ニッケイ新聞 2012年4月26日付け パラー州内14の県人会(支部含む)が加盟する『北伯県人会協会』がこのほど誕生した。一世会員が高齢化で日本語での母県とのやりとりが困難になった会が多いことから窓口を一本化、事務局が新たに汎アマゾニア日伯協会事務所内に設置される。1日にあった初会合で正式発足した。活動資金は各会に分担金の負担を求める方針で25日の理事会で決定する。初代会長に選任された山本陽三氏(北伯香川県人会)は本紙の取材に「一世が少なくなっている今が設立最後のチャンス。日系社会の貴重な財産である県人会を二世に引き継ぐことが我々の役目。まとまることで県人会の活動も活性化できれば」と意気込んだ。 州内で実質的な活動をしている県人会は20あるが、ほとんどの連絡先は個人宅。一世の高齢化が進み、対応が困難になった県人会の増加を受け、統一組織の設立へとつながった。加盟を決めたのは、北海道、福島、秋田、岩手、山形、群馬、栃木、静岡、山口、広島、香川、熊本、福岡、宮崎の14県人会。協会顧問に就任した堤剛太氏(汎アマゾニア日伯協会事務局長)は「残る6県人会は、これから役員が直接訪問し、説得していく」と全会加盟を目標に置き、結束を強めていく考えだ。会の名称は、準備段階で使用されていた「東部アマゾン県人会連絡協議会」と「北伯県人会連合会」の候補があったが、意見交換の結果、折衷案としてあった「北伯県人会協会」が採用された。毎年、日伯協会が中心となって開催される七夕祭り(7月)や日本週間(9月)などイベントへの参加も積極的に進めていく考え。今年7月にサンパウロである『県連日本祭り』には、山本会長や越知恭子副会長(北伯広島県人会長)も視察のため来聖する。汎アマゾニア日伯協会、アマゾニア日伯援護協会、アマゾナス日系商工会議所を〃ベレン日系御三家〃に挙げる堤顧問は「違う組織であっても会員は同じなので連携はとりやすい。4つめの大事な団体になることを期待したい」と話した。 「全コロニア活性化に」=県連園田会長も歓迎の意 「よくやってくれたと言いたい」―。そう喜びのコメントを寄せたのは、ブラジル日本県人会連合会の園田昭憲会長。「広すぎるブラジルで北部の県人会をまとめる組織ができたことは非常に意味がある。サンパウロとの交流も含め、日系社会全体の活性化につながる」と歓迎の意を示し「県連の持つ46年の経験を伝え、国内だけでなく国際交流にも協力したい」と全面支援の姿勢を見せた。
Mês: abril 2012
バウルー文協の会員は約250家族。現在は2世や3世が中心となって活動している。交流会が行われた同協会の会館の壁には各団体のスケジュールがぎっしり書かれた紙が張られており、会館では婦人会、老人会、生け花、将棋、太鼓「無限響」、卓球、歌謡愛好会、俳諧、楽団、剣道、フットサルなどの活動が活発に行われている。 会館は1936年に完成。その後、改装を行っていることもあり全く築年数を感じさせない。場所もセントロにほど近いモンセニョール・クラーロ街に位置しており、立地も良い。 ふるさと巡り参加者の中に、この場所に強く引き寄せられた女性がいた。山田(旧姓・島田)アキコさん(77、2世)は交流会が始まるとすぐに「サンタ・カーザはどこにあったのですか」とバウルー在住の人に質問し、「この会館の裏よ」と返事が帰ってきた。その言葉を聞いた山田さんは「奇跡だ。父と母が私をここに連れてきてくれたんだ」と強く感じたという。 山田さんの父親、太郎さんは大阪出身で、母親の綾子さんは東京出身。共に教師だった。「日本語教師として来伯してくれないか」と声が掛かり、2人は渡伯。34年に山田さんがバウルーで生まれた。出生時は未熟児だったために、産湯につけた叔父が「この子は大きくなるまで育たないだろう」と言い、棺桶用に小さな桐の箱が準備されたという。その時、生まれた場所こそが、今、自分が立っている文協会館の場所だったのだ。 山田さん一家はバウルーを2年ほどで離れ、その後はポンペイアで暮らした。当然、山田さんにはバウルー時代の記憶はない。5歳の時に父親が他界し、山田さんは2歳でバウルーを離れて以来、一度もこの地を訪れたことはなかった。山田さんは何度も何度も「うれしい、うれしい」と繰り返し、「生まれた時は体が小さかったけれど、私は死ぬことはなかった。77歳まで長生きしたからこんな運命が訪れた。ふるさと巡りでバウルーに行くことは知っていたが、まさか自分が生まれた場所に来られるなんて」と話し、「帰ったらバウルーでのことを子どもに教えなきゃ」と笑った。県連のふるさと巡りは、移民の足跡をたどるばかりではなく、自身の人生にもう一度出会う旅でもあるようだ。 (つづく、植木修平記者) 2012年4月25日付
ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 【信濃毎日新聞】かつて外国籍市民が県内最多だった上田市で、ブラジル人市民が昨年度末、3町村と合併した2005年度以降の年度末統計で初めて1千人を割り込んだ。同市市民課などによると、08年秋のリーマン・ショック以降の景気低迷で、経済成長が続く母国に帰国したり、求人が多い他の都道府県へ移住したりする人が相次いでいるという。市内ではブラジル人を対象にした学校や食料品店が経営難で閉店するなどの影響が出ている。同課によると、ことし3月末の市内在住ブラジル人は前年同期比183人減の985人。05年度末の3202人の3分の1以下だ。外国籍市民全体でも03~09年までの7年間は上田市が県内市町村で最多だったが、10年末は4066人と前年同期より434人減少。松本市が4089人で7年ぶりに上回った。市内では、主にブラジルの香辛料や酒などを扱っていた食品店「エンポリオ・インターナショナル」(上田市常磐城5)が、3月上旬までに閉店。月1回ほど買い物に来ていた市内の50代の日系ブラジル人女性は「仲間が減るのは寂しいが、上田には仕事が少ない」と話す。同市材木町のブラジル食品店「リアル」の従業員で、日系ブラジル人の江川良美さん(49)は「同業者が閉店しても、客が増えない」とため息をつく。昨年12月には、上田小県地域のブラジル人の子どもらにポルトガル語の教育をしていたブラジル人学校「ノボ・ダマスコ」(上田市芳田)が閉校。江川さんは「ポルトガル語教育を希望して帰国した友人も多い」と説明する。1990年の改正入管難民法施行により日系2、3世の日本での就労制限がなくなったことを背景に、上田市には職を求めるブラジル人が増えた。市市民課によると、90年12月~2011年3月は同市の外国人登録者の中で最も多かったが、11年4月末に中国人が最多に。ことし3月末時点での登録者は多い順に中国、ブラジル、韓国・朝鮮籍となっている。県国際課によると、1989年以降、県内の外国籍市民は05年末の4万4726人をピークに減り続けており、11年末は3万3521人。ブラジル人も1万7911人から7679人に減った。伊那市と塩尻市のブラジル人学校が合併に向け動きだすなど、各地に影響が出ている。
ニッケイ新聞 2012年4月25日付け 「父は数十年アメリカに住んでいたので英語の雑誌などは読めましたが、発音が下手だった。だから子供には先にブラジル語を覚えさせてから日本語を教えようと思ったんでしょうね」と西沢ミドリさん。当時の入植者について「アメリカから来た人が多かったのでみんなアベルタでしたね。家父長制のようなものはなかった」と振り返る。「32、3年頃、文化植民地ではコーヒーが売れず畑を焼いたりしたが、その後は綿やアメンドインを作っていた」。『消えた移住地』によれば当時コーヒーは大暴落したが、文化植民地では主作を綿に転換したところ数年後には綿景気が到来したという。この機をとらえ37年、「綿花協同販売組合」が創立され、39年には「パ・パラグァスー生産組合」に発展。精綿出荷量は、40年頃はバストスやアバレーを凌駕したほどだった。しかし組合は開戦とともに経営介入を受け、ブラジル人経営者のずさんな経営の結果、解体に追い込まれた。戦争が終わると綿景気は去り、残ったのは地力の低下した土地だけだった。結局、文化植民地には北米から入植を予定していた地主の半分も入植しなかったことになる。再移住を考えていた人が地権問題などに不安を感じ、教育の問題もあり米国を離れにくくなるうちに戦争が始まり、収容所に送られるようになってしまったからだ。戦争の前後から不在地主が土地を手放し始め、残った土地は山田氏が管財した。戦後は地力の低下に加え指導者らの死去、大霜、生産費の高騰などで多くの人が他地域へ転出し、65年には入植者は10家族程度に減っていた。西沢夫妻によれば現在、文化植民地時代に地主らが購入した土地は、今では牧場やサトウキビ生産のために貸し出されているという。57年からパ・パウリスタに住む伊藤久年さん(86、北海道)は「30年代は伯人が日本語を覚える必要があるほど日本人が多かったようだが、今は一世の男は私くらい」とつぶやいた。「大学を出ても田舎には仕事がない。留守家族のようになりますね。若者はいますが、活動の中心にはならない」しかし現在の佐々田会長が活動の刷新を図っているといい、1997年9月に落成した会館は「田舎にしては立派ですかね」と伊藤さん。同文協ではプ・プルデンテ、アルバレス・マシャード、オウリーニョスなどの団体と交流があり、ゲートボール、芸能祭、カラオケなどが行われている。よく行事を共に開催するという、同地から約30キロのアシス文協から交流会に訪れた西沢洋さん(69、二世)は「こことは兄弟のようなもんですね。運動会は今年で12回目になります」と笑顔を見せた。47年に同地に生まれ、サンパウロ州立大学の教員としてボツカツで働いた評議員会長の丸林オズワルドさん(65、三世)は「ここに日系人は少ないが、先人から受け継いできた日本の伝統を守ろうとしている。良い思い出を持って帰ってください」と舞台で一行に挨拶していた。「60年代、コロニアは大きかった」と振り返る。戦後は、気候や土地がよかったため商、農業、牧畜などをやるために他地域から移った人も多かったという。同地に現在日本語学校はない。幼少の頃通ったという丸林さんは「学びたい若者がいない。運営は難しいね」と静かに語った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=左から西沢洋さん、参加者のイデ・ムンドさん、丸林さん、西沢裕美さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
「今でん毎晩飲むばい(今でも毎晩(お酒)を飲むよ)」「ばってん、体にようなかろうもん(だけど、体に良くないでしょう)」―。バウルー文協が催した交流会では、テーブルを囲んで、普段口にすることのないという福岡弁が飛び交った。だが、ここは中洲(なかす)ではない。サンパウロ州のバウルーなのだ。今回、ふるさと巡りに参加した福岡県出身者は11人。ツアー参加者全体の約1割を占める。それに、バウルーに住む福岡県出身者が加わると、交流会の会場には十数人が集うテーブルが三つほど出来上がった。 「私は朝倉。おたくはどちら」「ウチは八女(やめ)ですたい」と出身地の話題で盛り上がり、コロニア語と博多弁、それに筑豊弁や北九州弁まで合わさったような、ブラジルでしか聞けないイントネーションの会話が印象的だった。 そんな中、「これぞ、デスティーノ(運命)」というべき、出会いを果たした人がいた。ツアーに参加した川口春恵さん(83)とバウルーに住む小坪崧(たかし)さん(74)だ。 川口さんと小坪さんは互いに相手が交流会に参加しているとは知らず、偶然「福岡県出身者」のテーブルに着いたのだ。2人は1959年2月12日に着伯したオランダ船「チチャレンガ号」の同船者で、対面するのは何と53年ぶりだった。 川口さんは「あっという間に記憶が53年前に戻った。交流会が終わった後もドキドキしたままで、興奮して夜2時まで寝れなかった」と、その時の興奮を語る。 53年前、2人が乗ったチチャレンガ号がブラジルに着いたのは、カーニバルの真っ最中で、小坪さんは家族10人でブラジルの土を踏んだ。川口さんは当時18歳で、崧さんの妹にあたる節子さん(現在の性は松山)と船の中で仲が良かったため、「家族構成や出身地を聞いた時に、すぐに、『あっ、せっちゃんのお兄さんだ』と分かった。今まで忘れていた船の中の思い出が一気に溢れてきた」という。 川口さんは渡伯後の生活をほとんどモジ・ダス・クルーゼス市で送り、80年代後半、旅行会社を開業。これまで6度、日本へ里帰りした。99年から2011年までは愛知県常滑市で、中部国際空港でルフトハンザ航空の通訳を務める息子と共に暮らした。 昨年、12年ぶりに帰伯した理由は、東日本大震災の発生だった。テレビで仙台空港が水に浸かっている映像を見た際、急に目まいがして、動悸(どうき)が収まらず入院した。退院後は、息子の反対を押し切り、すぐにブラジルへと戻ってきた。 川口さんは、バウルーでの運命の出会いを「ブラジルに帰ってきて、ふるさと巡りに参加したかいがあった」と喜びに震える声で振り返った。(つづく、植木修平記者) 2012年4月24日付
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け ふるさと巡り一行が訪れたパラグァスー・パウリスタのエジネイ・ケイロス市長は親日家だそう。「コロニアを重視している。何かイベントがあれば来ますよ。交流会にも来たかったけど都合がつかなかったらしい」と文協会員。ちなみに同地ではこれまで二世の市長が2人、市議が4人出ている。交流会の最後、市役所に勤務する女性が記者の写真を撮りたいというので、「何に使うんですか?」と聞くと「市の新聞に載せます」とか。嬉しいやら恥ずかしいやら…。
ニッケイ新聞 2012年4月24日付け パラグァスー・パウリスタ文協の会員数は約100家族。会長8年目の佐々田アントニオさん(42、三世)の歓迎の言葉で交流会は幕開けし、食事を交えた歓談が始まった。パ・パウリスタ市は聖市から北西に422キロで、人口4万2千人余り。この地にはかつて「ブンカ」と呼ばれた植民地(以下、文化植民地)が、ソロカバナ線パ・パウリスタ駅の北東約20キロの地点にあった。1920年代半ば、米国に住んでいた約100人の日系人が代表者と資金を送り作らせた。『消えた移住地を求めて』(小笠原公衛著、2004年)によると当時、米国の日系移民は人種偏見からくる排日運動で圧迫され「外国人土地法」で土地の所有を禁じられていた。彼らを救うためブラジルに再移住させようと考えたのが、移民が集中していた米国サンフランシスコに住んでいた森惇吉牧師(故人)だ。森牧師は1919年に各地を視察し、23年に再度訪伯した。これに同行したサンフランシスコに住んでいた輸入商、山田登幸氏(山梨県出身)とともに計画を煮詰め、移住希望者を募ると約100人が応じた。希望者はそのまま米国に待機し、山田氏は個人的な資金を持参して1925年、家族を伴って渡伯した。広さ2060アルケル(約5千ヘクタール)の原生林が生い茂る土地が、北米の応募者たちに分譲された。実際の開拓が始まったのは翌年6月。原生林の伐採、コーヒーの植え付けが進められ、ブラジル国内の他地域からの日系人コロノや「力行会」など日本からの呼び寄せ青年、ブラジル人労働者が作業にあたった。開拓資金は米国の地主から送られしばらくは潤沢にあったという。彼らが北米から入植するときは、コーヒーが収穫できる5年先の予定だった。ところが、27年に持ち上がった地権騒動で開拓作業が遅れ、山田氏が分譲済みの土地を担保に銀行から多額の借金をしていたことから植民地経営は火の車になった。北米の地主達が徐々に入植し始めたのは、騒動が一段落ついた後だった。交流会には、その当時の日系人入植者の子孫も姿を見せていた。西沢裕美さん(80)、ミドリさん(89)夫妻だ。裕美さんは日本生まれ。山梨県出身の父は独身で米国に移住し、日本で結婚。ミドリさんは22年に米国で生まれ、それぞれ3歳、4歳のときに文化植民地に入った。現在の会館のある場所から24キロのところにあった。「原始林で最初は家もなく、板間の家に住んでいました」とミドリさん。「父はアメリカで排斥を受け、土地も買えなかった。それでブラジルに来ていろいろ見て回り、土地と家を買ったみたい。二度とアメリカには戻らないつもりだったようです」。(つづく、田中詩穂記者) 写真=敷地の入り口に立つ鳥居。開拓が始まって7年目に文協ができた/挨拶した佐々田会長 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
Escrito por Kenia Gomes Seg, 23 de Abril de 2012 14:11 Nos dias 28 e 29 de...
ボツカツ文協を後にしたふるさと巡りの一行が、次に目指したのは、同地から約95キロ離れたバウルー市。同市の人口は34万5000人で、平均海抜は526メートル。天理教のブラジル伝道庁があることでも有名だ。 1926年ごろ、バウルーはソロカバ、パウリスタ、ノロエステ3線の交差点となって開拓前線へ向かう人々が集う町として繁栄の途をたどっていたが、市の周辺は土地がやせており、日本移民の大植民地とまではならなかった。また、第二次世界大戦前は領事館が置かれていたこともあり、日系人の数も多いが、意外なことにふるさと巡りで訪れるのは初めてとなる。 同地に邦人が第一歩を印したのは、14年5月。郊外ブラジリア耕地に入植した高知県人の桑名正樹氏であるといわれている。翌15年にはペルーから来た滋賀県人、沢尾磯七氏と北山吾一氏が共同で駅前に旅館を開業した。17年には、福岡県人の柳実太郎氏が雑貨商を開店している。第1回移民の香山六郎氏が同市で「聖州新報」を創刊したのは21年だった。 このころ、在住日本人の数は5家族のみだったが、33年には116家族が同地に移り住んだ。25キロ離れたチビリッサ移住地にも17家族が入り、同市郊外にバタリア移住地などができ、しばらく綿花栽培が盛んになった。現在、同市には2400家族の日本人及び日系人が住んでいると言われている。 一行がバウルー日伯文化協会会館に着いたのは午後7時過ぎ。市内中心地に建つ同会館には約160人の会員が集い、ふるさと巡りの一行を出迎えた。 最初に、先没者追悼法要が行われ、南米東本願寺の伊藤功導師による読経がなされる中、全員が焼香を行った。伊藤氏は愛知県出身で、日本でブラジル人女性と結婚。数年前に妻の故郷であるバウルーに移住した。日本では家業を手伝うなどしており、バウルーに来てから住職の道を選んだ新移民。「まだまだポルトガル語は上手ではないが、バウルーの日系人の皆さんに助けられている」と話していた。 法要の後、あいさつに立った老人クラブ副会長の益山義則さんは「同じ県人ならば家族のような温もりがある。故郷の話をして楽しい夕べを過ごしましょう。できるだけ同県人同士で座ってください」と、臨時で「同県人の集い」を提案した。益山副会長によると、「バウルーで最も多い県人は福岡で、続いて北海道、新潟、和歌山」だという。 またボツカツに続いて、本橋幹久県連副会長が、バウルー文協会長の園田ネルソン会長に県連のフェスティバル・ド・ジャポンのDVDなどを渡し、同地でも県連の活動を伝えた。 この後、各県別に分かれて座った食事会では、ふるさと巡りの醍醐味(だいごみ)の一つで、本人が「まさに、デスティーノ(運命)。どきどきして午前2時まで眠れなかった」という奇跡の出会いが待っていた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月21日付
沖縄県と世界をつなぐ人材の輩出などを目的とした「第1回世界若者ウチナーンチュ大会」が7月25日~同29日、聖市のブラジル沖縄県人会館及びジアデーマ市の沖縄文化センターで開催される。 同大会は、昨年10月に沖縄県で開かれた第5回世界のウチナーンチュ大会で初となる「若者国際会議」により世界8カ国の代表が議論した結果、開催を発表したもの。 世界の懸け橋となる人材輩出をはじめ、交流を通じたウチナーグチ(沖縄方言)、沖縄人としてのアイデンティティー及び伝統芸能の継承や、ネットワークを活用した事業展開によりビジネスへと発展させることなどが大きな狙いだ。 今年3月現在で、日本、ブラジルをはじめ、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、アメリカ(ハワイを含む)、イギリスの7カ国が参加を表明しており、メキシコ、フランス、フィリピン、中国が調整中だ。 大会では、スポーツ交流、シーサー作り、映像フェスティバル、ウチナーグチ替え歌カラオケ大会、国際会議、移民勉強会や郷土祭りなどが5日間にわたって実施される。 同大会開催について与那嶺真次沖縄県人会長は、ブラジルで若者たちのウチナーンチュ大会が初めて行われることの大切さを強調。現在、伯国内に留学生OB組織の「うりずん」、各市町村留学生OB、ジュニアスタディツアー、ニーセーター(青少年)ツアーなどで日本での生活を体験した数多くの県系子弟がいることに触れ、「今はインターネットで国際的なネットワークが築ける時代。若い人たちが三線や太鼓、琉球舞踊など沖縄の文化に関心を持ってもらえることはうれしいこと」と述べ、喜びを示している。 なお、母県の沖縄県人子弟11人をホームステイ方式で受け入れるブラジルで初めての「ホストファミリー事業」も7月21日から同31日まで実施され、第1回世界若者ウチナーンチュ大会のプログラムの一部に参加するという。 2012年4月21日付
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け ブラジル茨城県人会(小林操会長)は敬老会を29日午前10時から、同会館(Rua Bueno de Andrade, 756)で開く。75歳以上の会員が対象で参加費は無料。毎年開催されているもので、昼食を食べながらの歓談や、ビンゴなどレクリエーションもある。家族の同伴も可能。詳細は同県人会(3209・8515)まで。
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 松尾芭蕉の遺徳を偲び、芭蕉翁顕彰会(三重県)が『芭蕉翁献詠俳句』を実施するにあたり、作品を募集している。投句料無料、締め切り7月31日(必着)。【募集作品・部門】①一般の部=季節は問わない、②テーマの部=「水」にまつわるもの。未発表の自作に限り、類句・類想句・二重投句は受け付けない。【応募方法】郵便葉書または同型で同様の厚みの用紙を使用し、部門別に応募する。1枚につき2句まで記入、各部門10句まで投句可能。楷書で丁寧に記入し、難解な文字にはふりがなをつける。表に自分の郵便番号・住所・氏名とふりがな・俳号(ある人だけ)・電話番号、裏には希望選者名を明記の上、次のあて先に送付する。作品は返却されない。芭蕉翁献詠俳句係〒518―8770 三重県伊賀市上野丸之内117―13【選者】①一般の部=有馬朗人、稲畑汀子、茨木和生、宇多喜代子、岡崎光魚、小澤實、鍵和田?子、金子兜太、倉田紘文、塩田薮柑子、西村和子、長谷川櫂、星野椿、正木ゆう子、三村純也、宮田正和、②テーマの部=片山由美子。【賞】特選者には賞状および副賞、入選者には賞状を授与。受賞式は10月12日の芭蕉祭で行なわれ、同日サイト(www.ict.ne.jp/~basho-bp)でも発表がある。問い合わせは広田さん(11・2362・2903)、同会(Eメール=basho-bp@ict.ne.jp)まで。
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 2日目の4月1日の朝8時。早々に起きて朝食を済ませた一行はホテルをチェックアウトし、バウルー近くの次の目的地「ピラチニンガ温泉」へ向けて出発した。約30分後に到着。入ってみると広々とした施設は緑があふれ、朝の爽やかな空気がすがすがしい。プールのほか、テニスやバスケットコート、遊歩道などもある。椰子の木が両脇に並ぶ道を歩きながら、一行は施設の説明を受けた。従業員によると同地に温泉があることがわかったのが1970年代。石油を採掘していたときに偶然発見されたという。990メートル下から湧き出る天然温泉で、42度の湯が36度ほどに調整され、プールに流れているとか。その他冷たい真水や塩分が含まれている水など様々な露天のプールがあり、入浴希望者はおのおの持参した水着に着替え、簡単な健康診断を受けた。少し入って「出ると寒いね~」と言いながら引き返したり、入浴しなかった人は施設内のバールで軽食を取ったりと、それぞれ楽しんでいた。「バウルーには沖縄の人がたくさん来ていたね」と話していたのは一行の高良幸一さん(76、沖縄県那覇市)=聖市在住=。県人の会が2つあるほど沖縄県人が多いバウルーで交流を楽しんだようだ。1955年にいとこと2人で来伯した高良さんは、聖州オリンピアに1年滞在した後、12年住んだジャーレスでの知人と17年ぶりに会ったという。「向こうから話しかけてくれた。バウルーに住んでいると知らなかったので驚いた」町に出るときは、よく一緒に待ち合わせて出かけていった仲だった。「沖縄でも二、三世が多くてあまりわからないようだったけど、良かったね」と笑顔を見せる。ふるさと巡りに、夫の保己さん(84、鹿児島)と初めて参加した中山道子さん(77、二世)は「塩で体が浮いて気持ちよかった! 肩こりが治りましたよ」と嬉しそう。バールでビンゴ大会を楽しみ、昼食を済ませた一行は午後2時頃、施設を出発。約200キロの道程をバスは走り約3時間後、パラグァスー・パウリスタ市に到着した。閑静な民家の中から見えてきたのは、静かにそびえ立つ素朴で大きな鳥居だ。「ACEPP 1933年設立」という文字が刻まれている。「パラグァスー・パウリスタ文化体育協会」会館がある敷地内には運動場やいくつかの建物があり、広々としている。バスを降りた一行は、集まった30人ほどの地元日系人に握手で迎えられた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=ピラチニンガ温泉でリフレッシュした一行/パ・パウリスタ文協会館入り口で出迎えを受けた この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2012年4月21日付け 京都ブラジル文化協会の森田嘉一会長が昨年4月、中米ニカラグア共和国の、在京都名誉総領事を拝命し、同国駐日全権大使のサウル・アラナ氏から任命状を授与された。京都ラテンアメリカ協会が年に一度発行する会報で報じられている。森田会長は1978年から既に在京都メキシコ合衆国名誉領事も務めており、2カ国から名誉ある地位を委嘱されるのは極めて異例だという。
L.S.O. foi a primeira brasileira a se beneficiar do Acordo de Previdência Social entre Brasil e Japão,...
Em missão oficial à Moçambique, a comitiva brasileira liderada deputado federal Luiz Nishimori (PSDB-PR), participou, no último...
Programa de Treinamento Nikkei Ano Fiscal de 2012 (2º Sem.) Programa de Bolsas de Estudos e Treinamento...
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ボツカツ文協には約120家族の会員がおり、日本人の多くは(サンパウロ州立総合大学(UNESP)などの教育関係の仕事に従事している。近年では、若年層は仕事で聖市に出ることが多いが、退職後にボツカツへと戻ってくる人も多いという。 文協の活動は日本祭り「友達」だけにとどまらず、ゲートボール、運動会、餅つき、敬老会、パソコン教室など幅広い。この日は婦人部を中心に、約40人が交流会に出席した。ふるさと巡りの一行は、婦人部が昨晩から作った日本食をほおばりながら「各地の婦人部の食事が食べたくて参加しているようなものだ」と笑い合っていた。 同地は梅の栽培でも知られており、「第39回山本喜誉司賞」を受賞した台湾移民の孫河福さん(83)が、ブラジルでこれまで誰もできなかった梅干(台湾梅)の普及に成功している。交流会に参加した孫さんは「日本の梅はサンタ・マリーナ耕地に合わなかった。小粒な台湾梅だと育った」と当時を振り返った。 会ではコチア青年同士の出会いもあり、ツアーに参加した上林よしたかさんと荒木しげたかさんは、ボツカツのコチア青年と初対面ながら、これまでのブラジルでの人生について花を咲かせていた。「初めて会ってもコチア青年同士なら家族のような気持ちになる。これまでの生活を聞き、『お互い頑張ってきたよな』と思い、うれしくなる」と話す。 食事の後には、ボツカツ婦人部による花笠音頭が披露され、最後には炭坑節を輪になって全員で踊り交流会は幕を閉じた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月20日付
ニッケイ新聞 2012年4月20日付け ブラジル京都会(杉山エレナ会長)の「2012年度定期総会」が29日午前10時半(第二次召集)から、松原ホテル(Rua Cel. Oscar Porto, 836, Paraiso)のレストランで行われる。今年は、同会の前身「ブラジル京都クラブ」創立60周年を迎えるにあたり、総会後正午から記念祝賀会が開かれる。会費は50レアル。問い合わせは大野(11・3209・5905)、杉山(同・5011・8134/同・8632・9526)まで。
