◆1世最後の移民70年祭=1978年
戦後移住者は戦前移住者が築いた基盤を元に農業を始め、さまざまな分野で短期間に発展した。1978年、「1世最後の移民式典」と言われた移民 年祭は、実際には戦前移民の人たちによる戦前移民のための式典だった。聖市パカエンブー競技場に皇太子殿下ご夫妻、ガイゼル大統領を迎えて挙行した式典には7万人もの人たちが集まった。
70年代の日系コロニアは経済的な地位を確立し、母国へ錦を飾る「お里帰り訪日団」が流行していた。毎月チャーター便が両国を往復し、日本が近い存在になっていた。それでも、戦後移住者の多くは自らの社会的基盤を確立するのに苦労していた時代だったといえる。
◆Uターン出稼ぎ顕著に=1980年代
1980年代後半に誰も考えもしなかった逆流現象が日系コロニアに起こった。日本への出稼ぎだった。最初は1世のUターン現象として燎原(りょうげん)の火のごとく広がった日本就労だが、2年後には2、3世にも広がり、年間5万人以上の日系人が日本に職を求めて移動した。「デカセギ」がそのままブラジル語となり、戦前戦後を通じて70年間に日本から25万人がブラジル移住したが、わずか10年間に30万人以上の日系人が日本に移動した。
各地の日系コロニアでは、空洞化現象が顕著になり、運動会や青年部の催しが開催できなくなったり、農地が荒廃するなどさまざまな問題が社会問題化した時期でもあった。
◆南銀、コチアなど崩壊へ=1990年代
1990年代に入り、日系コロニアは経済的に安定したものの大きな変動が起こった。戦前の移民が築いたコチア産業組合、南伯産業組合などの大型農業協同組合が解散し、続いて日本人が設立し親しまれてきた南米銀行が他行に吸収合併された。
1世が築き上げた金字塔を2世の時代になり引き継ぐことの難しさを露呈した形となり、1世の落胆はことのほか大きかった。
これらの組合、銀行は日系コロニアを基盤にして成長してきたことから、さまざまな分野で支援を続けてきた。ところが、解散や吸収合併により資金的援助がストップしたことから日系団体は後ろ盾を失い、活動が停滞する結果を招いた。
◆戦後移住50周年式典開催=2003年
戦後移住50周年記念式典を開催し、その流れを5年後の移民100周年につなげようと戦後移住者の中沢宏一氏(当時県連会長)、菊地義治氏(当時援協副会長)、小山昭朗氏(ブラジル工業移住者協会会長)が戦後移住50周年記念祭実行委員会を設立し、動き出したのが2002年だった。
しかし、文協から「移民の周年事業を戦前と戦後に分けるのは好ましくない」と協力を得られず、独自で計画を進めた。翌03年7月、県連主催のフェスティバル・ド・ジャポンに併せて聖州州議会において日本から4人の知事、2人の副知事をはじめ慶祝使節団が参加し、盛大に記念式典を挙行した。また、「桜とイッペーの植樹」をキャンペーンとして実施した。
2013年1月1日付
