「新潟県の今、そしてこれから」 本紙と2011年10月から協力協定を結んでいる新潟日報社(高橋道映社長)主催の「新潟日報フェアinサンパウロ」が23、24両日、サンパウロ市アクリマソン区の新潟県人会館で開催された。23日午後1時半からは同社取締役執行役員及び制作統括本部長でもある渡辺隆編集局長(62)が「新潟県の今、そしてこれから」をテーマに講演を行い、雨が降る悪天候の中、県人会員など約30人が出席。柏崎刈羽原発や農業減反問題で揺れる同県の現状に耳を傾けた。 渡辺氏は(1)東京電力の柏崎刈羽原発の動向(2)減反を見直す新潟県の農業(3)Jリーグ昇進10周年を迎えた同県のサッカー・チーム「アルビレックス新潟」などスポーツ関連の主に3点を中心に、新潟日報の記事をパワーポイントで見せながら説明した。 (1)については、1997年7月の同紙の記事で柏崎刈羽原発が世界一の規模になったことが報道。2004年に発生した中越地震、07年の中越沖地震で原発への恐怖が報じられる中、中越沖地震を契機に新潟県巻町で全国で初の住民投票が行われ、住民の6割が原発建設に反対する動きに至った。 04年に就任した泉田裕彦知事は当時、東電関係者に「あなたたちは安心よりもお金なんですね」と東電関係者の訪問を退けたことで原発廃止の旗手になると全国紙にも注目された。しかし、11年3月の東日本大地震による福島第1原発事故後に柏崎刈羽原発全号機がストップしている現状の中で同知事は、来年7月に再稼動させる考えに変化しているという。 渡辺編集局長は「東日本大震災発生後、隣県の福島からは約1万人が新潟に避難したが、2番目に受け入れが多かったのが原発の下請け会社などがある柏崎市だった。(新潟県には)原発の1基や2基が動いてもいいと思っている人もいるのも事実だが、国策が揺れているところで再稼動を地元(新潟)の判断だけに委ねていいのかという疑問はある」と話す。 (2)は、戦後の食糧難を解決するため各地の干拓地を米作地にする事業が国策で行われたが、同事業が終わった途端に泥地を畑作にするという減反政 策が取られた。米余りを防止するために米作農家に国から補助金を出す減反政策からその後、農産物を海外に輸出するTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の 影響で半世紀ぶりに減反が廃止されることをJA(全国農業協同組合中央会)会長が10月下旬に容認したという。 現在新潟県に30ある市町村のうち、14市町村が減反廃止に反対とも賛成とも言えない戸惑いを見せているとし、「国の根幹に触れる政策が新潟で行われている」と渡辺編集局長は、同紙の紙面作りに(1)と(2)の問題が現在、大きな柱になっていることを説明した。 (3)は、これまでレスリング、バスケットボール、バドミントンなど屋内スポーツが「お家芸」だった雪国の新潟県で、野外スポーツであるサッカーで地元の 「アルビレックス新潟」が03年にJリーグに昇進して今年で10年になる記事を紹介。また、高校野球でも地元の日本文理高校が09年の夏の第91回全国高 校野球選手権で準優勝を果たすなど「エポックメーキング(時代を作る)的な出来事」(渡辺編集局長)が増えていることを喜ぶ。 ま た、これまで新潟市郊外にあった新潟日報社が昨年から同市内万代橋付近に20階建ての新社屋が完成したことにも触れた上で、渡辺編集局長は「来年は新潟地 震から50年、中越地震から10年になり、『防災、減災』をテーマに取り組んでいきたい」と述べ、講演を締めくくった。 講演会に参加した小橋節子さん(77、2世)は「原発問題も大変だけど、農業問題もどうなるか心配」と話していた。...
Dia: 27 de novembro de 2013
約7割が3年以内に訪日計画 【一部既報】7月に開催された第16回日本祭りに「Visit Japan」プロジェクトの一環として出展参加した日本の観光庁と日本政府観光局(JNTO)は7月19、20両日、同ブースを訪れた来場者を対象に訪日旅行に関するアンケートを実施した。JNTOニューヨーク事務所がこのほど発表した同アンケートの集計結果によると、回答者のうち7割以上が3年以内の訪日計画を立てており、ブラジルにおける訪日旅行需要の高まりが浮かび上がった。JNTOは、同アンケートの結果によってブラジル全体の一般消費者の動向を把握することは困難としながらも、今後の参考に役立てたいとしている。 アンケートの有効回答数は1037で、41・3%の人が日本を訪れたことがあり、そのうちの49・1%が複数回の訪日経験を持つことが明らかになった。主な訪問先は表の通りで、東京、京都、大阪、名古屋といった定番ルートが人気である一方、北海道から沖縄まで各地を訪問していることが分かる。これはリピーターに加え、各地の工場等で就労している親族や友人を訪ねていることが推測される。訪日目的は約20%の「伝統文化」が最も高く、次いで「歴史」「食事」「自然」「ショッピング」が挙げられており、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録も検討されている日本食への関心が目立ったほか、買い物好きなブラジルの国民性が表れる結果となった。 72%が3年以内の訪日計画を有する一方、3年以内に訪れる予定がない人は主な理由として約半数が旅行費用の高さを挙げた。「自然災害」を理由に挙げたのは2・8%にとどまり、東日本大震災の影響はさほど及んでいないことがうかがえる。 旅行先を決める際の情報入手先としては、4人に1人がインターネットを利用していることが分かった。しかしその次に、旅行博及び旅行誌と雑誌がそれぞれ約19%で続いていることから、JNTOニューヨーク事務所の犬石知子次長は「日本祭りのブースで訪日旅行商品パンフレットを提供・販売できれば旅行者の獲得につながるのでは」と期待を示した。 JNTOニューヨーク事務所によると、訪日ブラジル人数は今年上半期、対前年同期比18・2%増と順調に伸びており、来年自国でサッカー・ワールドカップを開催するにあたり外国旅行市場は鈍化するとみられているものの、ブラジル旅行会社からは2013年出発の訪日商品が完売しているといった声も上がっているという。 また、リオに続く東京夏季五輪開催決定によって日本への注目度の高まりが期待できることから、同事務所では旅行会社との情報交換等を通じて観光客誘致に努めたいとの考えを示している。 2013年11月22日付
4日目の10月20日午前7時半、北西に約140キロ1283メートルの標高地にあるコンスタンサ移住地に向かうべくホテルを出発。日曜とあって道は空いている。 途中、前日と同じ場所でトイレ休憩すると、地元のドミニカ人が各地に遊びに行くためかにぎわっていた。 サント・ドミンゴ市から約2時間走ったラ・ベガ市からは山道へと入り、前日よりもさらに急勾配の坂道をバスはエンジン音をうならせて上っていく。午前10時ごろ、峠付近に来た時に記者を乗せた1号車がオーバーヒートし、車体後部から白い煙を吹いて止まった。 コンスタンサでは移住地の人々が待っている。取材のため仕方なく、記者たち数人が2号車に便乗させてもらい、先に現地へと向かった。 山道を下っていくと、視界が開けた。山間に囲まれた平野部に野菜畑と思われる緑が広がる。日本の信州のような懐かしい風景だ。午前11時過ぎにコンスタンサ日系クラブ会館に到着。快晴の青い空の下に映える会館の白さが目にまぶしい。 会館前では、脇輝亀(わき・てるき)会長(58、鹿児島)を先頭に単位家族7家族約30人の会員が出迎えてくれた。脇会長によると、同移住地ではトルコ桔梗(ききょう)、ベニバナなどの花卉(かき)栽培や野菜作りが盛んで、日系子弟は農業に従事している人が多いという。同地への日本人の入植は1956年10月の第1陣に始まり、59年6月までの第4陣まで計35家族220人が入植した。 「順子です。村田順子です」―。サンパウロ市リベルダーデ区の日本食レストラン「千代(せんだい)」のママである大村順子さん(63、鹿児島、旧 姓村田)が有山ムツ子さん(86、鹿児島)に呼び掛けた。有山さんは「うれしい。本当、涙が出る」と村田さんとの51年ぶりの再会を喜んだ。 有山さんの実弟である神前亨(とおる)さん(76、鹿児島)は、男性ではもはや長老格になるという。56年12月30日、第2陣で同地へ。「19歳で入植 したころの(コンスタンサの)人口は3000人ぐらいでしたが、今は8万人が住んでいますよ」と、その発展ぶりを話してくれた。 午前11時40分ごろ、オーバーヒートした1号車も無事到着。会館内に入ると天井が高く、天井からぶら下がった扇風機の風が心地良い。正面の舞台上には富士山と桜の絵が描いてあるのが、いかにも日本人の会館という雰囲気を醸し出している。 舞台下では、「日本ドミニカ友の会」の西尾孝志会長の親戚に当たるという西尾蓉子さん(72、福島)が先亡者たちの遺影を前にして慰霊法要を行い、読経の合間に脇会長、本橋幹久団長らが代表して焼香した。 小学校時代に日本で暮らした経験のあるコンスタンサ日系クラブの佐藤康樹(こうき)副会長(49、2世)が、流暢(りゅうちょう)な日本語で移住地の説明 を行う。それによると、同地は前述のように標高が高く気候が良いことから農業に適しており、入植当初は水不足などに悩まされたもののニンジン、玉ねぎ、 ジャガイモ、にんにくなどの野菜類を栽培し、現在は北米や欧州にピーマン、キュウリ、トマトなども輸出しているという。 佐藤副会 長自身は現在、サント・ドミンゴ市内などでガソリンスタンドを4軒共同経営しており、両親がコンスタンサで農業を行っているそうだ。コンスタンサで生まれ...
会館を出てリゾート・ホテルへと向かう途中、日本移民たちが眠る墓地を訪問する予定だったが、墓地前の道路は車通りが激しく一行が下車して道を渡ると危ないということで、車窓から墓地の入り口を拝むだけにとどまった。 一行が到着したのは、「ホテル・グラン・イメノア」と呼ばれる自然溢れるハラバコアでも有数のリゾート地で、ホテル内に川が流れている。その川を長さ約50メートルのつり橋を渡って橋向こうに行くと、一行の昼食席が準備されていた。 かんかん照りの暑さの中で、雄大な川の流れと景観が涼しさを与えてくれる。 昼食には、ハラバコア移住地の日本人たちと友情関係のある同市のピエダーデ・ケサラ・デ・ドミンゴス女性市長も出席し、一行を歓迎。広島市からゴミ収集車4台の寄贈を受けるなど日本との交流に感謝していると述べ、「神様は世界中にいますが、夜はハラバコアで過ごします。皆さん、次回もハラバコアにぜひ戻ってきてください」とあいさつし、一行をねぎらった。 日高夫人のミヨコさん(67、鹿児島)によると、入植当初は日本語学校も無かったが、入植1周年の時に道路で運動会が行われ、大人と一緒に二人三脚で走ったことを覚えていた。「気候は良いのでトマト、キャベツ、ナスビなどの野菜を作って売りましたが、買ってくれる人は少なかったですね」と振り返る。 乾杯の音頭を取った日高武昭さんは、サンパウロ州アチバイア市で心霊治療を行う弘田智康氏と同年齢の親友だとし、今年9月には弘田氏がブラジルから花柳流舞踊関係者を連れてハラバコアを訪問。JICAの青年ボランティアの女性たちもサント・ドミンゴ市から加わり、盛大な盆踊り大会を開催したという。 日高さんたちが移住地での苦労と日本政府にだまされたことなどを説明する一方で、ドミニカ在住の日本人の3分の1が裁判問題に反対し、残りの3分の1は良くも悪くも思っていない人がいることも聞かされ、狭いドミニカの移民社会の中でも複雑な関係があることを知った。 昼食を取った一行は元来たつり橋を渡った広場に集まり、歓迎してくれたハラバコア移住地の人々とともに、恒例の「ふるさと」を合唱。一人一人と握手を交わして、サント・ドミンゴ市に向けて出発した。 ◎ ◎ その日の夜は、ドミニカ料理の「サンコーチョ」を食べに市内のレストランへ。サンコーチョは、ドミニカでは日曜などに家族で食べる家庭料理で、マンジョカ芋、ニンジンなどの野菜と鶏肉や牛肉を混ぜて煮込んだスープ。見た目はブラジルの「カルド・デ・モコト」に似ている。 そのサンコーチョを飯にかけてブラジルの「フェイジョアーダ」のようにして食べるのだが、一行が座ったテーブルによってはサンコーチョだけが先に出されて 飯が遅れ、スープを飲み干した後で飯が出されるなどし、「たったこれだけの料理なのか」と苦情の声も一部から聞かれた。 レストランでは、ドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」の衣装を着て給仕をする若い男女が中央の踊り場でダンスショーも披露。特に、1本のラム酒の瓶の上でつま先立ちとなり、クルクルと踊る光景は圧巻だった。 一行はそれぞれの思いを胸にホテルに戻った。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月23日付
ドミニカ鹿児島県人会会長でもある日高武昭さん(70、鹿児島)がハラバコア日本人会の星川和之会長(66、山形)をはじめ、同地在住の日本人家族を1人ずつ紹介してくれた。 同地在住の日本人は単位家族で5家族21人。「少ない人数なので、皆親戚です」と日高さん。まだ新しい「ハラバコア友好会館」は2007年に建てられたという。 移住地の説明をする日高さんの声が次第に熱を帯びだした。 日高さんの家族は1958年1月24日に他の12家族とともにハラバコアに入植したが、日高さんは当時中学3年で進学を控え、「10年たったら日本に戻ってくる」との父親の言葉を信じ、自ら日本に残ることにした。 しかし、両親がいないために学費が払えず、進学を断念。大阪の鉄工所で働きながら通信教育を受けたが、1年間で退職した。その間、ハラバコアにいる母親に一度も手紙を書かなかったことから心配され、迷った挙句に姉の許嫁と一緒にドミニカへの最終移民船「あめりか丸」に乗り、59年9月、家族たちより約1年半遅れて16歳でハラバコアに移住した。 しかし、日本の募集の際に約束された100タレア(約6ヘクタール)の土地は実際には半分しかなく、湿地や石が転がる粗悪なものだった。それでも他の日本人移住地に比べてまだ気候が良いほうで、「こんなところで泣いていても仕方がない」と借地して野菜などを生産したが、約10年間は野菜の販売力も無かったという。 また、日本政府の募集要項には「自由開拓」と書いてあったそうだが、独裁政治の国とは知らされず、ドミニカ政府の管理人の許可が無いと移住地から出られなかった。サント・ドミンゴ市の日本大使館に行く際も途中で検問があり、許可証が無いと捕まってサトウキビ畑で強制労働させられるような状態だった。 61年には当時独裁者と言われたラファエル・トルヒーヨ大統領が暗殺され、以前に同大統領から強制的に没収されたという地主らが各日本人移住地の「土地を返せ」という騒動も発生。そうしたことがドミニカ移民たちが日本に帰国したり、ブラジルなどの南米諸国に再移住する結果にもつながった。 日高さんは移住後、日本への出稼ぎで30年ぶりに日本に一時帰国し、現在、日本庭園近くに店を構え自動車などの中古品輸入業を行っている。 日本政府を相手取り、2000年から6年にわたって行われた裁判については「自分たちは金が目当てではないです。最初の募集要項に沿った土地をもらいたいだけ。日本政府がどう対応してくれるのか今でもそれを待っている」と語る日高さん。「自分としてはドミニカに来る気はありませんでしたが、親に従うつもりで来ました。当時はまさか、祖国が我々移民をだますとは思ってもいませんでした」と話しながら時折、悔しさで感極まり、言葉が出てこなかった。 日高さんの力説を聞き終えた一行は、会館前で記念撮影を行い、昼食を取るためにハラバコア市内にあるリゾート・ホテルへと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月22日付
ニッケイ新聞 2013年11月23日 群馬県人会(小渕民雄会長)は、来年9月から翌年2月までの日程で行われる県費研修の参加希望者を募っている。 18~40歳で、群馬県人の親族が対象となる。詳細、申し込みは県人会事務局(11・3341・8085)まで。締め切りは12月27日となる。 案内のため来社した小渕会長は「年内に希望者の有無を確認し、研修内容については県庁側と、参加希望者とのすり合わせで決めていく」と話した。
