27日(土曜日)◎「日本文化月間行事」文化展示会は、午前9時からクリチバ市セントロ区ビスコンデ・デ・ナカール大通りとビスコンデ・デ・リオブランコ大通りの間(Rua 24 horas)で。28日も。◎名画友の会は、午後0時15分から聖市リベルダーデ区の老ク連会館(Rua Dr. Siqueira Campos, 134)で。◎シャドウ・ボックス展覧会は、午後1時から聖市パライゾ区の三和学院サンパウロ校(Rua Teixeira da Silva, 539)で。◎筑波大学日本語・日本文化学類の砂川有里子学類長のセミナー「日本語の学習や教育に役に立つインターネット情報」は、午後2時から聖市ベラ・ビスタ区の国際交流基金サンパウロ日本文化センター(Av. Paulista, 37)で。◎ブラジル龍馬会の10月度例会は、午後2時から聖市リベルダーデ区の同事務所(Largo da Pólvora, 96 Quarto...
Dia: 26 de outubro de 2012
サンルイスの市内観光では、サンパウロでは珍しい北伯料理を食べることができた。その一つがアフリカに起源を持つ「アロース・デ・クシャー」だ。乾燥した小エビ、キャッサバ(マンジョカ)の粉、ほうれん草、タマネギ、ニンニクを使ったリゾットのような米料理で、予想したほど癖はない。昼食を取った市内のレストランで出された際、団員は怖々ながらも勇気を出して皿に盛っていたが、人気が出てしまい、「あっ」という間になくなっていた。日本人の魚好きは、案外ノルデステ(東北伯)の料理と合うのかもしれない。 観光後、一行がチェックインした海岸沿いのホテル「HOTEL BRISMAR」では午後8時から、グローバル旅行社の粋な計らいによって同地の日系団体であるマラニョン日伯文化協会との夕食会が行われた。マラニョン州には日本人や日系人が少ないため、同地の日系社会や生活について聞ける貴重な機会となった。 会の冒頭、山田清顧問(61、大阪)があいさつするも、団員たちは長旅で疲れているのか隣同士での私語が多く、その声が大きくなる度に周囲から「静かに」「シーッ」と注意する声が聞こえた。 山田顧問によると、マラニョン州に直接移住した日本人は1960年に45家族いたという。彼らが入ったのがホザリオ移住地などだが、土地に水が出ないという理由で失敗し、わずか2年で入植した日本人は離散したそうだ。 また、61年に養鶏移民で入った約25家族の日本人は最初の1年は州政府の補助を受けてうまくいったが、アルミの精錬工場の敷地となってしまい、立ち退きに関して賛成か反対かの決を採ったところ、賛成が上回ったため工場に土地を売り、パラー州やブラジリア、サンパウロなどに別れていったという。 それ以降、マラニョン州には北伯トメアスーなどから6家族ほどが流れてきたが、現在、同地で農業を営んでいる日本人は5家族ほどだという。2010年には移民50周年を記念する式典が行われたそうだ。 マラニョン日伯文化協会が設立されたのは86年で、会員は65家族150人。それまでは日系自治会という団体で、公的な団体ではなかった。 サンパウロで生活していると、同じ日本移民とはいえ東北部移住者の情報は少なく、全く別の道を歩んできたことを痛感させられる。しかし近年、県連のふるさと巡りなどを通じて北伯との交流も増えており、北伯県人会協会(山本陽三会長)も今年誕生している。 話は少しずれるが、今月11日には山本会長が香川県庁に浜田恵造香川県知事を表敬訪問し、一層の交流促進に協力を求めている。ふるさと巡りのような交流こそがブラジルに移住した日本移民を一つにする行事だと実感できた瞬間だった。(つづく、植木修平記者) 2012年10月26日付
1959年9月28日サントス港着「あめりか丸」の同船者会が9月22日、サントス市で行われた。同日午前7時30分に聖市リベルダーデ広場に同船者と家族を合わせた13人が集合し、新潟県人会(南雲良治会長)会員を中心とした旅行好きの人たちと共に総勢28人で観光バスに乗り、サントス市に向けて出発した。 同船者会には、遠くレシフェから参加した久保洋深さん、クリチバから来た山内啓三さん夫妻の姿もあった。 サントス市ではモンテ・セーラをケーブルカーで上り、27年に建設された展望台からサントス市街を360度見渡した。その後、コーヒー博物館を見学、昼食をしながら和やかに歓談した。 午後は、世界一といわれる浜辺に建てられた「移民上陸記念碑」や大竹富江さん制作のブラジル日本移民100周年モニュメントを訪問。一行は遊覧船に乗り、サントス港を一周した。 サンパウロ在住の細樅良盛さん(91)は今回の旅で、53年前に下船した埠頭を見た時、「ああ感無量だ。ここが私たちのブラジルでの人生の出発点となったのだ」と、つぶやいていた。 午後6時、サンパウロに向け出発。一行はリベルダーデ広場で来年の再開を約束して別れた。(金子国栄) 2012年10月25日付
本日付社会面で報じているようにブラジル日本都道府県人会連合会は、来年のフェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)関連事業としてロードレースを開催するかどうかで揺れている。はっきり言えば、実施する必要はなく、議論する時間が無駄なだけだ。理由は、今回のロードレースを検証してみれば一目瞭然だ。県連執行部は同祭のサブテーマになった「健康」がロードレースと合致するとして開催することを決定した。目的は同祭の知名度アップ、広報宣伝だったと見るべきだろう▼ ところが、大会名にも出場者に配られたTシャツにも同祭の文字はなく、関連性がみじんも感じられない。Tシャツには同祭のキャラクターが印刷されているが、これが同祭のマスコットだとは誰も気付かないだろう。これで、広報宣伝になるのだろうか。「大会名もTシャツも最初は違うものだったのだが、いつの間にか変更になっていた」と県連執行部ですら首を傾げる。この一言をとっても県連主導ではなく、業者が独断で取り仕切っていたことが明らかだ▼ イベントの企画段階で重要視されるのは、費用対効果だ。イベントに必要とされる資金を費やしても宣伝効果が見込めるというのであれば、主催者は実施に踏み切るのだが、前述のように何ら効果はない。百歩譲って、どれだけ、新聞やテレビなどマスコミにロードレース関連のニュースが露出したのかの資料を県連で把握しているのか。通常、企画会社はこれらの資料をそろえて主催者やスポンサーに提示するのだが、県連の手元にこれらの資料は届いているのか。イベントを行う人間は、少なくともこうした費用対効果を念頭に置くのが常識だ。17万レアル以上の赤字を出したとしても、こうした資料を会員やスポンサーに提示し、「これだけの効果があったので、事業は成功した」と説明できる▼ 8月、9月の代表者会議で資料や企画会社とのやり取りの説明がないということは、同事業を推進した県連関係者はイベントに関して無知で、すべて企画会社に丸投げしたといわれても仕方がないだろう。にもかかわらず、来年も実施したいというなら、その根拠を明白にするべきだ。それができないのなら、撤退すべきだ。(鈴) 2012年10月24日付
ニッケイ新聞 2012年10月23日付け 21日に行われた大分県人会創立60周年記念式典にあわせ、元参議院議員で、NPO法人「大分日伯国際交流協会」理事長の後藤博子さん(64、大分市出身)が9年ぶりにブラジルを訪れた。同協会関係者やブラジルに移住経験のある人など、10人からなる一般訪問団を引き連れての来伯。式典では会場のあちこちで多くの参加者と笑顔で言葉を交わし、旧交を温めていた。「おかえり!と言ってもらったり、知っていてくださっている人もいて。とても懐かしかった」後藤さんは1981年から5年近く、マナウスに夫とともに工業移住した経験がある。帰国後は参議院議員に大分県選出で当選し、ブラジル移住経験のある唯一の議員として日伯間の問題解決に力を注いだ。2009年に設立された同協会はメンバーが40数人。ブラジルにとどまらない各国との国際交流や子供の教育などを活動主旨に、英会話塾や各種交流会を行う。「議員時代に引き続き、ブラジルとの友好を続けていきたいと思った」。日本語センターが主催する「ふれあい日本の旅」では、40人の日本語を学習する子供達が3日間、大分県を訪れたさい、受け入れのコーディネートを行った。「ようやく協会らしくなってきた」と語る後藤さんは、「60周年を機に交流をどう深め、ブラジルと大分の人をどうつなげるか。交流を深めながら人材の育成をしたい」と意欲を見せた。
ニッケイ新聞 2012年10月23日付け ブラジル大分県人会(矢野敬崇会長)創立60周年記念式典が21日、聖市の宮城県人会会館で盛大に行われた。母県からは二日市具正副知事、志村学県議会議長など県関係者7人、ブラジルに移住経験のある後藤博子元参議率いる10人の慶祝団が来伯。福蔦教輝在サンパウロ総領事、安部順二下議、羽藤ジョージ州議らも来賓として訪れ、会員ら約300人が集まり60年の節目の年を祝った。 式典に先立ち午前9時から、県人会顧問の浄念信行さんによる県人先亡者追悼供養が行われた後、福本真澄副会長の開会挨拶で記念式典が始まった。日伯両国歌斉唱、先没者に対する黙祷の後、矢野会長は日本からの慶祝団来伯に感謝を表し、「一言で60周年というが、それだけの年月を団体として継続させるのは大変なことで、県人諸先輩の努力で日本との絆が守られてきた成果。その絆をさらに太くしていくのが若い世代の務め」とのべ、次世代の活躍へ期待を込めた。「ボンジーア!」と元気に挨拶した二日市副知事は、広瀬勝貞知事の挨拶を代読。100年前の明治45(1912)年に初めて大分県人が移住したことに触れ、「今後とも県との交流を重ねていただき、県を勇気づけてもらいたい」と締めくくった。続いて志村議長、福蔦総領事、園田昭憲県連会長、羽藤州議、祖父が戦前に大分から移住したという阿部下議が祝辞をのべ、在京大分県人会の前田晃伸会長からの祝電が読み上げられた。その後知事からの県連、文協、援協、日本語センターへ記念奨励金、連邦議会から知事、県議会、県人会へ顕彰が贈られ、知事からの永松通一、柿坂公正両元県人会会長に功労者表彰、10人に感謝状と記念品が贈られた。その他、米寿の二宮マキコさん、赤峰保憲さんの二人へ敬老顕彰が行われ、県知事から記念品として大分在住の屋根の木版画家、寺司勝次郎さん(85)の作品、議長からは県産の椎茸が贈られた。玉田イウダ同県人会副会長の閉会の辞で終了した後は、二日市副知事による「県政の概要」と題した講演が行われた。三期目の広瀬知事の政策を中心に母県大分の観光、食、水産物、林産物、文化・スポーツなどの話題に触れながら現在の状況が説明された。その後祝賀パーティーへと移り、鏡割り、乾杯を行い和やかに食事が進んだ。記念アトラクションとしてサンバショーが行われ、最後は参加者全員が入り乱れて楽しんだ。約35年間、理事として県人会運営に関わった岐部悦治さん(国東市出身)は、来賓や出席者に積極的に話しかけ、「賑やかにやってくれたので良かったですよ」と嬉しそうに話していた。初来伯した二日市副知事は本紙の取材に対し、「県人会の皆さんは誇り。県は皆さんに支えられている。遠い地で頑張っている姿を目の当たりにすると元気が出ました」と満足げに語った。
