今年8月、創立100周年を迎える
8月に創立100周年を迎えるブラジル鹿児島県人会。ブラジル日系社会最古の県人会であることは言わずと知れている。同会会員は約1500人、戦前移民が多いことから現在では3世、4世の若い世代の活躍が目立つ。10月20日には「創立100周年記念祭」が開催されることも決定しており、母県から伊藤祐一郎県知事を団長とした同県議員数十人を含む慶祝団が来伯する。現在、園田昭憲会長や安楽良雄同祭実行委員長を中心に、節目となる年を盛大に盛り上げようと記念行事などの調整が進められている。記念するにあたり創立100年の歴史を簡単に振り返る。
同会90周年記念誌によると1913年8月、ブラジル国が独立を宣言した「イピランガの丘」で設立式が行われたのが、ブラジル日系社会初めての「県人会」の始まりとされている。当日、式典には数十人の鹿児島県人が参加して祝福したという。
設立当時の役員は、会長に隈元維高(肝属町)、副会長・鮫島直哉(南さつま市〈旧加世田町〉)、書記・丸野政義(指宿市)。
また設立式後の鹿児島人らしいエピソードとして、サンパウロ市繁華街で夜が明けるまで祝福したという記録が残っている。その出来事から、素朴豪放で薩摩勇人(さつまはやと)の気質を感じ取ることができ、設立の喜びが伝わってくる。
なお設立当時の同会の役割は、相互扶助、病気、病害に対する医療補助、死亡見舞いなどだった。
同会設立と同時期に、聖市モルンビー区の高台に多くの同県人が入植。主に野菜や根菜類を栽培する近郊農業を行い、その後数十年間「鹿児島村」として同入植地はにぎわい、同会の役割も大きかったとしている。
同地には多い時期で約80家族が入植し、小学校も建設された。しかし30年代、電力会社により同地の土地買収が始まり入植者の大部分は、聖市サント・アマーロ区への移動を余儀なくされた。
現在、同県人らによって開拓されたモルンビーの高台にはサンパウロ州知事宅や在サンパウロ日本国総領事公邸などの各国大使館をはじめ、財閥、著名人の豪邸が建ち並ぶ高級住宅街となっている。
その後第二次世界大戦の混乱から同会消滅の危機を迎え、日本人の集会が禁止されるなどして県人会活動は一端解散に追いやられた。
終戦後、勝ち負け抗争が落ち着き「サンパウロ市及び近郊鹿児島県人会」として同会が再開したのは、52年6月まで時代はさかのぼる。
57年には戦後移住者の増加に伴い、全伯に県人会設置が必要という考えから「在伯鹿児島県人会」と改名。67年には法人化を進め現在の「ブラジル鹿児島県人会」となり、コロニア屈指の大型県人会に発展した。
時を置いた80年に念願だった県人会館を聖市パカエンブー区に建設、運営が始まった。現在でも同県人会館は同会の拠点として機能している。
2003年に聖州イタペセリカ・ダ・セーラ市立体育館で開催した同県人会創立90周年祭には約1500人が参加。母県からも100人以上の歓迎団が参加している。
90周年の際、会長を務めた田畑稔さん(80、2世)に当時の県人会の状況を聞くと、「財政的に苦しく同式典が最後になるのではないかという危機感が脳裏にあった」と述べ、「高齢化や若者の県人会離れ、出稼ぎブームなどで県人会縮小に歯止めが掛からなかった」と当時の様子を語った。
それからさらに10年が経過。07年から就任している園田会長らが中心となり経営面の立て直しを実行した。100周年を迎えるにあたり、現在安定した運営が行われている同会に田畑前会長はほっとしている様子だった。
100周年という誰も経験したことのない未知の領域に踏み込む同会。日系社会が今年の動向に注目しているのは当然のことで、年間を通じて過去の功労者に敬意を表する姿勢はもとより、今後に向けた取り組みへの姿勢が必要とされる。具体的には、高齢化や県人会離れをいかに食い止め、魅力ある県人会にできるかが大きな課題。また、母県も財政的にも苦しい状況であることは明白で、独自に運営していかなければならない。
そうした意味で、手助けもなければ競争相手も存在しない「100周年」という真っ白なスタートラインに立たされている。
2013年1月1日付
