日本移民の植民地を巡るブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の「移民のふるさと巡り」が3月31日~4月3日の3泊4日の日程で行われ、旅好き122人がバス3台に分乗して聖州内の移住地を周遊した。同ツアーには毎回参加する人も数多くおり、回を重ねるごとにファンを増やし続けている。37回目を迎える今回は、かつてコーヒーや綿花の栽培で有名だったボツカツ、バウルー、パラグアスー・パウリスタの3カ所を訪ね、各地の移住地で日本人会の会員らと交流を深めた(植木修平記者)。 中には数十年ぶりに運命の再会を果たす参加者もおり、「参加して良かった」と笑顔を見せていた。一行は、オランブラⅡの果樹園ではビニールハウスいっぱいに咲き誇る色とりどりの花に酔いしれ、アバレーでは聖市では味わうことのできない静かな環境で自然を満喫。晴天に恵まれた4日間の旅で様々な人と出会い、見聞を広めていた。 ふるさと巡りに同行したサービス・グローバル旅行社の渥美誠社長は「今回はサンパウロ州内の旅で、これまでと比べてゆっくり巡ることができたと思う」と話す。同ツアーは高齢化が進む日系社会に反比例して、年々参加者が増えているという、県連の「大当たり企画」。 1908年以降、約70年にわたって日本からやってきた日本移民はブラジル各地に散らばったが、「ふるさと巡り」はそれぞれ入植した土地でどのような生活をしてきたのか、彼らの足跡をたどる旅であり、その土地で築いた歴史を知る貴重な機会だ。 1988年の日本移民80周年を記念して始まり、県連が訪問先の移住地を選定し、同社が日程などを組む。第4回までは聖州内の移住地を巡っており、98年に初めて外国の移住地ペルーを訪れた。 この企画に長年携わっている県連の伊東信比古さんは、今回の移住地の選定について「今回のツアーはサンパウロから近い所を巡るが、バウルーなどは、これまでふるさと巡りで行っていなかった。ボツカツも笠戸丸移民が入植した場所。どうしても交流を持ちたかった」と話す。 3月31日午前7時半、参加者を乗せた3台のバスは、薄い霧のかかった聖市のリベルダーデ広場を出発し、最初の目的地であるコーヒーの移住地、ボツカツへと向かった。(つづく) 2012年4月18日付
Dia: 18 de abril de 2012
【福岡発・吉永拓哉福岡支局長】福岡県福岡市を訪れた谷広海さん(日本語センター前理事長)と涼子夫人を歓迎しようと、ブラジルにかかわりの深い友人たちが集い、16日夜、本紙福岡支局横のレストランで『南米の集い』を行った。 これには板橋元昭元福岡県議会議長、高山博光福岡市議、学移連OBら約50人が参加した。南米の集いでは、はじめに谷さんの講演が行われ自身が暮らすマセイオ市の写真などをスクリーンで紹介しながら、異国の地でリゾートホテルなどを築いた経営哲学を話し、参加者たちも熱心に聞き入った。 また、現地で生まれた4人の息子らと共同でマセイオ市に建築会社を設立し、70歳を過ぎた今でも現役で仕事に励む谷さんに参加者たちは元気付けられた。 続いて東京から駆け付けた日系ペルー人2世の有富ビクトルさんが講演した。有富さんはフジモリ政権時代にペルー駐日大使を務め、日本大使公邸人質占領事件ではフジモリ氏の片腕として日秘両国のパイプ役となり、テロ撲滅に尽力した。 講演では南米の日系人たちの活躍ぶりを伝え「現在はベネズエラ、ボリビア、パラグアイの駐日大使が日系人。日系が飛躍する南米諸国だからこそ、日本人は南米に目を向けなければならない」と呼びかけた。 会場では、音楽で日本と南米日系社会を結ぶ福岡の夫婦デュオ『ハル』がラテン音楽を披露し、参加者たちが谷さんを囲んで夜遅くまで語り合った。谷さんは「昔の友と再会できることが本当にうれしい。また福岡に来たい」と楽しそうだった。 2012年4月18日付
茨城県人会(小林操会長)は、75歳以上の高齢会員を対象とした敬老会を29日午前10時から聖市アクリマソン区にある同県人会館(Rua Bueno de Andrade, 756)で行う。 同県人会では「家族の方にも一緒に来ていただき、食べて飲んで積もる話をして午後はビンゴなどで楽しく過ごしたいと思います」と当日の来場を呼びかけている。詳細は同県人会事務局(電話11・3209・8515)まで。 2012年4月18日付
ニッケイ新聞 2012年4月18日付け ブラジル高知県人会(片山アルナルド会長)は14、15の両日、聖州ピラシカーバにほど近い温泉保養地アグア・デ・サンペドロで1泊旅行を行なった。会員、非会員を問わず約40人が参加、硫黄の香り漂う温泉や、養蜂場訪問などを楽しみながら、交流を深めた。かつては故田村豊秋元会長のボツカツのシッチオに梅拾いの日帰りピクニックを行なっていたが、会員らによれば泊まりの旅行は「ほぼ初めて」という。2期3年目の片山会長が懇親を目的に企画した。午前8時に出発したバスは3時間ほどでホテルに到着。昼食後、トラトールで客車を牽引する「トレンジーニョ」で温泉場へ向かったが、午後の営業は午後3時から。それまでの時間、参加者らは買い物や散策を楽しんだ。1940年代に保養地として発展、ホテルやペンソン、土産物屋やレストランが立ち並ぶ観光地だ。個室温泉(12レ~)は薬草、泥風呂も楽しめ、サウナもある。片山会長によれば、経営困難に陥ったさい、再建のため韓国企業の資本が入ったことから、韓国人も多く訪れるという。湯上り後の肌はスベスベに。「これは効きそうねえ」と婦人らは笑顔を見せていた。ホテルで一休み、屋上にあるプールで日向ぼっこと、それぞれの午後を過ごし、揃っての夕食となった。会長持参のサーモンやマグロの刺身も食卓を彩った。アミーゴ・セクレット(プレゼント交換)では、自己紹介やプレゼントを渡す人の印象を、それぞれがユーモアを交じえて語り、笑いの絶えない和やかな雰囲気で行なわれた。「いや~参った」。翌朝、新井均さん(77、長野)が頭を掻きながら朝食の場に現れた。聞くと妻の知里さん(74、同)が外からドアを閉め、うっかり鍵を持ったままベランダで歓談を楽しんでいたため、1時間ほど〃監禁状態〃に。「よほど窓から出ようかと思ったよ。涼しいうちに朝の散歩もしたかったのに…」と周りの人の笑いを誘っていた。その後養蜂場を訪問。道中、なだらかに続く丘陵が遠くまで見える風景も参加者を喜ばせた。「来て良かった」―。両親が高知出身の前田南海男さん(81、二世)は笑顔を見せる。妻美代子さん(福岡、76)は「亡くなったソグロたちの同郷の人と会ってみたかった。懐かしい高知弁は聞けなかったけど面白かった」と満足気。高橋一水前会長の妻で料理部長の高橋マリアさん(70、二世)は「敬老会、新年会で土佐料理を一緒に作ってくれる婦人にもっと参加して欲しかった。でも、これから増えるんじゃない?」と継続に期待する。こうした声を受けるかのように片山会長は「半年に1回できれば。次回はポンペイアの温泉かプライアでもいいね」と話していた。昼食後に出発したバスは午後5時にピニェイロス区の会館前に到着。参加者らは連絡先を交換し、別れを惜しみながら散会した。
ッケイ新聞 2012年4月18日付け 【神戸新聞】神戸からブラジルに移住した人の歩みなどを学ぶ「ブラジル移民祭」が15日、「市立海外移住と文化の交流センター」で開かれた。50年前にブラジルに渡った神戸市出身の企業コンサルタント和田好司さん(72)による講演や、日伯交流に熱心な歌手中平マリコさんのステージがあった。1908年4月28日に神戸港から初めて移民船が出航したことにちなんで、NPO法人「関西ブラジル人コミュニティ」が毎年開催。今年は4月の毎日曜、講演やバンド演奏がある。和田さんは神戸高校を卒業後、早稲田大生だった62年、農業移住者としてブラジルへ。大学卒業のため一時帰国したが、再び渡り、商社勤務などを経て自ら会社を設立し、同国南部の町・ポルトアレグレで暮らす。講演では、農業での挫折経験などを振り返り、「海を渡った仲間が、自らの選択を肯定できる人生を送っていることをいつも願っている」と強調した。
ニッケイ新聞 2012年4月18日付け 午後3時半頃、交流を終え恒例の「ふるさと」を合唱し、握手で別れを惜しんだ一行。長田さん夫妻の梅干や梅酒に目を留めて購入したり、個別に話をしたりしながらバスに乗り込み、会員らに見送られながら次の目的地、バウルー市へと出発した。ボツカツから約95キロで人口は約35万人。かつてノロエステ地方への開拓の起点として栄え、戦前は領事館が設置されていた。日本移民とは縁が深い地だ。『バウルー日伯文化協会 創立五十年の歩み』(バウル―文協五十年の歩み編纂委員会)によると、バウル―の地を最初に踏んだのは郊外のサンタブラジリア耕地に入耕した高知県人で、1914年5月のこと。その翌年は滋賀県人が駅前で旅館、2年後に福岡県人が雑貨商を開業したという。その頃はまだ田舎町で家屋も少なく、日本人植民者によるノロエステ開拓が始まった頃だ。約2時間後にホテルに到着しチェックインした後、「バウルー日伯文化協会」会館へ。鳥居を模した立派な入り口の前で、待っていた会員らの出迎えを受けた。モダンなサロンにバウルー側から150人が集まり総勢約270人が揃うと、午後7時頃から先没者追悼法要が執り行われた。合掌の後、導師の伊藤功さん(60、愛知)の読経で一人ひとり仏壇を前に焼香した。養蚕移民としてバウルーに入った文協老人クラブ副会長の益山義則さん(74、鹿児島)は歓迎の意を示し「同県人なら家族のような親しみを感じる。ふるさとの話をし合う、楽しい夕べを過ごしてほしい」と挨拶。団長の本橋幹久・鳥取県人会長が園田ネルソン会長(65、三世)に県連の事業報告書、昨年の日本祭りのDVDを手渡した。本紙代理人の酒井威夫さん(83、北海道)は1933年に第3アリアンサに入植し、48年からバウルーで野菜作りに携わった。「戦後、田舎では仕事がなかったので都会に出て蔬菜を作る人が増えたね」と振り返る。生産者と同時に仕入れ業者も多く出入りするようになった。『歩み』によれば57年頃から再度日本人が増え始め、翌年の調査では市内、植民地、郊外合わせて約600家族。80年代半ばには人口25万人を擁する都市に。「昔に比べると大都会になって住み辛くなりましたが」と笑う。バウルー文協の会員は、非日系を含め現在250~300家族。約30年前までは一世がほとんどだったが、現在は二、三世が中心。忘年会、新年会、コーラス、将棋、卓球、剣道、フットサル、バレー、太鼓など様々な活動が活発に行なわれている。特に運動会や盆踊りは非日系人も多く参加、園田会長は「いつもすごい盛り上がりだね」と喜ぶ。法要のあとは隣接する広い体育館に移動。婦人部による手作りの食事を楽しみながら、交流会へと移った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=順番に焼香する参加者一行 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
