観光都市の一つで、一行が宿泊したペニンシュラ・ホテルの前には湖畔が広がる。 同地に日本からの移民が入ったのは、16年。モンソン植民地などで綿の栽培などを行った。35年度の日本人の綿生産高は聖州の半分に達していたという。 3日の朝は、ホテルのプールサイドで穏やかな秋の日差しを受けながら談笑する姿が見られた。その中でブラジリア在住の荒木滋高さん(79)は、ほぼ毎回ふるさと巡りに参加する常連組。今回もサンパウロから参加した。 同氏は60年に首都がブラジリアに移ると知ると、自らも同地へ移り住んだ。9月末に行われる次回のふるさと巡りでは、ブラジリアがコースに入っているため、「今度は来てもらう側、準備しなくちゃね」と張り切っている。(つづく、植木修平記者) 2012年4月28日付
ニッケイ新聞 2012年4月28日付け 今年1月に国家戦略担当大臣・内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に就任した古川元久大臣が28日に来伯し、聖市・ブラジリアを訪れる。大臣就任後初めての来伯。6月の「国連持続可能な開発会議」(リオ+20)を前に、伯国政府関係者に同会議に向けた日本政府の方針やエネルギー・環境政策等について説明し、日系社会関係者等との意見交換を行なうことが目的。28日夕方に聖市着、翌日29日にイビラプエラ公園内にある開拓先没者慰霊碑を参拝した後、午前10時から日本移民史料館、続いてサン・ジョゼ・ドス・カンポス市の航空会社エンブラエルを訪問する。また同日、文協、援協、県連など日系主要団体の幹部および進出企業関係者との意見交換を行なう。30日はブラジリアでパトリオッタ外務大臣など伯国政府要人と会談し、続いて米国へ移動。5月1日から2日間、世界有数のIT産業やベンチャー企業の拠点であるシリコンバレーを訪れ、IT産業の現状や今後、ベンチャー企業や起業家の育成支援のあり方等について現地企業関係者と意見交換する。
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1日に開かれたパラグアス・パウリスタ文協(佐々田アントニオ会長)との交流会では、戦前に米国から「文化植民地」再移住した人に会うことができた。 日系アメリカ人(2世)である西沢(旧姓、山田)ミドリさん(89)が、両親と共にパラグアス・パウリスタに再移住したのは1925年。3歳の時だった。ミドリさんはカリフォルニア州サンフランシスコ市生まれだが、幼かったために米国での記憶はほとんどない。ミドリさんの父、トウコウさんは山梨出身で、母のカズコさんは九州出身。2人は米国で出会い、結婚した。 後にミドリさんが米国での暮らしについて両親に尋ねたところ、再移住前までサンフランシスコで日本の品物を販売する雑貨店を経営しており、当時は米国で日本人排斥運動による人種差別が横行し「バスに乗るのも後ろの座席と決められており、日本の国旗が踏まれたり、破られたりすることも度々あった」そうだ。 このような状況にうんざりしていたトウコウさんは、親戚と伯国へ再移住を検討。店を売り払い移住資金をかき集め、親戚らと共に「文化植民地」に入った。 ミドリさんの夫、裕美さん(80)もアメリカに移住した両親を持つ。ただ、裕美さんは山梨生まれで、3歳で伯国へ両親と共に再移住している。 ミドリさんは「記憶は定かではないけれど、文化植民地は多い時で500家族ほどいたかもしれない。昔はカフェや綿でにぎわっていたけれど、今この辺に植えてあるのは主にサトウキビですね」としっかりとした日本語で話した。また、文化植民地の特徴については「アメリカから来た人が多かったので、家の中で日本のような封建的な家長制度がほとんどなかった。民主主義で、男性が女性に対して紳士的な場所」だと感じている。 パラグアス・パウリスタ文協には、現在100家族の会員がいるが、日本語を話せる人は少なく、邦字新聞の読者はほぼ皆無。96年に野球場をつぶして文協会館を建てたが、日本語学校はない。文協関係者は「日本語教師が来てくれた時のために、先生の家も用意してあるのだが、学習希望者がいない。日本語教師の給料は英語やスペイン語と比べて安いから、わざわざ奥地で先生をやりたがる人もいないんです」と嘆いていたのが印象的だった。 現在、同地に住む日系は一般のブラジル人と同様に街に仕事が少なく、若い人がどんどん離れていくという悩みを抱えている。ただ、15年前にはマリリアやバストスから毎週末大型バスが何台もやってきていたという温泉が存在しており、来年までには新たなオーナーの下で再開する予定だという。文協の会員らは「温泉ができれば街もにぎわい、仕事も増えるかも」と淡い期待を抱く。 交流会にはパラグアス・パウリスタのみならず、近隣のアシスなどからも10人が参加した。普段からゲートボールやテニス、カラオケなどを通じて親交があるという。(つづく、植木修平記者) 2012年4月27日付
ブラジル・ニッポン移住者協会(小山昭朗会長)は3月17日、聖市立カルモ自然公園で「日伯・絆の森」造りの植樹式を行った。この事業は東日本大震災の約2万人の犠牲者を追悼する意味で企画されたもの。この日は同事業に賛同する各界関係者約100が参加し、犠牲者への思いを込めて苗木の植樹を行った。 植樹式は共催者のオイスカ・ブラジル総局の花田ルイス副会長が司会を務め、同植樹事業の目的や意義が参加者に説明された。続いて小山会長のあいさつがあり、「祖国日本の一日も早い復興を願い、あの震災の多くの犠牲者のことを忘れることなく、亡くなられた一人一人に思いをはせながら魂を込めて皆で木を植えていきたい」と一般の人々の参加と協力を呼びかけた。 その後、犠牲者への冥福と苗木の健やかな成長を祈る神道形式の祈願儀式がしめやかに行われた。あいさつに立ったサンパウロ市緑化・環境局長のエドアルド・ジョージ氏は「リベルダーデの桜の植樹に続いて日系人が率先してこうした植林事業を行い、市の環境改善に寄与していることに感謝している。市もできるだけの協力を約束する」と話した。 また、来賓の神谷牛太郎市議、羽藤ジョージ州議や飯星ワルテル下議代理も同事業への取り組みや日系人のリーダーシップに対して敬意とともに協力していく考えを示した。 来賓には、生徒20人を引率して参加したカリタス学園長のイルマン・ナカガワ・ベルナデッテ校長、中沢宏一宮城県人会長、オイスカ・ブラジル総局の高木ラウル氏、日本から震災の近況を伝えるために来伯していた東北学院大学の上田良光教授や市関係者などが参加していた。 植樹式では、犠牲者に黙とうを捧げた後、全員で自然木の苗木200本が植えられた。カリタス学園のナカガワ校長は「主催者の協会幹部の人たちは皆年配の方たちばかりなのに、元気に使命感溢れる活動をしていて感動した。私も生徒たちも皆さんに見習って、一人の社会人として、また一人の人間として、もっと積極的に社会に役立つような活動をしていきたい。きょうはとても有意義な一日でした」と満足した様子。帰り際には参加者たちがそれぞれの思いを込めながら、現場に置かれた「絆の森」植樹キャンペーンの募金箱に寄付を行っていた。 2012年4月27日付
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け 汎アマゾニア日伯協会の生田勇治会長と堤剛太事務局長が、7月13~15日に開催される『第15回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)』の打ち合わせのために聖市を訪れ、20日に県連の園田昭憲氏、本橋幹久副会長、山田康夫会計と懇談を行った。同祭参加は3回目。記念写真展、特産品販売、マホガニーの種の無料配布などを行ってきた。ニッケイ新聞の取材に対し、生田会長は「まだ具体的なことは決まっていない」と話しながらも「アマゾン日系社会を紹介できる貴重な場。多くの人に興味を持たれるような企画を考えたい」と意気込みを語った。県連の園田会長は「今回の打ち合わせはあいさつ程度のものだったが、発足したばかりの北伯県人会協会も含め、三つの組織の結びつきを今後さらに強めていきたい」と話している。
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け 「オランブラⅡ」で生産されている農産物としてはトウモロコシ、小麦、豆、綿花、大豆などの穀物が最も多く、中でも綿花は聖州で生産されているうちの50%の収穫量を誇る。果樹栽培もそれに次いでさかんで、今はゴイアバと柿のみだが最も多いのが桃。その他スモモ、ネクタリーナ、リンゴなどが栽培されており、各地のスーパーに直接卸している。花も栽培されているが割合はわずかだ。各組合員はそれぞれ広い農地を所有して生産活動を行っている。「そうじゃないとやっていけないからね。果物の生産地としては、州では最大級だと思う」とピーターさんは胸を張る。全伯には聖、パラナ、南大河各州に6つのオランダ移住地があり、毎年7月に相互交流を行っているという。コロニアには約400人のオランダ人子孫がいるが、「メスチッソも多い。子供達は誰も私の後を継がなかったよ」と笑う。オランダ文化を子孫に継承したい思いがあるかと問うと「個人的にはオランダ語を必ずしも勉強すべきとは思わない。むしろ外国語として必要なのは英語やスペイン語でしょう」。コロニアの歴史をみても、「おそらく、今までそういうことを子孫に強制したことは一度もないと思うね」と、ブラジル社会へ融合することの重要性を強調する。「オランブラⅡ」では移住地を見学する観光ツアーを提供する会社もあり、ピーターさんは役員として活動している。国内外から多くの観光客を迎える毎日だ。昼食後は別の花園を見学し、休憩所で一休みした後、一行は宿泊先のホテルがあるアバレーへと向かった。到着後は最後の夕食、手品の余興を楽しんで一日を終えた。 ◎ 最終日の4月3日。この日も朝から日差しが降り注ぐ。一行が宿泊したのはアバレーではレジャーホテルとして有名な「ホテル・ペニンスラ」。緑が多く、部屋にはバルコニーがありプールやサウナ、スポーツコートなどの設備が充実している。朝早く起きた一行はミニ・ゴルフや乗馬などのレクリエーションをしたり、集まって談話するなど、爽やかな空気の中最後のひと時を楽しんだ。齊藤利治さん(71、二世)はふるさと巡りの常連だ。「バウルーがよかったね。私はあそこに生まれたから」と旅を振り返る。親が福岡出身で、「福岡県人会はバウルーに最初にできたんですよ」と語る。齊藤さんは2歳で引越したが、妹は長く住んでいたという。「親戚やドアルチーナの学校に通っていた時代の同級生にも会えた。私たち福岡県系人のグループが一番盛り上がったんじゃないかな」と満足した様子。昼食をとった後、午後1時半頃、一行は大きな荷物を抱えサンパウロに向けて出発した。約3時間後、ほぼ予定通りにリベルダーデ広場に無事に到着。「また会いましょうね」と口々に声を掛け合いながら、一行は解散した。(終わり、田中詩穂記者) 写真=ピーターさん/アバレーのホテルでくつろぐ参加者の皆さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け ふるさと巡りの帰りのバス。車椅子で参加した及川君雄さんは、次回のふるさと巡りも既に申し込んだとか。「子供達が花をやってくれているし、元気なうちは外に出たいね」と笑顔で話した。毎回ツアーを企画するグローバル旅行社によると、ふるさと巡りは大人気でいつもすぐに埋まるそう。ツアー内容が決まらないうちから予約を入れる人もおり、団体なので家族も安心して送り出すのだとか。 ◎ 岩手県人会の賛助会員だった石井紅夫さん(82、神奈川)が訪日中の24日午後、東京・浅草のホテルの浴槽内で亡くなっているのが発見された。警察が賛助会会長宅に連絡、県人会関係者を通してブラジルの千田曠曉会長に連絡があった。ホテルに帰る前には神奈川在住の賛助会員と食事を楽しんでいたという。「会報の校正を頼んだこともある。お酒も風呂も好きだったからねえ…」と千田会長はその死を悼んでいた。
ふるさと巡り2日目の4月1日は、午前8時にバウルーのホテルをチェックアウト。一行はバウルーから約20キロ離れたピラチニンガ温泉へと向かった。同地への訪問を楽しみにしている参加者も多く、「朝から温泉なんて幸せ」と笑い合っていた。 温泉は自然に囲まれた大きな施設の中央部分にあり、青空の下で寝そべって湯につかったり、同施設のインストラクターに合わせてプール中でエアロビクスをしたりするなど、各自リラックスしていた。 温泉を楽しんだ人々は昼前には湯から上がり、わらぶき屋根の食堂で昼食を楽しんだが、入浴した温泉以外にもう一つプールがあることが分かると、「聞いていなかった。そっちにも行きたかった」と残念がっていた。 しかし、もう一つのプールが冷水だったことを知ると、「なんでこの時期に冷水のプールで泳げるんだ。それなら行かなくても良かった」と寒中水泳もいとわないコロニアの壮年猛者に驚いていた。 満腹になった一同は、バスに備え付けられたテレビから流れる日本の歌謡曲を聞きながら心地良い眠りに就いたが、一行が知らない間にバスは約200キロの道を西へひた走り、午後5時過ぎに、文化植民地で知られるパラグアス・パウリスタ市へと到着した。 同市の人口は約4万2000人。海抜は506メートルで、ソロカバナ線のパラグアス・パウリスタ駅から北東約20キロ地点に文化植民地ができたのは1920年代半ば。 同植民地がほかの植民地と大きく違うのは、当時アメリカで排日運動による人種差別に苦しみ、土地の所有を禁じられた約100人の日系アメリカ人が開拓した植民地である点だ。 アメリカの日系人を率いたのは、カリフォルニア州サンフランシスコ市にあるリフォームド教会の森惇吉牧師と、同市輸入商だった山田登幸(とうこう)氏で、アメリカで苦しむ日系人をブラジルへ再移住させようとした。 両氏は賛同者から資金を募り、25年に約5000ヘクタールの原始林を買い、区画割りして希望者に分譲した。翌年、開拓が始まったが、27年10月にその後3年にわたって植民地を苦しめることとなる地権騒ぎが起きる。山田氏は地権を確保するために土地の代金を二重払いをするなどして体力を消耗。さらに問題を解決するため、土地を担保に借金し資金を工面したため内紛が起きた。 40年頃には綿景気で入植者は200家族に膨れ上がったこともあったが、肥沃だった土地はやせ、65年には入植者は10家族程度に減り、やがて移住地は消えて行った。 1日に開かれた交流会では現在同地に生存する唯一の再移住者、西沢ミドリさん(89)に「文化植民地」について、話を聞くことができた。(つづく、植木修平記者) ※参考文献「消えた移住地を求めて」小笠原公衛著、サンパウロ人文科学研究所 2012年4月26日付
ニッケイ新聞 2012年4月26日付け ベレンの日系団体とサンパウロとの連携はほぼないといっていいだろう。様々な理由はあるが、つまりは遠いのだ。約3千キロ。日本・東京からいえばフィリピン・マニラに相当する。同郷というだけで交流が生まれるはずもない▼ベレンには、20の県人会がある。サンパウロの支部ももちろんあるが、前述の理由もあり「北伯」のついた独立組織が多い。しかし会館や事務所を持つ県人会は少なく、連絡先は個人宅。高齢化は進む。自然、日本側との連絡もままならない。これを一本化しようと「「北伯県人会協会」が発足した(本日付け7面詳細)▼窓口を汎アマゾニア日伯協会内に置き、非常勤ながら事務員を配置するという。双方に所属する会員も多いというから、違和感はさほど生まれないだろう。同協会主催のイベントと歩調をあわせれば、さらなる盛り上がりに繋がり、県人会の若い世代がもっと参加する可能性も生まれる。相乗効果も図れるわけで両者にメリットがでてきそうだ▼ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲会長も「県連の持つノウハウを伝えたい」と全面協力の意向を示している。「北伯―」の山本陽三会長が7月の「日本祭り」にあわせ来聖することから、南北を繋ぐ関係のスタートにも期待したいところ。具体的に何をするかは、両会長の腕のみせどころだろう▼距離的には遠いが、こうしたアマゾンの県人会の状況は、サンパウロの近い将来のような気がする。実際、活動停止状態の県人会もあると聞く。県連は支援の一方で、今後の対応策を練るための何かを学ぶ機会にしてもいいのではないか。 (剛)
ニッケイ新聞 2012年4月26日付け 土曜日(28日) 四国遍路道と巡礼の道―講演・展示会、午後3時、香川県人会(Rua Itaipu, 422, Mirandopolis)◎ミュージカル『アルゼンチンの四季』、午後8時、文協大講堂(Sao Joaquim, 381)、日曜日も(午後6時)◎竜馬会定例会、午後2時、同事務所(Largo da Polvora, 96, sala 4) 日曜日(29日) 第77回家族慰安運動会、午前9時、イタペセリカ・ダ・セーラ文協運動場(Rua Hikari Kurachi,...
ニッケイ新聞 2012年4月26日付け 【信濃毎日新聞】長野県上伊那郡箕輪町のブラジル人学校「アウゴドン・ドセ」が、今月下旬に閉校する。授業料で運営しているが、景気低迷の影響で帰国するブラジル人が相次ぎ、園児、児童数が減少。半年ほど赤字が続いていた。子どもたちは今後、公立の保育園や小学校、別のブラジル人学校に移る。アウゴドン・ドセは、校長の宮下・マルシア・トシエさん(40)が友人の子どもを預かったことがきっかけで2000年5月に開設。4年ほど前の最盛期は約60人が通っていたが、現在は2~9歳の15人。27日まで授業を続け、28日にお別れ会をする。授業料は給食代込みで月3万3千円。滞納したまま子どもを通わせなくなった家庭もあるという。宮下さんは「ブラジル人は減る一方。悔しいけれど、それ(閉校)しかない」と説明する。同校では、NPO法人「伊那国際交流協会」(伊那市)が今月、日本語教室を始めたばかり。小学4年のロドリゴ・サトシ・長野君(9)は、同協会が日本語教室を開いている箕輪町の長野日伯学園に転校する。「閉校は寂しいけれど、(学園でも)たくさん勉強したい」と話していた。県国際交流推進協会によると、上伊那地方のブラジル人学校は現在アウゴドンを含め3校。これとは別に、伊那市にあった学校は2月から塩尻市の学校で合同授業を始めた。県国際課によると、同地方のブラジル人は07年12月に4717人だったが、11年同月には2157人に減った。
ニッケイ新聞 2012年4月26日付け 会場では和やかに食事が進む中、「日本人がたくさんいるんですね」「あなたはここに住んでおられるの?」と同地在住の首藤ネウザさん(69、二世)に話しかけていたのは、一行の有坂艶子さん(76、二世)=サントス在住=。「色んな人と話ができて楽しい」と、ふるさと巡り参加は12回目になる。プ・プルデンテ出身の首藤さんはカラオケや集まりにはいつも参加するといい、「今日も朝から食事を作りましたよ」と笑顔。「ぜひ遊びに来てね」と、有坂さんは連絡先を渡していた。本橋幹久団長は南伯組合勤務時代、64、5年頃に同地を訪れ、養鶏家を指導していた。そのさいに知り合った同地入植者の娘、鈴木睦子さん(68、二世)と45年ぶりに再会した。「まさかこんなところでお会いできるとは。思いがけず嬉しい」という鈴木さんに、「あの頃のことを思い出します」と本橋団長。「父がお世話になった。組合の人のことは皆覚えています。父が生きていたら良かったんですが」と鈴木さんは嬉しそうに話していた。食事の後、カラオケなどやダンスでひとしきり楽しんだ一行は炭坑節を輪になって踊り、並んでふるさとを合唱した。「別れは再会の始まりです」と本橋団長が挨拶して、一行は文協会館をあとにした。 ◎ 3日目の4月2日。朝食を済ませ早々にロビーに集合した一行は、予定より30分も早い午前7時半に出発した。次の目的地は州が指定する29の観光都市のひとつ、パラナパネマ市にある「オランブラⅡ」。花の町として有名なカンピーナス近くの「オランブラ」(91年に市として独立)に入植したオランダ人の子孫が作った移住地だ。約250キロの道程を4時間半かけて到着。よく晴れた空の下、観光客向けの休憩所「レカント・シャングリラ」で、一行は同地で採れたゴイアバ、柿や各種ジュースを味わった。みずみずしく新鮮な果実が、長旅で疲れた一行の体を癒す。休憩した後は花園へ移動。ハウス内で苗から育てられているピンク、赤、白などのツツジの花が美しい。一行は写真を取ったりじっくり花を眺めるなどして満喫し、レストランで昼食をとった。「オランブラⅡは、オランダ人子孫が独自で始めたコロニアです」と語るのは、ピーター・ワヘメルケルさん(69)。オランダ生まれで子供の頃に来伯した一世だ。バスに乗り込み、一行に移住地の概要を説明した。48年に「オランブラ」に入ったピーターさん。乳牛の飼育や畜産、大豆栽培などが行われていたが、今は花がメイン。「最初は15家族ほどいたと思う」その後、ピーターさんを含む独立を目指した子孫たちが同地に移り、60年代前半に「オランブラⅡ」ができた。乳牛の飼育が行われたが、政府が価格をコントロールして利益が出なかったため農業に移行したという。「時代とともに栽培には大きな機械や広い面積が必要になり、発展していった」。現在「オランブラⅡ」には102人の生産者からなる組合がある。そのほとんどがオランダ人子孫で、ブラジル人は2人だけだ。(つづく、田中詩穂記者) 写真=炭坑節を輪になって踊った一同/花園は参加者の目を楽しませた この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
