06/03/2026

Dia: 12 de abril de 2013

ニッケイ新聞 2013年4月10日  初めてサンジョアキンを訪れた曽我義成さん(75、岐阜、青年隊4期)は「日系の組合でもあれだけの施設を持っているところは少ない」と感心していた。  同じく宮家文男さん(77、島根、コチア青年1回12期)も「コチア産組が崩壊して以来、どんな形でサンジョアキンが生き残ってきたのか、一度この目で見てみたかった。すごく立派な工場なので感心した」と頷いていた。 ◎   ◎  交流会の先駆者慰霊ミサで「1974に日本移民の先駆者14人が来て以来、この町は一変した」と褒め称えたのは、同地に57年間も住むマトリス教会のブレヴィオ・オゼラメ司祭(モンセニョール)だ。  オゼラメさんによればこの町の産業史は3段階に区切れる。(1)町の創始から1950年までは細ぼそとした「牛を中心とした牧畜の時代」、(2)50年から70年頃まではパラナ松の切り出しによる「マデイレイロ(製材業)時代」で、「往時には160軒もあった。他に産業は皆無だった」という。ところが伐採しすぎて松が枯渇し町が衰退した。そこへ1974年に忽然と現れたのが、(3)日本人を旗振り役とする「リンゴ時代」だった。  オゼラメさんは「フジ種は世界一この土地に合っている。リンゴ生産者はこの付近だけで1200戸もあり、実に多くの雇用を産み出し、若者に仕事を与えた」と手放しで礼賛した。  オゼラメ司祭は「近年、ジャバリ(猪)が州内に北上してきたと聞く。元々はウルグアイとかから侵入したらしいが、大きいものでは200キロにもなり、地上1・5メートルぐらいまでの穀物や野菜は食い尽くすという。もしこの町まで来たらリンゴが危ない。でもIBAMA(国立自然環境保護院)は捕獲を禁止し、撃ち殺したら人間のほうが監獄にぶち込まれる。憂慮すべきことだ」と心配していた。  一行の一人、ミナス州でバタタ生産をする長井光男さん(68、山口)=タツイ市在住=も「ミナスでは大豆やトウモロコシ農家を中心にジャバリの被害がかなり出ている。でも捕獲禁止だから困ったもんだ」と同意する。  交流会では現地の山口福友さん(75、愛媛)がマイクを前に、一行に訪問を感謝する言葉をのべた。聞けば、1960年に愛媛県人会の呼びせで渡伯し、聖州在住時の69年頃から浪曲師としてならし、「甚平渡し」などを唸って77年には「名人」位を取ったという。  ところが「浪曲に熱を入れすぎて、農業では振るわなかった」とか。ソロカバで百合栄一さんの農場に入り、彼がサンジョアキンでリンゴ生産を始めたことから、呼ばれて同地に転住し、やはり百合農場で働いた。  百合さんはコチア組合員として卓越した業績をすでに持っていた人格者で、サンジョアキンに来た当時すでに70歳だったが、未知のリンゴ生産に挑戦して見事に30ヘクタールの模範的農場を仕上げた。西森多光さん、岡本壮平さんらと並ぶ初期の功労者の一人だ。  「百合のオヤジは、こんなワシを100%信用してくれた。84年には収穫の純益の4分の1をくれた。38町歩の土地、今住んでいる家、フォードの新車、トラクターが一年で買えるくらいの大金だった」とリンゴで再起した人生を振り返った。  「ここは北パラナ出身者が多いんですよ」というのは、同地の佐藤俊彦さん(62、二世、アサイ出身)だ。父・彦也さんがコチア産組幹事で、74年に入植した草分けだ。「アサイでは大豆、とうもろこし、葡萄などの雑作をしていた」。  彦也さん同様、アサイにいた岡本壮平さんは、同じ年に始まっていたミナス州サンゴタルドのセラード開発にコチア産組から責任者として指名されて赴いたが、土地はサンジョアキンに買っており、むしろこちらに本腰を入れたのだと振り返った。 (つづく、深沢正雪記者)  ...
ニッケイ新聞 2013年4月9日  《ブラジルの雪降るというりんごの地》  3月24日(日)午後4時からのサンジョ組合施設の見学にあたり、パラー州のトメアスー移住地から遠路はるばる参加した三宅昭子さん(70、秋田)は、そう詠んだ。  「よその植民地を実際に見て、話をして見たかった。わずか40家族なのにまとまっているところが凄い」と感じたという。さらに「アマゾン80周年(09年)の時にはたくさんの人がトメアスーまで来て下さったのに、忙しくてあまり会えなかった。今回はゆっくり会ってあの時のお礼が言いたかった」と参加した動機を語った。  見学用の白衣、帽子に着替え、まるでアニェンビー国際展示場のように巨大なリンゴ選別棟に入ると、プーンと爽やかなリンゴの香りが鼻をつく。ガイドによれば販売や選果作業に330人が雇用されているという。  それまでリンゴといえば9割が亜国産だった1970年、連邦農務省とSC州政府は国産化を計画した。州農牧公社(EPAGRI)はサンジョアキン試験場を設立すると同時にコチア産組に協力を依頼し、1973年からリンゴ団地造成が始まり、翌年には最初の入植者16戸が400ヘクタールを拓いた。  JICAは1971に同州へリンゴの権威・後沢憲志博士を派遣したのを皮切りに、専門家を続々と送るなどの協力をし、日伯協力の結晶としてリンゴ国産の夢は実現された。元々はコチア産組の単協だったが、94年に同産組が解散したことを受け、当初はサンジョ有限会社、96年から同組合として独立した。  組合員の大半はリンゴ生産者で76組合員おり、うち非日系が4人。経営多角化の関係で、ワイン生産に力を入れており、葡萄やブルーベリーの生産者もいる。  組合紹介ビデオによれば1993年当時、年1万5千トンだった生産は、現在では3万3千トンまで拡大した。圧巻なのは480トンも入る保冷庫(2度)が60室もあることだ。このおかげでほぼ一年を通して出荷することが可能になった。保冷庫内にガスを封入して無酸素にすると数カ月の長期保存に耐えるからだ。その代わり、封を解いたら5日間で売りきる必要がある、とガイドは説明した。  葡萄畑は25ヘクタールあり、ワイン貯蔵庫ではすでに樫の樽に10万本分が眠っている。日本人が当地で生産する数少ないワインだ。すでに国際賞も受賞するなど、渋みの少ないふくよかな味が特徴として知られつつあり、寝かされてさらに深い味わいを増しているに違いない。ブルーベリーも4トン生産され、ジャムやジュースに加工されている。移住地、政府、JICAが三位一体で取り組んできただけあり、実に立派な施設だ。  その日の晩8時頃からサンジョアキン文化体育協会の体育館で交流会が行われ、婦人や青年が総出で焼きそばを振舞った。降旗キヨシ会長(51、二世)は61家族が会員で、加入していない日系人は3、4家族しかいないというから、ほぼ全員といえる高い加入率だ。  組合と文協には直接の関係はないが、会員の大半はリンゴ生産者だ。年に4、5回も焼きそば祭りをし、各300皿を売るという。他には運動会、父の日、母の日、新年会も行う。9月には花見もあり、施設内に植えられた100本ほどの桜の下に持ち寄りで100人ほどが集まる。  ジョインビレ同様に百周年後に和太鼓集団が町にできたが、降旗会長は「みんな非日系ばかり。日系人は興味がない」と苦笑いする。  さらに深く訊ねると「働き盛りの年代は仕事で、それどころじゃない。太鼓をやるような10代、20代の若い日系人は、大学とかでフロリアポリスやクリチーバ、聖市に出てしまっていて少ない」というのも原因のようだ。 (つづく、深沢正雪記者)   コラム【大耳小耳】...