ニッケイ新聞 2012年11月20日付け 「子孫への激励、もっと頑張れという気持ちでこれを書きました」。戦後移民で80年代には聖市を中心に53軒もの化粧品店網を作った上原武夫さん(たけお、77、沖縄県那覇市)の自分史『思い出の記』の出版記念パーティが13日晩、長男テリオさんら子孫らによってビラ・カロン沖縄県人会支部会館で催された際、そう述懐した。当日は親族や友人ら約300人が招待されて出版を盛大に祝福した。 上原さんは常々、息子や孫に家族の歴史をしゃべってきたが、「細部を忘れてしまうから、ちゃんと書き残してほしい」と要請され、書き始めたことが出版のきっかけ。子孫が日本語でも読めるようにとルビを振ると同時に、ポ語訳も付けられた。家族写真も入り、308頁、箱入りの豪華装丁となった。300部印刷され、当日配られた。 上原さんは「戦時中は宮崎に学童疎開した。故郷田原(たばる)は空港の近くで米軍に全滅させられた地域。親戚もたくさん亡くなり、兄弟も3人戦死した」と振返る。戦前移民の親戚の呼び寄せで、1956年に20歳で単身渡伯した上原さんは、最初は農業に従事したが、親友の協力で美容院の経営を始め、そこに化粧品を買いに来る客が多いことに目をつけ、化粧品店を始めた。 「あの頃、日系人で化粧品店をやっている人はほとんどいなかった」。81年頃が最盛期で53軒もの店舗網「グルッポ・タケオ」を育て、15年間余り活動を続けた。ところが90年ごろから関係者のデカセギが多くなり、グループ活動は「自然消滅した」という。現在も家族で7軒の化粧品店を経営している。 編集を手伝った宮城あきらさんは、外務大臣表彰を受けたことを自分で書くのを嫌がり、宮城さんにその部分を書いてくれと依頼した上原さんの謙虚さを示す裏話を披露し、「そんな上原さんの魂が本書を通して親族に生き続け、家族の繁栄につながりますように」と締めくくった。最後に上原さんは壇上から「家族や親戚に向けて書いたつもりだった。こんな大げさな会になって恥ずかしい。出版に協力して頂いたみなさんに心から感謝したい」と挨拶した。 同地区在住の比嘉善光さん(ひが・ぜんこう、79、与那城村)は「この会館は上原さんが会長時代に建てたもの。日系福祉団体にも広く協力してきた。今日こんなにたくさんの人が祝福に来たのは、武夫さんの人徳の賜物」と喜んだ。 与那嶺真次県人会長(62、二世)も「経済的成功もさることながら、広く日系社会を応援する姿勢を子供たちも受け継いでいることが素晴らしい」と賞賛した。 山城勇さんが「カリー、万歳、ビーバ!」と乾杯の音頭を取ると、会場からは盛大に唱和する声が響いた。子や孫15人が舞台に上がって記念撮影し、11日に77歳の誕生日を迎えた上原さんがボーロに入刀、来場者はパラベンスを歌って祝った。
Mês: novembro 2012
16 de novembro de 2012 Ao som da double guitar com as músicas japonesas “Okohida” e “Boojo”...
【浜松支局=山崎功祐記者】岐阜県内の日系ブラジル人などで作るNPO法人「MixedRootsxユースxネット★こんぺいとう」(渡辺マルセロ代表)が、ブラジルの岐阜県出身者へ移住に関連した写真の貸与を呼び掛けている。 写真は、来年の岐阜県民ブラジル移住100周年を記念して「岐阜県民ブラジル移民100年から多文化共生社会づくり(仮称)」の冊子(カラーA5版、約50ページ)に使用されるほか、同県内の学校で行う移民の歴史を考える参加型学習で使用するという。 対象の写真は、移住前後の日常を写したものや移民船内で撮影したものなど。また、写真を送る際は、提供者の氏名、出身市町村名、各写真の時代と簡単な説明文を添えること。募集は今月末まで。 あて先は、聖市リベルダーデ区のブラジル岐阜県人会(Rua da Gloria, 279 Sala 21、電話11・3209・8073、メールgifukai@net hall. com.br)。写真に関する問い合わせは、渡辺代表(メールyouth.conpeitou@gmail. com)まで。 2012年11月17日付
ニッケイ新聞 2012年11月15日付け アナポリスの松井清さんは、戦争前にリンスから出聖し、郷里が同じ平子喜三郎(ひらこ・きさぶろう、圭造さんの父)を頼って1947年にアナポリスに移転した。「平子喜三郎さんがわざわざ迎えに来てくれた」と懐かしそうにいう。「あの頃、日本人はまだ30家族ぐらい、30年祭(83年)の頃に70家族になって手狭になり、リンスの頃のように立派な会館や日本語学校が必要だと考えた。サンジョアン植民地時代のような活動がここでできないかと考えた」という。松井さんが会長の時代、88年に最初の会館(土地3千平米)を建てた。95年にケンブリッジ・コンサルタント社の河野賢二代表らの協力で、現在の8千平米の土地と交換し、会員の寄付を集めて新会館を建てた。今では会員97家族を数えるが、やはり、ノロエステの植民地生活が発想の原点だ。もう一カ所有名なのは戦後の「セーレス(CERES)植民地」だ。アナポリスから60キロほどの位置にあり、ノロエステ線や平野植民地などからも国内再移住組が多く入って1950年頃に建設された。米や大豆栽培を目指したがうまくいかず、数年も持たずして植民者はアナポリスなどに出てきてしまった。でもそこから藤岡兄弟が出て、今ではゴイアス州一と言われるカメラ店グループを育てあげた。05年4月に故郷巡り一行が州都ゴイアニアの同日伯協会を訪問した時、交流会には初美さん(当時88、熊本)ら藤岡家の人々も参加していた。1932年に渡伯した時、初美さんはまだ15歳、初入植地はやはりノロエステ線ペナポリスで、「貧乏から貧乏で、食べていかれんかと思って心配しておりました」と移住初期を振り返っていた。セーレスに移ったのが1949年。ゴイアニアに出て64年に第1号店の写真館「さくら」を開き、以来破竹の躍進を続け、カメラ、音響、家電販売店が56店舗もあった。ゴイアニア市だけで25店舗、ブラジリアにも27店舗、リオ、ベレン、フォルタレーザ、レシフェなどにも出店という躍進中の日系企業だ。 ☆ ☆ かつてアナポリス日伯文化協会には「さくら学園」という日本語学校もあった。1988年に創立し、デカセギブームにのって生徒数を増やし、最盛期には120人もいたが、94年頃に生徒が40人まで減って、経費が負担できずに潰れてしまった。同校理事長をしていた村松幸子さん(73、愛媛)は、「デカセギに行く前には一生懸命にここで日本語を勉強していた。08年以降たくさんのデカセギが帰ってきたけど、今度はなぜか会館には寄り付かない。帰ってきたばかりの頃は、子供とかとてもキレイな日本語をしゃべっているのに、ポ語ばかりで生活するうちに、あっという間に忘れていくみたいですね」と残念がる。「どうして会館に寄り付かなくなるのでしょうか?」と質問すると、匿名希望の一行の一人が、村松さんに代わってこう答えた。「私には会館に寄り付かない人たちの気持ちが分かる気がする。きっと日本で嫌な思いをしてきたから、ブラジルに帰ってまで日本人に関わりたくないのよ。日本に行く前は、ブラジル人から『ジャポネース、ジャポネース』と呼ばれていたのに、日本に行ったら『ブラジル人』だと日本人から差別されるような扱いを受けたから嫌いになった」と推測した。その上で、「でも、それは良い事じゃないかと思うわ。そこから本当の日系人になるんじゃないかしら。ノスタルジーの中の日本じゃなくて、本当の日本との距離が持てるようになる」と締めくくった。だとすれば、この08年以降の大量帰伯時代は、日系人を軸にした日伯関係においても、一つの大きな転換点なのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者) 写真=挨拶する松原会長/懇親会の様子 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月13日付け 兵庫県神戸市にある「海外移住と文化の交流センター」(元移民収容所)では、11月1日から来年1月31日まで『教科書で見るブラジル日系社会の子弟教育展』を開催している。今年5~7月に行われた企画展『ブラジルの大地を拓いた日系人たち』では日系移民たちの農業分野の活躍を取り上げたのに対し、今回は「教育」をテーマに、戦後に使用された教科書等が展示される。「ジャポネス・ガランチード」の根幹にあるブラジルで行われた日本的教育を見直し、来場者にこれからの日本について考えてもらうことを目的としている。また同県西宮市でも、パラナ州ロンドリーナ市との友好提携35周年を記念した「2012ロンドリーナ週間」を同市役所本庁舎で開催中だ。同交流センターの中にある日伯協会(西村正理事長)の協力で、過去の特別展、企画展で展示されたパネルを使用するほか、今年はさらにロンドリーナ市をアピールする特別パネルを追加作成する意気込みをみせている。
沖縄県人会(与那嶺真次会長)主催の第3回カジマヤーと第8回ウチナー芝居が、4日午後2時から聖市リベルダーデ区の同県人会館で開催された。今年のカジマヤー該当者は9人だが、高齢のためこの日は本人の出席者は1人もおらず、その家族や各支部代表が感謝状と記念品を代理で受け取った。 カジマヤーは、97歳の高齢者を対象とした沖縄独特の祝い。カジマヤーは「風車」の沖縄方言で、「高齢者が子供に還る」との意味合いがあるそうだ。 今年の該当者は、次の9氏(敬称略、カッコ内は出身地と伯国支部名)。伊豆見さち(名護市、パトリアルカ)、平良朝進(具志川、カーザ・ベルデ)、国吉かず(本部町、サント・アンドレー)、金城トミ(糸満市、サンカエターノ)、松本よし(大宜味村、マリリア)、平良福信(名護市、リンス)、具志堅よし(八重瀬町、モジ・ダス・クルーゼス)、石川盛仁(名護市、ビラ・カロン)、亀谷タツ(今帰仁村、パトリアルカ)。 同催しでは開幕合同演奏に引き続き、与那嶺会長があいさつ。「9人のおじいさん、おばあさんがカジマヤーを迎え、最高の日だと思います」と対象者とその家族の貢献をたたえた。 「カジマヤー」担当の比嘉パウロ実行委員長のあいさつに続いて、「ウチナー芝居」の実行委員長を担当した具志堅シゲ子氏は「素晴らしいウチナーの伝統文化をお見せし、喜んでいただける舞台を企画しました」と述べ、同イベント実施の意義を説いた。 引き続き、カジマヤー対象者への感謝状と記念品がそれぞれ与那嶺会長から代理者へ手渡された。その後、舞台上では琉球舞踊をはじめ、2世たちが原稿を読みながら「ウチナーグチ(沖縄方言)」での発表を行った。また、人情喜劇「別れの煙」がサンマテウス支部関係者により披露された。 2012年11月15日付
兵庫県人会(尾西貞夫会長)は、17日に聖市リベルダーデ区の宮城県人会館(Rua Fagundes, 152)で行われる恒例の青葉祭り会場で、兵庫県特産の「兵庫のり」を特別販売する。 「兵庫のり」は、同県人会が活動資金作りのために母県や兵庫県漁業協同組合連合会の協力を得て仕入れたもの。特に、同漁協組合連合会は宣伝のために格安で卸しており、販売価格も通常より割安になっている。 販売されるのりは焼きのりで、1袋10帖入り。色が黒く、つやのあるおいしい極上もので、1袋18レアル(2袋購入の場合は35レアル)で販売する。 あまり知られていないが、兵庫県ののりの生産量は全国有数で、日本国内で生産される6枚に1枚は兵庫のりだといわれている。パリッとしてうまみが多く、手巻きずしに最適。 尾西会長は、「飛行機便で取り寄せたので新鮮で風味もあります。ぜひ、試してみてください」と購入を勧めている。なお、青葉祭りの営業時間は午前7時から午後3時半まで。 2012年11月15日付
17日(土曜日) 青葉祭りは、午前7時から聖市リベルダーデ区の宮城県人会館(Rua Fagundes, 152)で。 ◎ 故榊原久雄さんの個展は、午前10時から聖市ジャルジン・パウリスタ区の間部ジョーギャラリー(Av. Brigadeiro Luiz Antonio, 4225)で。 18日(日曜日) 祥 流吟剣詩舞大会は、午前10時から聖市ビラ・マリアーナ区の大阪なにわ会館(Rua Domingos de Morais, 1581)で。 ◎...
各都道府県紹介、日本食も販売 【アスンシオン発・毛利健人記者】パラグアイ日本都道府県人会連合会(パ県連、岸田省一会長)と在パラグアイ日本国大使館(神谷武特命全権大使) は10月26、27両日、アスンシオン市内の日本パラグアイ人づくりセンターで第3回日本パラグアイ交流展を開催した。同展は日パ両国の文化交流を目的 に、2008年より2年おきに開催されているもの。会場内では各都道府県紹介ブースのほか、日本食も振る舞われ、2日間で約1000人もの来場者を集め た。 26日午後7時より始まった開会式には来賓として坂本アウグスト進県連副会長、玉城道子青森県人会長がブラジルより訪れたほか、エルメリンダ・ア ルバレンガ教育省副大臣、ファレス・エイド在パ・レバノン大使、ルバロ・カステジョン在パ・チリ臨時代理大使、北中眞人JICAパラグアイ事務所所長らが 出席した。 初日、開会のあいさつに立った岸田会長は、「日本とパラグアイをつなぎたい。そして何かパラグアイに日系人が役に立ちたい」という思いがあったと述べ、同展開催に尽力した関係者たちに感謝を示した。 続いて神谷大使が祝辞を述べ、ステージイベントが行われた。オープニングにパラグアイの伝統楽器アルパと琴の合奏が行われたほか、安来節、居合道 などさまざまな演目が披露された。中でも、パラグアイ創価学会インターナショナルの子どもたちによる打楽器合奏が会場の耳目を集めていた。 2日目のステージイベントでは、鬼剣舞(おにけんばい)や太鼓演奏などが披露された。アスンシオン日本語学校の生徒たちが南中ソーランを踊った際には、満場の観客から大きな歓声が上がっていた。 常設ブースはJICAや現地企業のほか、北海道、岩手、新潟、群馬、東京、千葉、滋賀、兵庫、広島、香川、徳島の各都道県が設置。特に、群馬県 ブースでは、母県から送ってもらったという高崎だるまや桐生(きりゅう)織物などを展示し、来場者の関心を集めていた。同ブースで閲覧者に説明を行ってい た関ニルダ尚子さんは、「訪れたパラグアイ人から、展示物を売ってほしいと言われる」と話しており、好評の様子だった。 日本食ブースでは12種類の日本食を用意。とりわけ焼きそばの人気は高く、2日目は300食完売のために急きょ追加で100食を作るほどだった。そのほか、串かつやお好み焼きなども人気を集めていた。 会場は現地のパラグアイ人も数多く訪れた。アスンシオン市近郊在住のアナイ・ロペス・セミナラさんは同展を訪れて、「日本の自然を大切にする文化が好き。ぜひ日本に行ってみたくなった」と話していた。...
ニッケイ新聞 2012年11月14日付け 故郷巡り一行は9月30日朝10時には連邦直轄区の首都から155キロ、ゴイアス州のアナポリス日伯文化協会の会館に到着し、懇親会をした。同地への日本移民入植は、実は遷都のはるか以前から始まっており、歴史は意外に古い。 1929年9月19日付け伯剌西爾時報には「石橋恒四郎(つねしろう)その他の世話でアナポリスの官有地コンセッソンに7家族が入植」とあるからだ。 これが「セラード植民地」で翌30年には24家族、続いて31年には3家族が加わり、邦人34家族の集団地になったが、「コンセッソンの手続きに不備があり、近辺に土地を求めて移動した者が多かった」とある。 アナポリスは当時ゴヤス鉄道の終着点で、新開地の最前線だった。こうしてセラード植民地の入植者の一部が12キロ離れた所に改めて土地を買い、 カナ・ブラヴァ植民地を作った。この2カ所が同州日本人進出の嚆矢だ。「昭和十四(39)年八月には二十家族の集団地を成してゐた」(『日本人発展史』上 巻、1941年)とある。 平子喜三郎さんの息子、圭造さん(86、三重)はまさに生き字引だ。1928年に2歳で渡伯し、最初はリベイロン・プレット近くのサランジー駅 の外人耕地でコロノをやっていたが、1930年にアナポリス郡ネロポリスにカフェと米を作りに移転したというから、まさに草分けだ。 「当時20家族以上いて日本人会まで出来た。収穫はできても、近くに町がなくて販路がない。次第に半分ぐらいがサンパウロ、パラナへ移っていっ た。父は『サンパウロへ帰ってもしょうがない。辛抱だ』といってカフェ、ミーリョ、米を作った。51年に36キロ離れたアナポリスの町に出て精米所とか バールをやった」。 同地は日本人が少なかったため、平子さんは1回も日本語学校に行ったことがない。「ブラジリア建設が始まる前後から急に日本人が増えた」と記憶 する。「野菜の仲買を始め、63年に3人が集まって奔走し、会を新しく作りなおした。それから来年は50周年だ」。平子さんは創立に尽力した3人の一人で あり、会館が建てられるまでの26年間、集会場として自宅を提供した。 同文協の小冊子『30年の歩み』をまとめた村松仁志さん(71、福島)によれば、初代会長は森林久雄(もりばやし)さんで、66年には援協巡回 診療班が通い始め、移民60周年の68年からはバストスの伯光団が数年間、同地で連続公演しており、聖州とのつながりの深さを感じさせる。...
タグアチンガの会館には、日系DF文化協会の梅田寛ワルテル会長の姿もあった。会長職を10年も務めると同時に、連邦警察の国際警察(インタポール)部に勤務するエリートでもある。「つい先日も2週間訪日し、日伯の警察交流の打ち合わせをしてきたばかりだ」という梅田さんは、「日系社会全体の発展のために、県連がこのような懇親会を行い、交流を深めることは本当に重要だ」と高く評価した。日本国大使館の片山幹雄一等書記官も出席し、「ブラジリアは世界遺産になっただけあって、素晴らしく計画的な都市。世界に類がないそんな町で、日系の皆さんは活躍されている」と語った。最後に有志が炭坑節を輪になって踊り「ふるさと」を歌って、懇親会は午後9時に閉会した。 ☆ ☆ 翌30日朝、首都から155キロ離れたアナポリスでの交流会にバスで向かう途上、ガイドのジョアン・パリトーさんは、再び博学ぶりをみせ、遷都にいたる歴史を説明し始めた。最初に内陸遷都を提唱したのは、ポルトガルの植民地だった1821年、サンパウロ臨時政府のジョゼ・ボニファシオ副頭領だった。翌年に独立宣言、1823年の憲法制定議会でボニファシオは新首都の名として「ブラジリア」をすでに提案していた。つまり、海岸都市リオが船による敵襲に脆弱であるとの観点と、大陸的国家の均等な発展という見地から、内陸の中心部に移転させるという考え方は、伯国独立と同じぐらい古くからあった。遷都という国防・産業上の合理的なアイデアに、宗教的な確信を与えたのは、カトリック教サレジオ会の創始者、イタリア人神父ドン・ヨハネ・ボスコだった。1883年に同神父が夢の中で出会った青年から「中央高原に新しい都市が出現する」ことを知らされたとの逸話だ。ドン・ボスコの預言には「南緯15度と20度の間に大きな湖が形成され、(中略)、大きな鉱床があり、川底を掘ると牛乳と蜂蜜があふれ出て、穀物の無限の宝庫となり、カナンの地が出現し、人類の新しい文明が生れるであろう」とある。その中で、遷都実現の時期は「二世代後」となっており、『ブ五十周年』では「一世代が60年だと計算すれば、二世代目は1944~2003年まで」(91頁)と計算する。確かに、この間に、まさにその南緯に遷都は実行され、エジプト神話の鳥イビスを思わせる都市計画の中には「大きな湖」が堰きとめて作られた。思えば、北伯にはカラジャス鉱山という「大きな鉱床」が採掘され始め、「川底」ならぬ大西洋の海底からは岩塩層下油田という「蜜」が次々に見つかり、日本移民が先導したセラード開発で当地は「穀物の無限の宝庫」となった。二世代後の最終年にルーラ大統領が就任し、BRICsと呼ばれて世界の注目を集める新興国に変貌した。預言をしたのが有名なイタリア人神父、遷都を実行したのが歴代の中でも1、2位を争う人気大統領。首都計画案を公募した時、なみいる外国の有名建築家の高価な模型と精巧な設計図を抑えて、審査員が全員一致で承認したプランは、ルシオ・コスタが前夜の真夜中に霊感をえて、たまたまそこにあった新聞紙に殴り書きした手書きの図面だった。それをオスカー・ニーマイヤーが建築家として具体化した。まさにカリスマや伝説的逸話のオンパレード、そのまま伯国建設の国家神話の世界だ。神話に彩られた首都が「人類の新しい文明を生む」のは、きっと次の世代だろう。遷都構想には、欧州文明への劣等感に苛まれていたブラジル人が熱望していた新大陸ならではの神話創造という想いが込められていたに違いない。そして、百年単位でみると徐々に具現化しつつあることがわかる。〃神話〃に加わった聖州等の日系二世、戦後移民らの存在も見逃せない。海岸線にへばり付くようにわずかな平地に密集する首都リオを反面教師とする、まっ平らな高原に作られた新首都は、それまでの伝統を完全に無視したものになった。(つづく、深沢正雪記者) 写真=最後に全員で「ふるさと」を合唱 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月13日付け 兵庫県神戸市にある「海外移住と文化の交流センター」(元移民収容所)では、11月1日から来年1月31日まで『教科書で見るブラジル日系社会の子弟教育展』を開催している。 今年5~7月に行われた企画展『ブラジルの大地を拓いた日系人たち』では日系移民たちの農業分野の活躍を取り上げたのに対し、今回は「教育」をテーマに、戦後に使用された教科書等が展示される。 「ジャポネス・ガランチード」の根幹にあるブラジルで行われた日本的教育を見直し、来場者にこれからの日本について考えてもらうことを目的としている。 また同県西宮市でも、パラナ州ロンドリーナ市との友好提携35周年を記念した「2012ロンドリーナ週間」を同市役所本庁舎で開催中だ。 同交流センターの中にある日伯協会(西村正理事長)の協力で、過去の特別展、企画展で展示されたパネルを使用するほか、今年はさらにロンドリーナ市をアピールする特別パネルを追加作成する意気込みをみせている。
14 de novembro de 2012, 16:41 Se ainda pairava alguma dúvida sobre o número de representantes da...
A Associação Cultural Tottori Kenjinkai realiza neste domingo (18), a partir das 10 horas, no Centro de...
ニッケイ新聞 2012年11月10日付け タグアチンガの平沢醇さん(あつし、78、長野、コチア青年1次9回)は、「首都を作るって言うんで野菜作りに入った人が多いね。昔はサンパウロからカミヨンで持って来てたから値段が高かった。要はこの辺はセラードでしょ、土が悪くてシュシューぐらいしか出来なかったんだ」と苦難の道を振返る。強酸性の土壌を改良するためにヘクタール当り2トンも石灰を入れ、そのあと肥料を入れないと利かない状態だった。「最初は水もない。肥料もない、気候も分からない状態で、日本移民はどんな品種がいいか一から研究した。軍隊に頼んで貨物機に鶏糞積んで来てもらって、土壌改良し、ようやくいろいろな野菜ができるようになった」と振返る。ブラジリアの日系史は、まさに〃農業の神様〃日本移民らしい逸話にあふれている。「農務省の役人も、研究熱心な日本移民ならやり遂げるだろうと募集したときいている。日本移民はその期待に見事に応えてきた」と胸を張る。平沢さんは農家の次男に生れ、「うだつを上げよう」と移住を決意し57年にリオに入植、後にミナスに北上して、77年からゴヤス州に入ったという。「作りさえすれば売れた時期もあったが、今じゃ、日本人から学んだブラジル人がいいもの作るようになって」と少し表情を曇らす。高柳治郎さん(82、埼玉)もコチア青年一次、1955年9月サントス着だ。「コチア青年は最終的に40人ぐらい首都に入った。僕は最初アルバレス・マッシャードへ。みんなあっちこっち放浪してから、ここへ集まった。今残っているのは20人ぐらいかな」という。 ☆ ☆ 荒木茂高さん(コチア青年1次1回、しげたか、80、三重)は最初にアチバイアで4年の義務農年を終えてから、59年にブラジリアへ入った。「あの当時、ブラジリアにはコチア青年は誰もいなかった。タグアチンガも家が20、30軒しか建っていなかった。トランク一つぶら下げて『いけば何とかなる』と思っていた。今思えば無鉄砲だった」と大笑する。「その頃はあの松永さんもボロボロのバス3台しかなく、建築労働者をいっぱい積んであっちこっちに運んでいた」という。「最初は自給自足、10年後にやっと家内(花嫁移民)を日本から呼び寄せた。彼女は東京の松下電器に勤めていたのにこっちに来たらランプ生活…。もちろん、事前に文通で知らせてありましたよ」。子供は3人、うち長女は伯国外務省に入り、在スペイン伯国大使館に勤務する。荒木さんは「パラシオ・デ・アウボラーダ(大統領公邸)の裏には、実は立派な日本庭園があった。日本人の草分けの一人、小野山三郎(兵庫県人)という農業技師がいて、庭師の仕事をしていた関係で彼はJKとベンアミーゴだった」という知られざる逸話を語りはじめた。小野山さんは養蚕移民で20年ほど前に約80歳で亡くなったという。この日本庭園が現在もあるのかは分からないという。「小野山さんの紹介で、JKが大統領を辞めた後、リオにある彼のファゼンダを個人的に訪問したことがある。そしたら本人が出てきてビールを注いでくれ、サシ(差し向かい)で乾杯までしたよ」と笑う。1970年の少し前だ。「野菜を作ってもらうために日本人に来てもらいたかったと言っていた」とし、若きコチア青年とJKとの珍しい思い出を披露した。(つづく、深沢正雪記者) 写真=「日本移民は最初、野菜作りで苦労した」と語る平沢醇さん(上)/JKとの思い出を語る荒木さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月9日付け タグアチンガの文協広報、田中淳雄さん(あつお、72、福井)は、「ブラジリア老人会は240人も会員がおり、高橋実(みのる)会長を中心に団結を誇っている。去年の3・11では有志がいち早く5万コントを集めて大使館にもって行った。これがキッカケになって全伯に震災募金の輪がひろがったと自負している」とマイクで説明すると拍手が送られた。 松永行雄名誉会長から県連の園田昭憲会長に記念品が送られ、遷都の前年57年7月に創立した同地文協の沿革と、役員の経歴がスライド上映付きで説明された。 それを見ながら故郷巡りの世話人、県連の伊東信比古さん(69、大分)は「リンスの人がずいぶん多いな」とつぶやいたのを聞き、記者は思わず膝を打った。 ☆ ☆ 松永名誉会長がプロミッソン、佐藤会長がリンス生まれなのを始め、副会長5人、会計、書記までの9人中、ノロエステ線生まれが実に7人を占める。アララクアラ線一人、ブラジリア生まれはわずか一人に過ぎない。つまり同地文協役員の大半が遷都構想前後に、ノロエステから新開地だったブラジリアへ移ってきた二世世代だ。 終戦後、ノロエステ線生まれの次男、三男の多くが新開地北パラナに移ったことは有名だ。それに加え、同様に首都にも大挙して来ていた訳だ。 当日の懇親会では佐藤会長の実父・栄一さん(94、神奈川)が歳を感じさせないキビキビとした所作で踊りを披露し、拍手喝采を浴びた。「リンスでは扇子工場をやっていた。51歳、ブラジリアに来てから踊りを始めた」と振返った。 そんなノロエステ勢の先駆けが、同文協会長を代々務めた松永家だった。シンノスケ、三郎、繁雄、達雄ら兄弟が1958年頃にバス会社ヴィアソン・ピオネイラを創立し、77年ごろには389台も所有し、事実上、首都の公共輸送を牛耳っていたという。その後、あまりの独占状態に行政が介入したほどだったとか。79年には靴製造販売業ミチルス、93年には道路工事、観光業などにも手を広げている。 老人会の高橋実会長(88、福井県)に聞くと67年に首都へ来る前は、やはりノロエステ線グアララペスに住んでいた。市役所職員から始めて市議1期、副市長3年、市長1年を務めたという。 「やっぱりノロエステから来た人が一番多いと思う。あの頃あっちは土地が痩せてね。僕も500頭まで牛を増やしたところで、50年代に口蹄疫がはやって7年間輸出禁止になり、経営がきつくなった。いつまでこの処置が続くか分からない。当時ブラジリアは新開地として魅力あったし、気運が高まっていた。前から付き合いのあった松永家がこっちで成功している話も聞いていたし、じゃあこっちへとなったんだ」と当時の経緯を語った。 日系社会の歴史は、必ずどこかで〃移民のふるさと〃ノロエステとつながっていると痛感される逸話だ。 94歳の栄一さんの踊りを見た一行の三木路生さん(みき・みちお、72、千葉)は「あの歳であの踊り、杖も突かずにしっかり。並大抵ではない。見習わないと」と何度も肯いていた。同協会の歴史が全てポ語で紹介されたことに関し、一行の宮坂修治さん(しゅうじ、88、長野)は「ブラジル語でベラベラやられると残念。もっと日本語でやってほしかった」との意見をのべた。 同地では日本舞踊、ゲートボール、フットサル、剣道、卓球も盛んで、当日はYOSAKOIソーラン「喜翔楽」(きしょうらく)チーム20人の元気に溢れる演技も披露された。日本語学校には教室が九つもあり、100人の生徒を16人の先生が教えているという。(つづく、深沢正雪記者) 写真=記念品を渡す松永名誉会長、奥が佐藤会長、右が県連の園田会長/老人会の高橋実会長 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年7月6日付け 伯日議員連盟(西森ルイス会長)と在ブラジル日本国大使館の共催で先月26日午前、ブラジリアの連邦下院議会で「移民104周年記念式典」が開 催され、約200人が出席した。式典には西森会長をはじめ高山ヒデカズ、大田慶子、安部順二下議、三輪昭在ブラジル日本国大使、JICAブラジル事務所の 室澤智史所長らが出席。日本文化の普及に貢献した6人が表彰され、今後もその普及に力を注いでいくことが宣言された。 上田雅三(まさみ)連邦高裁判事、下本八郎元聖州議員、日伯農業開発株式会社の秋本満敏副社長、パラナ日伯文化連合会の嶋田巧前会長、サンパウロ新聞社の水本エドアルド社主、三輪昭大使が表彰され、同連盟議員から記念プレートが手渡された。 表彰者を代表して上田判事は「伯国で貢献した我々の祖先に敬意を払うと共に、移民を受け入れてくれた伯国に感謝」とあいさつ。三輪大使は「苦労 を重ね、伯国で信頼を勝ち取った日本移民は我々の誇り」と強調した。日伯議員連盟事務局長の藤村修内閣官房長官から届いたメッセージも紹介された。 大田、高山、安部下議はそれぞれ、「日系社会は常に発展しているが、その経緯や歴史を忘れずに子孫へと伝え、将来の日系社会を作って行こう」と呼びかけた。 表彰を受けた嶋田さん(79、二世)はパラナ日伯文化連合会会長を長年務め、同地日系社会の結束に尽力した。「こんな素晴らしい賞を私になんて もったいない。パラナの日系人を代表して受け取りました」と感謝を示し、折笠力己知・現会長は「これまでと違った移民の表彰が行われて良かった。パラナで も西森下議と協力して文化継承に力を入れていきたい」と語った。 秋本さん(63、愛媛)はセラード開発など日系農業に30年携わり、近年は文協RURALの企画にも力を注ぐ。「このような機会で、今までの努力が認められて嬉しい」と喜んだ。 西森議員は「今回の表彰は数人に贈られたが、本来は日々の小さな活動に従事している数多くの日系人に贈られるべきもの」と語り、各個人の貢献を称えた。式典には南部からの出席者も多く、県連の園田昭憲会長のほか、パラナ州からは50人が参加した。 同記念式典は19~28日の日本文化週間の中で開催されたもので、会場では浮世絵や草月流による生け花の展示、東日本大震災後の復興の様子と東 北文化を伝える写真の展示会が行われていた。記念式典後には、文化週間の開会式も行われ、琉球國祭り太鼓の華やかな演奏が会場を盛り上げた。(長村裕佳子 通信員)
ニッケイ新聞 2012年11月9日付け 聖州・アリアンサ移住地の創設80周年を記念した移住史『創設八十年』が、長野県人会(Praca da Liberdade, 130, sala 910)で販売されている。一冊50レアル。本年度『にっけい文学賞』受賞作品。問い合わせは同県人会(11・3106・1268)まで。また同著の編纂委員会は内容に関する問い合わせも受付けている。嶋崎正男委員長(18・3707・1130)または今本マリアン委員(同・3708・1247)まで。
ニッケイ新聞 2012年11月9日付け リベルダーデ文化福祉協会(池崎博文会長)は6日、同会館で先月の全伯統一市議選で当選した日系議員を讃える祝賀会を開き、日系団体関係者ら約70人が訪れた。聖市の野村アウレリオ(PSDB)、羽藤ジェオルジ(PMDB)、大田正高(PSD)の各氏のほか、サンベルナルド・ド・カンポ市の南洋行(PSDB)、オザスコ市のファビオ・ヤマト(PSDC)の両氏が招かれた。来賓には、福嶌教輝在聖総領事や聖州議の羽藤ジョージ氏、県連、文協、援協の日系3団体の会長らが出席した。池崎会長から来賓らに向けた謝辞と当選議員らの紹介があった後、福嶌総領事から「当選議員の方々には、精力的な働きと日系コミュニティを支える柱となることを期待している。総領事館も可能な限り協力していきます」とのエールが送られた。続いて5人の議員が挨拶し、感謝の言葉や今後の目標を語った。再選を果たした野村氏は「再び選んで貰えた理由は、自分の中の日本的な精神が評価してもらえたから。真っ直ぐで誠実な日本人のやり方を反故にすることは市民を裏切ることになる。それを忘れずに突き進んでいきたい」と自らの姿勢について熱弁した。「教育分野の改革に力を注ぎたい」と話したのは初当選の大田氏。「小学校への入学前教育を行う施設を増やし、より充実させることが大きな目標。教育の充実が犯罪率の低減にもつながる」と抱負を語った。隣市のサンベルド・ド・カンポ市から参加した南氏も「政治家としてオメナージェンされることは滅多にないので、本当に嬉しい。選挙期間中も、池崎さんを始めとするサンパウロの方々からの応援は力になった」と謝意を示した。その後、それぞれに日本刀と兜をあしらった記念のプラッカを贈呈。会場は大きな拍手で包まれ、議員らを囲んだ食事会が賑やかに行われた。
ニッケイ新聞 2012年11月8日付け 首都建設に参加した日本人=「伯国の底力を目の当たりに」 祈るために両手を合わせた様子をそのまま外観にしたメトロポリタン教会には、まるで産道のような薄暗い地下道を通った先に、ガラス張りで明るい陽光が差し込むドーム型の礼拝堂がある。これは「人間が暗闇から出発して光に向かっていくことを象徴している」(『ブ50年史』78頁)という。バスに同行したガイドによれば、メトロポリタン教会内の天井のガラス細工は、正面には子宮をイメージしたY字型で「世界が生れるところ」、その上に受精卵、左に妊婦、右に跪いて祈る女という具合に、生命の神秘を連想させる表象が散りばめられている。極めつけは、連邦議会ビルの裏からJK橋に向かう途中を見せられた原野だった。かなりの広い面積がセラードのまま残されていた。「なぜ、何も建っていないただの原野を見せるのか?」と訝しんでいると、「将来ブラジルが発展して、あの官庁街が狭くなった時、ここに建て増しするように予定された土地です。今は何もありませんが、ここにはブラジルの未来が構想されています」。最後に「それを確かめるために、みなさんぜひ150年後に、もういっぺん見に来てください」と冗談でガイドがアナウンスした時、一行の多くは爆笑した。でも記者は笑えなかった。08年1月の百周年開幕式の時、迷路のような大統領府の中を案内された時、「建て増ししているがもう限界。これ以上は空間がない。もっと大きい建物にしないと職員が収容しきれない」との声を聞いたのを思い出したからだ。今世紀に入ってからのペースで発展を続けるなら、遠くない将来、この原野には新しい官庁街が建設されるに違いない。半世紀前には何もなかった原野に、伯国第4番目の人口256万人を誇る連邦直轄区が生まれ、今では一人当たりの国内総生産は南米都市中で5位を誇る。JKは「50年の発展を5年で」をスローガンにした。伯国は永遠の「未来の大国」と自嘲して久しいが、意外にこの50年間は、他所の国の500年に匹敵する歴史だったのかも――と考えさせられた。イナウグラソンの翌年61年に意外な人物が新首都を訪れた。同年4月12日に人類初の有人宇宙飛行を成し遂げたばかりの宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンだ。彼はあまりに近代的な都市の景観に「私は他の星に到着したような印象を受けた」との有名な言葉を残した。こんな不思議空間ゆえに、わずか50年の歴史しかないこの都市がユネスコの「人類の文化遺産」に指定されたのかもしれない。こんな壮大な国家創造神話的な世界に、果敢に身を投じていった日本移民たちがいた――。☆ ☆故郷巡り一行のバス3台が9月29日午後に「ブラジリア日伯文化協会」(佐藤昇会長)に到着すると、予期しない盛大な歓迎を受けた。衛星都市タグアチンガに所在し、JK就任翌年の1957年に創立した。会館入り口右側の壁には、ずらりと記念プレートがならぶ。不思議なことに、歴代会長の苗字の多くがMatsunagaだ。この家族はいったい何者なのか。数ある連邦直轄区の日系集団地の中でも、ここは最も日系人が多いことで有名だ。同協会には210家族も会員がおり、日本語学校など若者向けの活動も盛んだ。一行が到着した時も会館入り口の両脇に、今年創立したばかりの金夢(きんむ)太鼓10人が並び、迫力の歓迎演奏をして一行を感激させた。会館にずらりとテーブルが並べられ、現地の人と混ざるように座るといっぱいになった。懇親会では現地の佐藤会長が歓迎の意をのべ、一行を代表して木原好規団長が「盛大に歓迎してもらい感無量。60年代に仕事でこっちに来たことあるが、当時は舗装道路などなくバラックのような家ばかり。見違えるように立派な町になったのを見てびっくりした。懐かしさと共にブラジルの底力を目の当たりにした思いだ」と挨拶した。(つづく、深沢正雪記者) 写真=様々なシンボルが散りばめられたメトロポリタン教会の内部 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
