ブラジル京都会(杉山エレーナ会長)は29日、聖市パライゾ区の松原ホテル(Rua Coronel Oscar Porto, 836)で2012年度定期総会を開催する。第1次招集は午前10時。第2次招集は午前10時半から。 総会では11年度会計及び事業報告が行われ、12年度の予算案が事業計画と共に審議される。同会は今年、京都クラブ時代から数えて創立60周年に当たる。 2012年4月19日付
Mês: abril 2012
リベルダーデ広場から出発したバスは、1人の遅刻者により若干出発が遅れたが、約4時間をかけ聖市から約240キロ離れたボツカツ市に定刻通り到着した。朝早いこともあり、バスの中はしんと静まり返り、ほとんどの参加者が眠っていた。 ボツカツ市は人口約13万人の小さな街だが、最初に笠戸丸で渡伯した人が入った六つの配耕地の内の一つ。一行が同市で最初に訪れたのは、ボツカツ日伯学生寮。バスを降りると、ボツカツ文協の坂手実評議員長が参加者を出迎え、「1989年にサンパウロ州立総合大学(UNESP)に通う日系の子弟のために建設され、現在は男性20人、女性17人の合計37人が入居している」と学生寮について説明した。参加者らは熱心に聞き入り、「立派な寮ねえ」と建物を見上げていた。 同市はUNESPの農学部など4学部を抱えており、学生寮には非日系の学生も多く入居している。しかし、坂手評議員長は「最近は寮が増えてきて、この寮に入る学生はだんだんと減少している」と話した。 ボツカツ文協では、3年前から日本文化を紹介する日本祭り「友達」が行われており、今年も6月1~3日に実施される。県連との結びつきも強くなっており、今後は聖市の団体とさらなる交流の活性化が期待されている。今年の日本祭り「友達」では1万5000人の入場者を見込んでいる。 学生寮を後にし、一行を乗せたバスは、大人の背丈をはるかに越えるほど大きく成長したミーリョ(トウモロコシ)畑の中を進んでいく。畑の中に突然現れた木製の鳥居に参加者らは驚かされたが、その場所がボツカツ日本文化協会会館だった。バスの運転手が長年培った運転技術で車体ギリギリの鳥居をすり抜けると、そろいの法被を着た会員らが笑顔で迎えた。(つづく、植木修平記者) 2012年4月19日付
ニッケイ新聞 2012年4月19日付け 土曜日(21日) 第20回全伯虚子忌俳句大会、午前10時、リベイロン・ピーレス文協(Rua Primeiro de Maio, 56)◎青葉祭り、午前7時、宮城県人会館(Rua Fagundes, 152, Liberdade) 日曜日(22日) ペデレイラ文協家族慰安大運動会、午前9時、マウア市ジャルジン・マリンガ区の運動場(Av. Benedita Franco da Veiga)◎愛知、和歌山、滋賀、大分県人会共催「屋台祭り」、午前11時、愛知県人会館大サロン(Rua Santa...
ニッケイ新聞 2012年4月19日付け 『歩み』によれば、バウル―に領事館が設置されたのは1921年1月。28年には市内に22家族、30年には34家族が住み、31年頃から日本人植民者が棉栽培のため借地を始めた。33年にノロエステ、パウリスタ、ソロカバナ三線在住日本人の連絡機関として領事館内に連合日本人会が組織され、バウル―の日本人会の創立は36年2月。2年後は「バウル―中央日本人会」が発足した。そんな時代にバウル―に住んでいたのが参加者の草川一郎さん(79、二重国籍)=マリンガ在住=だ。聖州ドアルチーナ生まれで、1935年から5~6年同地で過ごしたことから、バウルー在住の市川千恵子さん(70、二世)と会話を弾ませていた。千恵子さんの父はバナナの行商をしており草川さんの父も店を経営しながら手伝った。バウルーから約50キロ離れたジャウー市で生産され、汽車で運ばれてきたものを売ったという。「バナナは早く熟れるから早く売らないといけないので、大きな声で二人して売り歩いていましたよ。あの頃はコーヒーも棉もよく取れた」(草川さん)戦後、草川さんは家族と共にマリンガーへ。41年にバウルーで生まれた千恵子さんを伴い、市川さん一家も同時期に移り顔見知りになった。「あの頃マリンガはセントロしかなく、まだまだ田舎。道はアスファルトじゃないから、赤土で洗濯物が真っ赤になった。道路も汽車もなくバスもない。バウルーに帰りたいと思っていましたね」と笑う千恵子さん。草川さんも「我々の親たちの時代は本当に苦労したはず」としみじみ。千恵子さん一家は1年半後に再びバウルーに戻ったが草川さん一家はマリンガーに留まり、野菜作りやバール、パダリアを経営するなどした。天理教の教会でたまに会うこともあったというが、千恵子さんの夫でバウルー生まれの哲夫さんとは初対面。二人は同地で結婚後、養鶏や不動産業などを営み、5年前に引退した。哲夫さんはかつて文協会長も務めたが「日本語ができず苦労しました」と3人は談笑していた。バウルー在住の小坪崧さん(74、福岡)と一行の川口春恵さん(愛媛、80)=モジ在住=は同船者で、半世紀ぶりの再会。59年2月「チチャレンガ号」で着伯。小坪さんは当時20歳で家族は10人だった。「お父さんの面影があるなって、見てすぐに分かった」と喜んだ川口さん。笑顔で写真に収まっていた。(つづく、田中詩穂記者) 写真=和気藹々と会話を楽しんだ草川さん、市川さん夫妻(左から) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
Escrito por Kenia Gomes Qua, 18 de Abril de 2012 15:28 Depois de conquistar o hexacampeonato brasileiro...
日本移民の植民地を巡るブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催の「移民のふるさと巡り」が3月31日~4月3日の3泊4日の日程で行われ、旅好き122人がバス3台に分乗して聖州内の移住地を周遊した。同ツアーには毎回参加する人も数多くおり、回を重ねるごとにファンを増やし続けている。37回目を迎える今回は、かつてコーヒーや綿花の栽培で有名だったボツカツ、バウルー、パラグアスー・パウリスタの3カ所を訪ね、各地の移住地で日本人会の会員らと交流を深めた(植木修平記者)。 中には数十年ぶりに運命の再会を果たす参加者もおり、「参加して良かった」と笑顔を見せていた。一行は、オランブラⅡの果樹園ではビニールハウスいっぱいに咲き誇る色とりどりの花に酔いしれ、アバレーでは聖市では味わうことのできない静かな環境で自然を満喫。晴天に恵まれた4日間の旅で様々な人と出会い、見聞を広めていた。 ふるさと巡りに同行したサービス・グローバル旅行社の渥美誠社長は「今回はサンパウロ州内の旅で、これまでと比べてゆっくり巡ることができたと思う」と話す。同ツアーは高齢化が進む日系社会に反比例して、年々参加者が増えているという、県連の「大当たり企画」。 1908年以降、約70年にわたって日本からやってきた日本移民はブラジル各地に散らばったが、「ふるさと巡り」はそれぞれ入植した土地でどのような生活をしてきたのか、彼らの足跡をたどる旅であり、その土地で築いた歴史を知る貴重な機会だ。 1988年の日本移民80周年を記念して始まり、県連が訪問先の移住地を選定し、同社が日程などを組む。第4回までは聖州内の移住地を巡っており、98年に初めて外国の移住地ペルーを訪れた。 この企画に長年携わっている県連の伊東信比古さんは、今回の移住地の選定について「今回のツアーはサンパウロから近い所を巡るが、バウルーなどは、これまでふるさと巡りで行っていなかった。ボツカツも笠戸丸移民が入植した場所。どうしても交流を持ちたかった」と話す。 3月31日午前7時半、参加者を乗せた3台のバスは、薄い霧のかかった聖市のリベルダーデ広場を出発し、最初の目的地であるコーヒーの移住地、ボツカツへと向かった。(つづく) 2012年4月18日付
【福岡発・吉永拓哉福岡支局長】福岡県福岡市を訪れた谷広海さん(日本語センター前理事長)と涼子夫人を歓迎しようと、ブラジルにかかわりの深い友人たちが集い、16日夜、本紙福岡支局横のレストランで『南米の集い』を行った。 これには板橋元昭元福岡県議会議長、高山博光福岡市議、学移連OBら約50人が参加した。南米の集いでは、はじめに谷さんの講演が行われ自身が暮らすマセイオ市の写真などをスクリーンで紹介しながら、異国の地でリゾートホテルなどを築いた経営哲学を話し、参加者たちも熱心に聞き入った。 また、現地で生まれた4人の息子らと共同でマセイオ市に建築会社を設立し、70歳を過ぎた今でも現役で仕事に励む谷さんに参加者たちは元気付けられた。 続いて東京から駆け付けた日系ペルー人2世の有富ビクトルさんが講演した。有富さんはフジモリ政権時代にペルー駐日大使を務め、日本大使公邸人質占領事件ではフジモリ氏の片腕として日秘両国のパイプ役となり、テロ撲滅に尽力した。 講演では南米の日系人たちの活躍ぶりを伝え「現在はベネズエラ、ボリビア、パラグアイの駐日大使が日系人。日系が飛躍する南米諸国だからこそ、日本人は南米に目を向けなければならない」と呼びかけた。 会場では、音楽で日本と南米日系社会を結ぶ福岡の夫婦デュオ『ハル』がラテン音楽を披露し、参加者たちが谷さんを囲んで夜遅くまで語り合った。谷さんは「昔の友と再会できることが本当にうれしい。また福岡に来たい」と楽しそうだった。 2012年4月18日付
茨城県人会(小林操会長)は、75歳以上の高齢会員を対象とした敬老会を29日午前10時から聖市アクリマソン区にある同県人会館(Rua Bueno de Andrade, 756)で行う。 同県人会では「家族の方にも一緒に来ていただき、食べて飲んで積もる話をして午後はビンゴなどで楽しく過ごしたいと思います」と当日の来場を呼びかけている。詳細は同県人会事務局(電話11・3209・8515)まで。 2012年4月18日付
ニッケイ新聞 2012年4月18日付け ブラジル高知県人会(片山アルナルド会長)は14、15の両日、聖州ピラシカーバにほど近い温泉保養地アグア・デ・サンペドロで1泊旅行を行なった。会員、非会員を問わず約40人が参加、硫黄の香り漂う温泉や、養蜂場訪問などを楽しみながら、交流を深めた。かつては故田村豊秋元会長のボツカツのシッチオに梅拾いの日帰りピクニックを行なっていたが、会員らによれば泊まりの旅行は「ほぼ初めて」という。2期3年目の片山会長が懇親を目的に企画した。午前8時に出発したバスは3時間ほどでホテルに到着。昼食後、トラトールで客車を牽引する「トレンジーニョ」で温泉場へ向かったが、午後の営業は午後3時から。それまでの時間、参加者らは買い物や散策を楽しんだ。1940年代に保養地として発展、ホテルやペンソン、土産物屋やレストランが立ち並ぶ観光地だ。個室温泉(12レ~)は薬草、泥風呂も楽しめ、サウナもある。片山会長によれば、経営困難に陥ったさい、再建のため韓国企業の資本が入ったことから、韓国人も多く訪れるという。湯上り後の肌はスベスベに。「これは効きそうねえ」と婦人らは笑顔を見せていた。ホテルで一休み、屋上にあるプールで日向ぼっこと、それぞれの午後を過ごし、揃っての夕食となった。会長持参のサーモンやマグロの刺身も食卓を彩った。アミーゴ・セクレット(プレゼント交換)では、自己紹介やプレゼントを渡す人の印象を、それぞれがユーモアを交じえて語り、笑いの絶えない和やかな雰囲気で行なわれた。「いや~参った」。翌朝、新井均さん(77、長野)が頭を掻きながら朝食の場に現れた。聞くと妻の知里さん(74、同)が外からドアを閉め、うっかり鍵を持ったままベランダで歓談を楽しんでいたため、1時間ほど〃監禁状態〃に。「よほど窓から出ようかと思ったよ。涼しいうちに朝の散歩もしたかったのに…」と周りの人の笑いを誘っていた。その後養蜂場を訪問。道中、なだらかに続く丘陵が遠くまで見える風景も参加者を喜ばせた。「来て良かった」―。両親が高知出身の前田南海男さん(81、二世)は笑顔を見せる。妻美代子さん(福岡、76)は「亡くなったソグロたちの同郷の人と会ってみたかった。懐かしい高知弁は聞けなかったけど面白かった」と満足気。高橋一水前会長の妻で料理部長の高橋マリアさん(70、二世)は「敬老会、新年会で土佐料理を一緒に作ってくれる婦人にもっと参加して欲しかった。でも、これから増えるんじゃない?」と継続に期待する。こうした声を受けるかのように片山会長は「半年に1回できれば。次回はポンペイアの温泉かプライアでもいいね」と話していた。昼食後に出発したバスは午後5時にピニェイロス区の会館前に到着。参加者らは連絡先を交換し、別れを惜しみながら散会した。
ッケイ新聞 2012年4月18日付け 【神戸新聞】神戸からブラジルに移住した人の歩みなどを学ぶ「ブラジル移民祭」が15日、「市立海外移住と文化の交流センター」で開かれた。50年前にブラジルに渡った神戸市出身の企業コンサルタント和田好司さん(72)による講演や、日伯交流に熱心な歌手中平マリコさんのステージがあった。1908年4月28日に神戸港から初めて移民船が出航したことにちなんで、NPO法人「関西ブラジル人コミュニティ」が毎年開催。今年は4月の毎日曜、講演やバンド演奏がある。和田さんは神戸高校を卒業後、早稲田大生だった62年、農業移住者としてブラジルへ。大学卒業のため一時帰国したが、再び渡り、商社勤務などを経て自ら会社を設立し、同国南部の町・ポルトアレグレで暮らす。講演では、農業での挫折経験などを振り返り、「海を渡った仲間が、自らの選択を肯定できる人生を送っていることをいつも願っている」と強調した。
ニッケイ新聞 2012年4月18日付け 午後3時半頃、交流を終え恒例の「ふるさと」を合唱し、握手で別れを惜しんだ一行。長田さん夫妻の梅干や梅酒に目を留めて購入したり、個別に話をしたりしながらバスに乗り込み、会員らに見送られながら次の目的地、バウルー市へと出発した。ボツカツから約95キロで人口は約35万人。かつてノロエステ地方への開拓の起点として栄え、戦前は領事館が設置されていた。日本移民とは縁が深い地だ。『バウルー日伯文化協会 創立五十年の歩み』(バウル―文協五十年の歩み編纂委員会)によると、バウル―の地を最初に踏んだのは郊外のサンタブラジリア耕地に入耕した高知県人で、1914年5月のこと。その翌年は滋賀県人が駅前で旅館、2年後に福岡県人が雑貨商を開業したという。その頃はまだ田舎町で家屋も少なく、日本人植民者によるノロエステ開拓が始まった頃だ。約2時間後にホテルに到着しチェックインした後、「バウルー日伯文化協会」会館へ。鳥居を模した立派な入り口の前で、待っていた会員らの出迎えを受けた。モダンなサロンにバウルー側から150人が集まり総勢約270人が揃うと、午後7時頃から先没者追悼法要が執り行われた。合掌の後、導師の伊藤功さん(60、愛知)の読経で一人ひとり仏壇を前に焼香した。養蚕移民としてバウルーに入った文協老人クラブ副会長の益山義則さん(74、鹿児島)は歓迎の意を示し「同県人なら家族のような親しみを感じる。ふるさとの話をし合う、楽しい夕べを過ごしてほしい」と挨拶。団長の本橋幹久・鳥取県人会長が園田ネルソン会長(65、三世)に県連の事業報告書、昨年の日本祭りのDVDを手渡した。本紙代理人の酒井威夫さん(83、北海道)は1933年に第3アリアンサに入植し、48年からバウルーで野菜作りに携わった。「戦後、田舎では仕事がなかったので都会に出て蔬菜を作る人が増えたね」と振り返る。生産者と同時に仕入れ業者も多く出入りするようになった。『歩み』によれば57年頃から再度日本人が増え始め、翌年の調査では市内、植民地、郊外合わせて約600家族。80年代半ばには人口25万人を擁する都市に。「昔に比べると大都会になって住み辛くなりましたが」と笑う。バウルー文協の会員は、非日系を含め現在250~300家族。約30年前までは一世がほとんどだったが、現在は二、三世が中心。忘年会、新年会、コーラス、将棋、卓球、剣道、フットサル、バレー、太鼓など様々な活動が活発に行なわれている。特に運動会や盆踊りは非日系人も多く参加、園田会長は「いつもすごい盛り上がりだね」と喜ぶ。法要のあとは隣接する広い体育館に移動。婦人部による手作りの食事を楽しみながら、交流会へと移った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=順番に焼香する参加者一行 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
【東京支社=瀬頭明男】沖縄在住のブラジル出身日本人、日系人の組織「沖縄ブラジルネットワーク・アミーゴの会」(与那城昭宏会長)=沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町=が7日、旗揚げした。沖縄とブラジルの交流促進のほか、言葉の不自由な在日日系人が言葉を学ぶシステムの構築、会員によるブラジルの沖縄への紹介など多彩な活動を予定している。沖縄在住の日系人は約200家族と推定されるが、そのうち「アミーゴの会」に80人が入会している。 与那城会長によると、沖縄には東北大震災で東北から移住した日系人もいるなど、沖縄在住の日系人は増加傾向にある。アミーゴの会を通じて沖縄の若者と日系人の交流が深まり、沖縄の人がブラジルについての知識が深めようと、アミーゴの会を立ち上げた。同会長は「日本語を教えるシステムを作り、学校や自治体などから要請があれば、積極的に依頼に応じ、ブラジルについては話をしたい」と意欲を見せている。 発足した7日、「アミーゴの会」は南風原文化センターで交流会を開いた。交流会には県費留学生、留学生OB、大学関係者ら60人が参加した。交流会ではフェイジョアーダが振る舞われ、与那城会長が「ブラジル出身の若者たちを支えながら、沖縄とブラジル間の情報交換の場にしたい」とあいさつした。 交流会の模様は地元新聞も大きく報じた。地元紙記者の質問に琉球大学大学院に留学中のルシーラ悦子さん(30)は「ブラジルに興味のある人にポルトガル語を教えたり、私たちにできることをどんどんやりたい」と答えている。また、38年前にブラジルから沖縄へ戻った久保田宏さん(71)は「いろんな人と会えるのがうれしい」と、「アミーゴの会」設立を喜んでいた。 日本にはブラジル日系人が約23万人在住しているが、民間で「アミーゴの会」のほか、「ブラジル友の会」(岐阜県)、「関西ブラジルコミュニティ」(兵庫県)、「ABCジャパン」(神奈川県)などが活動している。 2012年4月17日付
ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 愛知、和歌山、滋賀、大分の4県人会が共催する『第4回屋台祭り』が22日午前11時から、愛知県人会館大サロン(Rua Santa Luzia, 74, Liberdade)である。木原好規会長(和歌山)、山田康夫会長(滋賀)、豊田瑠美副会長(愛知)、伊東信比古理事(大分)が来社し、来場を呼びかけた。焼きそば、おにぎり、あんみつ、持ち帰り用白餅(愛知)、関西風お好み焼き(和歌山)、肉うどん(滋賀)、トリ飯・トリ天・牛たたき(大分)。午後1時からは舞台で郷土踊りやカラオケ(参加無料)など余興や、子供の遊び場も準備されている。白餅は1袋6レアル(400グラム)。購入希望者は19日までに愛知県人会(11・3241・2686/3104・8392)まで申込みを。
ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 【沖縄タイムス・南風原】県内から多くの移民が渡ったブラジルとの交流を推進し、次世代へと引き継ごうと、沖縄ブラジル ネットワーク・アミーゴ会(与那城昭宏会長)が発足し、7日、約60人が参加して喜屋武町の南風原文化センターで交流昼食会が開かれた。1908年の最初 の移民から100年余、ブラジル社会で6世の県系人が活躍する中、参加者は交流の発展を決意した。同会は次世代の交流へ向けて、若いリーダーの育成も目指す。与那城会長は「沖縄で活躍するブラジル出身の若者たちを支えながら、沖縄とブラジルの情報交換の会に育て、実のある交流をしていきたい」と抱負を述べた。昼食交流会では沖縄で学ぶブラジルの留学生らが手作りした同国の家庭料理「フェジョアーダ」が振る舞 われた。留学生たちはあいさつで「沖縄とブラジルの懸け橋になりたい」と流ちょうな日本語やウチナーグチで話し、会場を沸かせた。 糸満市から参加した久保田宏さん(71)と初江さん(66)夫妻は、38年前にブラジルから沖縄に戻ってきた。夫妻は懐かしそうにフェジョアーダをほおばりながら「いろいろな人とつながりができてうれしい」と話した。
ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 「第37回ふるさと巡り」に参加した及川君雄さんによると、戦前に移住し、イタケーラでシッチオを経営していた故吉岡省氏は桃作りを成功させた人物として知られるが、最初同地は砂地で機械もなく「販売も大変だったらしい」と及川さん。「厳しい人だと言われていたが良い人だった。息子のように思ってくれていたような感じもした」と思い出す。ちなみに日本青年協会は今も存続しており、近代的農業経営を志向する青年の育成や青年の国際交流などを行う歴史ある団体だ。
ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 会場では坂手実さんの説明の後、婦人部の皆さんが着物を着て「花笠音頭」を披露する傍ら、あちこちで再会や交流の輪が広がっていた。ふるさと巡りに約5年前から毎回車椅子で参加、「日本青年協会」の派遣で1959年に来伯した及川君雄さん(75、岩手)は同地在住の肥後フクエさん(73、鹿児島)と半世紀ぶりの再会を果たした。来伯したばかりの同協会派遣の若者は当時、イタケーラで果実の栽培を営んでいた吉岡省氏のもとに滞在することになっていた。同会派遣の男性と結婚し、後にボツカツに入植する肥後さんと及川さんは、その場で顔見知りになっていた。及川さんはその後イタケーラに2年半、インダイアツーバに6年滞在し、68年からアチバイア在住。専門はバラの栽培で、かつて何度か訪れ縁のあったボツカツへの訪問にあたり、会員らにバラの花を持ってきていた。「最初は大変だった。でも狭い日本でこせこせしているよりも、のんびりしたブラジルでよかったかな」としみじみと話す肥後さんは、及川さんと近況を報告し合い「(子供が独立して)夫婦二人になると寂しいね」などと語り合っていた。ふるさと巡り常連の神林義明さん、小山徳さん(ともに長野県出身)は、前回同様、積極的に訪問先の移住者に話しかけ、同郷で同地在住の中澤巻重さん(71)、上野実さん(83)らと写真を撮っていた。中澤さんは61年に来伯し、ブラガンサ・パウリスタに入植。パラナ州を経て、ボツカツには42年住む。「大学病院や工場があって、よい町ですよ」と満足そう。65年に同地に移り住んだ坂手実さんは「現在はほとんど二世で、日本語継承が難しくなっている」と真剣な表情を見せた。「日本語学校もあるが生徒は少ない。何を何のために教えるのかを検証し、組織のあり方を考え直さなければ運営ができなくなる」と危機感を募らせる。同地では一昨年前から市との共催で「友達祭り」という名の日本祭りを開催し、非日系の来場者を多く迎えている。「今はコロニアにとって大切な時期。ブームになっている今、日本文化を紹介しなくてはいけない」と思いを語る。文協には非日系を含む約100家族の会員がいるが、実際活動に参加しているのは約60家族に過ぎない。「創立当時も100家族ほど会員がいたが、住んでいた日本人のほぼ全員。昔は日本人なら会に入ることが当たり前だったが、今は違う。入ったらどういうメリットがあるかを考えるし、会長をする人もいない。寄付を募っても集まりにくい。なかなか難しいね」と語った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=再会を喜び合った及川さんと肥後さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
サントス市で1950年代に庶民の足として活躍した路面電車が2009年に観光電車(ボンデ・ツーリスチコ)として運行を再開しており、アメリカ、イタリアなどから寄贈された車両も市内を走っている。 サントス市議の中井貞夫氏は「各国の電車がサントスを走っているのだから、日本の車両も走らせることができないだろうか」と発案。昨年9月頃、同市と姉妹都市である長崎市を走る路面電車に目を付け、かつて同市を走っていた古い車両を「譲り受けることができないだろうか」と、長崎県人会(川添博会長)に対して依頼した。 同県人会では3月の役員会で同件について話し合い、「県人会がどこまでかかわるのかはっきりさせてから動かなくてはならない。長崎側の事情や、運送費用の負担などについて確認している段階だ」と説明した。 後日、中井市議から連絡があり、サントス市は長崎からの車両運送費や補修費用などはすべて同市のプロジェクトに基づいたスポンサー費用で賄う構えで、長崎側の費用負担は全くないと伝えられたという。 同県人会は費用負担がないと正確に確認できた段階で、母県に車両譲渡の了解を得るとみられる。サントスの観光電車は、同市の文化遺産センターが2年かけて路線延伸工事を行い、観光用に運行再開したもので、電車は市役所前のマウアー広場周辺から30分ごとに運行されており、コーヒー取引所や旧サントス駅舎などを巡回。約5キロの距離を45分かけて周り、観光局のガイドが市内の観光名所を説明する。 ヨーロッパの雰囲気漂う古い街並みを見学する観光ツアーは、別名「生きた博物館(ムゼウ・ビーボ・ド・ボンデ)」とも呼ばれており、運転時間は毎日午前11時から午後5時まで(月曜運休)。 日曜の午前11時、正午、午後1時、同2時発の電車にはアコーディオンとギターの演奏サービスがあり、音楽を聴きながら町の周遊を楽しめる。運賃は大人5レアル(高齢者、学生、教師は半額)。 2012年4月14日付
香川県人会(菅原パウロ農夫男会長)は、28日午後3時から聖市ミランドポリス区の同県人会館(Rua Itaipu, 422)で、四国88カ所を巡る「遍路」についての講演「四国遍路道とスペイン準礼の道」を開催する。 講演するのは遍路文化の普及活動をしている高松市のNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」の松岡敬文事務局長(62)で、講演では遍路の歴史や実際に歩いた体験談を紹介し、「お遍路さん」がかぶるすげ笠や白衣、納経帳なども展示する予定。 菅原会長は講演について「ブラジルにもお遍路文化に似たものがある。香川県をはじめ四国の良さを伝えられたら」と話している。講演後、松岡事務局長らは「太陽の道」と呼ばれるサンパウロからアグアス・デ・サンペドロまでの240キロの道を11日間(5月1日~11日)かけてカトリック教会と合同で歩く。巡礼への参加者は1000人を見込んでいる。 また、同県は過去にフランスやスペインと巡礼を通して都市間で提携を結んでいるため、ブラジルでも関係を深めたいとし、29日にも「太陽の道交流会」主催の同様の講演会がアグアス・デ・サンペドロで行われる。講演に関する問い合わせは、同県人会(電話11・5587・5303)まで。 2012年4月14日付
姉妹都市提携を結んでいる富山県富山市の提案を受け、JICAブラジル事務所(室澤智史所長)は9日、モジ・ダス・クルーゼス市のゴミ分別処理開発計画について同市関係者と覚書署名を交わした。 同計画はJICAによる草の根技術協力地域提案型プロジェクトの一環で、今後2014年9月までの約2年半の期間で60万レアル相当の技術供与が行われる。 同計画は10年に富山市の広瀬隆正副市長が来伯した際、姉妹都市のモジ市がゴミ分別処理分野で困っている状況を知り、支援したいとの意思を示したことに始まった。 今後、日本からの専門家が年1回の割合で派遣されるほか、モジ市側の技術者が日本に研修に行くなど技術移転が図られる。JICAブラジル事務所では、5月に埼玉県教育委員会からの提案によるリオ市ファベーラ在住子弟の教育計画や、同月に福岡県北九州市からの提案によるミナス・ジェライス州ゴミ分別処理プロジェクトなどを進めていく予定だという。 2012年4月14日付
ニッケイ新聞 2012年4月14日付け 現在の同地コロニアのもととなる「コロニア・サンタマリーナ」が近郊にできたのは戦後、1950年代のこと。全国の農村青年の教育や指導者育成を目的に戦前に設立された「日本青年協会」(文科省、農水省所管団体)から、同会の会員でブラジルに移住していた故吉岡省氏(京都)が日本の青年を移住させたいという同会の申し出を受け、当地政府と交渉。200ヘクタールの土地を購入し、会員らを呼び寄せたのが始まりだという。坂手さんによれば、コチア組合も近くに土地を購入して数家族を住まわせたという。「吉岡さんは桃栽培を成功させた人として有名ですがうまくいかず、他の果物に変わっていったようです」(坂手さん)。また、同地には台湾梅の栽培でコロニアに梅干をもたらした孫河福さん(台湾出身)も入植している。孫さんはこの日の交流会に姿を見せ、話を聞きたいと集まった参加者一行と歓談に花を咲かせていた。孫さんが呼び寄せた家族が持参した台湾梅の栽培が成功し、それまでブラジルになかった、小粒ながら日本のものと変わらない梅干の供給が実現。国内に広まり、ボツカツは伯国での梅栽培発祥の地としても知られている。会場でも会員手作りの梅酒が振舞われ、頬を赤く染めた参加者もちらほら。現在、数家族が梅干や梅酒などを作っている。会館の外で自家製のそれらを販売していた長田佳貫さん(78、鳥取)もそのひとりだ。長田さんは1957年から3年間、契約労働者として米国に滞在し、61年に来伯した。桃、ぶどう、すもも、アテモイア、ビワなどを栽培し、近年はユカリの苗も作っているという。海抜800メートルを超える同地では朝と夜で気温差があるため、「果実の糖度が高くなる」と長田さん。果物の栽培に適した気候のようだ。並べられていた小粒の梅干を試食してみると、かなり酸っぱい。思わず顔をしかめると長田さんの妻郁子さん(73、鳥取)は「細かく刻んでご飯にまぶしたり、おにぎりにするとおいしいですよ」と笑う。郁子さんによれば梅干作りには手間がかかる。台湾梅は苦味があるため、それを取ってから漬ける作業に入るという。「梅とピンガ、砂糖を混ぜて作るだけ。簡単ですよ」と言う梅酒には「94年製」というラベルが。「熟成させればさせるほど美味」。現在はボツカツに限らずピエダーデ、ピラール・ド・スールなどでも梅が作られているという。郁子さんは27歳だった隣町出身の佳貫さんと結婚後、22歳で渡伯した。以来ボツカツに住んで49年になる。「家族との別れが辛く来るときは泣きました。今でも何でこんなとこまで来たのかなって思ったりします」と笑う郁子さん。「気候がよくて、フルッタもおいしい。いい所ですよ」と、孫娘を隣に嬉しそう。「フェイラに売りに行きますけど、今百姓は難しいですね」という郁子さん。子供4人、孫3人に恵まれ、70歳以上のゲートボールチームに所属。州内外の大会に出場している。「元気が一番。皆と話すのが楽しみ」と笑みをこぼした。(田中詩穂記者、つづく) 写真=ボツカツ在住49年の長田さん夫妻 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
