06/03/2026

Ano: 2013

若い世代の参加少なく縮小傾向に  サンパウロ市の地下鉄ビラ・マリアーナ駅から程近く立地条件が良いことから、主に週末にカラオケ団体の大会会場などとして貸し出ししている大阪なにわ会館が、再来年の2015年以降にブラジルの大手銀行など第三者にそっくり賃貸する考えのあることが、このほど明らかになった。大阪なにわ会(下平尾哲男会長)では「会館の売却は行わない」としているものの、今後の活動運営資金の効率的捻出を目的に同会館を貸し出すことを今年8月31日の臨時総会で決定している。会員の高齢化と会への若い世代の参加が少ない中、同会の縮小は避けられず現実路線を歩む考えだ。  1965年に発足し、再来年に創立50周年を迎える大阪なにわ会。長年にわたってカラオケ団体など週末に会場を貸し出してきているが、今年8月31日に臨時総会を開催。「今後の会館をどのように使用・運営していくか」というテーマで約50人の会員が出席した中、会館の第三者への賃貸を賛成多数で決定した。  今後は下平尾会長が個人的に所有する会館近くの住居をなにわ会の事務所として改装した後、会の活動拠点を同事務所に移転して使用する考えだ。現在の会館は15年以降に正式に第三者に賃貸される予定だが、来年いっぱいはこれまで通りカラオケ団体などに貸し出されるという。  今回の決定について山本剛介副会長は「会館創設当時の役員の方々が苦労して建てた会館なので、売却は考えていませんが、再来年から大手銀行か何かに貸し出ししようと思っています」と話す。  同会館は82年、大阪府からの補助金などを受け、下平尾数行初代会長らが資金集めに奔走して同会が所有する会館として完成した。74年には府費留学生、92年には技術研修生制度がそれぞれ開始されたが、府の財政難問題などから2000年と02年に相次いで廃止され、補助金も同時期に打ち切られている。  「会館の場所が良いために財政的には困っていませんが、大阪府への留学生・研修生制度も補助金も無くなったし、若い世代の会への参加が少ない中で、もう少し会館を有効活用したほうがいいという声が大きくなりました」と山本副会長は会館賃貸に至った経緯を説明する。  さらに、15年の創立50周年記念式典への大阪府からの慶祝団来伯出席について以前から大阪府庁側などと手紙やメール等でやりとりし、山本副会長が昨年個人的に一時帰国した際に府庁と大阪市を表敬訪問したが、知事、市長ともに面会できなかったという。そうした状況で、なにわ会側が創立50周年に府知事一行にブラジルまで来てもらうことは難しいと感じていることも会館賃貸に拍車を掛けたようだ。  現在、同会では新年会には会員約100人が出席するものの、その他のイベントには「実質的に集まるのは50人くらい。若い世代が少なく会員も皆高齢となり、亡くなっている人も多い」のが実情だ。  婦人部による年3回の慈善バザーやカラオケなど今後の活動については「新しい事務所にはサーラ(応接間)もあるので、カラオケ大会はできないが、カラオケの練習やちょっとしたイベントには使える」(山本副会長)そうだが、会員が高齢化する中で今後、会が縮小していくことは否めない状況だ。   コラム【モザイク】  大阪なにわ会館が再来年から第三者にそっくり賃貸されると聞いて、いくら立派な会館があっても会員たちが高齢化して亡くなっていき、若い世代が継承できずに十分に使えないのでは意味がないと感じた。まあ、不動産を子孫に残すという意味では将来を見据えているのかもしれないが、「児孫のために美田を買わず」のことわざもある。各県人会にとっても他人事ではない話。会館問題も含めて今後の県人会がどうあるべきか。日本祭りの話題に振り回されるだけでなく、県連の代表者会議などでも話し合う機会はないものでしょうか。 2013年12月4日付
 平成25年度兵庫県若手地域農業リーダー海外派遣団(佐藤彰浩団長)13人が11月15日~26日、パラナ州を中心に滞在し、日系人との親睦や現地学生との交流、農業視察といったさまざまな研修を行った。  同事業は今年で36回目を数え、今年度の13人を合わせると累計で505人となった。今年度は同県立農業大学校1人、同県立農業高校2人、篠山東雲高校1人、但馬農業高校2人、播磨農業高校2人、有馬高校2人、氷上高校1人の学生が参加した。  ブラジル滞在中、一行はサンパウロ(聖)州マリリア市で日系コーヒー園、牧場、養鶏場、ゴム園等を視察。パラナ州アプカラーナ市で地元高校生との交流後、マリンガ市で日系人宅にホームステイしながら同市役所・大学訪問や駒形農場を見学。そのほか、クリチバ市やイグアスの滝の観光地の視察等を行った。  25日午後7時には、聖市リベルダーデ区のニッケイパレスホテル内レストランで兵庫県人会(尾西貞夫会長)役員との懇談会が行われた。あいさつで尾西会長が2015年に同県人会創立55年記念事業、パラナ州と兵庫県の姉妹都市提携45周年を記念した行事と記念誌を発行することを提案し、「日本に帰ったら今までの派遣団にもお手伝いしてもらえるように伝えてほしい」と協力を呼び掛けた。  また同県農政環境部農政企画局農業経営課経営構造係の係長で団長を務めた佐藤氏は「景気が悪く県の予算も削られているが、この研修については一切削られず充実した研修となっている」と県側の事情を説明した。その後、派遣団が自己紹介し、県人会役員らと食事を取りながら交流を楽しんでいた。  「ブラジルのジャングルに自生しているような変わった花を品種改良したい」と目標を語る有馬高校2年の山下舞さん(16)は初めての海外。印象に残った出来事について「アプカラーナの高校生との交流は言葉が通じなくて大変だったけど、楽しかった」と目を輝かせながら取材に答えた。  実家が酒米農家で農業大学2年の西山貴之さん(20)は「畑、農機とにかく規模が大きかった。ホームステイではお世話になった日系人から、今の日本にはない日本文化を学んだ」と研修を振り返った。  一行は26日にブラジルをたちアメリカでの研修後、30日に帰途に就いた。 2013年12月4日付
 大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は、8日午前9時からサンパウロ市ビラ・マリアーナ区の同会館(Rua Domingos de Morais, 1581)で第76回慈善バザーを開催する。  当日は、同会婦人部員が作るレース編やふきんなどの手芸品をはじめ、プレゼント用品や中古衣料品、協賛業者の出品物などが販売される。また食堂では、なにわうどん、すし、天ぷら、おしるこなどの日本食も販売される。  来社した婦人部役員の久保美恵子さん、高瀬千秋さん、桑原妙子さんは「レース編や刺しゅう製品はクリスマスプレゼントにぴったり。ぜひ来てください」と来場を呼び掛けた。  入場無料。問い合わせは同会(電話11・5549・7226)まで。 2013年12月4日付
 在伯青森県人会(玉城道子会長)は、2014年度技術研修員を募集している。研修期間は2014年6月から2015年1月までで、応募資格は18歳から40歳までの青森県出身者子弟。ただし、現在就業している人に限り、学生は応募不可。  応募についての詳細や問い合わせは同県人会(電話11・3207・1599)まで。なお、応募締め切りは10日まで。 2013年12月3日付
ニッケイ新聞 2013年11月30日  【既報関連】ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の代表者会議が28日に文協ビル会議室で開かれ、『第17回県連日本祭』開催決定の経緯などに関する報告が行われた。  執行部は同祭における収入を221万800レ、経費を245万9300レと試算。赤字予想を24万8500レとし、当初から目標としていた「赤字25万レ以内」を達成出来るとした。園田会長によればこの試算には、安部順二連邦下議が進めている議員割り当て金による協力(約10万レ)は含まれておらず、「新規スポンサー探しなど、努力次第でさらに赤字は減らせる」と意気込んでいる。  また各県人会のブース出店経費を、従来の1500レから2千レとする提案が行われ、賛成多数で承認されたほか、同祭のテーマが「三方良し」となったことが発表された。役員らによれば「近江商人の言葉で三方とは『売り手、買い手、世間』のこと。主催者、参加者皆が楽しめて、社会のためにもなるイベントを目指す」との意味がこめられているという。   コラム【大耳小耳】  県連の園田会長によれば、来年も日本祭の夜を彩る「提灯」の販売を行う。一口50レアルで、会場中央の広場に購入者の名前入りの提灯が飾られる。今年度は企業の大口購入もあわせ、950個が販売された。資金面での苦境に立つ日本祭、個人でも協力の意思のある方はぜひ県連事務局(11・3277・8569)まで。 ◎  岐阜県人ブラジル移住100周年記念事業の一環として、「岐阜・ブラジル交流ウィーク」が19日から10日間催された。音楽コンサートには、聖州出身で各務原市在住の斉藤マルコスさん(45)、ルイザさん(46)夫妻が中心のグループ「ジラソウ」や、ブラジル人学校「HIRO学園」(大垣市)による演目が行われた。両地の関係性や歴史を知るための講演会やパネル展もあり、ブラジルを知るよい機会になったようだ。
ニッケイ新聞 2013年11月30日  福島県人会(永山八郎会長)は24日、同会館で『第5回喜多方ラーメン祭り』を開き、約250食を売り上げるほどの盛況ぶりを見せた。  特製醤油スープは、事務局長の曽我部威さんが手がけた。2011年から今年4月まで2年間JICAシニアボランティアとして滞在した武藤啓一・元喜多方市役所産業部マーケティング部長からの直伝の味だ。「『背中を見て覚えろ』という人で、順序立てて教えてもらったものではない。まだまだ試行錯誤」と曽我部さんは謙遜するが、会場からは「スープが美味い!」との声が多々聞かれた。  グアルーリョス市の製麺所「ミツバ」から取り寄せた太めのちぢれ麺、曽我部さんが中華料理屋巡りをする中で見つけたモジ市のメンマ、手作りのチャーシューなど具材にもこだわる。配膳や盛り付けは青年部メンバー約15人が担当した。  毎年参加するという伊下初美さん(69、福島)は、「来る度に良くなっている。スープに深みがある」と満足げな様子。友人らと来場した安田奈緒美さん(76、福島)も「量も十分で美味しい。良いイベントだね」と笑顔を見せていた。
ドミニカでの公式行事を終えた一行は、リラックス気分でサント・ドミンゴ市から東に約50キロの地点にあるカリブ海沿岸のリゾート地ボッカ・チッカにある「HAMACA」ホテルに到着。 同ホテル内では、客であることを示す黄色いバンドを手首に巻いてもらうと、ソフトドリンクだけでなくアルコール類も飲み放題のシステムとなっていたのがうれしかった。早速、ホテル内のレストランで昼食を取った後、ホテルに面するカリブの海岸を見て回る。透き通った海の色がリゾート気分を盛り立てる。暑い日差しの中でホテルのプールに入りながら、ビールを飲むことができる幸せをかみ締めた。 今回の旅の感想などを参加者に聞いてみる。 ミナス・ジェライス州でのコーヒー生産販売で有名な下坂匡(ただし)さん(76、福島)は、ドミニカに移住する予定だったという。 下坂さんの父親は戦中、軍隊で中国に4年間滞在し、日本に帰国後は福島県の開拓団に入った。その後、相馬市内の農村品評会の養豚の部で農林水産大臣賞を受賞したことが改めて海外に目を向けるきっかけになった。 「その時に父親は、『自分一代でこれほどまでになったんだから、どうせなら日本人の居ない所で農業をやりたい』と、1955年にドミニカ移民の第1次募集に応募したのです。しかし、そのころは募集者が多く福島県庁からは『ドミニカに行くには数年後になります。ブラジルだったらすぐに行けますよ』と言われて55年12月30日に『あめりか丸』で神戸港を出港しました」と当時18歳だった下坂さんは、家族ら8人でブラジルに渡った経緯を教えてくれた。 「本当は(アグアネグラ移住地で1人で農業を続けている)田畑(初)さんに会いたかったんですよ」と語る下坂さんは、今回のドミニカ旅行について「日本人の移住地によって条件の良い所と悪い所が甚だしく、ドミニカ移住の条件が厳しいことを知りました。また、現在のドミニカの日系社会が裁判問題などで二つに分かれていることも聞かされましたが、ブラジルの(戦後の)『勝ち負け抗争』のように感じますね」と話す。 また、ミナス・ジェライス州サンゴタルド市から夫婦で参加したコチア青年2次10回生の田中義文さん(73、島根)は、「ドミニカの移住のシステムがブラジルとは違い、荒地に入植して残った皆さんが努力されていることには感心しました。しかし、小さな日系社会でバラバラになっているのは、もったいない気がします」と率直な感想を語る。 この日の夜、ホテルで夕食を取っていると、ハラバコア移住地に住む日高武昭さんの長女である日高恵美子さん(41、2世)が本橋幹久団長を訪ねて来た。恵美子さんは現在、サント・ドミンゴ市内にあるドミニカ中央銀行に勤めており、本橋さんの子息の健さん(39)とは95年から2年間、JICA研修で日本に行った時の同期だという。 恵美子さんにドミニカの日系社会が分裂していることについて聞いたところ、「親たちは一生懸命にやってきたし、それぞれの時代を生きてきた人たちの思いを私たちがどうのこうのとは言えない。しかし、自分たちの時代には一つにまとまりたい」との答えが返ってきた。 翌日、一行はドミニカでのそれぞれの思いを胸に、ブラジルへと戻った。(おわり、松本浩治記者) 2013年11月29日付
コンスタンサ移住地からサント・ドミンゴ市内に戻った一行は、またもや中華レストランで夕食を取ることに。料理はバイキング方式で、アルコール類以外のソフトドリンクとともに自由にお代わりできるのがうれしい。 一緒のテーブルに座った浜口洋さん(69、三重)は、ふるさと巡り旅行に既に十数回以上参加しているというベテラン。工業移住者としてブラジルの通信関係会社などで働いてきた同氏は、「今までブラジル社会にずっと居たので、コロニア(日系社会)のことを知りたいと思った」と、そのきっかけを話す。 また、コチア青年1次15回生の神林義明さん(77、長野)は趣味で短歌を行っており、コンスタンサ移住地で同じく歌を作っている有山ムツ子さん(86、鹿児島)に出会えたことが一番の収穫だったという。 「有山さんには、一人で寂しいならいくつでもいいから(ブラジル短歌同人誌の)『椰子樹』に送ってほしいと言いました」と国は違っても同じ文芸仲間であることを喜んでいた。 ◎   ◎ 5日目、4日間泊まったサント・ドミンゴ市内の「バルセロ・サント・ドミンゴ」ホテルをチェックアウトして、午前8時に出発。同市内にある日本人開拓者が眠る慰霊碑を参拝することに。 午前9時、「クリスト・レデントール」という大型バスごと乗り入れることができるほどの大きな墓地に到着。慰霊碑参拝は、ドミニカ日系人協会が主催し、嶽釜徹会長らが一行を迎えてくれたほか、2日目のサント・ドミンゴ市での夕食懇談会に出席できなかった佐藤宗一日本国大使が朝からの炎天下で汗がしたたり落ちる暑さの中、黒い背広を着て出席した。 2010年10月に着任して既に3年がたつという佐藤大使は一行に気さくに声を掛け、聞けば前日の夜に日本から戻ってきたばかりだという。 真っ白な慰霊碑には、「慰霊碑」と書かれた塔の左横に日本海外移住家族会連合会会長で文部大臣だった田中龍夫氏(故人)の名前も記されている。また、その中には、人が10人ほど入れる礼拝堂があり、1956年からの物故者の名碑が霊前に置かれていた。 嶽釜会長と本橋幹久団長が霊前に合掌し、続いて参加者が焼香した。 嶽釜会長は慰霊祭のあいさつで、同慰霊碑が80年代後半に建立されたことを説明。慰霊碑には現在、167人の移住者と6人のJICA関係者を合わせた計173人の御霊(みたま)が眠っているという。 慰霊祭は当初、7月29日の第1回移民入植記念日に合わせて法要が行われる予定だったが、ブラジルと同じ11月2日の「死者の日(お盆)」に合わせて慰霊 祭を実施しているとし、その際はドミカ全国の日本人及び日系人たちが一堂に会する。今回、ふるさと巡り一行が訪問したため、特別にこの日に慰霊祭のスケ ジュールを入れてもらったそうだ。 嶽釜会長は「今日は暑い中、皆様にご焼香いただき、亡くなった方々も草葉の陰で喜ばれていると思います」と感謝した。 佐藤大使は「遠いところを来ていただき、ありがとうございます。これをきっかけにドミニカで日本人・日系人が頑張っておられることを知っていただき、ブラジルとドミニカで交流が促進されることを期待しております」とあいさつした。 慰霊碑参拝を終えた一行は、カリブ海沿岸のリゾートホテルを目指し、バスに乗った。(つづく、松本浩治記者)...
本橋幹久団長が、脇輝亀会長、佐藤康樹副会長に県連のDVDなどを手渡した後、脇会長の音頭で乾杯が行われ、一行は同地婦人たちが前日から準備したという手作り料理を含めた昼食を呼ばれる。 その間、会館の壁に張られていたドミニカに渡る前に神戸市で撮影した当時の写真を熱心に見つめていたのは、1956年当時4歳で入植し、9歳までコンスタンサ移住地で暮らした経験を持つサンパウロ市在住の山上桃代さん(60、鹿児島)。「小さいころは大きなユーカリの木が並んでいたのを覚えているのですが、今は少し風景が変わったみたい」と51年ぶりに訪問したコンスタンサの印象を話した。 取材が一段落して、昼食を取りに一行の列に並ぶと、玉子焼き、赤飯やおにぎりなどの手作り料理が机いっぱいに並べられた部屋では婦人たちがユーカリの小枝を手にハエを追い払ってくれていたのには頭が下がった。この時期は季節の変わり目で、今年は特にハエが多いという。 昼食を食べ終え、地元の人たちが用意してくれたドミニカ産のビール「プレジデンテ」を飲みながら一息付いていると、コンスタンサ市役所で環境教育を行っているというJICA派遣青年海外協力隊の横竹歩(よこたけ・あゆみ)さん(27、広島)を紹介された。 元々は広島市の高校で英語の非常勤講師をしていたという横竹さんは、同市役所に派遣されてまだ約3カ月。同市のコミュニティーや小学校などを対象に、新聞紙のリサイクルや生ごみからコンポスト(堆肥)を作る指導などを行っているという。 午後2時20分、一行は恒例の「ふるさと」を合唱後、会館前で全員で記念撮影を行った。その後、会館から約200~300メートルのところに入植当時の家屋が残っているとして、一行は会館前の土道を全員でてくてく歩いていった。 既にドミニカ人が住んでいる入植当時の家屋は壁も屋根もスレートの波板で覆われており、奥行きが長くどことなくトレーラー・ハウスのように見える。 「私、まさにこの家に住んでいたんですよ」と懐かしそうに話すのは前出の大村順子さん(63、鹿児島)だ。土道を右折し奥まった場所にある家屋は同じくスレートの波板に白いペンキが塗られ、現在は誰も住んでいないのか、扉は閉め切られてあった。 「7年間、ここに住みましたが、当時から電気は入っていましたね」 51年ぶりに同地を訪問した大村さんだが、8年前に84歳で亡くなった父親の村田哲(とおる)さんたち両親はブラジルに再移住してからも「ここが第2の古里」として過去に2回訪問していたという。 一行はコンスタンサ移住地の人々に別れを告げ、午後3時に移住地を出発。再び急斜面を上り下りし、サント・ドミンゴ市内へと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月27日付
 来年、県人会創立60周年を迎える在伯和歌山県人会連合会(木原好規会長)が4月に記念式典を開催するのに合わせて、母県から歓迎慶祝団約50人が来伯し、式典の参加を中心に松原移住地(マット・グロッソ・ド・スル州ドウラードス)訪問やサンパウロ(聖)市でプロモーション活動を行う。  慶祝団のブラジル訪問に先立ち、事前視察と打ち合わせのため16~22日、同県企画部企画政策局文化国際課の山田啓之主査(38)が来伯。21日、木原会長の案内で本紙を訪れ慶祝団のブラジルでの日程を説明した。  山田主査によると慶祝団は来年4月24~28日、ブラジルに滞在する。団長は仁坂吉伸県知事で県関係者約20人、一般が約30人が参加して4月27日に北海道協会会館(予定)で開催される式典に出席する。  また24~25日に県知事として初めて松原移住地を訪問し、県人との交流や州知事・市長との懇談を予定している。現在同地域には100家族ほどの県出身移住者が在住。移住地では県をはじめ和歌山県中南米交流協会、和歌山大学等を通じて人材交流やホームステイなどが行われており、訪問については仁坂知事も「楽しみにしている」という。  さらに式典翌日の28日には聖市内のホテル会場(場所未定)で母県の観光や特産品を紹介するプロモーション(宣伝)活動を行い、仁坂知事自らトップセールスする。民間企業の参加については今後、企業を集う予定だ。 2013年11月28日付
ブラジル熊本県文化交流協会創立55周年記念式典に出席するため来伯した熊本県の小野泰輔副知事、藤川隆夫県議会議長ら議員団一行約10人と熊本県子弟の飯星ワルテル連邦下院議員の会見が、9日午後4時からサンパウロ市内ホテルで行われた。 コチア青年1次3回で来伯した故飯星研(みがく)氏の子息である飯星下議は、来年のブラジルでの統一選挙が行われる「10月4日が一番大事な日です」と述べ、今年4月に日本を訪問し、日伯議員連盟会長の麻生太郎氏と会ったことなどを説明した。 熊本議員側からはブラジルの選挙システムや議席数などの質問があったほか、来年迎えるサッカー・ワールドカップでのインフラ整備不足やBRICSの中でブラジル経済が下降していることなどの指摘があった。 これらについて飯星下議は「一番の課題はインフラ整備だが可能な限り調整できると思う。またブラジルはイメージ的には後退しているが、そんなに悪いわけではなく、中流層の台頭による消費力強化を促進し、永続的な発展を目指したい」と答えた。 一方、今年4月に飯星下議が訪日した際、日本政府側から1000社の中小企業を海外に進出させたいとの要望があったとし、同下議から熊本県からの企業進出を促す声もあった。 今回の来伯で、観光誘致アピールや熊本県からの企業進出などの具体的な動きがないかとの本紙の質問に対し、小野副知事は「今回の訪問は県人会の式典の祝いとして友情を深めることがメーン。経済交流はアジア諸国とは行っているが、南米は距離的に遠い。県への観光誘致よりも海外への企業進出の可能性が高い」と述べた。 2013年11月27日付
ニッケイ新聞 2013年11月26日  在聖日本国総領事館(福嶌教輝総領事)は7日、聖市モルンビー地区の総領事公邸で「平成25年度在外公館長表彰伝達・祝賀式」を行った。ブラジル日系熟年クラブ連合会会長の五十嵐司(88、東京)、サンパウロ日伯援護協会理事の具志堅茂信(72、沖縄)、ブラジル日本商工会議所事務局長の平田藤義(68、鹿児島)の3氏に、家族知人ら見守る中、福嶌総領事から表彰状が授与された。  五十嵐氏は挨拶の中で、第2次大戦中に科学を勉強しているという理由で、徴兵延期の恩典を受ける最中に終戦した過去に触れ、「戦場でなくなった友人、日本への貢献が出来なかったこと。戦後の焼け跡が残る祖国の再建半ばで、新天地ブラジルにやってきたこと。それらの念がいつまでも心に残り、日本に奉仕したいという思いが強くあった」と明かし、「高齢者に活気のある生活を送ってほしいと思い、老人クラブに尽してきた。活気ある高齢者の生活を支援していきたい」と語った。  援協に27年間勤続し、82年からは事務局長にも就任した具志堅氏は「当初は2、3年で辞めるつもりだった」と笑いを誘ったがが、「日系社会において社会福祉、医療活動が必要とされていると感じ始め、長く携わってきた。高齢化が進み、身寄りのない未婚者も増えている。生きがいを見つける手助けをしたい」と話した。  商議所事務局長の平田氏は97年、ROHM(ローム電子工業)社長として撤退を経験したこともあり、「受賞の知らせを聞いて返答に困った。人生を振り返って考えても、驚きと複雑な思いがある」といった心境を吐露した。「企業撤退で多くの人間の人生を犠牲にしたが、せめてその失敗例が若い世代に役立つといい。天国と地獄を味わった経験を後世に伝える使命がある」と語った。来賓には日系5団体代表者も駆けつけ、3氏を祝福した。他公館ではあったが、在聖総領事館では珍しい。
ニッケイ新聞 2013年11月26日  和歌山県人会(木原好規会長)の創立60周年記念式典が来年4月に開催されるにあたり、事前視察と調整のために県庁から山田啓之・企画部企画政策局文化国際課主査が16日に来伯した。  知事と一緒の慶祝団としては初の訪問が予定されている南麻州ドウラードスの県人会支部のほか、多くの県人が移住した同地の松原、クルパイの両植民地などを視察し、関係者との話し合いを行った。  4月27日を予定する式典への出席は、仁坂吉伸知事はじめ官民から計50人程度が予想され、慶祝団の人数としては過去最多(山田主査談)になりそうだ。県産品を取り扱う地場企業の関係者らもメンバーに加わり、式典の翌日には特産品宣伝の時間も設けられる。  21日に木原会長とともに来社した山田主査は「国外にいても、県人であることに変わりはない。こういった交流は非常に重要で、今後とも永く継続させたい」と話すとともに「55周年式典も事前の視察には来られたが、式典には出席出来なかった。今度こそ念願が叶えられそう」と笑顔を見せていた。   コラム【大耳小耳】  県人会の60周年記念式典に過去最高となる50人規模の慶祝団訪伯を見込む和歌山県。55周年時の27人から大幅に増えた要因を山田啓之主査に尋ねると、「県中南米交流協会」という団体の貢献が大きいとのこと。過去に南米への移住を検討した経験のある人たちを中心に2007年に発足、移民史に関心のある大学教授なども巻き込み、ブラジル文化の紹介やJICA研修生の受け入れなど、積極的な活動を行っている。現在の会員は約100人。県との関係の希薄化に悩む県人会もある中、このような新たな形での関係発展は興味深い。 ◎  和歌山県の観光をPRする山田主査によれば、2004年に世界遺産として登録された熊野古道や、霊山として名高い高野山を訪れる外国人観光客は年々増加しており、「日によっては見かける人の半分以上が外国人」なのだとか。フランスなどのヨーロッパ系が中心だというが、四国のお遍路が密かな流行になりつつあるブラジルにも、近く「熊野古道ブーム」が訪れる!?
ニッケイ新聞 2013年11月26日  【既報関連】開催が危ぶまれていた来年の『県連日本祭』の実施が正式に決定した。会場は従来どおり聖市イミグランテス展示場となり、25日に正式な契約書類への署名が行われた。本紙の複数の関係者への取材により明らかになった。会場の基本使用料等のさらなる割引は適用されなかったものの、不透明な状態となっていた議員割り当て金の受け取りの見通しが立ったことが決定打となった。県連の園田昭憲会長は「まだまだ厳しい状態なのは間違いないが、コロニア最大の事業をそう簡単に止めるわけにはいかない」と力を込めた。  最大の懸念となっていた会場の使用料は、90万レアルから割引された「58万レアル」(1日あたり12時間、11日間の賃料)で決着した。準備・片付け等で超過使用が見込まれる22時間分(11万レ相当)に関しては「免除」との条件で話がまとまった。 それに加え、西本エリオ聖州議らの協力で議員割り当て金受け取りの見通しが立ったことで、当初目標に掲げていた「赤字25万レ以内」の達成の目処がついた。 市川利雄・同祭副実行委員長によれば「10~12万程度の議員割り当て金を期待している」という。イミグランテス側との仮契約、頭金の振込みは今月中旬に済ませ、園田会長が正式な調印を25日に行った。これにより日程は来年7月4、5、6の3日間と正式に決まった。 これで今後の問題の焦点はスポンサー集めに移った。高野ジョルジ副委員長は、「決まった以上、あとは全力を尽くしてやるしかない。商工会議所の昼食会での説明など、進出企業にも積極的にアプローチしていく」と話した。 市川副委員長も「とりあえず来年の開催は決まったが、ずっと赤字ではいずれ止めざるをえなくなる。これを機会に総領事館はじめ、会議所や日本の企業、日系団体などに協力をお願いし、皆が手を合わせないといけない」と語気を強めた。
「新潟県の今、そしてこれから」 本紙と2011年10月から協力協定を結んでいる新潟日報社(高橋道映社長)主催の「新潟日報フェアinサンパウロ」が23、24両日、サンパウロ市アクリマソン区の新潟県人会館で開催された。23日午後1時半からは同社取締役執行役員及び制作統括本部長でもある渡辺隆編集局長(62)が「新潟県の今、そしてこれから」をテーマに講演を行い、雨が降る悪天候の中、県人会員など約30人が出席。柏崎刈羽原発や農業減反問題で揺れる同県の現状に耳を傾けた。 渡辺氏は(1)東京電力の柏崎刈羽原発の動向(2)減反を見直す新潟県の農業(3)Jリーグ昇進10周年を迎えた同県のサッカー・チーム「アルビレックス新潟」などスポーツ関連の主に3点を中心に、新潟日報の記事をパワーポイントで見せながら説明した。 (1)については、1997年7月の同紙の記事で柏崎刈羽原発が世界一の規模になったことが報道。2004年に発生した中越地震、07年の中越沖地震で原発への恐怖が報じられる中、中越沖地震を契機に新潟県巻町で全国で初の住民投票が行われ、住民の6割が原発建設に反対する動きに至った。 04年に就任した泉田裕彦知事は当時、東電関係者に「あなたたちは安心よりもお金なんですね」と東電関係者の訪問を退けたことで原発廃止の旗手になると全国紙にも注目された。しかし、11年3月の東日本大地震による福島第1原発事故後に柏崎刈羽原発全号機がストップしている現状の中で同知事は、来年7月に再稼動させる考えに変化しているという。 渡辺編集局長は「東日本大震災発生後、隣県の福島からは約1万人が新潟に避難したが、2番目に受け入れが多かったのが原発の下請け会社などがある柏崎市だった。(新潟県には)原発の1基や2基が動いてもいいと思っている人もいるのも事実だが、国策が揺れているところで再稼動を地元(新潟)の判断だけに委ねていいのかという疑問はある」と話す。 (2)は、戦後の食糧難を解決するため各地の干拓地を米作地にする事業が国策で行われたが、同事業が終わった途端に泥地を畑作にするという減反政 策が取られた。米余りを防止するために米作農家に国から補助金を出す減反政策からその後、農産物を海外に輸出するTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の 影響で半世紀ぶりに減反が廃止されることをJA(全国農業協同組合中央会)会長が10月下旬に容認したという。 現在新潟県に30ある市町村のうち、14市町村が減反廃止に反対とも賛成とも言えない戸惑いを見せているとし、「国の根幹に触れる政策が新潟で行われている」と渡辺編集局長は、同紙の紙面作りに(1)と(2)の問題が現在、大きな柱になっていることを説明した。 (3)は、これまでレスリング、バスケットボール、バドミントンなど屋内スポーツが「お家芸」だった雪国の新潟県で、野外スポーツであるサッカーで地元の 「アルビレックス新潟」が03年にJリーグに昇進して今年で10年になる記事を紹介。また、高校野球でも地元の日本文理高校が09年の夏の第91回全国高 校野球選手権で準優勝を果たすなど「エポックメーキング(時代を作る)的な出来事」(渡辺編集局長)が増えていることを喜ぶ。 ま た、これまで新潟市郊外にあった新潟日報社が昨年から同市内万代橋付近に20階建ての新社屋が完成したことにも触れた上で、渡辺編集局長は「来年は新潟地 震から50年、中越地震から10年になり、『防災、減災』をテーマに取り組んでいきたい」と述べ、講演を締めくくった。 講演会に参加した小橋節子さん(77、2世)は「原発問題も大変だけど、農業問題もどうなるか心配」と話していた。...
約7割が3年以内に訪日計画 【一部既報】7月に開催された第16回日本祭りに「Visit Japan」プロジェクトの一環として出展参加した日本の観光庁と日本政府観光局(JNTO)は7月19、20両日、同ブースを訪れた来場者を対象に訪日旅行に関するアンケートを実施した。JNTOニューヨーク事務所がこのほど発表した同アンケートの集計結果によると、回答者のうち7割以上が3年以内の訪日計画を立てており、ブラジルにおける訪日旅行需要の高まりが浮かび上がった。JNTOは、同アンケートの結果によってブラジル全体の一般消費者の動向を把握することは困難としながらも、今後の参考に役立てたいとしている。 アンケートの有効回答数は1037で、41・3%の人が日本を訪れたことがあり、そのうちの49・1%が複数回の訪日経験を持つことが明らかになった。主な訪問先は表の通りで、東京、京都、大阪、名古屋といった定番ルートが人気である一方、北海道から沖縄まで各地を訪問していることが分かる。これはリピーターに加え、各地の工場等で就労している親族や友人を訪ねていることが推測される。訪日目的は約20%の「伝統文化」が最も高く、次いで「歴史」「食事」「自然」「ショッピング」が挙げられており、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録も検討されている日本食への関心が目立ったほか、買い物好きなブラジルの国民性が表れる結果となった。 72%が3年以内の訪日計画を有する一方、3年以内に訪れる予定がない人は主な理由として約半数が旅行費用の高さを挙げた。「自然災害」を理由に挙げたのは2・8%にとどまり、東日本大震災の影響はさほど及んでいないことがうかがえる。 旅行先を決める際の情報入手先としては、4人に1人がインターネットを利用していることが分かった。しかしその次に、旅行博及び旅行誌と雑誌がそれぞれ約19%で続いていることから、JNTOニューヨーク事務所の犬石知子次長は「日本祭りのブースで訪日旅行商品パンフレットを提供・販売できれば旅行者の獲得につながるのでは」と期待を示した。 JNTOニューヨーク事務所によると、訪日ブラジル人数は今年上半期、対前年同期比18・2%増と順調に伸びており、来年自国でサッカー・ワールドカップを開催するにあたり外国旅行市場は鈍化するとみられているものの、ブラジル旅行会社からは2013年出発の訪日商品が完売しているといった声も上がっているという。 また、リオに続く東京夏季五輪開催決定によって日本への注目度の高まりが期待できることから、同事務所では旅行会社との情報交換等を通じて観光客誘致に努めたいとの考えを示している。 2013年11月22日付
4日目の10月20日午前7時半、北西に約140キロ1283メートルの標高地にあるコンスタンサ移住地に向かうべくホテルを出発。日曜とあって道は空いている。 途中、前日と同じ場所でトイレ休憩すると、地元のドミニカ人が各地に遊びに行くためかにぎわっていた。 サント・ドミンゴ市から約2時間走ったラ・ベガ市からは山道へと入り、前日よりもさらに急勾配の坂道をバスはエンジン音をうならせて上っていく。午前10時ごろ、峠付近に来た時に記者を乗せた1号車がオーバーヒートし、車体後部から白い煙を吹いて止まった。 コンスタンサでは移住地の人々が待っている。取材のため仕方なく、記者たち数人が2号車に便乗させてもらい、先に現地へと向かった。 山道を下っていくと、視界が開けた。山間に囲まれた平野部に野菜畑と思われる緑が広がる。日本の信州のような懐かしい風景だ。午前11時過ぎにコンスタンサ日系クラブ会館に到着。快晴の青い空の下に映える会館の白さが目にまぶしい。 会館前では、脇輝亀(わき・てるき)会長(58、鹿児島)を先頭に単位家族7家族約30人の会員が出迎えてくれた。脇会長によると、同移住地ではトルコ桔梗(ききょう)、ベニバナなどの花卉(かき)栽培や野菜作りが盛んで、日系子弟は農業に従事している人が多いという。同地への日本人の入植は1956年10月の第1陣に始まり、59年6月までの第4陣まで計35家族220人が入植した。 「順子です。村田順子です」―。サンパウロ市リベルダーデ区の日本食レストラン「千代(せんだい)」のママである大村順子さん(63、鹿児島、旧 姓村田)が有山ムツ子さん(86、鹿児島)に呼び掛けた。有山さんは「うれしい。本当、涙が出る」と村田さんとの51年ぶりの再会を喜んだ。 有山さんの実弟である神前亨(とおる)さん(76、鹿児島)は、男性ではもはや長老格になるという。56年12月30日、第2陣で同地へ。「19歳で入植 したころの(コンスタンサの)人口は3000人ぐらいでしたが、今は8万人が住んでいますよ」と、その発展ぶりを話してくれた。 午前11時40分ごろ、オーバーヒートした1号車も無事到着。会館内に入ると天井が高く、天井からぶら下がった扇風機の風が心地良い。正面の舞台上には富士山と桜の絵が描いてあるのが、いかにも日本人の会館という雰囲気を醸し出している。 舞台下では、「日本ドミニカ友の会」の西尾孝志会長の親戚に当たるという西尾蓉子さん(72、福島)が先亡者たちの遺影を前にして慰霊法要を行い、読経の合間に脇会長、本橋幹久団長らが代表して焼香した。 小学校時代に日本で暮らした経験のあるコンスタンサ日系クラブの佐藤康樹(こうき)副会長(49、2世)が、流暢(りゅうちょう)な日本語で移住地の説明 を行う。それによると、同地は前述のように標高が高く気候が良いことから農業に適しており、入植当初は水不足などに悩まされたもののニンジン、玉ねぎ、 ジャガイモ、にんにくなどの野菜類を栽培し、現在は北米や欧州にピーマン、キュウリ、トマトなども輸出しているという。 佐藤副会 長自身は現在、サント・ドミンゴ市内などでガソリンスタンドを4軒共同経営しており、両親がコンスタンサで農業を行っているそうだ。コンスタンサで生まれ...
会館を出てリゾート・ホテルへと向かう途中、日本移民たちが眠る墓地を訪問する予定だったが、墓地前の道路は車通りが激しく一行が下車して道を渡ると危ないということで、車窓から墓地の入り口を拝むだけにとどまった。 一行が到着したのは、「ホテル・グラン・イメノア」と呼ばれる自然溢れるハラバコアでも有数のリゾート地で、ホテル内に川が流れている。その川を長さ約50メートルのつり橋を渡って橋向こうに行くと、一行の昼食席が準備されていた。 かんかん照りの暑さの中で、雄大な川の流れと景観が涼しさを与えてくれる。 昼食には、ハラバコア移住地の日本人たちと友情関係のある同市のピエダーデ・ケサラ・デ・ドミンゴス女性市長も出席し、一行を歓迎。広島市からゴミ収集車4台の寄贈を受けるなど日本との交流に感謝していると述べ、「神様は世界中にいますが、夜はハラバコアで過ごします。皆さん、次回もハラバコアにぜひ戻ってきてください」とあいさつし、一行をねぎらった。 日高夫人のミヨコさん(67、鹿児島)によると、入植当初は日本語学校も無かったが、入植1周年の時に道路で運動会が行われ、大人と一緒に二人三脚で走ったことを覚えていた。「気候は良いのでトマト、キャベツ、ナスビなどの野菜を作って売りましたが、買ってくれる人は少なかったですね」と振り返る。 乾杯の音頭を取った日高武昭さんは、サンパウロ州アチバイア市で心霊治療を行う弘田智康氏と同年齢の親友だとし、今年9月には弘田氏がブラジルから花柳流舞踊関係者を連れてハラバコアを訪問。JICAの青年ボランティアの女性たちもサント・ドミンゴ市から加わり、盛大な盆踊り大会を開催したという。 日高さんたちが移住地での苦労と日本政府にだまされたことなどを説明する一方で、ドミニカ在住の日本人の3分の1が裁判問題に反対し、残りの3分の1は良くも悪くも思っていない人がいることも聞かされ、狭いドミニカの移民社会の中でも複雑な関係があることを知った。 昼食を取った一行は元来たつり橋を渡った広場に集まり、歓迎してくれたハラバコア移住地の人々とともに、恒例の「ふるさと」を合唱。一人一人と握手を交わして、サント・ドミンゴ市に向けて出発した。 ◎  ◎ その日の夜は、ドミニカ料理の「サンコーチョ」を食べに市内のレストランへ。サンコーチョは、ドミニカでは日曜などに家族で食べる家庭料理で、マンジョカ芋、ニンジンなどの野菜と鶏肉や牛肉を混ぜて煮込んだスープ。見た目はブラジルの「カルド・デ・モコト」に似ている。 そのサンコーチョを飯にかけてブラジルの「フェイジョアーダ」のようにして食べるのだが、一行が座ったテーブルによってはサンコーチョだけが先に出されて 飯が遅れ、スープを飲み干した後で飯が出されるなどし、「たったこれだけの料理なのか」と苦情の声も一部から聞かれた。 レストランでは、ドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」の衣装を着て給仕をする若い男女が中央の踊り場でダンスショーも披露。特に、1本のラム酒の瓶の上でつま先立ちとなり、クルクルと踊る光景は圧巻だった。 一行はそれぞれの思いを胸にホテルに戻った。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月23日付
ドミニカ鹿児島県人会会長でもある日高武昭さん(70、鹿児島)がハラバコア日本人会の星川和之会長(66、山形)をはじめ、同地在住の日本人家族を1人ずつ紹介してくれた。 同地在住の日本人は単位家族で5家族21人。「少ない人数なので、皆親戚です」と日高さん。まだ新しい「ハラバコア友好会館」は2007年に建てられたという。 移住地の説明をする日高さんの声が次第に熱を帯びだした。 日高さんの家族は1958年1月24日に他の12家族とともにハラバコアに入植したが、日高さんは当時中学3年で進学を控え、「10年たったら日本に戻ってくる」との父親の言葉を信じ、自ら日本に残ることにした。 しかし、両親がいないために学費が払えず、進学を断念。大阪の鉄工所で働きながら通信教育を受けたが、1年間で退職した。その間、ハラバコアにいる母親に一度も手紙を書かなかったことから心配され、迷った挙句に姉の許嫁と一緒にドミニカへの最終移民船「あめりか丸」に乗り、59年9月、家族たちより約1年半遅れて16歳でハラバコアに移住した。 しかし、日本の募集の際に約束された100タレア(約6ヘクタール)の土地は実際には半分しかなく、湿地や石が転がる粗悪なものだった。それでも他の日本人移住地に比べてまだ気候が良いほうで、「こんなところで泣いていても仕方がない」と借地して野菜などを生産したが、約10年間は野菜の販売力も無かったという。 また、日本政府の募集要項には「自由開拓」と書いてあったそうだが、独裁政治の国とは知らされず、ドミニカ政府の管理人の許可が無いと移住地から出られなかった。サント・ドミンゴ市の日本大使館に行く際も途中で検問があり、許可証が無いと捕まってサトウキビ畑で強制労働させられるような状態だった。 61年には当時独裁者と言われたラファエル・トルヒーヨ大統領が暗殺され、以前に同大統領から強制的に没収されたという地主らが各日本人移住地の「土地を返せ」という騒動も発生。そうしたことがドミニカ移民たちが日本に帰国したり、ブラジルなどの南米諸国に再移住する結果にもつながった。 日高さんは移住後、日本への出稼ぎで30年ぶりに日本に一時帰国し、現在、日本庭園近くに店を構え自動車などの中古品輸入業を行っている。 日本政府を相手取り、2000年から6年にわたって行われた裁判については「自分たちは金が目当てではないです。最初の募集要項に沿った土地をもらいたいだけ。日本政府がどう対応してくれるのか今でもそれを待っている」と語る日高さん。「自分としてはドミニカに来る気はありませんでしたが、親に従うつもりで来ました。当時はまさか、祖国が我々移民をだますとは思ってもいませんでした」と話しながら時折、悔しさで感極まり、言葉が出てこなかった。 日高さんの力説を聞き終えた一行は、会館前で記念撮影を行い、昼食を取るためにハラバコア市内にあるリゾート・ホテルへと向かった。(つづく、松本浩治記者) 2013年11月22日付