「今でん毎晩飲むばい(今でも毎晩(お酒)を飲むよ)」「ばってん、体にようなかろうもん(だけど、体に良くないでしょう)」―。
バウルー文協が催した交流会では、テーブルを囲んで、普段口にすることのないという福岡弁が飛び交った。だが、ここは中洲(なかす)ではない。サンパウロ州のバウルーなのだ。今回、ふるさと巡りに参加した福岡県出身者は11人。ツアー参加者全体の約1割を占める。それに、バウルーに住む福岡県出身者が加わると、交流会の会場には十数人が集うテーブルが三つほど出来上がった。
「私は朝倉。おたくはどちら」「ウチは八女(やめ)ですたい」と出身地の話題で盛り上がり、コロニア語と博多弁、それに筑豊弁や北九州弁まで合わさったような、ブラジルでしか聞けないイントネーションの会話が印象的だった。
そんな中、「これぞ、デスティーノ(運命)」というべき、出会いを果たした人がいた。ツアーに参加した川口春恵さん(83)とバウルーに住む小坪崧(たかし)さん(74)だ。
川口さんと小坪さんは互いに相手が交流会に参加しているとは知らず、偶然「福岡県出身者」のテーブルに着いたのだ。2人は1959年2月12日に着伯したオランダ船「チチャレンガ号」の同船者で、対面するのは何と53年ぶりだった。
川口さんは「あっという間に記憶が53年前に戻った。交流会が終わった後もドキドキしたままで、興奮して夜2時まで寝れなかった」と、その時の興奮を語る。
53年前、2人が乗ったチチャレンガ号がブラジルに着いたのは、カーニバルの真っ最中で、小坪さんは家族10人でブラジルの土を踏んだ。川口さんは当時18歳で、崧さんの妹にあたる節子さん(現在の性は松山)と船の中で仲が良かったため、「家族構成や出身地を聞いた時に、すぐに、『あっ、せっちゃんのお兄さんだ』と分かった。今まで忘れていた船の中の思い出が一気に溢れてきた」という。
川口さんは渡伯後の生活をほとんどモジ・ダス・クルーゼス市で送り、80年代後半、旅行会社を開業。これまで6度、日本へ里帰りした。99年から2011年までは愛知県常滑市で、中部国際空港でルフトハンザ航空の通訳を務める息子と共に暮らした。
昨年、12年ぶりに帰伯した理由は、東日本大震災の発生だった。テレビで仙台空港が水に浸かっている映像を見た際、急に目まいがして、動悸(どうき)が収まらず入院した。退院後は、息子の反対を押し切り、すぐにブラジルへと戻ってきた。
川口さんは、バウルーでの運命の出会いを「ブラジルに帰ってきて、ふるさと巡りに参加したかいがあった」と喜びに震える声で振り返った。
(つづく、植木修平記者)
2012年4月24日付
