イタジャイに1泊した後、一行はサンジョアキンへの旅路に就いた。1号車のバスの中ではいつの間にか1人の客がピアーダを皆の前で披露し、バス内をわかせていた。マイクを握るのは、今回で27回目の参加となる清水秀英さん(78、愛知)だ。「色々なことを調べるのが好きで、つい皆に教えたくなってしまう」と語る清水さんは、その後クイズ大会を開き、ともすれば退屈になりがちなバス移動で皆を楽しませていた。 サンジョアキンに着くと、辺りは荒涼とした丘陵が広がっていた。サンジョアキン市は人口約2万5000人の小さな街だ。標高が1300メートル程あるため冷え込み、上着を着込むようガイドからの指示があった。レストランで昼食を取った一行はその後、SANJO(サンジョアキン農業組合)の工場へ向かった。 SANJOはコチア産業組合が1994年に解散した後、組合員たちが自ら出資し作られた農業組合だ。名前はサンジョアキンの略称に由来し、現在は78人(うち3人が非日系)の組合員がいる。当日は日曜のため工場は稼働していなかったが、一行のために工場を特別に開けてもらえた。衛生管理のために着せられた白衣に、「まるで原発のように厳重だ」などと少しざわめきながらも、皆ガイドの説明一言一句に耳を傾けていた。 中でも圧巻だったのは、2010年から稼働したワイン用の新工場だ。1基にワイン500本が入るというコンテナがたくさん積まれた冷暗室にはワインの甘い香りがほのかに漂い、一行の購買意欲をこれでもかというほどに高めていた。もちろん記者もたまらず1本購入した。 02年から始まったSANJOのワイン作り、現在では年間5~6万本出荷している。ブラジルワインは概して白ワインより赤ワインの方が国際的に評価を得ることが多かったが、当地の寒冷な気候は特に白ワイン用のシャルドネ種(Saviao branque)栽培に適しており、数々のコンクールでも受賞するなど高い評価を得ているという。 しかし、SANJO理事の飯田義孝パウロさん(57、2世)の話では、「ワインの出荷量は年々少しずつ伸びているものの、ブランド力が必要な市場なので輸入品が強く、まだ黒字事業にはなっていない」状態だという。一方のリンゴは20年前から3万トン伸び、現在年間4万2000トンを出荷するなど好調だ。 現SANJO組合長を務める清水信良さん(51、東京)は「3年前から婦人部が始めたリンゴジュースは順調なので、そういった加工品にも力を注いでいく。リンゴの貯蔵庫も増やしていきたい。しかしリンゴばかりに頼るわけにはいかず、ワインは今後も根気強く続けていく。今年はSANJO設立20周年の記念年なので、大いに盛り上げていきたい」と今後の抱負を話した。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月13日付
Mês: abril 2013
ニッケイ新聞 2013年4月12日 サンジョ組合の新商品Sanditoの100%生リンゴジュースは特に「味が濃い」と好評で、150グラム当たり10個のリンゴが入っているというから当然だ。でもいくら良い製品を作っても販売手腕が物を言うのが、商売の世界だ。 そして、うまい話にもちろんタダはない。元々その年の気候に強く左右され、競争が激しいから利益率も高くない。その中で売り上げの2%をロイヤリティとしてディズニーに収めなければならず、清水信良組合長も「ほんと高いよね」と痛し痒しといった様子だ。 夜10時頃、交流会の最後は、荒木滋高さん(しげたか、80、三重)=ブラジリア在住=のハーモニカに合わせて、全員で恒例の「ふるさと」を大合唱し、握手で別れを惜しんだ。 ◎ ◎ 一行は午前8時過ぎ、カウダス・ダ・インペラトリスの温泉ホテルに向かう途中、断崖絶壁の景色で有名なアウミランテに立ち寄ってから、同リゾートホテルに泊まった。 到着直後、参加者の四條幹さんの体調が悪くなり、添乗員が強く薦めて緊急入院する一幕もあった。娘が医師の関係で、同病院の担当医と娘が直接に連絡を取り合い、研究検査後に聖市に運ばれることになったという。 天理教の伝道師をする西沢定子(さだこ)さん(83、三重)はもう10回以上このツアーに参加している。「目が悪いから風景とか全然見えないんだけど、皆さんとしゃべるのが楽しみ。出身県を聞いてそこの民謡を歌うと皆さん喜んでくれるの。知り合いになるのが生きがい。私は115歳まで生きるのが予定」と一気にまくし立てた。 一方、コチア青年の森本勝一(77、高知)、美栄子さん(75、二世)夫妻=サンロレンソ・ダ・セーラ在住=は参加者名簿に、1960年にスザノ市の同じ「日の出植民地」に入った小池みさ子さんの名があるのに気づき、添乗員に紹介してもらい約50年ぶりの再会を果たした。 森本さんは顔を見てすぐに分かったが、小池さんの方はポカンとしていたので、「あんたボケたんか」というと、彼女は「あっ!」と分かったという。 森本さんは「あの頃はご飯とフェイジョン、たまにイワシの塩漬けが普通の食事。パトロンも同じものを食っていた。モルタデーラとガラナがご馳走だったな」と懐かしむと、小池さんは「みんなでバタタを植える作業をして、その後、ご馳走がでるのが楽しみだったわね」と相槌をうった。 小池さんはその時の情景をこう詠んだ。 《とっさには思い出(い)だせず移住初期つき合いし人に出遇うも》 こんな短歌が生まれるのも旅の醍醐味だ。 最後の夕食となった26日晩、本橋幹久団長は皆を前に「これで主な集団地は一通り回った。次回からは今まで回ったところを2度目、3度目に訪ねることになる」と挨拶した。 一行の神林義明さん(76、長野)は「実はサンジョアキンに入植しようと思ったこともあった」と明かす。「だって兄がリンゴ作りをやっていたし、後沢先生は長野県の須坂園芸場長をされていたから、日本にいた頃から面識があった。心が動いたね。でも子供が小さかったし、リンゴの苗を植えてから4年間も無収入だって聞いたから泣く泣く諦めた」としみじみ語った。 翌日朝8時過ぎに出発して一路聖市を目指した。参加者はそれぞれが感じた感慨を胸に、午後10時過ぎにリベルダーデ広場で解散した。 (終わり、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2013年4月12日 静岡県人会の名誉会長だった鈴木静馬さんが7日午後8時過ぎ、心疾患で1年ほど入退院を繰り返した後、自宅で逝去した。翌日午後、イビウーナ市のパス墓地に埋葬された。享年81。 1932年静岡県袋井市生まれ。58年に自由渡航で渡伯し、洗濯屋の下働き、自動車の修理見習いなど様々な職を経て、イビウーナ市の斉藤養鶏場の幸子さんと結婚、経営に携わった。 県人会会長を1995年から計9年間務め、05年には、自身の出身校静岡県立磐田農業高等学校による「ブラジル生徒派遣交流事業」の実現に尽力、事業は今も続けられている。 聖南西文化体育連盟の会長も務めた。文化功労章(世界平和科学貢献紋章院)、コメンダドール章、グランクルース章。 初七日法要は13日午後3時から、佛心寺(Rua Sao Joaquim 285, Liberdade)で執り行われる。
ニッケイ新聞 2013年4月11日 「『石は人間が動かせるが、気候は動かせない』って後沢博士がよく言っていました」。サンジョアキンをリンゴ団地の候補地として選んだ後沢憲志博士の有名な言葉を繰り返すのは、74年入植の草分け平上文雄さん(63、和歌山)だ。 「後沢博士は日本から白樺を持ってきて、これが白くなれば良いリンゴができると言った。そして本当に白くなったんです」と懐かしむ。「でも、僕は和歌山生まれだから、それまで白樺自体見たことなかった」と笑う。リンゴには年間で7度以下が700時間も必要なのだという。「州内でもここだけ」と平上さんは言う。 1959年に渡伯し、当初はパラナ州ウライに入ったが、数年後に聖州マイリンキに初めて自分の土地を買った。当初、コチア産組が始めていたバイーア州ペトロリーナの欧州向け果実生産地を視察に行った兄は、「あそこは子供の教育に向いてない」との感想を漏らした。その直ぐあとにサンジョアキンの話が出てきて、兄から「リンゴ作りに行ったらどうか」と薦められ、平上さんは決心した。 最も新しい集団地の一つだけに、サンゴタルドしかり、ペトロリーナしかり、ブラジル農業の拡張期の名残があちこちにある。まさに70、80年代のコチア産組全盛期の勢いが感じられる逸話が満載の場所だ。 リンゴの苗木は植えてから4、5年目以降でないと収穫できない。その間、無収入でも持ちこたえられるような、例えば兄弟が他で収益を上げて支えられるような人を組合は選んだ。それでも「最初の16家族中、3家族は抜けた」と振り返る。 「最初は誰もリンゴ作り知っている人がいなかった。後沢博士だけが頼り。リンゴの収穫ができるまで、えんどう豆やバタタの種芋を作ったり、手探りで生き延びた」という。「新しい土地だったから凄い種芋ができてお金になった。最初は種芋サマサマだったよ」。 平上さんは1989年、コチア産組が80年代に経営不振にあえぎ、遅々として再建が進まない様子に見切りをつけて独立し、平上兄弟商会を設立した。現在では250ヘクタールもリンゴ栽培し、「だいだいサンジョ組合の5分の1の規模。収穫には500人を雇っている」という。 「かつてはフライブルゴのリンゴ生産の方が多かったが、今ではこっちの方が多いぐらい。それでもリオ・グランデ・ド・スルはまだ多い」と表情を引き締めた。 相方として聖市で販売担当をする兄は、ゴルフ場ヴィスタ・ベルデ(カステロ・ブランコ街道51キロ)も経営している。 「入植当初のここは、サンパウロではあった電話も電気も水道もない状態。ないないズクシの開拓地なのに妻は不平も言わず来てくれ、本当によくやってくれた」としみじみ語り、「もちろん、今だから言うけどね!」と笑った。 ◎ 交流会で会った同地組合の百合勝一さん(69、愛媛)は、「ディズニーが『うちのマークを使ってくれ』と組合に売り込みに来たんですよ」と意外な話を披露する。7、8年前のことだ。百合さんはリンゴ団地開設の翌75年に入植した古参だ。 子供向けの小粒リンゴを9個ほどで一パックにした商品は、大手スーパーなどで「モニカ」「セニーニャ」など各種ブランド名で売り出されている競争の激しい商品分野だ。元々は「Sandito」ブランドだったが、ディズニーの絵柄を袋に採用していから、「どんどん売れるようになった。『モニカ』とかは、最初はボクらを競争相手とも思っていなかったようだが、今じゃ戦々恐々としていると聞くよ」と余裕の笑みを浮かべた。(つづき、深沢正雪記者)
袖ヶ浦と交流深いイタジャイ イタジャイ文協の建物は少しこじんまりとした印象を受けたが、これは袖ヶ浦市にあるブラジルとの交流団体「太陽の友達の会(アミーゴス・ド・ソル)」から援助を受けた3000ドルを基に造った、日伯友好の証しとも呼べる建物だという。そのほか、2008年には袖ヶ浦市の協力で同市内に鳥居ができたり、「袖ヶ浦通り」や「袖ヶ浦市場」なる所があったり、また双方の定期的な人材交流があるなど、両市はこれまで着実な関係を築いてきた。 また、日本からもイタジャイが08年に豪雨被害に遭った際、2000レアル分の救援物資を文協として受け取り、そのお返しとして東日本大震災発生の際には他の州内各文協と協力し、3800レアルを義援金として送金するなどしている。 しかし、最近「太陽の友達の会」内で派閥分裂争いが起きるなどしており、若干両市の関係が機能不全になりつつあると同文協関係者らは不安を口にしていた。 なお、当地でも日本のアニメは根強い人気があり、毎年5月に行われ今年で8年目を迎えるイタジャイのアニメイベント「Anime-kei」には、2日間で約3000人の来場者があるという。その大半は非日系の若者たちだ。当地の公文で日本語教師を務める斉藤アイコさん(3世、47)の話によると、イタジャイの公文の日本語クラスに所属する生徒13人も、ほとんどがアニメや漫画好きの非日系人だという。 その後、海が臨める海岸沿いのレストランで、イタジャイ文協会員ら7人と共に一行は夕食を楽しんだ。記者はその1人である関口のぶさん(茨城、73)と同席に着き、話を聞くことができた。 関口さんは同じ茨城県出身で夫の健次郎さん(76)と共に、サンパウロ州ピンダモニャンガバに58年入植した。その後、「寒冷なサンタ・カタリーナで小麦を作ろう」という夫の発案によって、親の「鳥のようにすみかを変えるな」という反対も押し切り、61年にサンタ・カタリーナ州ガスパーラに入植した。しかし、意外な夏の暑さに小麦を断念、レタスやトマトなどをブルメナウに卸すようになった。 しかし、「去年もうかったと思えば今年は大不作になったりする」という気候の不安定さに泣かされ、ついには子どもを抱えて橋の下で生活するまでになってしまった。長女の学校の入学金も払えず、教師が情けで入れてくれたこともあったという。 そのような生活から抜け出すためにも一念発起、イタジャイのコロニア・ジャポネースへ移住を図ったのは72年のことだ。当時イタジャイを始めとするサンタ・カタリーナ州沿岸地帯に人口が増え始め、野菜需要も増加したものの、周辺に野菜農家が不足していたため多くの野菜は鮮度が低く、高価だった。そこで、野菜作りに詳しい日系人らを集めて蔬菜(そさい)園芸移住地を設定し、生産物をイタジャイ氏中央市場に流そうと画策された。これに応じた関口さんも含む日系家族の多くは、ポルト・アレグレなどから再入植してきた。しかし、州政府や市役所、国際協力事業団(現・国際協力機構)の後押しはあったものの資金援助はなく、その後も苦しい生活だったという。 今となっては、コロニア・ジャポネースに残るのは関口さん夫婦も含め3家族のみだ。決して楽だったとは言えない半生だが、それでも関口さんは「色々苦労はあったけど、心の奇麗な人と結婚できて子どもも立派に成人し、何度か日本に帰ることも考えたけどやはり帰らず良かった。私は今幸せです」と静かに手を合わせていた。 (つづく、毛利健人記者) 2013年4月12日付
若林健太外務大臣政務官(49、自民党、長野選出参議院議員)が8~14日の日程でアルゼンチンとブラジルを訪問しており、10日からサンパウロ入りした。翌11日午前11時からイビラプエラ公園内の開拓先亡者慰霊碑を参拝し、県連(園田昭憲会長)関係者や長野県人会の北澤重喜前会長らが出迎えた。 若林政務官は、慰霊碑に刻まれた故・田中角栄氏の揮毫(きごう)を見ながら「力強いですね」などと話し、木原好規和歌山県人会会長から慰霊碑の説明を受けた後に碑に向かって手を合わせた。 若林政務官は、在ベレン総領事館の縮小問題に地元から大きな反発の声があることについての本紙の取材に対し、「自民党内部でも(在ベレン総領事館の縮小問題については)さまざまな意見が出された。同地に進出する日系企業もあり、現地との関係を深めることは大切だが、日本の厳しい財政事情の中で新しいところ(南スーダン、アイスランド両大使館)を建てるためには仕方がない。また(ベレン総領事館の)事務量が以前より減少していることを考えての決断では」と述べた。 また、ブラジル日系議員による情報で、6月に岸田文雄外務大臣が来伯する可能性については、「まだ確定していないので何とも言えない」と答えるにとどまった。 若林政務官一行はその後、改修工事の準備をしている日本館を訪問し、内部を見て回った。 2013年4月12日付
在ブラジル長野県人会は、1月26日に行われた総会の役員改選で高田アルマンド隆男氏を会長に選出した。高田会長ら同県人会役員一行が9日、新体制のあいさつのため本紙を訪れた。 同県人会初となる2世会長の高田会長は、今後の抱負について「若者を増やすために行事の拡充を図るなど、魅力ある県人会を目指したい」と意気込みを語った。 また、北澤重喜前会長は「総会では2世に会長を任せて大丈夫かというような心配の声も上がったが、思い切って新しい世代に任せて良かったと感じている。物心両面で新しい役員たちを支えたい」と述べた。 なお、新執行部は次の通り(敬称略)。 会長=高田アルマンド隆男、第1副会長=赤羽ロベルト昇、第2副会長=大島紘邦、第1会計=佐藤満、第2会計=篠原オラシオ裕之、第1書記(日語)=春日洋呉、第2書記(ポ語)=神津ソニアいずみ。 2013年4月12日付
13日(土曜日)◎モジ・ダス・クルーゼス市の秋祭りは、午前10時から同市内の文協スポーツセンター(Av. Japao, 5919)で。14日も。◎花まつりの「お練り」は、午前11時半からサンパウロ市(聖市)のリベルダーデ広場で。◎名画友の会4月観賞会は、午後0時15分から聖市リベルダーデ区の熟年クラブ連合会(旧老ク連)会館(Rua Dr. Siqueira Campos, 134)で。 14日(日曜日)◎サウーデ文化体育協会の慈善バザーは、午前8時から聖市ジャルジン・サウーデ区の同会館(Rua Diogo Freire, 307)で。◎文協古本市は、午前9時から聖市リベルダーデ区の文協ビル展示室(Rua Sao Joaquim, 381)で。◎日教寺のチャリティーバザーは、午前9時半から聖市ビラ・マリアーナ区の同寺(Rua Ibaragui Nissui, 166)で。...
昼食後、ジョインビレ文協集(しゅう)太鼓部の若いメンバー12人が一行の前で演奏してくれた。演目は、神奈川県三崎地方発祥の一つの太鼓を3人でたたく高度な技量が試される「ぶち合わせ太鼓」、滋賀県水口地方発祥の太鼓・鉦(しょう)・篠笛各楽器のコンビネーションが軽快な音を鳴らす「水口囃子(ばやし)」、埼玉県秩父地方発祥の演奏者の独奏が見られる強烈なリズムの「秩父屋台囃子」の3曲。それぞれ違ったタイプの演目でありながらも、部員らは日ごろの練習の成果あって息のぴったり合った演奏を披露し、思わず記者も筆を止めてしまう程だった。 同じく演奏に聴き入っていた邨上清さん(75、2世)は「今までサンパウロなどでも色々な太鼓演奏を見てきたが、今日のが一番良かった。特に鉦や篠笛は演奏が難しいだろうが、見事な躍動感だった」と舌を巻いていた。演奏が披露された後には集太鼓部援助のため、集太鼓部オリジナルのマグカップ購入が呼び掛けられ、あっという間に完売していた。 その後集太鼓部からの希望で、一行と太鼓部員らで記念撮影が行われた。この写真に収まった集太鼓部の桜井征爾さん(20、3世)は、「演奏を聴いていただいた皆さんの笑顔がとてもうれしかった。こうして今後も皆で喜びを共有していきたい」と顔をほころばせていた。 太鼓を通して交流を楽しんだ一行はジョインビレを後にし、90キロ南に位置する次なる目的地、イタジャイを目指した。 イタジャイは人口約19万人で、サンタ・カタリーナ州内陸部の工業地帯に対する外港都市として栄えてきた。1979年にはサンパウロ市内の邦字紙に勤めていた中野博さん(故人)が仲介役をして、同じ港湾都市である千葉県袖ヶ浦(そでがうら)市と姉妹協定を結ぶなど、日本とも少なからぬ縁のある土地だ。 そんな当地にもイタジャイ日伯文化協会(大場レジーナ会長)が存在する。夕食前に同文協へ足を運び、話を聞くことができた。 同文協は87年に設立され、現在約40家族100人が所属している。当地には日系農業植民地(コロニア・ジャポネース)もあるが、基本的に日系人はジョインビレと同じく、他地域から移ってきた専門職の人たちが多い。特に当地は大きな病院があることから、医師が多いという。 同文協の行事としては運動会や焼きそば会などを行っているが、特に力を入れているのは毎年8月開催の「すき焼き会」だ。既に毎年約500人が来場する人気イベントになっているという。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月11日付
グループ民舞皿踊り創立20周年主要メンバー交代で新たに継続 リベイロン・ピーレス文化協会(村木アントニオ会長)の傘下団体として活動する「グループ民舞皿踊り」(川添博代表)の創立20周年記念式典が7日午前10時から同文協会館で開催され、民舞OBや関係者など約300人が一堂に会した。川添代表によると、主要メンバーの世代交代により、今回の20周年を節目に解散する意見もあったという。しかし、メンバーや父兄などから継続してほしいとの声が多く、これまでのように頻繁に各種イベントの舞台に立つことは難しくなるが、民舞の活動そのものは続けていくことになった。 同日午前に行われた記念式典では、デウニッセ・モウラ・リベイロン・ピーレス副市長、宮岡康雄サント・アンドレー日系連合会会長、栗崎邦彦長崎県人会副会長、ABC地区各日系団体代表や民舞を支えてきた婦人たちが来賓として登壇した。 川添代表はあいさつで20年の歴史を振り返り、民舞の目的について子供たちが日本文化を継承しながら自ら日系人としての意識を持ち、「勤勉で正直な大人になってほしいとの気持ちでやってきた」と強調した。また、1992年の長崎県人会創立30周年の時に諫早(いさはや)市から来伯した「皿踊り」メンバーの踊りに引かれ、その後、同年12月の文協日本語学校終業の際に踊りを披露したことが民舞の始まりとし、翌93年に正式結成。これまでサンパウロを中心に遠方ではレシフェ、ゴイアニア、マリンガ等の各地の日系イベントに招待されて出演したほか、97年の天皇皇后両陛下ご来伯時での踊り、98年の移民90周年でサンバチーム「バイバイ」の行進に一緒に参加したことや、2008年の移民100周年で250人のメンバーを募って「南中ソーラン」をサンボドロモで披露したことなどにも言及した。 そうした中で、「20年もたつと子供たちも大人に成長し、仕事、学校の勉強や恋愛・結婚等と忙しくなり、この20周年を機会に『有終の美』を飾って解散してもいいとの意見があった」ことを明かした。しかし、「会議で改めて話し合ったところ、『せっかくここまで来たので何とか続けてほしい』との声もあり、今までのようなアプレゼンタソン(舞台披露)は減ることになるが、継続することで意見が一致した」とし、今後も活動を続ける上で関係者への協力参加を呼び掛けた。 村木文協会長、栗崎長崎県人会副会長、モウラ副市長の祝辞に続き、記念品贈呈が行われ、民舞指導教師の川添敏江夫人などから創立メンバーたち一人一人に手渡された。 お礼の言葉として登壇した川添夫人は、この20年間で323回に及ぶアプレゼンタソンを実施してきたことを説明し、「踊りを通して各地の皆さんに感動を与えたいとやってきましたが、皆様方の拍手に支えられながら生徒たちも多くのことを学んできました」と述べた。 創立メンバー代表としてあいさつした小林キヨカさん(36、2世)は、「手の出し方、足の運び方、声の出し方など生徒全員がそろわなければ演技は成り立たなかった。また礼の大切さや多くの友達ができたことは、これからの人生にとって大きなプラスになると思う。これからも夫婦そろって元気に頑張ってほしい」と川添夫妻への感謝を込めた。 引き続き、主要メンバーの大坪由美子さん(29、2世)、中村リカさん(26、2世)、沢田メグミさん(27、2世)が、川添夫妻への感謝の言葉を述べた。 昼食後には、舞台上で民舞による踊り「大村音頭」を皮切りに、新生ACALや健康表現体操メンバーによる体操など約20演目が披露。躍動感溢れる生徒たちの踊りが観客の目を引いた。 最後は、遅れて出席した西本エリオ、羽藤ジョージ両州議も参加して会館内で出席者全員による盆踊りが行われ、フィナーレを飾った。 2013年4月11日付
ニッケイ新聞 2013年4月10日 初めてサンジョアキンを訪れた曽我義成さん(75、岐阜、青年隊4期)は「日系の組合でもあれだけの施設を持っているところは少ない」と感心していた。 同じく宮家文男さん(77、島根、コチア青年1回12期)も「コチア産組が崩壊して以来、どんな形でサンジョアキンが生き残ってきたのか、一度この目で見てみたかった。すごく立派な工場なので感心した」と頷いていた。 ◎ ◎ 交流会の先駆者慰霊ミサで「1974に日本移民の先駆者14人が来て以来、この町は一変した」と褒め称えたのは、同地に57年間も住むマトリス教会のブレヴィオ・オゼラメ司祭(モンセニョール)だ。 オゼラメさんによればこの町の産業史は3段階に区切れる。(1)町の創始から1950年までは細ぼそとした「牛を中心とした牧畜の時代」、(2)50年から70年頃まではパラナ松の切り出しによる「マデイレイロ(製材業)時代」で、「往時には160軒もあった。他に産業は皆無だった」という。ところが伐採しすぎて松が枯渇し町が衰退した。そこへ1974年に忽然と現れたのが、(3)日本人を旗振り役とする「リンゴ時代」だった。 オゼラメさんは「フジ種は世界一この土地に合っている。リンゴ生産者はこの付近だけで1200戸もあり、実に多くの雇用を産み出し、若者に仕事を与えた」と手放しで礼賛した。 オゼラメ司祭は「近年、ジャバリ(猪)が州内に北上してきたと聞く。元々はウルグアイとかから侵入したらしいが、大きいものでは200キロにもなり、地上1・5メートルぐらいまでの穀物や野菜は食い尽くすという。もしこの町まで来たらリンゴが危ない。でもIBAMA(国立自然環境保護院)は捕獲を禁止し、撃ち殺したら人間のほうが監獄にぶち込まれる。憂慮すべきことだ」と心配していた。 一行の一人、ミナス州でバタタ生産をする長井光男さん(68、山口)=タツイ市在住=も「ミナスでは大豆やトウモロコシ農家を中心にジャバリの被害がかなり出ている。でも捕獲禁止だから困ったもんだ」と同意する。 交流会では現地の山口福友さん(75、愛媛)がマイクを前に、一行に訪問を感謝する言葉をのべた。聞けば、1960年に愛媛県人会の呼びせで渡伯し、聖州在住時の69年頃から浪曲師としてならし、「甚平渡し」などを唸って77年には「名人」位を取ったという。 ところが「浪曲に熱を入れすぎて、農業では振るわなかった」とか。ソロカバで百合栄一さんの農場に入り、彼がサンジョアキンでリンゴ生産を始めたことから、呼ばれて同地に転住し、やはり百合農場で働いた。 百合さんはコチア組合員として卓越した業績をすでに持っていた人格者で、サンジョアキンに来た当時すでに70歳だったが、未知のリンゴ生産に挑戦して見事に30ヘクタールの模範的農場を仕上げた。西森多光さん、岡本壮平さんらと並ぶ初期の功労者の一人だ。 「百合のオヤジは、こんなワシを100%信用してくれた。84年には収穫の純益の4分の1をくれた。38町歩の土地、今住んでいる家、フォードの新車、トラクターが一年で買えるくらいの大金だった」とリンゴで再起した人生を振り返った。 「ここは北パラナ出身者が多いんですよ」というのは、同地の佐藤俊彦さん(62、二世、アサイ出身)だ。父・彦也さんがコチア産組幹事で、74年に入植した草分けだ。「アサイでは大豆、とうもろこし、葡萄などの雑作をしていた」。 彦也さん同様、アサイにいた岡本壮平さんは、同じ年に始まっていたミナス州サンゴタルドのセラード開発にコチア産組から責任者として指名されて赴いたが、土地はサンジョアキンに買っており、むしろこちらに本腰を入れたのだと振り返った。 (つづく、深沢正雪記者) ...
ニッケイ新聞 2013年4月9日 《ブラジルの雪降るというりんごの地》 3月24日(日)午後4時からのサンジョ組合施設の見学にあたり、パラー州のトメアスー移住地から遠路はるばる参加した三宅昭子さん(70、秋田)は、そう詠んだ。 「よその植民地を実際に見て、話をして見たかった。わずか40家族なのにまとまっているところが凄い」と感じたという。さらに「アマゾン80周年(09年)の時にはたくさんの人がトメアスーまで来て下さったのに、忙しくてあまり会えなかった。今回はゆっくり会ってあの時のお礼が言いたかった」と参加した動機を語った。 見学用の白衣、帽子に着替え、まるでアニェンビー国際展示場のように巨大なリンゴ選別棟に入ると、プーンと爽やかなリンゴの香りが鼻をつく。ガイドによれば販売や選果作業に330人が雇用されているという。 それまでリンゴといえば9割が亜国産だった1970年、連邦農務省とSC州政府は国産化を計画した。州農牧公社(EPAGRI)はサンジョアキン試験場を設立すると同時にコチア産組に協力を依頼し、1973年からリンゴ団地造成が始まり、翌年には最初の入植者16戸が400ヘクタールを拓いた。 JICAは1971に同州へリンゴの権威・後沢憲志博士を派遣したのを皮切りに、専門家を続々と送るなどの協力をし、日伯協力の結晶としてリンゴ国産の夢は実現された。元々はコチア産組の単協だったが、94年に同産組が解散したことを受け、当初はサンジョ有限会社、96年から同組合として独立した。 組合員の大半はリンゴ生産者で76組合員おり、うち非日系が4人。経営多角化の関係で、ワイン生産に力を入れており、葡萄やブルーベリーの生産者もいる。 組合紹介ビデオによれば1993年当時、年1万5千トンだった生産は、現在では3万3千トンまで拡大した。圧巻なのは480トンも入る保冷庫(2度)が60室もあることだ。このおかげでほぼ一年を通して出荷することが可能になった。保冷庫内にガスを封入して無酸素にすると数カ月の長期保存に耐えるからだ。その代わり、封を解いたら5日間で売りきる必要がある、とガイドは説明した。 葡萄畑は25ヘクタールあり、ワイン貯蔵庫ではすでに樫の樽に10万本分が眠っている。日本人が当地で生産する数少ないワインだ。すでに国際賞も受賞するなど、渋みの少ないふくよかな味が特徴として知られつつあり、寝かされてさらに深い味わいを増しているに違いない。ブルーベリーも4トン生産され、ジャムやジュースに加工されている。移住地、政府、JICAが三位一体で取り組んできただけあり、実に立派な施設だ。 その日の晩8時頃からサンジョアキン文化体育協会の体育館で交流会が行われ、婦人や青年が総出で焼きそばを振舞った。降旗キヨシ会長(51、二世)は61家族が会員で、加入していない日系人は3、4家族しかいないというから、ほぼ全員といえる高い加入率だ。 組合と文協には直接の関係はないが、会員の大半はリンゴ生産者だ。年に4、5回も焼きそば祭りをし、各300皿を売るという。他には運動会、父の日、母の日、新年会も行う。9月には花見もあり、施設内に植えられた100本ほどの桜の下に持ち寄りで100人ほどが集まる。 ジョインビレ同様に百周年後に和太鼓集団が町にできたが、降旗会長は「みんな非日系ばかり。日系人は興味がない」と苦笑いする。 さらに深く訊ねると「働き盛りの年代は仕事で、それどころじゃない。太鼓をやるような10代、20代の若い日系人は、大学とかでフロリアポリスやクリチーバ、聖市に出てしまっていて少ない」というのも原因のようだ。 (つづく、深沢正雪記者) コラム【大耳小耳】...
その後、バスは貨物専用のジョインビレ駅やキリストの心臓をかたどった教会のカーザ・ダ・コラソン、ロシアのボリショイバレエ団が持つ国外唯一の付属学校などを見学した。参加者の牧野恒司さん(73、長野)は、ジョインビレ市内を回った感想を「ヨーロッパの風情が残っていて、住みやすそうないいところだね」と奇麗でのんびりした街並みを見て語った。 昼食の前にはレストランで、参加者の小池みさ子さん(75、長野)がジョインビレ在住の筒井惇さん(78)との邂逅(かいこう)を喜ぶ場面が見られた。2人は以前よりコロニア文芸誌「椰子樹」を通した交流があったものの、顔を合わせるのは初めてだという。小池さんは「同じ短歌を詠む者としてお会いできてうれしい」と感極まった様子で、いつまでも尽きることなく会話を続けていた。 なお当地で一行を出迎えたのは、ジョインビレ日伯文化協会(佐藤マリオ会長)の会員らだ。ジョインビレ文協が設立されたのは1993年、今年で20年目の比較的新しい文協だ。ジョインビレ日本語学校は91年に当地の有志らによって設立されたので、それよりも後に同文協が設立されたということになる。 ジョインビレに暮らす日系人の多くは技師や医師、商人などの職業を持って移住してきた人であり、日系入植地があったわけでは無いことが設立が遅くなった原因だという。設立に携わった佐藤会長は、「当時の文協設立には初めてのことばかりで、多くの苦労があった」と振り返る。現在は40家族150人が会員だ。しかし、同文協も他の文協と同じく「文協を担う次世代の後継者不足」に悩んでいるという。 そういった中で最近同文協が力を注いでいるのが、2008年に設立された集(しゅう)太鼓部だ。同年、日本移民100周年記念事業として東京にある民族歌舞団「荒馬座」がジョインビレで出張公演を行ったことから、同文協で太鼓やはやしをやろうとする機運が高まったという。さらに日本政府から太鼓を寄贈を受けられたことで、集太鼓部は発足した。 現在同部に在籍する部員は35人で、10代の若者が中心だ。また、その多くを非日系人が占める。パラグアイのイグアス移住地から定期的に講師を招いているほか、毎月演奏会を開くなど、その腕を磨くことに余念が無いようだ。練習は文協会館が無いため、日本語学校で行っているようだ。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月10日付
刑事裁判は間もなく刑が確定5件の訴訟問題を弁護士が報告 神奈川文化援護協会(永田淳会長)の定期総会が8日、第2次招集より1時間遅れた午前11時からサンパウロ市ビラ・マリアーナ区にある同会館で開かれ、28人の役員と関係者が出席した。また臨時総会も同時に行われ、定款改正について話し合われた。総会では2012年度事業・会計報告と、13年度事業計画・予算案が承認されたほか、同会が抱える計5件の刑事・民事の訴訟問題の経過を担当弁護士が報告した。10年に偽弁護士に公金約60万レアルをだまし取られた事件の刑事裁判は、間もなく判決が言い渡され刑が確定するという。 総会は大矢進貞同会副会長が議長を務め、まず永田会長があいさつ。「(総合資産の)60万レアルを今後どう使うか方向性をしっかりと定めたい。次世代に過去の不祥事を持ち込まないための努力が必要」と、任期4年目の決意を述べた。 続いて訴訟問題経過報告が行われ、豊田オスカル弁護士と半田ペドロ弁護士がそれぞれ受け持っている訴訟について状況を報告した。 浅川マルセロ偽弁護士事件の刑事訴訟問題を豊田弁護士が説明し、裁判が昨年9月に行われ現在判決待ちの状況。豊田氏によると「判事いわく判決は初犯のため実刑に処さない可能性もある」という。また被害額のうち約41万レアルは浅川被告の裏付けの情報に欠け、時間、経費がかさむため追及せず、裏付けのある18万3400レアルのみを裁判で審議しているそうだ。 しかし、有罪が下されても浅川被告は現在所在が不明で、連絡が付くかは分からない状況。裁判は近く判決が言い渡される予定だ。 続いて4件の民事訴訟問題を半田弁護士が報告した。同会が訴えている60万レアルの引き出しに関与したとされる10年当時の会長と副会長。また協会の許可なく預金を引き出させた、当時のサンタンデール銀行については、現在第2審判決を待っている状態だ。 また前会館売却の際に書類をそろえた仲介者の森西ユタカ氏から訴えられている裁判では、既に支払っている5万レアルに加え、さらに約9万レアルの支払いが求められている。その後、両者弁護士同士の話し合いにより約7万レアルを支払うことで合意したが、森西氏個人はその額に不満を示し、同件も第2審判決を待っている状況だという。 報告後、大矢氏が会員に向けた意見を述べ、「浅川被告からお金を取り返すのは難しいが、一刻も早い解決を望み、一体誰が何をどうしたのか知りたいだけ。有罪が下されれば似た手口の犯罪の抑止力にもなる」と切実に訴えた。 なお同日、定款改正についての臨時総会も開かれた。定款には前回改正した際に浅川被告のサインが記載されており、根本的な改正を行う予定だ。1カ月後の定例役員会で定款改正について意見を呼び掛け、さらに1カ月後に臨時総会を開催し、改正を決議することで承認された。 12年度一般会計では、収入が7万3405・89レアル、支出10万7251・66レアルで、3万3845・77レアルの赤字。その結果、会館売却などを含めた総合資産は60万8900・89レアルとなった。 コラム【モザイク】 神奈川文化援護協会の一連の刑事・民事の訴訟問題。大矢副会長によると過去に同事件を本紙で扱った際、「うちも同様の被害に遭った」と複数の県人会から連絡があったという。大矢副会長は「コロニアのためにも今後の裁判結果を伝える義務がある」とし、再発防止のため情報を公開する考えを示した。しかし60万レアルをだまし取ったにもかかわらず初犯のため、実刑に処さない可能性が高かったり、容疑者の所在が不明だったり、やったもの勝ちのブラジル社会に、ただ驚くばかり。モザイク子がいかに温厚な国で平和に育ったかを感じる。コロニアの皆さん、本当にお疲れ様です。 2013年4月10日付
ニッケイ新聞 2013年4月6日 イタジャイーに一泊した一行は翌24日(日)の朝一番で、南西に180キロほどのサンジョアキン市に向かった。海抜ほぼゼロから標高1400メートルまでバスは4時間で駆け上った。伯国で唯一雪が見られる観光地、さらに〃リンゴの里〃として有名だ。 車窓から見える景色はみるみる山地特有の起伏の激しい様子となり、パラナ松がパラパラと生え、あとは牧草地といった光景が延々と続く。 午後1時、現地着。レストランで昼食後、4号車は下元慶郎さん(82、二世、聖州コチア市生まれ)が経営するリンゴ園を見学した。コチア産組創始者・健吉さんの次男だけあって人気者、次から次へと一緒に記念写真を希望する人が現れる。 慶郎さんは「もう約30年ここでリンゴをやっている。7割はフジ(日本)、3割はガーラ(ニュージーランド)。今まで景気がよかったが、不況で経費が掛かるようになり、最近はみんな苦労している。でも頑張って団結してこの不況を乗り切れば、またいい時代が来ると信じている」と力強く演説した。 最初は15ヘクタールやっていたが今は10ヘクタール(約1万本)に減らし、その分、密度の濃い手入れをしているという。今年の収穫は4月1日から始めると決めており、すでに枝にはたわわに実っている。 参加者からの「リンゴの中に甘い蜜ができるのは何時ごろ?」との質問に、慶郎さんは「4月半ば以降、5月に収穫する完熟したものには蜜がのっている。でも普通は早めに収穫して冷蔵庫に保存するので蜜はのっていない。というのは、蜜があると冷蔵時に長持ちしないから」と分かりやすく説明した。つまり蜜入りのリンゴは、5月中に直接に市場へ出回る季節のものだけのようだ。 入植時の苦労を尋ねると、「僕が入ったのは85年と遅かったから、初期の人が苦労してリンゴ団地を作った後。彼らに比べたら僕の苦労など微々たるもの」と答えた。それでも「この辺の土には岩がたくさん入っていて、それを何回も、何回もほじくり返して取るのが大変だったかな。でも日本から持ってきたマルバ台木が十分に根を広げてくれた」と付け加えた。 SC州が青森県と姉妹県提携をするのもリンゴが取り持つ縁だ。一行の青森県人会長の玉城道子さんも下元さんと、盛んに後沢憲志博士との思い出を語り合っていた。 その後、一行は市中央部のマトリス教会へ行き、07年に59歳で亡くなった二世で同地市議を2期も務めた彫刻家・大槻(おおつき)エウソン清隆(きよたか)さん(三世)の作品を見学した。説明をしたのは息子アンデルソンさん(34)で、祖父は聖州イタペチニンガ出身だとか。「父はいつもサンダル履きでTシャツ姿、貧乏なまま死んだ。そんな飾らない格好で市民から愛されていた」と振り返る。 州議に出馬して落選、落胆していた時、2000年から独学で彫刻を初めて死ぬまでわずか8年間に700体も完成させた。マキタの工具と歯科技工士用の器具で削り出し、独特の味わいを醸し出す。教会の庭には東洋風の顔をした一石彫りのマリア像、側室には780キロの紅石から心臓を掘り出した作品が展示されている。 「知られていない、埋もれた日系作家がまだまだ居るものだ」と参加者は口々にコメントし、感心した様子で熱心に見入っていた。(つづく、深沢正雪記者)
ブラジル南部4都市を訪問過去2番目に多い163人が参加 県連(園田昭憲会長)主催の「第39回移民のふるさと巡り」一行は3月22日~27日の6日間、サンタ・カタリーナ州ジョインビレ、イタジャイ、サンジョアキン、サント・アマーロ・ダ・インペラトリスの4カ所を訪れた。今回の参加者数はスタッフ12人も含めて計163人と、北伯を訪れた第32回ふるさと巡りの211人に次ぐ記録になった。参加者は多かったが大きなトラブルも無く、一行は各地で交流を楽しんだ。(毛利健人記者) 一行は初日、定刻通りの午後10時に日本移民の中心街であるサンパウロ市リベルダーデ広場から、サンタ・カタリーナ州に向けてバスで出発した。 翌朝、サンタ・カタリーナ州に入ったバスの窓には多くのピーニャ(パラナ松)の木が映っていた。皿のように平べったく広がった枝が特徴のこの木は、地域の植生独特のものだ。湯がいて肉と一緒に食べるのがカタリネンセ流だという。 サンパウロから南に約530キロ離れた、ジョインビレに到着したのは翌日午前8時。ジョインビレは州都フロリアノーポリスをも上回る約52万人の人口を有し、多くのブラジルIT企業本社が集積する同州最大の都市だ。この街の歴史は1851年にドイツ系とスイス系移民が入植したことに始まり、現在でも人口の9割がドイツ系を中心とするヨーロッパ系の人々だ。ドン・ペドロ1世の娘であるフランシスカ・カロリーナと、夫でフランス人のジョインビレ公の別荘が建てられたことから、やがてジョインビレと呼ばれるようになった。 朝食を終え、一行はバス別に市内観光を行った。1号車がまず向かったのはアイロン博物館だ。ジョインビレが古くから「サンタ・カタリーナのマンチェスター」と呼ばれるほどの工業都市であったことは有名だが、そんなジョインビレ出身の実業家でアンティーク収集家のモアシール・ボゴ氏が、世界中から集めた古今東西のアイロン約500点を「人間の生活に基づいた、世界各地の異なる工業発展の歴史を知ってもらいたい」との思いから、寄贈したことがきっかけで造られた博物館だ。 中には古代中国のアイロンから現代の電気スチームアイロンまで並んでいたが、中でも特に一行の目を引いたのは1940年代ごろのアイロンだ。当時の圧縮式や木炭式のアイロンを見て、「昔の日本では布団の下に服を敷いてアイロン代わりにしてたわね」「私は木炭式のを使って、やけどしたことがあるわ」などと、特に女性陣の昔話が盛り上がっていた。 続いてバスが向かった先は自転車博物館だ。一説には19世紀にドイツ人が自転車の元祖を開発したとも言われるが、ジョインビレに移住したドイツ系移民の多くも古くから移動手段として自転車を用いており、今もなお街中には多くの自転車が走る。この博物館はそのようなジョインビレの歴史的経緯から、市政150年を記念して造られた。 中には50年代の日本の自転車や世界一周した自転車、インドの自転車タクシーなどさまざまな自転車が飾られていたが、中でも一行に人気を博したのは、ハリウッド映画「E.T.」に出てきた、エイリアンを前かごに載せた自転車のレプリカ。皆横に立って記念撮影をしていたが、ある高齢の参加者の1人は、エイリアンのしわくちゃの顔を見て「親戚に久しぶりに会えたわ」と冗談を飛ばし、笑いを誘っていた。(つづく) 2013年4月9日付
「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)により、ブラジルの青年たち3人がきょう9日から訪日し、北海道、山梨、静岡の各地方自治体で活動する。 同事業は、日本の地方自治体が世界との交流を目指し、総務省、外務省、文部科学省と(財)自治体国際化協会が協力。1987年に始まり、これまでに約50カ国から5万人以上が参加。ブラジルからは95年に実施され、103人が訪日している。 今回訪日するのは、成田カレン摩耶さん(22、3世)、菊地ダニエラ美和さん(29、2世)、内田アラン英喜さん(26、3世)の3人。 サンパウロ州カンピーナス市在住の成田さんは北海道帯広市の市民活動部親善交流課に勤務する。サンパウロ総合大学で統計学を勉強し、「幼いころから日本で生活することが夢でした」と今回の訪日を喜ぶ。また、写真が趣味だといい、「日本全国を旅行する機会があれば回ってみたい」と笑顔を見せた。 菊地さんは、文部科学省留学生として高知大学に3年在学し、生物科学関連の教科書を作成した経験を持つ。山梨県国際交流協会で翻訳・通訳などの仕事をする予定で、「日本とブラジルの関係を深くし、最低でも2年は滞在したい」と意気込む。 日系企業で経理担当だったという内田さんは、祖母が静岡県出身。「ブラジルのコーヒーと静岡のお茶の多文化共生をし、日本でのブラジルのイメージを良くしたい」と述べ、「できれば富士山に登りたい」と目を輝かせた。静岡県企画広報部地域外交局の多文化共生課に勤務する。 同事業では、海外からの青年と地方自治体が1年ごとに契約を交わし、本人と自治体の希望により最長で5年まで滞在できる。日本語能力試験2級以上の日本語能力が必要。 同事業の詳細など問い合わせはサンパウロ総領事館(電話11・3254・0100)など各地域の公館へ。 2013年4月9日付
ニッケイ新聞 2013年4月5日 22日夜、一行はジョインビレから東に90キロ行った海岸部のイタジャイー市に移動し、レストランで同日伯協会(ANBI、大場レジナ会長)から創立会員の佐藤吾介さん(ごすけ、65、二世、第3アリアンサ)、20年以上同地に住む梅木サチコさん(68、聖州ポンペイア出身)ら約10人と交流会を行った。 5年前から仕事の関係で同地に住み、3年前から同協会に入会した村中堅悟さん(63、長崎)は、元々は聖市の日商岩井に20年勤めていた。ニットの産地として有名な同地やブルスケ、ブルメナウにその材料を販売する仕事を独立してやるために移転したという。 佐藤さんによれば協会創立は1987年で、会員数は約100人(40家族)。十周年で会館を建設したが手狭で100人しか入れない。そのため、最終的にレストランが交流会場となった。 水産技術の研究員として80年にフロリアノポリスに来て、84年からこの街へ移転したという佐藤さんは、「20年ほど前までヤクルトがこの町で大きくエビ養殖をしていたな」と思い出す。「80年頃はこの町の日系人は少なくて20人ほどだった。お互いに町でチラッと姿を見るけど面識はなかった。公営市場に店を出している日系人がいて顔が広かったので、彼に呼びかけてもらい集まるようになった。今では、ほとんどの日系人を知っている」と同協会の成り立ちを説明する。 故中野博さんの仲介で千葉県袖ケ浦市と姉妹都市になり、「Sodegaura」と命名された遊歩道もある。 佐藤さんは「月1回は集まる。13年ぐらい前から年1度、スキヤキ会をやるが400人は集まる」という。他に運動会、遠足もしており、昨年はレジストロ、その前はクリチーバの花祭りに行き、親睦を深めている。 同市にはSC州には珍しく植民地もある。関口健次郎さん(76、茨城、コチア青年第1回14期)は58年に来伯後、最初聖州ピンダモニャンガーバのパトロンのもとで義務農年を終えた後、SC州に移転し、イタジャイーで野菜を作りスーパーへ卸すようになった。 そんな72年、人口が増加して野菜需要が増えたことから、市が移住地造成を計画し、地代10年据え置きの恩典を示して10軒の野菜農家を募集した。そこに関口さんは応募し、他にJICAが南大河州ポルト・アレグレ近郊から日本人農家を呼び、計日系7家族が入植し、あと3家族の伯人が入り、リオ・ノーヴォ植民地が始まった。 関口さんは「この町は海際だから海抜4メートルしかない。満潮の時にイタジャイ・アスー川の上流で大雨が降ると、下ってきた大量の雨水が満潮に押し戻されて街の中に溢れる。08年と11年にそんな大洪水がこの地域一帯を襲って、うちの畑は一番被害がひどかった。3日間も水浸しで全滅した…」と苦渋の日々を振り返る。 「あの時、すぐに(日本国在)クリチーバ総領事館から支援を出してくれ、新しい農機具や肥料を買うことができ、すごく助かったよ」という。 関口さんは現在、日本食に欠かせないガリ(生姜の薄切りを酢でしめたもの)の生産に力を入れ、毎年5トンも生産し、近隣の日本食レストランに卸している。隣のカンブリューには10軒、ブルメナウには5軒、ブルスケにも4軒、フロリアノポリスには10軒もあるという。 いま現在、同植民地の日系人は3家族のみ。2年前、東日本大震災が起きた時、「洪水の支援のお返しと思って、コロニアの各農家から1500コントずつ義援金を出した」という。日伯の絆はここにもしっかりと根を張っている。(つづく、深沢正雪記者)
サンパウロ州カンピーナス市と姉妹都市提携を結んでいる岐阜県岐阜市の中学生(14歳)サッカー選抜チーム(阿部勉団長)23人が3月22日から29日まで来伯し、ブラジルチームと親善試合を行った。同28日、サンパウロ市リベルダーデ区にある岐阜県人会(山田彦次会長)を表敬訪問し、試合結果の報告などを行った。 岐阜市教育委員会市民体育課スポーツ振興係主任主事の五島大志氏によると、今回のサッカーチームの来伯は両市提携30周年を記念し、スポーツ交流を目的に実施。カンピーナス市でコリンチャンスのジュニアチームなどと4試合を行ったほか、カンピーナス日伯文化協会の日系家族宅でホームステイをしたという。同チームは岐阜市内の中学8校から選抜され、選手19人と引率者4人の計23人で構成された。 一行の訪問を受けた山田会長は「皆さん、元気に試合をやられたと思いますが、これからサッカーの道に進む人もいるのですか」などと質問し、歓迎の意を示した。 それに対して、初来伯した阿部団長(岐阜市立梅林中学校教諭)は「勉強が第一なので、生徒の中では今のところプロになろうという者はいませんが、今回の試合では本場ブラジルでどれだけ自分たちの力が通じるか試し、たまたま2勝2分の好成績を残せました」と喜びをあらわにしていた。 また阿部団長は、カンピーナス文協の計らいでホームステイできたことに感謝を示し、「親子や孫のような関係でファミリーとして付き合っていただけた」と話していた。 2013年4月5日付
ニッケイ新聞 2013年4月4日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の「第47回定期総会」が28日午後、同日開かれた定例代表者会議に続いて聖市の三重県人会館で開かれた。 坂和三郎氏(東京)が議長に任命され、議事を進行した。昨年の一般会計収支は44万635・81レ、日本祭りの単独収支としては232万1525・22レだった。 今年度の予算案としては一般会計で83万500レの収支、日本祭り単独では265万レの収支案(支出255万3500レと9万6500レの黒字の合計)が発表されたが、これに対して谷広海氏(宮崎)は「去年大赤字だったロードレースもやらないし、スポンサーが不足している中で、どうしてこんなに数字が大きくなるのか」と疑問を呈した。 押切フラビオ氏(山形)は、「去年の実績に沿った予算を考えるべき」とし、予算案が昨年の約2倍となっていることに関し、「本来別にすべき県連基金から購入している事務所の経費も会計に計上しているため、わかりにくい」など予算案の提示の仕方についても指摘。大西博巳氏(広島)も「物事はきちんとすべき。こんないい加減な会計は承認できない。次の会議で出しなおすべき」と発言し紛糾した。 また、「戦後移住60周年への予算はないのか」との谷氏の質問に、園田会長は「県連が手伝うのは式典だけ。大変なリスクを負っているし、積極的に60周年に関わるのは定款上許されない。一般会計からは一銭も出さない」と答えた。 執行部の山田康夫氏(滋賀)は「これはあくまで予算案。現実的な数字は6、7月にならないと出ない」と説明し、結果として4、5人の拍手で承認された。 今年度の事業案としては第16回日本祭り(7月19~21日)、東日本大震災被災者招聘交流事業(同月15~25日)、県連主催ゲートボール大会(8月25日)、第40回移民のふるさと巡り(行き先はドミニカ、10月17~23日)などが発表され、承認された。 なお、補充監事3人の選挙では森永ジェラルド・マサユキ(石川)、川添博(長崎)、永山八郎(福島)の各氏が選ばれ、押切、杉山エレーナ(京都)、小松ジェニ(愛知)の3氏が繰り上げで正監事となった。 コラム【大耳小耳】 県連の総会で配布された資料によれば、今年も県人会の式典が目白押しだ。栃木70周年(6月)、愛知55周年(8月4日)、山梨60周年(同)、香川県人移住百周年(同11日)、三重70周年(同17日)、岩手55周年(同18日)、岐阜75周年、県人移住百周年(同25日)、鹿児島100周年(10月20日)、山形60周年(同27日)、熊本55周年(11月10日)、愛媛60周年(同)が、それぞれ節目の年を祝う。
