06/03/2026

Ano: 2012

ブラジル日系文学会(武本憲二会長)は12月9日、聖市ビラ・マリアーナ区の日本語センター(Rua Manoel de Paiva, 45)で、日本祭り俳句・短歌コンクール及び増田恆河賞の授賞式を行う。 同コンクールは県連主催の第15回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)会場内及び郵送で受け付けされた作品から選考される。今年で8回目になり、数多くの作品から俳句が4句、短歌が2首選ばれた。 ハイカイ(ポルトガル語)の優秀作品に贈られる増田恆河賞は今年で5回目を数える。ポルトガル語の子ども俳句部門もあり、同授賞式も行われる。入場無料。 問い合わせは、同会事務所(電話11・3203・2018)まで。 2012年11月29日付
平成24年度兵庫県若手地域農業リーダー海外派遣団(三好昭宏団長)12人が3日から15日の間、兵庫県内4市と姉妹都市の提携を結んでいるパラナ州の各市を中心に滞在。その間日系人との交流や農業視察といったさまざまな研修が行われた。 同事業は今年で34回目。今年度も兵庫県内の農業高校生や大学校生が参加し、今年度の12人を合わせると累計で492人となる。同一行は兵庫県加古川市と姉妹都市提携を結んでいるパラナ州マリンガの日系人宅で1週間のホームステイしながら、同地域の高校生との交流や文協、日本語学校の視察なども行った。 また、コーヒー農園や養鶏場、エタノール工場などの見学をしたほか、リオやイグアスの滝といった観光地の視察もプログラムに含まれていた。 最終日の14日午後8時には、聖市リベルダーデ区のニッケイパレスホテルで兵庫県人会(尾西貞夫会長)役員との懇談会が行われた。懇親会では同県農大職員の三好団長が研修を振り返り、「日系人に支えられ良い研修となった。若い人との交流もあり、生徒もいい刺激になったと思う」と総括した。 尾西会長は「ブラジルで経験した貴重な体験を日本で生かしてほしい」と生徒たちを激励。食事中は派遣団が自己紹介し、思い出に残った出来事や将来の目標などを発表していた。 兵庫県立農業大学校野菜科1年の山本明日美さん(19)は「ブラジルの農業は大きく大ざっぱに仕事をしていると思っていたが、GPS(全地球測位システム)装置や大型機械を使い正確でびっくりした。加工品とかもレベルが高い」と農大生らしい見方でブラジルの農業を振り返った。同一行は15日に帰国した。 2012年11月29日付
17日に宮城県人会(Rua Fagundes, 152)で開かれた青葉祭りの会場で兵庫県人会(尾西貞夫会長)が、兵庫県特産の「兵庫のり」を特別販売して好評を得た。会場には「兵庫のり」を求めようと通常の2倍近い人が訪れたという。購入者から「もう一度販売してほしい」という要望が多いため、同県人会は12月に行われる青葉祭り会場で再度販売する。尾西会長は「買った皆さんから『おいしい』と褒められ、うれしい限り。あまり数量が多くないので購入される人は早めに来場下さい」と呼び掛けている。販売されるのは「焼きのり」で1袋10枚入り。色が黒くツヤのあるおいしい極上もので、1袋18レアル(2袋の場合は35レアル)。
青葉健康生活協会(中沢宏一会長)は12月1、15、29日に聖市リベルダーデ区の宮城県人会館(Rua Fagundes, 152)で12月度青葉祭りを開催する。 同催しは毎月第1、3土曜日に行われているが、今回初めて3回の開催となる。手作り食品を出品するADESC(農協婦人部連合会)の上芝原初美会長によると、来年1月の第1土曜日を休止するため次の開催まで間があることから、12月第5土曜日の29日も実施することとなった。 上芝原会長と吉泉美和子副会長は「ナタールのプレゼント用に手芸品を多く用意します。正月用のごちそうもいっぱいあります」と呼び掛けた。同会館3階の食事処では、1日に天ぷらうどんや餅料理、15、29日の両日は、はらこ飯やさんま焼き定食を販売する。 また今月から、これまで健康食品を販売していた河野雅郎さん(65、2世)が、クエン酸の販売と説明会を行う。説明は日ポ両語で行い、無料で聴講できる。同祭の開催時間は3日とも午前7時から午後3時ごろまで。問い合わせは同県人会(電話11・3209・3265)まで。 2012年11月29日付
宮城県人会(中沢宏一会長)は東日本大震災義援金として、8月19日の「日本の心の歌」(11万4495円分)と10月15日の「あめりか丸」同船者会(1万4508円分)で集められた計12万9003円を10月に行われた県連の東北被災地応援ツアー参加者に託すなどし、宮城県東日本大震災宮城子供育英基金に送った。 それに対しこのほど、村井嘉浩宮城県知事から礼状が届いた。礼状には、宮城子供育英基金への寄付に対しての感謝の気持ちがつづられ、震災遺児への支援に活用していくという。 また、10月に東北3県を訪問した県連被災地ツアーの視察について同県知事は「復興に向け着実に歩んでいる姿を実感していただくことができた」としており、今後も震災復興に引き続き取り組んでいく考えを示している。 2012年11月28日付
年3回の頻度で20年以上にわたり慈善バザーを続けている大阪なにわ会婦人部は、バザーで大阪名物のたこ焼きを販売していた時期もある。ところが「調理する人が少ない」「早く提供できる」といった理由から、たこ焼きはうどんに代わったそうだ。来月2日に開かれるバザーの料理は約20人で用意するが、参加する婦人部員は「1世の年寄りばかり」とか。「年配の部員が多く、アジューダ(協力)が減っている」と現状を話す久保部長も御年86歳。若い世代の参加に苦戦している日系団体は少なくないが、同婦人部も同じようだ。いつかまた、なにわ会のたこ焼きを楽しめる日は来るのだろうか。
大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は、12月2日午前9時から午後5時まで聖市ビラ・マリアーナ区の同会館(Rua Domingos de Morais, 1581)で第73回慈善バザーを開催する。 当日は、同会婦人部員が作るなにわうどん、すし、天ぷらなどの日本食のほか、手芸品が販売される。なお、売り上げの一部で車イスを購入し、希望の家に寄付する予定。 婦人部の久保美恵子部長と役員の松原信子さん、桑原妙子さんは「うどんのだしは濃過ぎず味が出ていると評判です。食べにいらして下さい」と来場を呼び掛けた。入場無料。 問い合わせは同会(電話11・5549・7226)まで。 2012年11月28日付
聖市パライゾ区にある石川県人会館(Rua Tomas Carvalhal, 184)は現在、ナタール(クリスマス)の飾り付けでにぎわっている。装飾を作っているのは、同県人会事務員の城森ジョゼさん。城森さんは毎年この時期1人で飾りを制作しており、今年は空き缶を再利用した風車のほか、ベルや動物、ハートの形をした飾りや折り鶴などで会館前にある街路樹を飾った。風が吹くとカラフルな風車が回り、会館利用者や通行人を楽しませている。 2012年11月28日付
ニッケイ新聞 2012年11月24日付け 最後に、山田清さんが手配した同州が誇る芸能「ブンバ・メウ・ボイ」を踊るチーム「ボイ・デ・ルア」の舞踏が披露された。若者40人がバンドと踊り子に分かれ、植民地時代に富を象徴した「牛」を中心に、インディオの魔術師役、カボクロ役、黒人奴隷役などが民俗的な物語に沿って踊るものだ。伯国を代表するサンバは黒人文化の影響が強いが、ブンバ・メウ・ボイはインディオ色が濃厚な感じだ。チーム代表のロブソン・コラルさん(55)は「ボクは山田から少林寺拳法を25年間も習っている。彼に頼まれれば、若いのを連れてくるぐらいなんでもない」という。「マラニョンでは奴隷階級の踊りとして1894年頃に始まった。バイーアのカポエイラと一緒で、当時、白人から市中心部でやることを禁止されたり、警察から追い回されたり、差別された踊りだった」との歴史を語る。それが現在では、州を代表する踊りになっている。この踊りが19世紀にアマゾン河中流でゴム産業が勃興した時に、マラニョン州などから国内移民によってパリンチンスに持ち込まれた。1920年ごろから地元の伝統舞踊として広まり、現在では国際的に有名な奇祭ボイ・デ・パリンチンスの起源になったという。郷土芸能チームを見た一行の吉田武弘さん(67、佐賀)=ブラジリア在住=は、「なかなか見られない踊りを見せてもらった。日本人会がやってくれた最高のもてなし」と喜んだ。一行の森本勝一さん(77、高知)は「きっと子供の頃から練習していたんだろう。若い人たちがこれだけ伝統芸能をやるのは立派なことだ」と関心していた。 ☆   ☆ 翌10月2日、一向はサンルイスから東南に260キロ、レンソイス・マラニャンセス国立公園の中にあるパレイリンニャスに向けてバスに乗った。海岸線から内陸に入ると突然、車窓には巨大なクレーンが林立する光景が広がった。カラジャス鉱山でとれた鉄鉱石の積み出し港として有名なイタキ港だ。この開発によって1880年代から長い黄昏期にあったサンルイスがようやく復興し始めた。現在、日本政府が港拡張計画準備調査をし、世銀「日本社会開発基金」から約3千万ドルが支援される予定といわれ、日本とも縁が深い。「あれが見学できたら良かったのに」との声が車内のあちこちから聞こえた。一行の小山徳さん(のぼる、73、長野)にとってもサンルイスは思い出の地だ。南米産業開発青年隊8期として1962年に渡伯し、70年代以降、当時は最新技術だったマイクロウェーブ送信の中継施設建設を、軍事政権から受注した日本電気(NEC)に勤めていた小山さんは、まさにアナポリスからベレンまでの44局を担当していた。1971、2年頃にサンルイスからパラー州カショエイラまで、電波を200キロも飛ばす施設の工事では現場主任をしていた。その時、右手の親指と人差し指を事故で切断してしまった。「あの当時は、今みたいに電気が普及するとは思わなかった。この地域に電気が通るには、あと50年かかると思っていたから、44局全部に自家発電設備があった。カショエイラの発電用エンジンに水漏れがあって、直そうとしてスパナをいじっている時にプロペラに接触してしまい、アッという間に指が切れちゃって、ベレンまで200キロを自分で移動した。ちょうどナタルの時期でね、救急病院が込んでいたよ」。バスの車窓から時折り見える巨大なアンテナ設備を見ながら、小山さんは40年前の記憶をたどった。(つづく、深沢正雪記者) 写真=小山さん/ボイチームの指導者ロブソンさん/手前の獅子舞のようなものがボイ。左がカボクロ。「ボイ・デ・ルア」の踊り この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html      
ニッケイ新聞 2012年11月24日付け 広島県人会の有志ボランティアが中心となって行うデイ・サービス「もみじの会」が22日、同センターで開かれ、25人の参加者がレクリエーションや食事を楽しんだ。「高齢者の方々に憩いとふれあいの場を」と、同県人会の大西博巳会長の発案で2004年に始まり、月一回のペースで開催されている。出身県は問わず、毎回約20人が参加する。午前中には健康表現体操やシニアダンスが行われた。講堂に会場を移した食事の時間には、ボランティアのメンバーが「前日から心を込めて作りました」という手作りの昼食が振舞われ、創立当初から通う谷口範之さん(87、広島)は「毎回これが一番の楽しみ」と笑顔。午後の部では聖市文協で劇団員としても活躍する吉沢英子さんによる日本舞踊のステージや、広島県の観光地を紹介するビデオの上映、手拍子や動きを交えてのクリスマスソングの合唱などが行われた。会の最後には、サンタクロースに扮したスタッフから石鹸の詰め合わせがプレゼントされ、参加者は満足した様子で帰途に就いた。新聞で会の存在を知って以来欠かさず参加している野村好子さん(94、山口)は「皆と仲良くお喋りする時間はとても楽しい。この年まで元気でいられるのはこういった会があるから」と元気に話した。同会のボランティアで、レクリエーションを担当する橘愛子さんは「参加者の数は少しずつ減ってきているけど、希望する人がいる限り今後も続けていきたい」と来年以降への意欲を見せていた。
ニッケイ新聞 2012年11月24日付け 慶祝 ブラジル鳥取県人会創立60周年記念式典 【鳥取県】副知事 藤井 喜臣教育次長 生田 文子交流推進課課長補佐 山下 大治同課主事 堀本 将也 【県議会】議長 伊藤美都夫議員 横山 隆義議員 砂場 隆浩議会事務局係長 溝内  博 【鳥取市】副市長 深澤 義彦議会議長 中西 照典議会事務局長 中村 英夫企画調整課長 國森  洋同課主任...
ニッケイ新聞 2012年11月23日付け 二つの移住地がうまくいかなかった後、日本政府は土地を買い上げて、ロザリオ移住地から出た数家族などを入植させた。西脇家、上田家、細江家(パラー州から)、田坂家、四元家(よつもと)、土居原家(どいはら)、大塚家などが今も残っているという。交流夕食会に招待された地元日系人4人の一人、細江ハミルさん(62、二世)はその細江家のメンバーだ。彼は「祖父は1929年にトメアスーに入った」というので、由緒ある初期アマゾン移民だ。ハミルさんはそこで生れ、74年に父が養鶏をしにマラニョン州に南下したことから、ハミルさんもこちらでエンブラテルに就職した。『トメアスー開拓50周年史』(1985年)をひも解くと、第1回移民(29年9月着)には「細江」姓はいない。だが、第2回(同年12月着)には「細江喜一郎」(宮崎)の名があり、「マラニョン州」と付記されている。喜一郎がハミルさんの父だろう。地図で見ると、サンルイスからサンパウロまでは2970キロもあるのに対し、パラー州都ベレンとマラニョン州都サンルイスは805キロしか離れていない。近くはないがブラジル的にはりっぱな隣州だ。どちらも法定アマゾン地域であり、風土的にも〃近い〃関係ようだ。同地の山田さんは日大農獣医学部拓殖科卒、学生時代に少林寺拳法で全国学生3位に輝いた武術の達人だ。「トランスアマゾニア沿いの開拓をしたくて移住した」という初志を持ってきた。全拓連がやっていた農高生移住制度で74年に渡伯し、聖州の全寮制農業学校で3年間学んだ最後発の戦後移民だ。「学校で学んでいる間にトランスアマゾニアの開拓事業がうまく行かなくなり、連邦政府が放棄してしまった」と述懐する。初志貫徹は難しくなったが、そんなことで挫ける山田さんではなかった。「おめおめ帰れるか!」と思いとどまり、ゴイアス州のフランス系鉱山会社の灌漑設備計画を依頼され4年間従事し、その後、トゥクルイー発電所建設現場で野菜作りをした後、86年にサンルイスに出た。「山の中にいるのが嫌になった。海の魚が食べたい。カラジャス鉱山ができて、日系企業がでてくるかも」という期待もあった。翌87年に自ら発起人になって同地の日伯文化協会を作り、初代副会長に就任した。それ以前から日本人だけの「日系自治会」は存在したという。現在の会員数は65家族で、大学教授、技師などが多い。「私もふくめ配偶者はほとんどブラジル人。だから家庭内で日本語を話さない」。日伯協会では年に一度、運動会を催す。主にブラジル人対象の日本語教室を開いている。そこから日本留学生もでている。「この10年で、この町は大きなビルが林立するようになり、滅茶苦茶変わりました」。中島信之さん(61、山口)は1957年に家族でベレンに入植した戦後の子供移民(当時6歳)だ。ベレンから20キロのところで養鶏をしていたが、大学で電気科を専攻し、マラニョン州電気公社に就職したことから同地で33年間働いている。アマゾンからの南下組だ。「08年の移民百年はあまりここではやってないね」とポツリ。聖州ツッパン生まれの二世、川岡ミリアンさん(56)は、夫の仕事の関係で85年から同地在住だ。合計8年間ほど同協会の日本語講座を手伝っている。「漫画やアニメ好きなブラジル人ばっかり。この町でアニメ祭りもあるんです。コスプレやったりとか」。一行の及川君雄さん(75、岩手)=アチバイア在住=は「こんなに日系人が少ないのに日本語学校をやってることが素晴らしいと思った。日本語教育も日系子弟ばかり当てにしていたら先細りになる。この発想に参考になるヒントがあるような気がする」とうなずいていた。(つづく、深沢正雪記者) 写真=中島信之さんと山田清さん/右手前から細江ハミルさん、川岡ミリアンさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html
ニッケイ新聞 2012年11月23日付け 広島県人会の有志のボランティアが同センターで行う高齢者デイ・サービス「もみじの会」。2004年に始まった活動だが、年々少しずつ利用者が減っており、5年前の約半分の人数となっているのだとか。関係者も「あんまりが多すぎても困るけど、徐々に減ってしまい寂しい」とため息。イベントや会運営で若者不足が叫ばれるコロニアだが、元気な高齢者の減少も問題!?同会への参加希望、問い合わせは同県人会(11・3207・5476/杉山さん)まで。
ニッケイ新聞 2012年11月22日付け サンルイスに到着した10月1日昼、郷土食レストランでは名物「Arroz de Cuxa」が大人気だった。ビナグレイラの葉を刻んで、ゴマ、乾燥エビなどと炒めてご飯に混ぜた焼き飯の一種だ。海ノリのような独特のまったり感があり、日本人の口に合うようだ。現地ガイドは「この料理は黒人奴隷がアフリカから持ち込んだ」といい、植民地時代の〃味〃だと強調する。ただし、サンルイスに住む聖州出身の日系二世に言わせると「サンパウロでハナ梅に使う木と同じ種類」という。だとすれば意外に身近な素材だ。デザートのアイス類はバクリ、アサイ、クプアスーなどアマゾン流域と一緒だ。昼食後、セントロ観光に向かう。ガイドの説明では、欧州からサルバドールは船で60日かかるが、サンルイスなら35日と近く、たくさんの黒人奴隷が連れてこられ、1800年代まではサトウキビ、棉産業で栄えた。米国、欧州への綿輸出基地として、サルバドール以前からの植民地運営拠点として栄えた歴史を持つ。それゆえ1888年に奴隷解放令が出された途端、マラニョン州は没落を始めた。その直前までサンルイスは、リオ、サルバドールに次ぐ国内3番目の人口を誇る大都市で、富裕層子弟は欧州で教育を受けるような場所だった。海岸線から7メートル上の崖の上にたつ隣の市役所は1689年、となりの州政庁は18世紀末の建設で、「文明化地区はここの建設から始まった」とガイドはいう。その奥のサンルイス大聖堂は1629年建設だから、伯国史において最も古い場所のひとつであり、この地区全体がブラジリア同様にユネスコの世界遺産に指定されている。ガイドから「ポルトガル人が作った町は、必ず山の手(シダーデ・アウタ)に行政機関を集め、下町(シダーデ・バイシャ)を商業地区にする」との説明を聞き、なるほどサルバドールもそうだと一同納得する。メルカードへ下る坂道は狭く、石畳になっていて古き良き欧州の風情がある。一行の熊谷(くまがい)裕子さん(75、二世)は「3年前にポルトガルのコインブラに行ったけど、あそこに町並みにそっくりね」と驚いた様子だった。 ☆   ☆ サンルイスに住む日系人はどこから来たのか?――との疑問を抱き、さっそく現地の日系人4人を招待して行なわれたブリザマール・ホテルでの交流夕食会を取材した。戦後移民で同地在住の山田清さん(61、大阪)によれば、サンルイス近郊には戦後二つの日本人移住地が作られ、計45家族が入ったという。その一つは、サンルイスに野菜を供給する目的で、ジャミック(後のJICA)が1960年に60キロほど離れた所に作った「ロザリオ移住地」だ。つまり、一昨年の2010年が同地日本人入植50周年だった。ロザリオには20家族ほどが入植したが水がでないなどの問題が起こり、2年でバラバラになってしまい、当時問題になった。雨期に小川はできるが、乾季には完全に乾く状態だったという。もう一つは、州都に卵を供給するために養鶏中心の移住地をジャミックが1961年に計画した。州政府の補助を受けて25家族の予定だったが、全部入らず、しかもアルミ精錬工場が出来たために立ち退きさせられる羽目に陥った。賠償金を受け取ってパラー州、聖州、ブラジリアなどに散り散りになってしまったという。山田さんは「その2ヵ所以外ほとんど日本人は来ませんでした。あとパラー州から流れてきた家族が5、6家族いるぐらい」という。戦前の移住地は日本人が日本人のために作り、一攫千金を狙えるコーヒー、棉などの輸出作物が多かった。戦前に〃農業の神様〃の定評を得た日本移民は戦後、ブラジリアしかり、北伯の州都近郊しかり、悪い土地でも野菜を生産できる技術を期待され、地方政府からの要請で日本人移住地を作った例が多いようだ。(つづく、深沢正雪記者) 写真=サンルイスの州政庁前でガイドの説明を聞くみなさん この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2012/2012rensai-fukasawa9.html