若い世代の参加少なく縮小傾向に サンパウロ市の地下鉄ビラ・マリアーナ駅から程近く立地条件が良いことから、主に週末にカラオケ団体の大会会場などとして貸し出ししている大阪なにわ会館が、再来年の2015年以降にブラジルの大手銀行など第三者にそっくり賃貸する考えのあることが、このほど明らかになった。大阪なにわ会(下平尾哲男会長)では「会館の売却は行わない」としているものの、今後の活動運営資金の効率的捻出を目的に同会館を貸し出すことを今年8月31日の臨時総会で決定している。会員の高齢化と会への若い世代の参加が少ない中、同会の縮小は避けられず現実路線を歩む考えだ。 1965年に発足し、再来年に創立50周年を迎える大阪なにわ会。長年にわたってカラオケ団体など週末に会場を貸し出してきているが、今年8月31日に臨時総会を開催。「今後の会館をどのように使用・運営していくか」というテーマで約50人の会員が出席した中、会館の第三者への賃貸を賛成多数で決定した。 今後は下平尾会長が個人的に所有する会館近くの住居をなにわ会の事務所として改装した後、会の活動拠点を同事務所に移転して使用する考えだ。現在の会館は15年以降に正式に第三者に賃貸される予定だが、来年いっぱいはこれまで通りカラオケ団体などに貸し出されるという。 今回の決定について山本剛介副会長は「会館創設当時の役員の方々が苦労して建てた会館なので、売却は考えていませんが、再来年から大手銀行か何かに貸し出ししようと思っています」と話す。 同会館は82年、大阪府からの補助金などを受け、下平尾数行初代会長らが資金集めに奔走して同会が所有する会館として完成した。74年には府費留学生、92年には技術研修生制度がそれぞれ開始されたが、府の財政難問題などから2000年と02年に相次いで廃止され、補助金も同時期に打ち切られている。 「会館の場所が良いために財政的には困っていませんが、大阪府への留学生・研修生制度も補助金も無くなったし、若い世代の会への参加が少ない中で、もう少し会館を有効活用したほうがいいという声が大きくなりました」と山本副会長は会館賃貸に至った経緯を説明する。 さらに、15年の創立50周年記念式典への大阪府からの慶祝団来伯出席について以前から大阪府庁側などと手紙やメール等でやりとりし、山本副会長が昨年個人的に一時帰国した際に府庁と大阪市を表敬訪問したが、知事、市長ともに面会できなかったという。そうした状況で、なにわ会側が創立50周年に府知事一行にブラジルまで来てもらうことは難しいと感じていることも会館賃貸に拍車を掛けたようだ。 現在、同会では新年会には会員約100人が出席するものの、その他のイベントには「実質的に集まるのは50人くらい。若い世代が少なく会員も皆高齢となり、亡くなっている人も多い」のが実情だ。 婦人部による年3回の慈善バザーやカラオケなど今後の活動については「新しい事務所にはサーラ(応接間)もあるので、カラオケ大会はできないが、カラオケの練習やちょっとしたイベントには使える」(山本副会長)そうだが、会員が高齢化する中で今後、会が縮小していくことは否めない状況だ。 コラム【モザイク】 大阪なにわ会館が再来年から第三者にそっくり賃貸されると聞いて、いくら立派な会館があっても会員たちが高齢化して亡くなっていき、若い世代が継承できずに十分に使えないのでは意味がないと感じた。まあ、不動産を子孫に残すという意味では将来を見据えているのかもしれないが、「児孫のために美田を買わず」のことわざもある。各県人会にとっても他人事ではない話。会館問題も含めて今後の県人会がどうあるべきか。日本祭りの話題に振り回されるだけでなく、県連の代表者会議などでも話し合う機会はないものでしょうか。 2013年12月4日付
Mês: dezembro 2013
平成25年度兵庫県若手地域農業リーダー海外派遣団(佐藤彰浩団長)13人が11月15日~26日、パラナ州を中心に滞在し、日系人との親睦や現地学生との交流、農業視察といったさまざまな研修を行った。 同事業は今年で36回目を数え、今年度の13人を合わせると累計で505人となった。今年度は同県立農業大学校1人、同県立農業高校2人、篠山東雲高校1人、但馬農業高校2人、播磨農業高校2人、有馬高校2人、氷上高校1人の学生が参加した。 ブラジル滞在中、一行はサンパウロ(聖)州マリリア市で日系コーヒー園、牧場、養鶏場、ゴム園等を視察。パラナ州アプカラーナ市で地元高校生との交流後、マリンガ市で日系人宅にホームステイしながら同市役所・大学訪問や駒形農場を見学。そのほか、クリチバ市やイグアスの滝の観光地の視察等を行った。 25日午後7時には、聖市リベルダーデ区のニッケイパレスホテル内レストランで兵庫県人会(尾西貞夫会長)役員との懇談会が行われた。あいさつで尾西会長が2015年に同県人会創立55年記念事業、パラナ州と兵庫県の姉妹都市提携45周年を記念した行事と記念誌を発行することを提案し、「日本に帰ったら今までの派遣団にもお手伝いしてもらえるように伝えてほしい」と協力を呼び掛けた。 また同県農政環境部農政企画局農業経営課経営構造係の係長で団長を務めた佐藤氏は「景気が悪く県の予算も削られているが、この研修については一切削られず充実した研修となっている」と県側の事情を説明した。その後、派遣団が自己紹介し、県人会役員らと食事を取りながら交流を楽しんでいた。 「ブラジルのジャングルに自生しているような変わった花を品種改良したい」と目標を語る有馬高校2年の山下舞さん(16)は初めての海外。印象に残った出来事について「アプカラーナの高校生との交流は言葉が通じなくて大変だったけど、楽しかった」と目を輝かせながら取材に答えた。 実家が酒米農家で農業大学2年の西山貴之さん(20)は「畑、農機とにかく規模が大きかった。ホームステイではお世話になった日系人から、今の日本にはない日本文化を学んだ」と研修を振り返った。 一行は26日にブラジルをたちアメリカでの研修後、30日に帰途に就いた。 2013年12月4日付
大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は、8日午前9時からサンパウロ市ビラ・マリアーナ区の同会館(Rua Domingos de Morais, 1581)で第76回慈善バザーを開催する。 当日は、同会婦人部員が作るレース編やふきんなどの手芸品をはじめ、プレゼント用品や中古衣料品、協賛業者の出品物などが販売される。また食堂では、なにわうどん、すし、天ぷら、おしるこなどの日本食も販売される。 来社した婦人部役員の久保美恵子さん、高瀬千秋さん、桑原妙子さんは「レース編や刺しゅう製品はクリスマスプレゼントにぴったり。ぜひ来てください」と来場を呼び掛けた。 入場無料。問い合わせは同会(電話11・5549・7226)まで。 2013年12月4日付
在伯青森県人会(玉城道子会長)は、2014年度技術研修員を募集している。研修期間は2014年6月から2015年1月までで、応募資格は18歳から40歳までの青森県出身者子弟。ただし、現在就業している人に限り、学生は応募不可。 応募についての詳細や問い合わせは同県人会(電話11・3207・1599)まで。なお、応募締め切りは10日まで。 2013年12月3日付
ニッケイ新聞 2013年11月30日 【既報関連】ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の代表者会議が28日に文協ビル会議室で開かれ、『第17回県連日本祭』開催決定の経緯などに関する報告が行われた。 執行部は同祭における収入を221万800レ、経費を245万9300レと試算。赤字予想を24万8500レとし、当初から目標としていた「赤字25万レ以内」を達成出来るとした。園田会長によればこの試算には、安部順二連邦下議が進めている議員割り当て金による協力(約10万レ)は含まれておらず、「新規スポンサー探しなど、努力次第でさらに赤字は減らせる」と意気込んでいる。 また各県人会のブース出店経費を、従来の1500レから2千レとする提案が行われ、賛成多数で承認されたほか、同祭のテーマが「三方良し」となったことが発表された。役員らによれば「近江商人の言葉で三方とは『売り手、買い手、世間』のこと。主催者、参加者皆が楽しめて、社会のためにもなるイベントを目指す」との意味がこめられているという。 コラム【大耳小耳】 県連の園田会長によれば、来年も日本祭の夜を彩る「提灯」の販売を行う。一口50レアルで、会場中央の広場に購入者の名前入りの提灯が飾られる。今年度は企業の大口購入もあわせ、950個が販売された。資金面での苦境に立つ日本祭、個人でも協力の意思のある方はぜひ県連事務局(11・3277・8569)まで。 ◎ 岐阜県人ブラジル移住100周年記念事業の一環として、「岐阜・ブラジル交流ウィーク」が19日から10日間催された。音楽コンサートには、聖州出身で各務原市在住の斉藤マルコスさん(45)、ルイザさん(46)夫妻が中心のグループ「ジラソウ」や、ブラジル人学校「HIRO学園」(大垣市)による演目が行われた。両地の関係性や歴史を知るための講演会やパネル展もあり、ブラジルを知るよい機会になったようだ。
ニッケイ新聞 2013年11月30日 福島県人会(永山八郎会長)は24日、同会館で『第5回喜多方ラーメン祭り』を開き、約250食を売り上げるほどの盛況ぶりを見せた。 特製醤油スープは、事務局長の曽我部威さんが手がけた。2011年から今年4月まで2年間JICAシニアボランティアとして滞在した武藤啓一・元喜多方市役所産業部マーケティング部長からの直伝の味だ。「『背中を見て覚えろ』という人で、順序立てて教えてもらったものではない。まだまだ試行錯誤」と曽我部さんは謙遜するが、会場からは「スープが美味い!」との声が多々聞かれた。 グアルーリョス市の製麺所「ミツバ」から取り寄せた太めのちぢれ麺、曽我部さんが中華料理屋巡りをする中で見つけたモジ市のメンマ、手作りのチャーシューなど具材にもこだわる。配膳や盛り付けは青年部メンバー約15人が担当した。 毎年参加するという伊下初美さん(69、福島)は、「来る度に良くなっている。スープに深みがある」と満足げな様子。友人らと来場した安田奈緒美さん(76、福島)も「量も十分で美味しい。良いイベントだね」と笑顔を見せていた。
文協、援協、県連、日文連、熟ク連共催の天皇誕生日祝賀会が、12月5日午前9時からサンパウロ市リベルダーデ区文協ビル9階の移民史料館(Rua Sao Joaquim, 381)で開催される。 2013年11月29日付
ドミニカでの公式行事を終えた一行は、リラックス気分でサント・ドミンゴ市から東に約50キロの地点にあるカリブ海沿岸のリゾート地ボッカ・チッカにある「HAMACA」ホテルに到着。 同ホテル内では、客であることを示す黄色いバンドを手首に巻いてもらうと、ソフトドリンクだけでなくアルコール類も飲み放題のシステムとなっていたのがうれしかった。早速、ホテル内のレストランで昼食を取った後、ホテルに面するカリブの海岸を見て回る。透き通った海の色がリゾート気分を盛り立てる。暑い日差しの中でホテルのプールに入りながら、ビールを飲むことができる幸せをかみ締めた。 今回の旅の感想などを参加者に聞いてみる。 ミナス・ジェライス州でのコーヒー生産販売で有名な下坂匡(ただし)さん(76、福島)は、ドミニカに移住する予定だったという。 下坂さんの父親は戦中、軍隊で中国に4年間滞在し、日本に帰国後は福島県の開拓団に入った。その後、相馬市内の農村品評会の養豚の部で農林水産大臣賞を受賞したことが改めて海外に目を向けるきっかけになった。 「その時に父親は、『自分一代でこれほどまでになったんだから、どうせなら日本人の居ない所で農業をやりたい』と、1955年にドミニカ移民の第1次募集に応募したのです。しかし、そのころは募集者が多く福島県庁からは『ドミニカに行くには数年後になります。ブラジルだったらすぐに行けますよ』と言われて55年12月30日に『あめりか丸』で神戸港を出港しました」と当時18歳だった下坂さんは、家族ら8人でブラジルに渡った経緯を教えてくれた。 「本当は(アグアネグラ移住地で1人で農業を続けている)田畑(初)さんに会いたかったんですよ」と語る下坂さんは、今回のドミニカ旅行について「日本人の移住地によって条件の良い所と悪い所が甚だしく、ドミニカ移住の条件が厳しいことを知りました。また、現在のドミニカの日系社会が裁判問題などで二つに分かれていることも聞かされましたが、ブラジルの(戦後の)『勝ち負け抗争』のように感じますね」と話す。 また、ミナス・ジェライス州サンゴタルド市から夫婦で参加したコチア青年2次10回生の田中義文さん(73、島根)は、「ドミニカの移住のシステムがブラジルとは違い、荒地に入植して残った皆さんが努力されていることには感心しました。しかし、小さな日系社会でバラバラになっているのは、もったいない気がします」と率直な感想を語る。 この日の夜、ホテルで夕食を取っていると、ハラバコア移住地に住む日高武昭さんの長女である日高恵美子さん(41、2世)が本橋幹久団長を訪ねて来た。恵美子さんは現在、サント・ドミンゴ市内にあるドミニカ中央銀行に勤めており、本橋さんの子息の健さん(39)とは95年から2年間、JICA研修で日本に行った時の同期だという。 恵美子さんにドミニカの日系社会が分裂していることについて聞いたところ、「親たちは一生懸命にやってきたし、それぞれの時代を生きてきた人たちの思いを私たちがどうのこうのとは言えない。しかし、自分たちの時代には一つにまとまりたい」との答えが返ってきた。 翌日、一行はドミニカでのそれぞれの思いを胸に、ブラジルへと戻った。(おわり、松本浩治記者) 2013年11月29日付
コンスタンサ移住地からサント・ドミンゴ市内に戻った一行は、またもや中華レストランで夕食を取ることに。料理はバイキング方式で、アルコール類以外のソフトドリンクとともに自由にお代わりできるのがうれしい。 一緒のテーブルに座った浜口洋さん(69、三重)は、ふるさと巡り旅行に既に十数回以上参加しているというベテラン。工業移住者としてブラジルの通信関係会社などで働いてきた同氏は、「今までブラジル社会にずっと居たので、コロニア(日系社会)のことを知りたいと思った」と、そのきっかけを話す。 また、コチア青年1次15回生の神林義明さん(77、長野)は趣味で短歌を行っており、コンスタンサ移住地で同じく歌を作っている有山ムツ子さん(86、鹿児島)に出会えたことが一番の収穫だったという。 「有山さんには、一人で寂しいならいくつでもいいから(ブラジル短歌同人誌の)『椰子樹』に送ってほしいと言いました」と国は違っても同じ文芸仲間であることを喜んでいた。 ◎ ◎ 5日目、4日間泊まったサント・ドミンゴ市内の「バルセロ・サント・ドミンゴ」ホテルをチェックアウトして、午前8時に出発。同市内にある日本人開拓者が眠る慰霊碑を参拝することに。 午前9時、「クリスト・レデントール」という大型バスごと乗り入れることができるほどの大きな墓地に到着。慰霊碑参拝は、ドミニカ日系人協会が主催し、嶽釜徹会長らが一行を迎えてくれたほか、2日目のサント・ドミンゴ市での夕食懇談会に出席できなかった佐藤宗一日本国大使が朝からの炎天下で汗がしたたり落ちる暑さの中、黒い背広を着て出席した。 2010年10月に着任して既に3年がたつという佐藤大使は一行に気さくに声を掛け、聞けば前日の夜に日本から戻ってきたばかりだという。 真っ白な慰霊碑には、「慰霊碑」と書かれた塔の左横に日本海外移住家族会連合会会長で文部大臣だった田中龍夫氏(故人)の名前も記されている。また、その中には、人が10人ほど入れる礼拝堂があり、1956年からの物故者の名碑が霊前に置かれていた。 嶽釜会長と本橋幹久団長が霊前に合掌し、続いて参加者が焼香した。 嶽釜会長は慰霊祭のあいさつで、同慰霊碑が80年代後半に建立されたことを説明。慰霊碑には現在、167人の移住者と6人のJICA関係者を合わせた計173人の御霊(みたま)が眠っているという。 慰霊祭は当初、7月29日の第1回移民入植記念日に合わせて法要が行われる予定だったが、ブラジルと同じ11月2日の「死者の日(お盆)」に合わせて慰霊 祭を実施しているとし、その際はドミカ全国の日本人及び日系人たちが一堂に会する。今回、ふるさと巡り一行が訪問したため、特別にこの日に慰霊祭のスケ ジュールを入れてもらったそうだ。 嶽釜会長は「今日は暑い中、皆様にご焼香いただき、亡くなった方々も草葉の陰で喜ばれていると思います」と感謝した。 佐藤大使は「遠いところを来ていただき、ありがとうございます。これをきっかけにドミニカで日本人・日系人が頑張っておられることを知っていただき、ブラジルとドミニカで交流が促進されることを期待しております」とあいさつした。 慰霊碑参拝を終えた一行は、カリブ海沿岸のリゾートホテルを目指し、バスに乗った。(つづく、松本浩治記者)...
本橋幹久団長が、脇輝亀会長、佐藤康樹副会長に県連のDVDなどを手渡した後、脇会長の音頭で乾杯が行われ、一行は同地婦人たちが前日から準備したという手作り料理を含めた昼食を呼ばれる。 その間、会館の壁に張られていたドミニカに渡る前に神戸市で撮影した当時の写真を熱心に見つめていたのは、1956年当時4歳で入植し、9歳までコンスタンサ移住地で暮らした経験を持つサンパウロ市在住の山上桃代さん(60、鹿児島)。「小さいころは大きなユーカリの木が並んでいたのを覚えているのですが、今は少し風景が変わったみたい」と51年ぶりに訪問したコンスタンサの印象を話した。 取材が一段落して、昼食を取りに一行の列に並ぶと、玉子焼き、赤飯やおにぎりなどの手作り料理が机いっぱいに並べられた部屋では婦人たちがユーカリの小枝を手にハエを追い払ってくれていたのには頭が下がった。この時期は季節の変わり目で、今年は特にハエが多いという。 昼食を食べ終え、地元の人たちが用意してくれたドミニカ産のビール「プレジデンテ」を飲みながら一息付いていると、コンスタンサ市役所で環境教育を行っているというJICA派遣青年海外協力隊の横竹歩(よこたけ・あゆみ)さん(27、広島)を紹介された。 元々は広島市の高校で英語の非常勤講師をしていたという横竹さんは、同市役所に派遣されてまだ約3カ月。同市のコミュニティーや小学校などを対象に、新聞紙のリサイクルや生ごみからコンポスト(堆肥)を作る指導などを行っているという。 午後2時20分、一行は恒例の「ふるさと」を合唱後、会館前で全員で記念撮影を行った。その後、会館から約200~300メートルのところに入植当時の家屋が残っているとして、一行は会館前の土道を全員でてくてく歩いていった。 既にドミニカ人が住んでいる入植当時の家屋は壁も屋根もスレートの波板で覆われており、奥行きが長くどことなくトレーラー・ハウスのように見える。 「私、まさにこの家に住んでいたんですよ」と懐かしそうに話すのは前出の大村順子さん(63、鹿児島)だ。土道を右折し奥まった場所にある家屋は同じくスレートの波板に白いペンキが塗られ、現在は誰も住んでいないのか、扉は閉め切られてあった。 「7年間、ここに住みましたが、当時から電気は入っていましたね」 51年ぶりに同地を訪問した大村さんだが、8年前に84歳で亡くなった父親の村田哲(とおる)さんたち両親はブラジルに再移住してからも「ここが第2の古里」として過去に2回訪問していたという。 一行はコンスタンサ移住地の人々に別れを告げ、午後3時に移住地を出発。再び急斜面を上り下りし、サント・ドミンゴ市内へと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月27日付
