06/03/2026

Dia: 24 de abril de 2012

「今でん毎晩飲むばい(今でも毎晩(お酒)を飲むよ)」「ばってん、体にようなかろうもん(だけど、体に良くないでしょう)」―。バウルー文協が催した交流会では、テーブルを囲んで、普段口にすることのないという福岡弁が飛び交った。だが、ここは中洲(なかす)ではない。サンパウロ州のバウルーなのだ。今回、ふるさと巡りに参加した福岡県出身者は11人。ツアー参加者全体の約1割を占める。それに、バウルーに住む福岡県出身者が加わると、交流会の会場には十数人が集うテーブルが三つほど出来上がった。 「私は朝倉。おたくはどちら」「ウチは八女(やめ)ですたい」と出身地の話題で盛り上がり、コロニア語と博多弁、それに筑豊弁や北九州弁まで合わさったような、ブラジルでしか聞けないイントネーションの会話が印象的だった。 そんな中、「これぞ、デスティーノ(運命)」というべき、出会いを果たした人がいた。ツアーに参加した川口春恵さん(83)とバウルーに住む小坪崧(たかし)さん(74)だ。 川口さんと小坪さんは互いに相手が交流会に参加しているとは知らず、偶然「福岡県出身者」のテーブルに着いたのだ。2人は1959年2月12日に着伯したオランダ船「チチャレンガ号」の同船者で、対面するのは何と53年ぶりだった。 川口さんは「あっという間に記憶が53年前に戻った。交流会が終わった後もドキドキしたままで、興奮して夜2時まで寝れなかった」と、その時の興奮を語る。 53年前、2人が乗ったチチャレンガ号がブラジルに着いたのは、カーニバルの真っ最中で、小坪さんは家族10人でブラジルの土を踏んだ。川口さんは当時18歳で、崧さんの妹にあたる節子さん(現在の性は松山)と船の中で仲が良かったため、「家族構成や出身地を聞いた時に、すぐに、『あっ、せっちゃんのお兄さんだ』と分かった。今まで忘れていた船の中の思い出が一気に溢れてきた」という。 川口さんは渡伯後の生活をほとんどモジ・ダス・クルーゼス市で送り、80年代後半、旅行会社を開業。これまで6度、日本へ里帰りした。99年から2011年までは愛知県常滑市で、中部国際空港でルフトハンザ航空の通訳を務める息子と共に暮らした。 昨年、12年ぶりに帰伯した理由は、東日本大震災の発生だった。テレビで仙台空港が水に浸かっている映像を見た際、急に目まいがして、動悸(どうき)が収まらず入院した。退院後は、息子の反対を押し切り、すぐにブラジルへと戻ってきた。 川口さんは、バウルーでの運命の出会いを「ブラジルに帰ってきて、ふるさと巡りに参加したかいがあった」と喜びに震える声で振り返った。(つづく、植木修平記者) 2012年4月24日付
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け ふるさと巡り一行が訪れたパラグァスー・パウリスタのエジネイ・ケイロス市長は親日家だそう。「コロニアを重視している。何かイベントがあれば来ますよ。交流会にも来たかったけど都合がつかなかったらしい」と文協会員。ちなみに同地ではこれまで二世の市長が2人、市議が4人出ている。交流会の最後、市役所に勤務する女性が記者の写真を撮りたいというので、「何に使うんですか?」と聞くと「市の新聞に載せます」とか。嬉しいやら恥ずかしいやら…。
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け パラグァスー・パウリスタ文協の会員数は約100家族。会長8年目の佐々田アントニオさん(42、三世)の歓迎の言葉で交流会は幕開けし、食事を交えた歓談が始まった。パ・パウリスタ市は聖市から北西に422キロで、人口4万2千人余り。この地にはかつて「ブンカ」と呼ばれた植民地(以下、文化植民地)が、ソロカバナ線パ・パウリスタ駅の北東約20キロの地点にあった。1920年代半ば、米国に住んでいた約100人の日系人が代表者と資金を送り作らせた。『消えた移住地を求めて』(小笠原公衛著、2004年)によると当時、米国の日系移民は人種偏見からくる排日運動で圧迫され「外国人土地法」で土地の所有を禁じられていた。彼らを救うためブラジルに再移住させようと考えたのが、移民が集中していた米国サンフランシスコに住んでいた森惇吉牧師(故人)だ。森牧師は1919年に各地を視察し、23年に再度訪伯した。これに同行したサンフランシスコに住んでいた輸入商、山田登幸氏(山梨県出身)とともに計画を煮詰め、移住希望者を募ると約100人が応じた。希望者はそのまま米国に待機し、山田氏は個人的な資金を持参して1925年、家族を伴って渡伯した。広さ2060アルケル(約5千ヘクタール)の原生林が生い茂る土地が、北米の応募者たちに分譲された。実際の開拓が始まったのは翌年6月。原生林の伐採、コーヒーの植え付けが進められ、ブラジル国内の他地域からの日系人コロノや「力行会」など日本からの呼び寄せ青年、ブラジル人労働者が作業にあたった。開拓資金は米国の地主から送られしばらくは潤沢にあったという。彼らが北米から入植するときは、コーヒーが収穫できる5年先の予定だった。ところが、27年に持ち上がった地権騒動で開拓作業が遅れ、山田氏が分譲済みの土地を担保に銀行から多額の借金をしていたことから植民地経営は火の車になった。北米の地主達が徐々に入植し始めたのは、騒動が一段落ついた後だった。交流会には、その当時の日系人入植者の子孫も姿を見せていた。西沢裕美さん(80)、ミドリさん(89)夫妻だ。裕美さんは日本生まれ。山梨県出身の父は独身で米国に移住し、日本で結婚。ミドリさんは22年に米国で生まれ、それぞれ3歳、4歳のときに文化植民地に入った。現在の会館のある場所から24キロのところにあった。「原始林で最初は家もなく、板間の家に住んでいました」とミドリさん。「父はアメリカで排斥を受け、土地も買えなかった。それでブラジルに来ていろいろ見て回り、土地と家を買ったみたい。二度とアメリカには戻らないつもりだったようです」。(つづく、田中詩穂記者) 写真=敷地の入り口に立つ鳥居。開拓が始まって7年目に文協ができた/挨拶した佐々田会長 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html