06/03/2026

Dia: 8 de novembro de 2013

 一行計76人のうち13人の小グループとして旅程を組まれた記者たち一行は、サンパウロ市リベルダーデ広場を、まだ夜の帳(とばり)が下りたままの10月17日午前3時30分に専用マイクロバスでグアルーリョス空港に向けて出発。  記者に続いて広場に集まって来ていた砂原朝子(ともこ)さん(75、北海道)は、サンパウロ市内で小間物屋を数軒持っている。2年前に亡くなった主人はふるさと巡り旅行に気が進まなかったというが、「これから、あちらこちら行きたいと思います」と砂原さん自身は意欲的だ。  グアルーリョス空港では、コロンビアのボゴタ市を経由していく63人の大型グループと、ペルーのリマ市を経由する13人の小グループに分かれて搭乗した。小グループのガイドは、ふるさと巡り第27回から連続で請け負っているという日系2世の中西惠子さんが担当。空港には旅行の手配を行ったグローバル・ツーリズモの渥美誠社長も早朝から見送りに来ている中、団長の本橋幹久氏が出発のあいさつを行った。  我々小グループは大型グループより約1時間早く、現地時間の午後4時にドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴ市にあるラス・アメリカス国際空港に到着。サンパウロからはトランジットを含めて約10時間の旅だ。  出迎えてくれた今回のドミニカ国内での世話役を務めてくれる内藤益宏さん(69、東京)は、過酷だった移住地アグアネグラに1958年5月に入植 した一人。現在はサンパウロ州イノーポリスに在住している小グループ搭乗者で、同じアグアネグラ入植者だった南沢法子(のりこ)さん(70、福岡)の第一 声を聞いて本人だと分かったとし、50年ぶりの再会を果たした。  2人の話によると、ドミニカ南西部でハイチ国境近くのアグアネグ ラには、58年5月と6月に第1次、第2次に分かれて計46家族が入植したという。標高約800メートルの同地は、1家族につき12町歩(ヘクタール)の 土地が支給されるはずだったが、「実際の土地面積は(12町歩の)2割あるかないかといった程度で、岩だらけの最低の土地に日本で聞いてきたコーヒーの木 はどこにあるのか探すくらい長い間放棄された場所でした」と南沢さんは当時を振り返る。  その後ブラジルに再移住し、バイア州の JK(ジョタカ)移住地、リオ州カボフリオ市などを経て現在のペナーポリスに在住して22年になるという南沢さんは、「今回ドミニカに行くと聞いて、どう しても参加したかった」と、ふるさと巡り旅行に初参加した目的を説明してくれた。  一方、中学2年を中退して家族とともにドミニカ に来たという内藤さんは、コーヒーやうずら豆(アビチェラ)の生産など親の手伝いをしながら日本海外協会連合会(海協連、現・JICA)の通訳官に週3回 スペイン語の指導を受け、同地で1年間を過ごした。その後、鉱山探査を行う日本企業勤務を経て日本大使館の職員として33年間にわたって働き、2005年...
 島根県人会(足立操会長)は、10日午前10時から午後5時までサンパウロ(聖)市プラッサ・ダ・アルボレ区の同県人会館(Rua das Rosas, 86)で第9回慈善バザー(カリオ美晴実行委員長)を開催する。  手芸・工芸品を中心に販売するバザリスタ30店が出店するほか、婦人部手作りの弁当、巻きずし、しいたけご飯、漬物などが販売される。なお、バザリスタの売上金のうち15%と婦人部の売上金全額は児童福祉施設のGirassolに希望の支援物資として寄付される。  案内のため足立会長、実行委員会の村上アンドレ氏、浜野稔氏、浜野ビウマ氏、村上リジア氏が来社し、「500人くらいの来場を見込んでいる。ナタル(クリスマス)のプレゼント探しにぜひおいでください」と来場を呼び掛けた。問い合わせは同県人会(電話11・5071・0082)まで。 2013年11月8日付
9日(土曜日)◎松柏・大志万学園の文化祭は、午前8時からサンパウロ(聖)市ビラ・マリアーナ区の同学園(Rua Ferdinando Galiani, 80)で。◎コクエラ日本人会の第23回ふるさと祭りは、午前10時からモジ・ダス・クルーゼス市の同会館敷地内(Est. Mogi-Sale sopolis, km 9,5)で。10日も。◎押し花アートの第7回展覧会は、午前10時から聖市リベルダーデ区のノッサ・セニョーラ・ド・リバノ教会貴賓室(Rua Tamandar・ 355)で。10日も。◎「生命之光」上映会は、午後2時から聖市リベルダーデ区の文協ビル1階13号会議室(Rua S縊 Joaquim, 381)で 10日(日曜日)◎援協福祉部主催の第46回お見合い会は、午前9時から聖市リベルダーデ区援協ビル5階の神内ホール(Rua Fagun des, 121)で。◎「第19回全伯日本語スピーチコンテスト」は、午前9時から正午までパラナ州ロンドリーナ市のパラナ日伯文化連合会講堂(Rua...
裁判問題で意見の対立続く状態に  1988年の移民80周年を記念して実施され、今年で25周年第40回の節目を迎えた県連(園田昭憲会長)主催の移民のふるさと巡り旅行が10月17~23日の日程で行われ、当初の予定より16人多い計76人が参加した。今回一行は、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴ市をはじめ、ハラバコア、コンスタンサの両日本人移住地を訪問。「カリブの楽園」と言われながら当初の募集要項とは全く違う土地に入植させられ、日本政府を相手に裁判問題にまで発展した同地の日本人入植者たちの思いと、再移住先としてブラジルに渡った参加者との再会の様子を体感する旅でもあった。同行した旅行の模様をリポートする。(松本浩治記者)  資料によると、ドミニカ共和国への日本人移民は1956~59年、鹿児島県出身者を中心に249家族1319人が入植。同国に八つある移住地に送られたが、特にひどかったのは、ハイチ国境地域にあるダハボン、ネイバ、アグアネグラ、ドベルヘなど。日本政府の募集要項には、300タレア(18ヘクタール)の土地を無償譲渡し、耕作に適した土地であることがうたわれていた。しかし、実際に入植した土地は場所によって塩害がひどく、岩だらけの荒地でとても農業が可能な状態ではなかったという。  また、慢性的な水不足に悩まされ、ドミニカ政府が土地の所有権も認めていないことが後に発覚。当初、日本政府は戦後中国大陸などから引き揚げてきた日本人の海外渡航を奨励しており、ドミニカの塩害状況等を当時の駐ドミニカ日本大使が知っていたにもかかわらず、その内容を伏せるように指示。ドミニカ側が灌漑(かんがい)設備が整っていないことなどを理由に日本移民の受け入れに懸念を表していたが、日本政府は移民を同国に送りこんだ事実がある。  61年には日本政府もドミニカへの移民送り出しの失敗を認めて集団帰国を実施し、日本への帰国をはじめ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどに再移住する人が8割を占めた。しかし、古里の土地を処分してきた移民たちにとってはドミニカにとどまらざるを得ず、47家族276人が同国に残留した。  98年には日本政府の譲歩により、ドミニカ国内の新しい土地への提供が決まったが、粘土質の土地はやはり作物に適さず、移民たちは2度にわたって日本政府にだまされたことに猛反発。2000年7月、移民の一部が日本政府を相手取って損害賠償を請求する裁判を起こした。  6年にわたって続けられた裁判は06年、日本政府が法的責任を全面的に認めたものの、損害賠償については時効を理由に棄却される判決が言い渡された。  判決を不服とする移民たち(原告)は控訴したが、当時の首相だった小泉純一郎氏が原告への謝罪の意を伝えるとともに、ドミニカ在住の原告に1人200万円を支給する和解案を提示。移民たちは協議の結果、6対4の賛成多数で和解することになった。裁判を巡って、ドミニカに住む移民たちは意見の違いから賛成派と反対派の二つに割れ、現在も水面下では意見の対立が続いている状態だ。  今回、初めてドミニカ共和国を訪問したふるさと巡り一行の足跡をたどる。(つづく) 2013年11月7日付
 岐阜県人会(山田彦次会長)は5~13日、サンパウロ(聖)市ベラ・ビスタ区の在サンパウロ総領事館多目的ホール(Av. Paulista, 854 3ander)で「第9回日伯友情交流絵画展」を開催している。同展は同県人ブラジル移住100周年、県人会創立75周年という節目の年を締めくくる記念事業でもある。  開催に先立ち4日午後5時半から同会場でオープニング式典が開かれ、福嶌教輝在聖総領事、小田エルザ文協美術委員長をはじめ、同展に出展した画家など約50人が訪れて軽食を取りながら歓談を楽しみ、芸術の話に花を咲かせた。  あいさつの中で山田会長は「9回にもわたって同展を開催できたのは総領事館のお陰」と感謝を示した上で、「絵画を通じて日本人、日系人、ブラジル人の友好親善に貢献したい」と開催意義を語った。  同展に2作品を出展した柴田イネスさん(80、2世)はアマゾンの森の奥の景色を油絵で表現し、「皆さんに見てもらい日の目を見ることができて、作品自身も喜んでいるはず」と感激の様子だった。  なお、同展には23人のアーティストによる45点の作品が展示されている。  開場時間は午前10時から午後5時までで、土日は休館。入場無料。問い合わせは同県人会(電話11・3209・8073)まで。 2013年11月7日付
ニッケイ新聞 2013年11月6日  島根県人会(足立操会長)は「第9回島根慈善バザー」を10日午前10時から、同県人会会館(Rua da Rosas, 86, Praca da Arvore)で開く。入場無料。  日系・非日系を問わず福祉団体支援を目的に婦人部が企画。食料品、車椅子、介護用ベッド、テレビ、パソコンなどを購入、寄贈している。  アクセサリー、刺繍、パッチワーク、陶器など、同県人会がセレクションした30店が手芸品の販売を行う。婦人部やボランティア手製の弁当、菓子なども販売。  案内のため来社した足立会長、村上アンドレ光明副会長、浜野稔理事らが来場を呼びかけた。 問い合わせは同県人会(11・5071・0082)まで。
ニッケイ新聞 2013年11月6日  新しい国に入ったさいの記者の習いは現地ビールを飲むこと。入国審査で感じることの多い悪印象と先入観をまずは洗い流し、今後の期待感を高揚させるのが目的だ。  70ドミニカ・ペソ、4レアルほどだろうか。空港でこれだと一般価格は…早くも入国即ビールの効果あり。ラベルには「プレジデンテ」とある。今回の旅行中、連呼に近いほど使ったが、移住者からよく聞いた言葉でもある。「大統領が61年に暗殺されてから運命が変わった」と。  トルヒーリョ大統領は親日家だった。日露戦争に勝利した年に生まれた娘にハポネッサ(日本人)とつけるほどで、55年にドミニカを訪問したニクソン米国副大統領から、日本移民の優秀さを聞かされたことで、さらに積極的となったとされる。  大手メディアが「カリブ海の楽園」「ほくほくの条件で」と煽り立てた募集要項には、300タレア(18町歩)を無償譲渡とあった。しかしドミニカのコロニア法では「10年耕作後」という一項があり、自由作付けは1割、収穫が見込めなくても草をはやすと「没収」。加えて、「300タレアまでの土地」の〃まで〃が翻訳されず、送り出しに不都合な部分は全く移民に知らされなかった。  そのうえ、独裁政権に召し上げられた格好の土地だったため、大統領暗殺後、地元住民の反日感情が高まり、収穫間近となった畑に牛馬を放されたり、勝手に家を建て始めたりしたことが、前年からの帰国運動に拍車をかけた。  首都も移民の着いた当時は「シウダー・トルヒーリョ」だったのが、暗殺後は元のサントドミンゴに戻されているほど。そんな政情に翻弄された移民らの悲劇を思うと、このビールも苦いものになる。  「あー声で分かりましたよ。昔の面影がありますね」。出迎えに来たガイドの内藤益宏さん(69、東京)と、参加者の南澤(旧姓帆士)法子さん(70、福岡)が笑顔を見せている。  二人がいた国境近くのアグア・ネグラ移住地は、サントドミンゴ港から軍用船でカーボ・ロッホに行き、石灰岩の崖のような悪路を上っていった。むき出しの岩盤がトラックの底にぶつかる。日本でコーヒー園と聞いてきたが一本もなく鼻のつくような急勾配が〃畑〃だった。  当時、大使館などに陳情にいくため家長会議が頻繁に開かれた。「父が家にいないから母が大変な思いをしましたよね」と話す南澤さん一家は62年、ブラジルのJK植民地へ転住。内藤一家も翌年、現在住む海岸の町に移った。  アグア・ネグラにはただ一人、田畑初さん(93、鹿児島)が残っている。実は南澤さん、10年前に訪問している。「奥さんは亡くなったようですが、お元気そうでしたよ。ハイチ人を使って石灰岩の崖のところどころある土にコーヒーを植えて。広い土地でね。残って良かったんじゃないでしょうか」  大使館の現地職員を72年から33年間勤め、訴訟には反対の立場だったという内藤さんは「田畑さんがまだ頑張っている。一人でもそういう人がいるのに、全員が失敗したように言うのは疑問がある」と話す。  田畑氏は現在2000タレアの土地を所有し、「現地人が暮らしているのだから、我々が生きていけないはずがない」と今も畑に向かう日々を送る。改めて二人に、アグア・ネグラの土地の感想を聞くと声を揃え、「最低でした」。(堀江剛史記者) ■  会うことは出来なかったが、田畑さんの言葉からは〃移住〃ということを考えさせられる。「国援法で日本へ帰りたくはなかったとたい。わしは長男だし、両親、弟を呼ぶつもりでここに来たとたい…」(―楽園、87年)、「我々が当地に残留した選択は正しかった」(ドミニカ日本人残留移民の証言、06年、北欧商事出版)。 写真=南澤さんと内藤さん。サントドミンゴ空港で この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2013/2013rensai-horie1.html...