06/03/2026

Dia: 26 de novembro de 2012

ニッケイ新聞 2012年11月23日付け 二つの移住地がうまくいかなかった後、日本政府は土地を買い上げて、ロザリオ移住地から出た数家族などを入植させた。西脇家、上田家、細江家(パラー州から)、田坂家、四元家(よつもと)、土居原家(どいはら)、大塚家などが今も残っているという。交流夕食会に招待された地元日系人4人の一人、細江ハミルさん(62、二世)はその細江家のメンバーだ。彼は「祖父は1929年にトメアスーに入った」というので、由緒ある初期アマゾン移民だ。ハミルさんはそこで生れ、74年に父が養鶏をしにマラニョン州に南下したことから、ハミルさんもこちらでエンブラテルに就職した。『トメアスー開拓50周年史』(1985年)をひも解くと、第1回移民(29年9月着)には「細江」姓はいない。だが、第2回(同年12月着)には「細江喜一郎」(宮崎)の名があり、「マラニョン州」と付記されている。喜一郎がハミルさんの父だろう。地図で見ると、サンルイスからサンパウロまでは2970キロもあるのに対し、パラー州都ベレンとマラニョン州都サンルイスは805キロしか離れていない。近くはないがブラジル的にはりっぱな隣州だ。どちらも法定アマゾン地域であり、風土的にも〃近い〃関係ようだ。同地の山田さんは日大農獣医学部拓殖科卒、学生時代に少林寺拳法で全国学生3位に輝いた武術の達人だ。「トランスアマゾニア沿いの開拓をしたくて移住した」という初志を持ってきた。全拓連がやっていた農高生移住制度で74年に渡伯し、聖州の全寮制農業学校で3年間学んだ最後発の戦後移民だ。「学校で学んでいる間にトランスアマゾニアの開拓事業がうまく行かなくなり、連邦政府が放棄してしまった」と述懐する。初志貫徹は難しくなったが、そんなことで挫ける山田さんではなかった。「おめおめ帰れるか!」と思いとどまり、ゴイアス州のフランス系鉱山会社の灌漑設備計画を依頼され4年間従事し、その後、トゥクルイー発電所建設現場で野菜作りをした後、86年にサンルイスに出た。「山の中にいるのが嫌になった。海の魚が食べたい。カラジャス鉱山ができて、日系企業がでてくるかも」という期待もあった。翌87年に自ら発起人になって同地の日伯文化協会を作り、初代副会長に就任した。それ以前から日本人だけの「日系自治会」は存在したという。現在の会員数は65家族で、大学教授、技師などが多い。「私もふくめ配偶者はほとんどブラジル人。だから家庭内で日本語を話さない」。日伯協会では年に一度、運動会を催す。主にブラジル人対象の日本語教室を開いている。そこから日本留学生もでている。「この10年で、この町は大きなビルが林立するようになり、滅茶苦茶変わりました」。中島信之さん(61、山口)は1957年に家族でベレンに入植した戦後の子供移民(当時6歳)だ。ベレンから20キロのところで養鶏をしていたが、大学で電気科を専攻し、マラニョン州電気公社に就職したことから同地で33年間働いている。アマゾンからの南下組だ。「08年の移民百年はあまりここではやってないね」とポツリ。聖州ツッパン生まれの二世、川岡ミリアンさん(56)は、夫の仕事の関係で85年から同地在住だ。合計8年間ほど同協会の日本語講座を手伝っている。「漫画やアニメ好きなブラジル人ばっかり。この町でアニメ祭りもあるんです。コスプレやったりとか」。一行の及川君雄さん(75、岩手)=アチバイア在住=は「こんなに日系人が少ないのに日本語学校をやってることが素晴らしいと思った。日本語教育も日系子弟ばかり当てにしていたら先細りになる。この発想に参考になるヒントがあるような気がする」とうなずいていた。(つづく、深沢正雪記者) 写真=中島信之さんと山田清さん/右手前から細江ハミルさん、川岡ミリアンさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月23日付け 広島県人会の有志のボランティアが同センターで行う高齢者デイ・サービス「もみじの会」。2004年に始まった活動だが、年々少しずつ利用者が減っており、5年前の約半分の人数となっているのだとか。関係者も「あんまりが多すぎても困るけど、徐々に減ってしまい寂しい」とため息。イベントや会運営で若者不足が叫ばれるコロニアだが、元気な高齢者の減少も問題!?同会への参加希望、問い合わせは同県人会(11・3207・5476/杉山さん)まで。
ニッケイ新聞 2012年11月22日付け サンルイスに到着した10月1日昼、郷土食レストランでは名物「Arroz de Cuxa」が大人気だった。ビナグレイラの葉を刻んで、ゴマ、乾燥エビなどと炒めてご飯に混ぜた焼き飯の一種だ。海ノリのような独特のまったり感があり、日本人の口に合うようだ。現地ガイドは「この料理は黒人奴隷がアフリカから持ち込んだ」といい、植民地時代の〃味〃だと強調する。ただし、サンルイスに住む聖州出身の日系二世に言わせると「サンパウロでハナ梅に使う木と同じ種類」という。だとすれば意外に身近な素材だ。デザートのアイス類はバクリ、アサイ、クプアスーなどアマゾン流域と一緒だ。昼食後、セントロ観光に向かう。ガイドの説明では、欧州からサルバドールは船で60日かかるが、サンルイスなら35日と近く、たくさんの黒人奴隷が連れてこられ、1800年代まではサトウキビ、棉産業で栄えた。米国、欧州への綿輸出基地として、サルバドール以前からの植民地運営拠点として栄えた歴史を持つ。それゆえ1888年に奴隷解放令が出された途端、マラニョン州は没落を始めた。その直前までサンルイスは、リオ、サルバドールに次ぐ国内3番目の人口を誇る大都市で、富裕層子弟は欧州で教育を受けるような場所だった。海岸線から7メートル上の崖の上にたつ隣の市役所は1689年、となりの州政庁は18世紀末の建設で、「文明化地区はここの建設から始まった」とガイドはいう。その奥のサンルイス大聖堂は1629年建設だから、伯国史において最も古い場所のひとつであり、この地区全体がブラジリア同様にユネスコの世界遺産に指定されている。ガイドから「ポルトガル人が作った町は、必ず山の手(シダーデ・アウタ)に行政機関を集め、下町(シダーデ・バイシャ)を商業地区にする」との説明を聞き、なるほどサルバドールもそうだと一同納得する。メルカードへ下る坂道は狭く、石畳になっていて古き良き欧州の風情がある。一行の熊谷(くまがい)裕子さん(75、二世)は「3年前にポルトガルのコインブラに行ったけど、あそこに町並みにそっくりね」と驚いた様子だった。 ☆   ☆ サンルイスに住む日系人はどこから来たのか?――との疑問を抱き、さっそく現地の日系人4人を招待して行なわれたブリザマール・ホテルでの交流夕食会を取材した。戦後移民で同地在住の山田清さん(61、大阪)によれば、サンルイス近郊には戦後二つの日本人移住地が作られ、計45家族が入ったという。その一つは、サンルイスに野菜を供給する目的で、ジャミック(後のJICA)が1960年に60キロほど離れた所に作った「ロザリオ移住地」だ。つまり、一昨年の2010年が同地日本人入植50周年だった。ロザリオには20家族ほどが入植したが水がでないなどの問題が起こり、2年でバラバラになってしまい、当時問題になった。雨期に小川はできるが、乾季には完全に乾く状態だったという。もう一つは、州都に卵を供給するために養鶏中心の移住地をジャミックが1961年に計画した。州政府の補助を受けて25家族の予定だったが、全部入らず、しかもアルミ精錬工場が出来たために立ち退きさせられる羽目に陥った。賠償金を受け取ってパラー州、聖州、ブラジリアなどに散り散りになってしまったという。山田さんは「その2ヵ所以外ほとんど日本人は来ませんでした。あとパラー州から流れてきた家族が5、6家族いるぐらい」という。戦前の移住地は日本人が日本人のために作り、一攫千金を狙えるコーヒー、棉などの輸出作物が多かった。戦前に〃農業の神様〃の定評を得た日本移民は戦後、ブラジリアしかり、北伯の州都近郊しかり、悪い土地でも野菜を生産できる技術を期待され、地方政府からの要請で日本人移住地を作った例が多いようだ。(つづく、深沢正雪記者) 写真=サンルイスの州政庁前でガイドの説明を聞くみなさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html