ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 「第37回ふるさと巡り」に参加した及川君雄さんによると、戦前に移住し、イタケーラでシッチオを経営していた故吉岡省氏は桃作りを成功させた人物として知られるが、最初同地は砂地で機械もなく「販売も大変だったらしい」と及川さん。「厳しい人だと言われていたが良い人だった。息子のように思ってくれていたような感じもした」と思い出す。ちなみに日本青年協会は今も存続しており、近代的農業経営を志向する青年の育成や青年の国際交流などを行う歴史ある団体だ。
Ano: 2012
ニッケイ新聞 2012年4月17日付け 会場では坂手実さんの説明の後、婦人部の皆さんが着物を着て「花笠音頭」を披露する傍ら、あちこちで再会や交流の輪が広がっていた。ふるさと巡りに約5年前から毎回車椅子で参加、「日本青年協会」の派遣で1959年に来伯した及川君雄さん(75、岩手)は同地在住の肥後フクエさん(73、鹿児島)と半世紀ぶりの再会を果たした。来伯したばかりの同協会派遣の若者は当時、イタケーラで果実の栽培を営んでいた吉岡省氏のもとに滞在することになっていた。同会派遣の男性と結婚し、後にボツカツに入植する肥後さんと及川さんは、その場で顔見知りになっていた。及川さんはその後イタケーラに2年半、インダイアツーバに6年滞在し、68年からアチバイア在住。専門はバラの栽培で、かつて何度か訪れ縁のあったボツカツへの訪問にあたり、会員らにバラの花を持ってきていた。「最初は大変だった。でも狭い日本でこせこせしているよりも、のんびりしたブラジルでよかったかな」としみじみと話す肥後さんは、及川さんと近況を報告し合い「(子供が独立して)夫婦二人になると寂しいね」などと語り合っていた。ふるさと巡り常連の神林義明さん、小山徳さん(ともに長野県出身)は、前回同様、積極的に訪問先の移住者に話しかけ、同郷で同地在住の中澤巻重さん(71)、上野実さん(83)らと写真を撮っていた。中澤さんは61年に来伯し、ブラガンサ・パウリスタに入植。パラナ州を経て、ボツカツには42年住む。「大学病院や工場があって、よい町ですよ」と満足そう。65年に同地に移り住んだ坂手実さんは「現在はほとんど二世で、日本語継承が難しくなっている」と真剣な表情を見せた。「日本語学校もあるが生徒は少ない。何を何のために教えるのかを検証し、組織のあり方を考え直さなければ運営ができなくなる」と危機感を募らせる。同地では一昨年前から市との共催で「友達祭り」という名の日本祭りを開催し、非日系の来場者を多く迎えている。「今はコロニアにとって大切な時期。ブームになっている今、日本文化を紹介しなくてはいけない」と思いを語る。文協には非日系を含む約100家族の会員がいるが、実際活動に参加しているのは約60家族に過ぎない。「創立当時も100家族ほど会員がいたが、住んでいた日本人のほぼ全員。昔は日本人なら会に入ることが当たり前だったが、今は違う。入ったらどういうメリットがあるかを考えるし、会長をする人もいない。寄付を募っても集まりにくい。なかなか難しいね」と語った。(つづく、田中詩穂記者) 写真=再会を喜び合った及川さんと肥後さん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
サントス市で1950年代に庶民の足として活躍した路面電車が2009年に観光電車(ボンデ・ツーリスチコ)として運行を再開しており、アメリカ、イタリアなどから寄贈された車両も市内を走っている。 サントス市議の中井貞夫氏は「各国の電車がサントスを走っているのだから、日本の車両も走らせることができないだろうか」と発案。昨年9月頃、同市と姉妹都市である長崎市を走る路面電車に目を付け、かつて同市を走っていた古い車両を「譲り受けることができないだろうか」と、長崎県人会(川添博会長)に対して依頼した。 同県人会では3月の役員会で同件について話し合い、「県人会がどこまでかかわるのかはっきりさせてから動かなくてはならない。長崎側の事情や、運送費用の負担などについて確認している段階だ」と説明した。 後日、中井市議から連絡があり、サントス市は長崎からの車両運送費や補修費用などはすべて同市のプロジェクトに基づいたスポンサー費用で賄う構えで、長崎側の費用負担は全くないと伝えられたという。 同県人会は費用負担がないと正確に確認できた段階で、母県に車両譲渡の了解を得るとみられる。サントスの観光電車は、同市の文化遺産センターが2年かけて路線延伸工事を行い、観光用に運行再開したもので、電車は市役所前のマウアー広場周辺から30分ごとに運行されており、コーヒー取引所や旧サントス駅舎などを巡回。約5キロの距離を45分かけて周り、観光局のガイドが市内の観光名所を説明する。 ヨーロッパの雰囲気漂う古い街並みを見学する観光ツアーは、別名「生きた博物館(ムゼウ・ビーボ・ド・ボンデ)」とも呼ばれており、運転時間は毎日午前11時から午後5時まで(月曜運休)。 日曜の午前11時、正午、午後1時、同2時発の電車にはアコーディオンとギターの演奏サービスがあり、音楽を聴きながら町の周遊を楽しめる。運賃は大人5レアル(高齢者、学生、教師は半額)。 2012年4月14日付
香川県人会(菅原パウロ農夫男会長)は、28日午後3時から聖市ミランドポリス区の同県人会館(Rua Itaipu, 422)で、四国88カ所を巡る「遍路」についての講演「四国遍路道とスペイン準礼の道」を開催する。 講演するのは遍路文化の普及活動をしている高松市のNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」の松岡敬文事務局長(62)で、講演では遍路の歴史や実際に歩いた体験談を紹介し、「お遍路さん」がかぶるすげ笠や白衣、納経帳なども展示する予定。 菅原会長は講演について「ブラジルにもお遍路文化に似たものがある。香川県をはじめ四国の良さを伝えられたら」と話している。講演後、松岡事務局長らは「太陽の道」と呼ばれるサンパウロからアグアス・デ・サンペドロまでの240キロの道を11日間(5月1日~11日)かけてカトリック教会と合同で歩く。巡礼への参加者は1000人を見込んでいる。 また、同県は過去にフランスやスペインと巡礼を通して都市間で提携を結んでいるため、ブラジルでも関係を深めたいとし、29日にも「太陽の道交流会」主催の同様の講演会がアグアス・デ・サンペドロで行われる。講演に関する問い合わせは、同県人会(電話11・5587・5303)まで。 2012年4月14日付
姉妹都市提携を結んでいる富山県富山市の提案を受け、JICAブラジル事務所(室澤智史所長)は9日、モジ・ダス・クルーゼス市のゴミ分別処理開発計画について同市関係者と覚書署名を交わした。 同計画はJICAによる草の根技術協力地域提案型プロジェクトの一環で、今後2014年9月までの約2年半の期間で60万レアル相当の技術供与が行われる。 同計画は10年に富山市の広瀬隆正副市長が来伯した際、姉妹都市のモジ市がゴミ分別処理分野で困っている状況を知り、支援したいとの意思を示したことに始まった。 今後、日本からの専門家が年1回の割合で派遣されるほか、モジ市側の技術者が日本に研修に行くなど技術移転が図られる。JICAブラジル事務所では、5月に埼玉県教育委員会からの提案によるリオ市ファベーラ在住子弟の教育計画や、同月に福岡県北九州市からの提案によるミナス・ジェライス州ゴミ分別処理プロジェクトなどを進めていく予定だという。 2012年4月14日付
ニッケイ新聞 2012年4月14日付け 現在の同地コロニアのもととなる「コロニア・サンタマリーナ」が近郊にできたのは戦後、1950年代のこと。全国の農村青年の教育や指導者育成を目的に戦前に設立された「日本青年協会」(文科省、農水省所管団体)から、同会の会員でブラジルに移住していた故吉岡省氏(京都)が日本の青年を移住させたいという同会の申し出を受け、当地政府と交渉。200ヘクタールの土地を購入し、会員らを呼び寄せたのが始まりだという。坂手さんによれば、コチア組合も近くに土地を購入して数家族を住まわせたという。「吉岡さんは桃栽培を成功させた人として有名ですがうまくいかず、他の果物に変わっていったようです」(坂手さん)。また、同地には台湾梅の栽培でコロニアに梅干をもたらした孫河福さん(台湾出身)も入植している。孫さんはこの日の交流会に姿を見せ、話を聞きたいと集まった参加者一行と歓談に花を咲かせていた。孫さんが呼び寄せた家族が持参した台湾梅の栽培が成功し、それまでブラジルになかった、小粒ながら日本のものと変わらない梅干の供給が実現。国内に広まり、ボツカツは伯国での梅栽培発祥の地としても知られている。会場でも会員手作りの梅酒が振舞われ、頬を赤く染めた参加者もちらほら。現在、数家族が梅干や梅酒などを作っている。会館の外で自家製のそれらを販売していた長田佳貫さん(78、鳥取)もそのひとりだ。長田さんは1957年から3年間、契約労働者として米国に滞在し、61年に来伯した。桃、ぶどう、すもも、アテモイア、ビワなどを栽培し、近年はユカリの苗も作っているという。海抜800メートルを超える同地では朝と夜で気温差があるため、「果実の糖度が高くなる」と長田さん。果物の栽培に適した気候のようだ。並べられていた小粒の梅干を試食してみると、かなり酸っぱい。思わず顔をしかめると長田さんの妻郁子さん(73、鳥取)は「細かく刻んでご飯にまぶしたり、おにぎりにするとおいしいですよ」と笑う。郁子さんによれば梅干作りには手間がかかる。台湾梅は苦味があるため、それを取ってから漬ける作業に入るという。「梅とピンガ、砂糖を混ぜて作るだけ。簡単ですよ」と言う梅酒には「94年製」というラベルが。「熟成させればさせるほど美味」。現在はボツカツに限らずピエダーデ、ピラール・ド・スールなどでも梅が作られているという。郁子さんは27歳だった隣町出身の佳貫さんと結婚後、22歳で渡伯した。以来ボツカツに住んで49年になる。「家族との別れが辛く来るときは泣きました。今でも何でこんなとこまで来たのかなって思ったりします」と笑う郁子さん。「気候がよくて、フルッタもおいしい。いい所ですよ」と、孫娘を隣に嬉しそう。「フェイラに売りに行きますけど、今百姓は難しいですね」という郁子さん。子供4人、孫3人に恵まれ、70歳以上のゲートボールチームに所属。州内外の大会に出場している。「元気が一番。皆と話すのが楽しみ」と笑みをこぼした。(田中詩穂記者、つづく) 写真=ボツカツ在住49年の長田さん夫妻 この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
ニッケイ新聞 2012年4月14日付け 「日系社会の皆様によろしくお伝えください」――。「第40回医療功労賞」(読売新聞社主催)の受賞式のため訪日したサンパウロ日伯援護協会の菊地義治会長が先月26日、天皇皇后両陛下と特別謁見した。2月に心臓パイパス手術を受けられたばかりにも関わらず、約1時間にわたりコロニアや現在のブラジル社会について尋ねられた。「あっという間に感じた」と話す菊地氏に対話の様子や、両陛下からのコロニアへのメッセージを聞いた。 都内のホテルで行われた式典後に、他の受賞者らと3月16日に皇居を訪問。「その際、陛下が直接お目にかかりたいと仰っているので後日連絡する、と侍従から言われた」10日後の26日午後2時半、指定された東京丸の内駅で待っていた菊地夫妻を迎えに来た車は皇居へと向かった。案内された広間はガラス張りで、黒松や寒桜、梅など四季折々の植物が植えられた庭に面していた。5分後、天皇皇后両陛下が部屋に入られ、目の前に座られた。菊地氏によれば、陛下は読売新聞に掲載された菊地氏の受賞に関する記事を事前に読まれており「ブラジルに行かれたときは苦労されたでしょうね」と切り出されたという。歓談は天皇陛下が摘まれたという野菜も入った春の七草、吸い物など7種類の食事をしながら和やかに進んだ。弓場農場の小原明子、芸術家の大竹富江、宮坂国人各氏の名前を挙げられ、「コチア青年と花嫁移民の方々はお元気ですか」と尋ねられたという。皇后陛下は二宮正人CIATE理事長の名前を挙げられ、「日本に来ているデカセギの子供達が日ポ両語を覚え、両国関係の親善に寄与する人材となって頂きたいです」と話されたという。天皇陛下はこれまで3回伯国を訪問。2回目の78年に訪問された北パラナのローランジャ、マリンガ、クリチーバなどを「懐かしいですね」と話され、06年に亡くなった最後の笠戸丸移民中川トミさんについても触れたという。菊地氏は老人ホームや病院の運営、自閉症児療育など援協の事業を紹介し「社会的に重要な位置を占めています」と説明。また、セラード開発の経験を活かしアフリカ大陸で実施する『プロサバンナ計画』などについても説明した。最後に天皇陛下から「日系社会の皆さんに宜しくお伝えください」とのお言葉があり、両陛下に見送られながら夫妻は退室した。菊地氏は「コロニアがブラジル社会と融合しながら、農、工、商業の各分野で貢献していることを喜んでおられるように見えた。二世から六世までいる日系人が立派にやっていることを十分認識されていると感じた。移住についてよくご存知で、大切に考えておられる」と印象を語りつつ「思いもよらないことで光栄。個人ではとても謁見はありえなかった。あくまで援護協会の代表として呼んで頂いたと思う」と話していた。
ニッケイ新聞 2012年4月13日付け 学生寮を出発したバスには、UNESP農学部元学部長の中川ジュリオさん(77、二世)が乗り込み、マイクを片手に当地の日系人について説明。現在同市には250~300家族の日系人がおり、UNESPが近いことから、日系の大学教員や研究者が多く住んでいるという。文協会館にバスが到着すると、青いハッピを着た会員らの出迎えを受けた。ボツカツ市内から25~30分ほど、車で45分ほどの場所にある。 各々テーブルにつくと、同地在住の東敏(88、熊本)さんが「良い旅をされますように。行き先の幸あらん!」と音頭を取り、一同乾杯した。東さんは6歳で来伯し、上塚第二植民地に入植した。23歳で出聖し、サンパウロで40年以上を過ごした。ボツカツに移り住んだのは約15年前。「農業をしているのは30家族ほどでは。ほとんどが市街地に住んでいて、UNESPの病院関係者や教員が多いですね」と語る。各テーブルでは、「昨日の夜から作りました」「たくさん食べてもらわないとね」と口々に言う元気な婦人部の皆さんが心を込めて作った料理に、それぞれ舌鼓を打っている。同地に40年以上住む笠間悦子さん(74、和歌山)は「注文していた野菜が昨日の午前中に着くはずだったのに、セアザのデモで夜になってしまった。無事間に合って良かった!」と笑顔を見せていた。食事の後、評議員会長の坂手実さんが同地の移住史をスライドで説明。第3アリアンサ移住地の奥にあった「熊本移住地」出身の坂手さんは、1978年の文協創立当時の元会長。京都大学に1年留学した経験もあり、日本語が流暢だ。ボツカツは、笠戸丸移民が入った6つの配耕地の一つ、「ソブラード耕地」から14、15キロ離れた場所にある。坂手さんによれば08年の百周年を契機に、ソブラード耕地に山口県出身の数家族が入植したことがわかり、その子孫が「自分達の祖先が入植した場所を見たい」とボツカツを訪れたという。現在は近隣のサンマヌエル市内にあり「ここだと特定はできたが、百年以上経っているので大分変わっている。現在はブラジル人がサトウキビ農場をやっているようです」。その後1930年代、ソロカバナ線ボツカツ駅の一つ手前だったヴィトリアーナ駅付近に約40家族が入植し、米や棉を栽培した記録が残っているという。のちに2家族がボツカツ市内に移り、作物で資金を稼ぎバウルーの奥地に土地を購入して移った人もいるそうだ。「大きな棉工場があったと聞いている。今小さい町になっているようだが、あの頃いた日本人は残っていないですね」と坂手さんはしみじみ語った。(田中詩穂記者、つづく) 写真=坂手さんの説明に、一行は熱心に耳を傾けた この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
Com expectativa de receber um público estimado em 80 mil visitantes, acontece hoje (13), sábado e domingo,...
愛知、和歌山、滋賀、大分の4県人会が出店する第14回屋台祭りが22日午前11時~午後3時、聖市リベルダーデ区の愛知県人会館(Rua Santa Luzia, 74)で開催される。 出店物は、愛知=焼きそば、おにぎり、あんみつ、持ち帰り用白餅。和歌山=関西風お好み焼き。滋賀=肉うどん。大分=トリ飯、トリ天、牛たたき。 案内に来社した4県人会代表によると、昨年から郷土食のほかに県人会及び有志出演による郷土踊りが実施され、来場者が倍増したという。 郷土踊りは午後1時から同2時ごろまで舞台上で披露されるほか、カラオケも行われる。「ブロックを超えた横のつながりを大切にし、4県人会の力を合わせてやることが大きい」と各代表は同イベントの意義を説明し、当日の来場を呼びかけている。 なお、会場には子供スペースも用意しており、子供や孫など家族そろっての参加もできる。白餅(1袋6レアル)購入希望者は19日までに愛知県人会事務局(電話11・3104・8392)へ予約すること。 2012年4月12日付
日本週間など各種イベント協力も 【ベレン支局】パラー州内の各県人会が一つになり、新しい日系組織「北伯県人会協会」が1日、発足した。組織の世代交代で、日本語による母県とのコンタクトが困難になってきている現状から、同協会が煩雑な事務書類の代行や各県人会活性化のサポートをすることなどの趣旨の下に、今回設立された。初代会長には、山本陽三氏(北伯香川県人会会長)が選任された。 1日午前9時半からベレン市内にある汎アマゾニア日伯協会会議室で開催された会合には、北海道、福島、秋田、岩手、山形、群馬、栃木、静岡、山口、広島、香川、熊本、佐賀、宮崎など14県人会の代表者たちが各地より集まったほか、オブザーバーとして堤剛太同日伯協会事務局長、阪野真司在ベレン総領事館領事も出席した。 パラー州内で県人会としての機能を果たしている団体は、この日の参加県人会以外には福岡、青森、宮城、三重、神奈川程度のために、会合には80%近い県人会代表者たちが参加したことになる。 会の進行は、これまでの準備段階での世話人だった山本氏と越知恭子氏とで行われ、今回の組織発案までの経緯や趣旨が出席者に説明された。 続いて、新組織の発足を承認するかどうかの審議が行われ、幾つかの質疑応答が交わされた後、満場一致でこの案件が承認された。次いで、会の名称をどうするかで幾つかの意見に分かれた。主な意見は、これまで準備段階で使用されていた「東部アマゾン県人会連絡協議会」をそのまま継続しようという慎重派と、新たな組織を作るなら対外的にも通用できる「北伯県人会連合会」レベルの規模にまで一気に持っていこうという積極的な案に分かれた。両者の意見交換が積極的に行われた結果、協議会と連合会の中間的な位置にある「北伯県人会協会」という名称が採用された。 なお、「北伯」という名称は「オールアマゾン」という意味合いで、実際に全アマゾン地域を管轄している県人会も存在するためにこの名称が付けられた。 今後の県人会協会は、定款の整備、非常勤事務局員の採用並びに事務局の設置(汎アマゾニア日伯協会事務所内に机を置く程度)、汎アマゾニア日伯協会が催す日本週間などのイベントへの参加協力など、具体的な事業計画作成を実施していく考えだ。 会合では、北伯佐賀県人会が「本年度県人会を作ったばかりなのでまず、自分たちの県人会内部を強化してそれから県人会協会へ参加したい」と今回の県人会協会への加入を見合わせた。一方でベレン福岡県人会が「今回の会合へは出席できなかったが、県人会協会活動には参加したい」と意思表示をしており、とりあえず14県人会でのスタートとなった。 このほか、北伯県人会協会の初代会長に山本氏(北伯香川県人会会長)、副会長に越知恭子氏(北伯広島県人会会長)、書記理事に宍戸次男氏(北伯福島県人会)が選任。そのほかの理事として島川尚三氏(北伯熊本県人会会長)、伊藤健治氏(北伯北海道人会会長)、平形宏氏(北伯群馬県人会群馬の森事務局長)らが出席者の互選で選ばれた。 2012年4月12日付
県連(園田昭憲会長)は3月29日、代表者会議の席で7月に開催するフェスティバル・ド・ジャポンの関連事業として、6月24日に第1回日伯ロードレース&ジョギング大会を開催すると発表した。 これは、今年の同祭のテーマ「共存する進歩と環境」に沿ったものをと、「MACPlan」社が企画を持ち込んだもの。大会には3キロ、5キロ、10キロのコースを設け、約3000人のランナーの参加を見込んでいる。 大会は聖市中心部の歴史的なエリアにコースを設置。セントロ区のジョアン・メンデス広場をスタートし、リベルダーデ大通り、セー広場、サンジョアン大通り、イピランガ大通りを巡り、ジョアン・メンデス広場に戻ってくる予定。 この企画は、移民100周年の際に同社から文協に持ち込まれたが、実現には至ることはなかった。関係者によると同イベントが実現すれば、日系コロニア団体が主催する初めての大規模ジョギング大会になるという。 2012年4月10日付
ブラジル都道府県人会連合会が昨年10月に設定した「ブラジル日本都道府県人会連合会基金」の第1回の交付先が、このほど発表された。三重県人会の「三重県人移住100周年記念史編纂事業」に1500レアル、「東北・北海道運動会」に5000レアル。この金額の振り分けについて、県連代表者会議で「査定基準が分からない」との意見が出たという▼当然だろう。運動会に5000レアルも出しておきながら、記念史編纂事業に1500レアルでは異議が出るのは当たり前だ。常識的に考えれば、運動会はゼロ査定。記念史編纂事業にその金額を上乗せすべきだ。基金というのは公金だ。それを遊び事で消えてなくなる事業に支給するのは間違っている。普通なら運動会で楽しむ人たちが負担すべき経費で、受益者負担が原則ではないか。例えば、東北・北海道の人たちが一献傾ける懇親交流会を企画したとする。このイベントに基金を出すのと同じではないか▼一方、記念史編纂は県人会として県人の足跡を残すための重要な仕事だ。ところが、こうした編纂事業の資金を調達することが一番難しい。各県人会の会長は、資金集めの困難さを一番知っているはずだ。にもかかわらず、雀の涙程度の補助金しか交付しないのはなぜなのか。県連はこの2件の査定基準とかかわった基金委員会のメンバーの意見を公表すべきだろう。このままでは、透明性がなく、密室で談合したと言われても反論できないのではないか▼日系コロニアの事業を支援している宮坂国人財団の選考基準を参考にすればいい。同財団は、基本的には形の残る事業だけに補助金を交付している。そうすれば、財団の名前は末永く残る。こうした基本的なことすら調査しないで県連内部の人たちがお手盛りで決めることに問題がある。基金委員会は少なくても半数は外部の有識者を入れるべきだ。そして、どのような事業に補助金を交付するのかガイドラインを決めておく必要がある▼基金委員会は今後、交付承認を代表者会議の場では行わないと発表した。こんなことしか考えられない人たちが県人会のトップに座っているから、県人会が衰退する。今からでも遅くはない。運動会に交付する5000レアルを取り消すべきだ。(鈴) 2012年4月11日付
ニッケイ新聞 2012年4月12日付け 土曜日(14日) サンパウロ日伯援護協会評議員会(午前9時)、臨時総会(午前11時)、福祉センター5階(Rua Fagundes, 152, Liberdade)ブラジル日本文化福祉協会評議員会、午前8時半、文協ビル13・14号会議室◎第27回秋祭り、終日、モジ文協スポーツセンター(Av. Japao, 5919, Porteira Preta)、日曜日も◎合同展「大竹富江と三梨伸の出会い」、終日、デコ画廊(Rua dos Franceses, Bela Vista)、日曜日も◎ヴィラ・モラエス文協「第50回焼きそば祭り・カラオケダンス」、午前11時、同会会館(Av. do Cursino, 3331)◎花祭り「お練り」、午前10時、リベルダーデ広場◎異文化多業種交流シュラスコ会、午後6時、日系ルーテル・サンパウロ教会(Rua...
ニッケイ新聞 2012年4月12日付け 「県連移民のふるさと巡り」に記者生活1年足らずで2回目の参加をした。「今回は少しゆっくりできたわね」という参加者も多かったが、それにしてもバスを乗ったり降りたりの繰り返しで、いろいろトラブルもある中、高い平均年齢にもかかわらず出かける、という姿勢には脱帽。どの移住地でも婦人部の皆さんが作る食事がふるまわれるが、食欲もすごい。取材中はなかなか落ち着いて食事も取れず、ふと見やるともうなくなっている鍋もちらほら…。それがいつも残念。
ニッケイ新聞 2012年4月12日付け 「名前はよく聞いていたけど、ここにもこんなに日系人がいるのね」―。参加者の一人はバスに乗り込みながら、感慨深げにそう漏らした。ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)主催「移民のふるさと巡り」は37回目を迎え、先月31日~4月3日に実施された。かつてコーヒー、棉栽培などで栄えた移住地をバス3台で巡り、聖州ボツカツ、バウルー、パラグアスー・パウリスタの3カ所の日本人会では温かなもてなしを受け、交流を深めた。 初日午前7時、早朝の冷涼な空気の中、リベルダーデ広場に総勢122人の参加者が続々と集まった。多くが聖州内から、遠方はブラジリア、ゴイアス、リオ、パラナ各州から、平均年齢70代半ばの〃ツワモノ〃が早々とバスに乗り込み、ほぼ定刻に出発した。最初の目的地は、人口約13万人のボツカツ。聖市から西に235キロの同地を目指してバスはカステロ・ブランコ街道をひた走り、約4時間後、まずはボツカツ日本文化協会が運営する「ボツカツ日伯学生寮」に到着した。同文協評議員会長の坂手実さん(二世、76)らの出迎えを受け、一行はバスを降りて足早に寮内のサロンを見学。一行は「素晴らしい学生寮ね」などと口々に感想をのべ、「何人くらい学生がいるのですか」との質問も飛んだ。坂手さんの説明によれば、同学生寮は89年に開設され、現在37人が入寮している。サンパウロ州立大学(UNESP)の農、医、獣医、生物学部を擁するボツカツ・キャンパスから車で10分ほどの距離に位置し、日系、非日系に関わらず学生を受け入れているという。ふるさと巡り常連の小原あやさん(90、岩手)はボツカツ在住。今回地元からの合流となった。続々とバスに乗り込む一行を尻目に、階下にある図書館と日本語教室をわずかな時間を縫って記者を案内してくれた。こじんまりした図書室ながら、漫画などが美しく整頓されていた。「皆さんに説明しようと思って待っていたんだけど、時間がないみたいね」と残念そうなあやさんは「今でも週に2回は来ています」と笑顔をみせた。(田中詩穂記者、つづく)。 写真=日伯学生寮を見学した参加者一行/現在も週に2回は図書館に足を運ぶという小原あやさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-tanaka4.html
Escrito por Divulgação Qua, 11 de Abril de 2012 16:03 No dia 23 de abril, às 19h,...
Escrito por Kenia Gomes Seg, 09 de Abril de 2012 18:34 Com as informações todas compiladas e...
ニッケイ新聞 2012年4月11日付け 「皆がどうすればいいのか理解していたように見えた。素晴らしい教育と文化を感じた」―。昨年3月11日。宮城県女川町で被災した与儀・花城トシアキ・イウトンさん(48、三世)は、避難所となった体育館で9日間を過ごし、冒頭のような印象を持ったという。勤めていた水産会社では同僚の一人が亡くなった。ブラジル政府の支援を受け26日に帰国し、現在は聖市文化局に勤めるイウトンさんに体験を聞いた。 「人生を変えたい」と渡日を決意。もともと日本に興味があったことも手伝い、08年11月に従姉妹一家が住んでいた女川町に住み始めた。勤務していた「ワイケイ水産」は3工場が被災し、稼動不可能に。復興庁、宮城県、女川町などのホームページによると同町の死者・行方不明者数は人口の1割弱にあたる900人以上に上り、住宅・建物被害としては世帯数の8割以上が全壊、あるいは半壊した。震災発生直後、市役所からの避難警報が聞こえた。「6メートルの津波だと聞いたが、実際には16~18メートルほどだったようです」(イウトンさん)。従業員は屋上に避難しほぼ全員が助かったが、一人の女性だけ命を落としたという。住んでいたアパートはほぼ全壊した。「しばらくは、何が起こったのかわからなかった」翌日から町内の体育館に避難。何とかして家族に無事を伝えたかったイウトンさんは、避難所に取材に来ていた複数のマスコミ関係者に片言の日本語で「ブラジル領事館に連絡してほしい」と頼んだ。最も迅速に対応したのは読売新聞の記者だった。娘のメールアドレスを伝えたのが16日。「領事館に連絡してくれ、そこからブラジルの家族に私の居所と無事が伝わった」。携帯電話で家族と連絡が取れたのは翌17日だった。領事館は19日、イウトンさんらをバスで迎えに来た。その他、同地に住んでいたペルー人や石巻市に住んでいた日系ブラジル人もバスに乗った。手続きを経て日本を出発したのが25日。渡航費や出発までのホテルの宿泊費などはすべて政府が負担した。イウトンさんは避難所での生活を振り返る。「避難所だった体育館はとても静かだった。皆一緒だったことでなぜか自分も落ち着いた。誰もパニックを起こさず、秩序を保っていたことが信じられない」毎日午前に水を運ぶトラックが到着し、朝10時に一杯の味噌汁とおにぎりが配られた。「余っても奪い合うこともなく、子供やお年寄りに分けていた。政府の対応に怒る人もいるが、被災者が必要なものを供給して、やるべきことをやっていたと思う。ブラジル政府とは全然違う。皆状況は同じだった。ひとり違う態度を取ったところでどうしようもないということが、あの場にいた全員が分かっていた。素晴らしい教育と文化だと思った」と語る。「被災地はまだ瓦礫の山だと聞いている。お世話になった同僚に別れを言う機会がなかったが、人々が普通の生活に少しずつ戻りつつあると聞いてほっとしている」とイウトンさんはようやく笑みをこぼした。
Cerimônia na Câmara Municipal de São Paulo homenageia atletas e dirigentes Em cerimônia bastante concorrida, foi realizada...
