06/03/2026

Dia: 13 de novembro de 2012

ニッケイ新聞 2012年11月10日付け タグアチンガの平沢醇さん(あつし、78、長野、コチア青年1次9回)は、「首都を作るって言うんで野菜作りに入った人が多いね。昔はサンパウロからカミヨンで持って来てたから値段が高かった。要はこの辺はセラードでしょ、土が悪くてシュシューぐらいしか出来なかったんだ」と苦難の道を振返る。強酸性の土壌を改良するためにヘクタール当り2トンも石灰を入れ、そのあと肥料を入れないと利かない状態だった。「最初は水もない。肥料もない、気候も分からない状態で、日本移民はどんな品種がいいか一から研究した。軍隊に頼んで貨物機に鶏糞積んで来てもらって、土壌改良し、ようやくいろいろな野菜ができるようになった」と振返る。ブラジリアの日系史は、まさに〃農業の神様〃日本移民らしい逸話にあふれている。「農務省の役人も、研究熱心な日本移民ならやり遂げるだろうと募集したときいている。日本移民はその期待に見事に応えてきた」と胸を張る。平沢さんは農家の次男に生れ、「うだつを上げよう」と移住を決意し57年にリオに入植、後にミナスに北上して、77年からゴヤス州に入ったという。「作りさえすれば売れた時期もあったが、今じゃ、日本人から学んだブラジル人がいいもの作るようになって」と少し表情を曇らす。高柳治郎さん(82、埼玉)もコチア青年一次、1955年9月サントス着だ。「コチア青年は最終的に40人ぐらい首都に入った。僕は最初アルバレス・マッシャードへ。みんなあっちこっち放浪してから、ここへ集まった。今残っているのは20人ぐらいかな」という。 ☆   ☆ 荒木茂高さん(コチア青年1次1回、しげたか、80、三重)は最初にアチバイアで4年の義務農年を終えてから、59年にブラジリアへ入った。「あの当時、ブラジリアにはコチア青年は誰もいなかった。タグアチンガも家が20、30軒しか建っていなかった。トランク一つぶら下げて『いけば何とかなる』と思っていた。今思えば無鉄砲だった」と大笑する。「その頃はあの松永さんもボロボロのバス3台しかなく、建築労働者をいっぱい積んであっちこっちに運んでいた」という。「最初は自給自足、10年後にやっと家内(花嫁移民)を日本から呼び寄せた。彼女は東京の松下電器に勤めていたのにこっちに来たらランプ生活…。もちろん、事前に文通で知らせてありましたよ」。子供は3人、うち長女は伯国外務省に入り、在スペイン伯国大使館に勤務する。荒木さんは「パラシオ・デ・アウボラーダ(大統領公邸)の裏には、実は立派な日本庭園があった。日本人の草分けの一人、小野山三郎(兵庫県人)という農業技師がいて、庭師の仕事をしていた関係で彼はJKとベンアミーゴだった」という知られざる逸話を語りはじめた。小野山さんは養蚕移民で20年ほど前に約80歳で亡くなったという。この日本庭園が現在もあるのかは分からないという。「小野山さんの紹介で、JKが大統領を辞めた後、リオにある彼のファゼンダを個人的に訪問したことがある。そしたら本人が出てきてビールを注いでくれ、サシ(差し向かい)で乾杯までしたよ」と笑う。1970年の少し前だ。「野菜を作ってもらうために日本人に来てもらいたかったと言っていた」とし、若きコチア青年とJKとの珍しい思い出を披露した。(つづく、深沢正雪記者) 写真=「日本移民は最初、野菜作りで苦労した」と語る平沢醇さん(上)/JKとの思い出を語る荒木さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月9日付け タグアチンガの文協広報、田中淳雄さん(あつお、72、福井)は、「ブラジリア老人会は240人も会員がおり、高橋実(みのる)会長を中心に団結を誇っている。去年の3・11では有志がいち早く5万コントを集めて大使館にもって行った。これがキッカケになって全伯に震災募金の輪がひろがったと自負している」とマイクで説明すると拍手が送られた。 松永行雄名誉会長から県連の園田昭憲会長に記念品が送られ、遷都の前年57年7月に創立した同地文協の沿革と、役員の経歴がスライド上映付きで説明された。 それを見ながら故郷巡りの世話人、県連の伊東信比古さん(69、大分)は「リンスの人がずいぶん多いな」とつぶやいたのを聞き、記者は思わず膝を打った。 ☆    ☆ 松永名誉会長がプロミッソン、佐藤会長がリンス生まれなのを始め、副会長5人、会計、書記までの9人中、ノロエステ線生まれが実に7人を占める。アララクアラ線一人、ブラジリア生まれはわずか一人に過ぎない。つまり同地文協役員の大半が遷都構想前後に、ノロエステから新開地だったブラジリアへ移ってきた二世世代だ。 終戦後、ノロエステ線生まれの次男、三男の多くが新開地北パラナに移ったことは有名だ。それに加え、同様に首都にも大挙して来ていた訳だ。 当日の懇親会では佐藤会長の実父・栄一さん(94、神奈川)が歳を感じさせないキビキビとした所作で踊りを披露し、拍手喝采を浴びた。「リンスでは扇子工場をやっていた。51歳、ブラジリアに来てから踊りを始めた」と振返った。 そんなノロエステ勢の先駆けが、同文協会長を代々務めた松永家だった。シンノスケ、三郎、繁雄、達雄ら兄弟が1958年頃にバス会社ヴィアソン・ピオネイラを創立し、77年ごろには389台も所有し、事実上、首都の公共輸送を牛耳っていたという。その後、あまりの独占状態に行政が介入したほどだったとか。79年には靴製造販売業ミチルス、93年には道路工事、観光業などにも手を広げている。 老人会の高橋実会長(88、福井県)に聞くと67年に首都へ来る前は、やはりノロエステ線グアララペスに住んでいた。市役所職員から始めて市議1期、副市長3年、市長1年を務めたという。 「やっぱりノロエステから来た人が一番多いと思う。あの頃あっちは土地が痩せてね。僕も500頭まで牛を増やしたところで、50年代に口蹄疫がはやって7年間輸出禁止になり、経営がきつくなった。いつまでこの処置が続くか分からない。当時ブラジリアは新開地として魅力あったし、気運が高まっていた。前から付き合いのあった松永家がこっちで成功している話も聞いていたし、じゃあこっちへとなったんだ」と当時の経緯を語った。 日系社会の歴史は、必ずどこかで〃移民のふるさと〃ノロエステとつながっていると痛感される逸話だ。 94歳の栄一さんの踊りを見た一行の三木路生さん(みき・みちお、72、千葉)は「あの歳であの踊り、杖も突かずにしっかり。並大抵ではない。見習わないと」と何度も肯いていた。同協会の歴史が全てポ語で紹介されたことに関し、一行の宮坂修治さん(しゅうじ、88、長野)は「ブラジル語でベラベラやられると残念。もっと日本語でやってほしかった」との意見をのべた。 同地では日本舞踊、ゲートボール、フットサル、剣道、卓球も盛んで、当日はYOSAKOIソーラン「喜翔楽」(きしょうらく)チーム20人の元気に溢れる演技も披露された。日本語学校には教室が九つもあり、100人の生徒を16人の先生が教えているという。(つづく、深沢正雪記者) 写真=記念品を渡す松永名誉会長、奥が佐藤会長、右が県連の園田会長/老人会の高橋実会長 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html