06/03/2026

Dia: 27 de abril de 2012

1日に開かれたパラグアス・パウリスタ文協(佐々田アントニオ会長)との交流会では、戦前に米国から「文化植民地」再移住した人に会うことができた。 日系アメリカ人(2世)である西沢(旧姓、山田)ミドリさん(89)が、両親と共にパラグアス・パウリスタに再移住したのは1925年。3歳の時だった。ミドリさんはカリフォルニア州サンフランシスコ市生まれだが、幼かったために米国での記憶はほとんどない。ミドリさんの父、トウコウさんは山梨出身で、母のカズコさんは九州出身。2人は米国で出会い、結婚した。 後にミドリさんが米国での暮らしについて両親に尋ねたところ、再移住前までサンフランシスコで日本の品物を販売する雑貨店を経営しており、当時は米国で日本人排斥運動による人種差別が横行し「バスに乗るのも後ろの座席と決められており、日本の国旗が踏まれたり、破られたりすることも度々あった」そうだ。 このような状況にうんざりしていたトウコウさんは、親戚と伯国へ再移住を検討。店を売り払い移住資金をかき集め、親戚らと共に「文化植民地」に入った。 ミドリさんの夫、裕美さん(80)もアメリカに移住した両親を持つ。ただ、裕美さんは山梨生まれで、3歳で伯国へ両親と共に再移住している。 ミドリさんは「記憶は定かではないけれど、文化植民地は多い時で500家族ほどいたかもしれない。昔はカフェや綿でにぎわっていたけれど、今この辺に植えてあるのは主にサトウキビですね」としっかりとした日本語で話した。また、文化植民地の特徴については「アメリカから来た人が多かったので、家の中で日本のような封建的な家長制度がほとんどなかった。民主主義で、男性が女性に対して紳士的な場所」だと感じている。 パラグアス・パウリスタ文協には、現在100家族の会員がいるが、日本語を話せる人は少なく、邦字新聞の読者はほぼ皆無。96年に野球場をつぶして文協会館を建てたが、日本語学校はない。文協関係者は「日本語教師が来てくれた時のために、先生の家も用意してあるのだが、学習希望者がいない。日本語教師の給料は英語やスペイン語と比べて安いから、わざわざ奥地で先生をやりたがる人もいないんです」と嘆いていたのが印象的だった。 現在、同地に住む日系は一般のブラジル人と同様に街に仕事が少なく、若い人がどんどん離れていくという悩みを抱えている。ただ、15年前にはマリリアやバストスから毎週末大型バスが何台もやってきていたという温泉が存在しており、来年までには新たなオーナーの下で再開する予定だという。文協の会員らは「温泉ができれば街もにぎわい、仕事も増えるかも」と淡い期待を抱く。 交流会にはパラグアス・パウリスタのみならず、近隣のアシスなどからも10人が参加した。普段からゲートボールやテニス、カラオケなどを通じて親交があるという。(つづく、植木修平記者) 2012年4月27日付
ブラジル・ニッポン移住者協会(小山昭朗会長)は3月17日、聖市立カルモ自然公園で「日伯・絆の森」造りの植樹式を行った。この事業は東日本大震災の約2万人の犠牲者を追悼する意味で企画されたもの。この日は同事業に賛同する各界関係者約100が参加し、犠牲者への思いを込めて苗木の植樹を行った。 植樹式は共催者のオイスカ・ブラジル総局の花田ルイス副会長が司会を務め、同植樹事業の目的や意義が参加者に説明された。続いて小山会長のあいさつがあり、「祖国日本の一日も早い復興を願い、あの震災の多くの犠牲者のことを忘れることなく、亡くなられた一人一人に思いをはせながら魂を込めて皆で木を植えていきたい」と一般の人々の参加と協力を呼びかけた。 その後、犠牲者への冥福と苗木の健やかな成長を祈る神道形式の祈願儀式がしめやかに行われた。あいさつに立ったサンパウロ市緑化・環境局長のエドアルド・ジョージ氏は「リベルダーデの桜の植樹に続いて日系人が率先してこうした植林事業を行い、市の環境改善に寄与していることに感謝している。市もできるだけの協力を約束する」と話した。 また、来賓の神谷牛太郎市議、羽藤ジョージ州議や飯星ワルテル下議代理も同事業への取り組みや日系人のリーダーシップに対して敬意とともに協力していく考えを示した。 来賓には、生徒20人を引率して参加したカリタス学園長のイルマン・ナカガワ・ベルナデッテ校長、中沢宏一宮城県人会長、オイスカ・ブラジル総局の高木ラウル氏、日本から震災の近況を伝えるために来伯していた東北学院大学の上田良光教授や市関係者などが参加していた。 植樹式では、犠牲者に黙とうを捧げた後、全員で自然木の苗木200本が植えられた。カリタス学園のナカガワ校長は「主催者の協会幹部の人たちは皆年配の方たちばかりなのに、元気に使命感溢れる活動をしていて感動した。私も生徒たちも皆さんに見習って、一人の社会人として、また一人の人間として、もっと積極的に社会に役立つような活動をしていきたい。きょうはとても有意義な一日でした」と満足した様子。帰り際には参加者たちがそれぞれの思いを込めながら、現場に置かれた「絆の森」植樹キャンペーンの募金箱に寄付を行っていた。 2012年4月27日付
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け 汎アマゾニア日伯協会の生田勇治会長と堤剛太事務局長が、7月13~15日に開催される『第15回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)』の打ち合わせのために聖市を訪れ、20日に県連の園田昭憲氏、本橋幹久副会長、山田康夫会計と懇談を行った。同祭参加は3回目。記念写真展、特産品販売、マホガニーの種の無料配布などを行ってきた。ニッケイ新聞の取材に対し、生田会長は「まだ具体的なことは決まっていない」と話しながらも「アマゾン日系社会を紹介できる貴重な場。多くの人に興味を持たれるような企画を考えたい」と意気込みを語った。県連の園田会長は「今回の打ち合わせはあいさつ程度のものだったが、発足したばかりの北伯県人会協会も含め、三つの組織の結びつきを今後さらに強めていきたい」と話している。
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け 「オランブラⅡ」で生産されている農産物としてはトウモロコシ、小麦、豆、綿花、大豆などの穀物が最も多く、中でも綿花は聖州で生産されているうちの50%の収穫量を誇る。果樹栽培もそれに次いでさかんで、今はゴイアバと柿のみだが最も多いのが桃。その他スモモ、ネクタリーナ、リンゴなどが栽培されており、各地のスーパーに直接卸している。花も栽培されているが割合はわずかだ。各組合員はそれぞれ広い農地を所有して生産活動を行っている。「そうじゃないとやっていけないからね。果物の生産地としては、州では最大級だと思う」とピーターさんは胸を張る。全伯には聖、パラナ、南大河各州に6つのオランダ移住地があり、毎年7月に相互交流を行っているという。コロニアには約400人のオランダ人子孫がいるが、「メスチッソも多い。子供達は誰も私の後を継がなかったよ」と笑う。オランダ文化を子孫に継承したい思いがあるかと問うと「個人的にはオランダ語を必ずしも勉強すべきとは思わない。むしろ外国語として必要なのは英語やスペイン語でしょう」。コロニアの歴史をみても、「おそらく、今までそういうことを子孫に強制したことは一度もないと思うね」と、ブラジル社会へ融合することの重要性を強調する。「オランブラⅡ」では移住地を見学する観光ツアーを提供する会社もあり、ピーターさんは役員として活動している。国内外から多くの観光客を迎える毎日だ。昼食後は別の花園を見学し、休憩所で一休みした後、一行は宿泊先のホテルがあるアバレーへと向かった。到着後は最後の夕食、手品の余興を楽しんで一日を終えた。 ◎ 最終日の4月3日。この日も朝から日差しが降り注ぐ。一行が宿泊したのはアバレーではレジャーホテルとして有名な「ホテル・ペニンスラ」。緑が多く、部屋にはバルコニーがありプールやサウナ、スポーツコートなどの設備が充実している。朝早く起きた一行はミニ・ゴルフや乗馬などのレクリエーションをしたり、集まって談話するなど、爽やかな空気の中最後のひと時を楽しんだ。齊藤利治さん(71、二世)はふるさと巡りの常連だ。「バウルーがよかったね。私はあそこに生まれたから」と旅を振り返る。親が福岡出身で、「福岡県人会はバウルーに最初にできたんですよ」と語る。齊藤さんは2歳で引越したが、妹は長く住んでいたという。「親戚やドアルチーナの学校に通っていた時代の同級生にも会えた。私たち福岡県系人のグループが一番盛り上がったんじゃないかな」と満足した様子。昼食をとった後、午後1時半頃、一行は大きな荷物を抱えサンパウロに向けて出発した。約3時間後、ほぼ予定通りにリベルダーデ広場に無事に到着。「また会いましょうね」と口々に声を掛け合いながら、一行は解散した。(終わり、田中詩穂記者) 写真=ピーターさん/アバレーのホテルでくつろぐ参加者の皆さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2012年4月27日付け ふるさと巡りの帰りのバス。車椅子で参加した及川君雄さんは、次回のふるさと巡りも既に申し込んだとか。「子供達が花をやってくれているし、元気なうちは外に出たいね」と笑顔で話した。毎回ツアーを企画するグローバル旅行社によると、ふるさと巡りは大人気でいつもすぐに埋まるそう。ツアー内容が決まらないうちから予約を入れる人もおり、団体なので家族も安心して送り出すのだとか。 ◎ 岩手県人会の賛助会員だった石井紅夫さん(82、神奈川)が訪日中の24日午後、東京・浅草のホテルの浴槽内で亡くなっているのが発見された。警察が賛助会会長宅に連絡、県人会関係者を通してブラジルの千田曠曉会長に連絡があった。ホテルに帰る前には神奈川在住の賛助会員と食事を楽しんでいたという。「会報の校正を頼んだこともある。お酒も風呂も好きだったからねえ…」と千田会長はその死を悼んでいた。