06/03/2026

Dia: 3 de janeiro de 2013

今年1年の鹿児島県人会の動き 2月24日=役員総会。2年に1度の役員総選挙が実施され、現会長の園田氏の続投か交代かが注目される。10月上旬=1週間程度を予定に母県にゆかりのある画家、森一浩さん(63)ら数人による「創立100周年記念画展」を開催。開催場所は聖市リベルダーデ区内としている。また同時期に「西郷隆盛記念シンポジウム(仮)」と題し、母県出身の人物の紹介を専門家により講演。より母県に興味を持ってもらう機会を設ける。同月20日=創立100周年祭開催。場所は未定だが、当日大型バスを用意し母県からの歓迎団を迎える。600人規模での開催を予定している。2014年初旬=創立100周年記念誌の発行。 記念誌を制作中! 担当の大羽豪三さん 100周年記念行事の一環として制作中の記念誌。制作を担当しているのは大羽豪三さん(76、鹿児島市永田町)。大羽さんは24歳まで鹿児島で過ごし、1966年に渡伯。70年から90年まで三菱重工に勤務し、94年から2010年までを日本で過ごした。制作を担当した理由について「来伯当初から同会に世話になっている。何か恩返しができれば」と心境を語った。記念誌は主に写真を多く掲載。祝辞や100周年の歩み、式典の様子を掲載する予定。表紙には森一浩画伯の2作品が載る予定で、1作品には相撲界の「行司」で立行司「木村庄之助」に就任(2年前)した母県出身の山崎敏廣さんの肖像画を載せる計画。200ページ、発行部数は2000冊として来年2月ごろに完成させたいとしている。 2013年1月1日付
今年8月、創立100周年を迎える  8月に創立100周年を迎えるブラジル鹿児島県人会。ブラジル日系社会最古の県人会であることは言わずと知れている。同会会員は約1500人、戦前移民が多いことから現在では3世、4世の若い世代の活躍が目立つ。10月20日には「創立100周年記念祭」が開催されることも決定しており、母県から伊藤祐一郎県知事を団長とした同県議員数十人を含む慶祝団が来伯する。現在、園田昭憲会長や安楽良雄同祭実行委員長を中心に、節目となる年を盛大に盛り上げようと記念行事などの調整が進められている。記念するにあたり創立100年の歴史を簡単に振り返る。  同会90周年記念誌によると1913年8月、ブラジル国が独立を宣言した「イピランガの丘」で設立式が行われたのが、ブラジル日系社会初めての「県人会」の始まりとされている。当日、式典には数十人の鹿児島県人が参加して祝福したという。 設立当時の役員は、会長に隈元維高(肝属町)、副会長・鮫島直哉(南さつま市〈旧加世田町〉)、書記・丸野政義(指宿市)。 また設立式後の鹿児島人らしいエピソードとして、サンパウロ市繁華街で夜が明けるまで祝福したという記録が残っている。その出来事から、素朴豪放で薩摩勇人(さつまはやと)の気質を感じ取ることができ、設立の喜びが伝わってくる。 なお設立当時の同会の役割は、相互扶助、病気、病害に対する医療補助、死亡見舞いなどだった。  同会設立と同時期に、聖市モルンビー区の高台に多くの同県人が入植。主に野菜や根菜類を栽培する近郊農業を行い、その後数十年間「鹿児島村」として同入植地はにぎわい、同会の役割も大きかったとしている。 同地には多い時期で約80家族が入植し、小学校も建設された。しかし30年代、電力会社により同地の土地買収が始まり入植者の大部分は、聖市サント・アマーロ区への移動を余儀なくされた。 現在、同県人らによって開拓されたモルンビーの高台にはサンパウロ州知事宅や在サンパウロ日本国総領事公邸などの各国大使館をはじめ、財閥、著名人の豪邸が建ち並ぶ高級住宅街となっている。  その後第二次世界大戦の混乱から同会消滅の危機を迎え、日本人の集会が禁止されるなどして県人会活動は一端解散に追いやられた。 終戦後、勝ち負け抗争が落ち着き「サンパウロ市及び近郊鹿児島県人会」として同会が再開したのは、52年6月まで時代はさかのぼる。 57年には戦後移住者の増加に伴い、全伯に県人会設置が必要という考えから「在伯鹿児島県人会」と改名。67年には法人化を進め現在の「ブラジル鹿児島県人会」となり、コロニア屈指の大型県人会に発展した。 時を置いた80年に念願だった県人会館を聖市パカエンブー区に建設、運営が始まった。現在でも同県人会館は同会の拠点として機能している。  2003年に聖州イタペセリカ・ダ・セーラ市立体育館で開催した同県人会創立90周年祭には約1500人が参加。母県からも100人以上の歓迎団が参加している。 90周年の際、会長を務めた田畑稔さん(80、2世)に当時の県人会の状況を聞くと、「財政的に苦しく同式典が最後になるのではないかという危機感が脳裏にあった」と述べ、「高齢化や若者の県人会離れ、出稼ぎブームなどで県人会縮小に歯止めが掛からなかった」と当時の様子を語った。  それからさらに10年が経過。07年から就任している園田会長らが中心となり経営面の立て直しを実行した。100周年を迎えるにあたり、現在安定した運営が行われている同会に田畑前会長はほっとしている様子だった。 100周年という誰も経験したことのない未知の領域に踏み込む同会。日系社会が今年の動向に注目しているのは当然のことで、年間を通じて過去の功労者に敬意を表する姿勢はもとより、今後に向けた取り組みへの姿勢が必要とされる。具体的には、高齢化や県人会離れをいかに食い止め、魅力ある県人会にできるかが大きな課題。また、母県も財政的にも苦しい状況であることは明白で、独自に運営していかなければならない。 そうした意味で、手助けもなければ競争相手も存在しない「100周年」という真っ白なスタートラインに立たされている。 2013年1月1日付
◆1世最後の移民70年祭=1978年戦後移住者は戦前移住者が築いた基盤を元に農業を始め、さまざまな分野で短期間に発展した。1978年、「1世最後の移民式典」と言われた移民 年祭は、実際には戦前移民の人たちによる戦前移民のための式典だった。聖市パカエンブー競技場に皇太子殿下ご夫妻、ガイゼル大統領を迎えて挙行した式典には7万人もの人たちが集まった。 70年代の日系コロニアは経済的な地位を確立し、母国へ錦を飾る「お里帰り訪日団」が流行していた。毎月チャーター便が両国を往復し、日本が近い存在になっていた。それでも、戦後移住者の多くは自らの社会的基盤を確立するのに苦労していた時代だったといえる。 ◆Uターン出稼ぎ顕著に=1980年代1980年代後半に誰も考えもしなかった逆流現象が日系コロニアに起こった。日本への出稼ぎだった。最初は1世のUターン現象として燎原(りょうげん)の火のごとく広がった日本就労だが、2年後には2、3世にも広がり、年間5万人以上の日系人が日本に職を求めて移動した。「デカセギ」がそのままブラジル語となり、戦前戦後を通じて70年間に日本から25万人がブラジル移住したが、わずか10年間に30万人以上の日系人が日本に移動した。 各地の日系コロニアでは、空洞化現象が顕著になり、運動会や青年部の催しが開催できなくなったり、農地が荒廃するなどさまざまな問題が社会問題化した時期でもあった。 ◆南銀、コチアなど崩壊へ=1990年代1990年代に入り、日系コロニアは経済的に安定したものの大きな変動が起こった。戦前の移民が築いたコチア産業組合、南伯産業組合などの大型農業協同組合が解散し、続いて日本人が設立し親しまれてきた南米銀行が他行に吸収合併された。 1世が築き上げた金字塔を2世の時代になり引き継ぐことの難しさを露呈した形となり、1世の落胆はことのほか大きかった。これらの組合、銀行は日系コロニアを基盤にして成長してきたことから、さまざまな分野で支援を続けてきた。ところが、解散や吸収合併により資金的援助がストップしたことから日系団体は後ろ盾を失い、活動が停滞する結果を招いた。 ◆戦後移住50周年式典開催=2003年戦後移住50周年記念式典を開催し、その流れを5年後の移民100周年につなげようと戦後移住者の中沢宏一氏(当時県連会長)、菊地義治氏(当時援協副会長)、小山昭朗氏(ブラジル工業移住者協会会長)が戦後移住50周年記念祭実行委員会を設立し、動き出したのが2002年だった。 しかし、文協から「移民の周年事業を戦前と戦後に分けるのは好ましくない」と協力を得られず、独自で計画を進めた。翌03年7月、県連主催のフェスティバル・ド・ジャポンに併せて聖州州議会において日本から4人の知事、2人の副知事をはじめ慶祝使節団が参加し、盛大に記念式典を挙行した。また、「桜とイッペーの植樹」をキャンペーンとして実施した。 2013年1月1日付
 今年は戦後移住が再開され60周年を迎える。50周年記念式典は物議をかもしながらも戦後移住者の存在感を示したが、還暦を迎える今回は動きが少ない。それでも、ブラジル都道府県人会連合会は7月に実施する第16回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)のサブテーマに「戦後移住60周年」を加え、式典を開催する準備を進めている。移り来て60年―。脳裏にさまざまな思いが走馬灯のように駆け巡る。 ◆日系コロニアの再編成期=1950年代日本政府は、終戦直後から海外移住の再開を模索した。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は中国の満州移民が植民地化に加担したとして認めなかった。海外からの引き揚げ者が600万人にも上るため、政府は民間による移住組織を立ち上げ、送り出しを目指した。 これとは別に、ブラジルの場合は戦前移住した親族を頼っての呼び寄せ移住は個別に認め、1950年ごろから少数ながら移住は再開していた。 本格的な集団移住となったのが、52年年末に日本を出発した「さんとす丸」での18家族54人がブラジル戦後移住の最初となった。この移住者がアマゾンの「ジュート移民」と呼ばれる人たちだった。 ◆渡航費免除も、移住者激減=1960年代1960年、日本政府はブラジル政府との間に日伯移住協定を締結したが、戦後移住者が最も多く移住したのは59年の約1万人で、以後激減した。この理由は、日本が高度経済成長期に入り、日本国内で人手不足になったためだった。 戦後最も多く移住した時期には、渡航費は移住者の借金として返済を義務付けられていた。しかし、この借金が重くのしかかっていたため移住者は、日本政府に免除を求めたがなかなか実現せず、海外移住家族会連合会の会長で国会議員だった田中龍夫氏に懇願、田中氏ら国会議員が議員立法で渡航費の無料化を実現したのは66年になってからのことだった。