ニッケイ新聞 2013年4月17日 長野県人会の定期総会が1月26日に行われ、高田アルマンド陸男さん(60、二世)が新会長に就任した。二世会長は会設立以降初めて。第一副会長、専務理事にはそれぞれ二世の赤羽ロベルト昇さん(67)、杉本テレザみどりさん(55)が就任し、3人が前会長の北澤重喜さん(82)とともに来社した。 これまで一世が活動の中心だった同会だが、このたび幹部が二世中心に一新され、〃世代交代〃した形だ。総会では反対する声もあったが、2期4年務めた北澤さんは「いつまで経っても副会長止まりじゃ、責任もってやらない。だから、思い切って皆二世にしました」と力を込める。「全面的に、物心両面でアジュダします」とエールを送った。 現在の会員数は350~400ほどで、主な年間行事は親睦旅行、敬老会、日本祭り参加など。最盛期には650家族ほどを数えたが、一世の逝去とともに、会員数は徐々に減っている。 「思い切って色々変えて、若い人を増やしたい」と声を揃えた3人。具体的には、今月28日に5県人会が参加して愛知県人会館で行われる「屋台祭り」に初めて参加する。出品料理は、同県名物の五平餅だ。杉本さんは「長野の伝統料理を食べてもらいたいから」と意気込む。 日本祭りには、北澤さんの農場で毎年有志が漬け込みを行う野沢菜漬けを出品している。「人手が足りず、手間もかかるため色々問題がある」ものの、今後も続けたい意向だ。「去年は一千袋くらい売れた。今年もそれくらい売りたいね」と北澤さん。今年は野沢菜漬けに加え、同じく長野名物のおやき、五平餅などの販売も検討している。 また、来年は会創立55周年を迎える。「長野は、人間は多くないが移住大県」(北澤さん)。今から県知事招聘なども視野に入れ、準備を進める予定だ。 さらに、「婦人部で手工芸品を作る」「月に一度の県人会便りに、行事報告だけでなく健康ネタなど皆が興味のある話題を載せる」など、その他にも活性化に向けたアイデアを披露し、意欲を見せた。 その他の今年度役員は次の通り(敬称略、一部のみ)。 【第二副会長】大島紘邦、【第一会計】佐藤満、【第二会計】篠原オラシオ裕之、【第一書記日語】春日洋呉、【第二書記】神津ソニアいずみ、【一般理事】菅沼久人、北澤重喜、吉原保、新井均、野沢今朝幸、牧野恒司、斉藤武兵衛、小林進一郎。 コラム【大耳小耳】 長野県人会の高田アルマンド新会長は現役医師で、30年前に佐久市(旧臼田町)の病院で研修した経験がある。専務の杉本テレザさんもかつて信州大学に留学しており、3人とも日本語が上手だ。県費技術研修生がメキシコ、亜国、伯国から母県に派遣されているが、大学卒業、一定の日本語能力などの条件があり、昨年は「適任者なし」というもったいない結果に。ぜひ〃二世体制〃で若い人が集まる県人会にしてもらいたもの。
Ano: 2013
20日(土曜日)◎モジ・ダス・クルーゼス市の秋祭りは、午前10時から同市内の文協スポーツセンター(Av. Japao, 5919)で。21日も。◎ビラ・モラエス文協の焼きそば祭りは、午前11時~午後5時まで、サンパウロ市(聖市)ビラ・モラエス区の同会館(Av. do Cursino, 3331)で。◎ 21日(日曜日)◎第15回憩の園支援歌謡祭は、午前8時からグアルーリョス市の同園(Rua Jardim de Repou so, 881)で。◎第21回リベイロン・ピーレス全伯虚子忌俳句大会は、午前10時からリベイロン・ピーレス日伯文化協会(Rua Primeiro de Maio, 56)で。午前8時から受け付け。◎ジョンブランコ婦人会の慈善バザーは、午前10時から聖市ジャルジン・ナカムラ区の同文化体育協会会館(Rua Manoel...
ブラジル政府が2015年までの5年間にわたって約10万人規模で理系分野のブラジル人学生を海外に送り出している「国境なき科学」計画。既に欧米やアジア諸国などで実施されており、日本では国公立と私立大合わせて10校が受け入れを表明しているが、大阪府立大学(奥野武俊学長)でも伯人留学生の受け入れを希望しているという。 故・杉村濬(ふかし)駐ブラジル日本国第3代公使(岩手県盛岡市出身)の曾孫に当たり、同大副学長である杉村延広氏からこのほど岩手県人会(千田曠曉会長)にメールで連絡があり、「日系を含むブラジル人の大学院生の留学先として検討いただくなど、何らかのアクションを取りたいと考えております」と意欲を見せている。 今月から同大副学長として国際交流を担当しているという杉村氏は、2005年5月にブラジルを初訪問し、岩手県人会の千田会長たちの世話でリオ市内にある杉村濬氏の墓参を行った経緯がある。 杉村氏は「(ブラジルとの交流の話も)何かの縁だと考え、失礼ながら千田様に連絡させていただきました」と「国境なき科学」計画を具体化させる考えだ。 今後の具体的な動きはこれからだが、杉村氏はリオ州内の大学との連携も考慮している。 2013年4月18日付
琉球民謡保存会ブラジル支部(米須正支部長)主催の第19回民謡大会が、21日午後2時から沖縄県人会本部会館(Rua Dr.Tomas de Lima,72)で開催される。 同大会では、85人の歌い手が一般の部と65歳以上の高齢の部に分かれ、それぞれグランプリを選出する。各部門のグランプリ受賞者は、沖縄県で開催される「民謡の祭典」へブラジル代表として出場する。 米須支部長は「当日は、毎年好評の協和婦人会による沖縄そばやゴーヤーチャンプルーの販売も行われます。どうぞ皆さんでお越しください」と来場を呼び掛けた。 入場無料。問い合わせは米須支部長(電話11・9307・7987)まで。 2013年4月18日付
一行はその後、フロリアノーポリス近郊にある温泉街のサント・アマーロ・デ・インペラトリスへ向かった。当地の人口は約2万人。1818年にドン・ジョアン6世が温泉の湯治効果に着目して病院を造ったのが街の始まりだ。以降、大きく街が発展することはなかったが、1920年にホテルができたことから温泉街として知られるようになった。源泉の温度は41・5度で、美肌効果などがあるという。宿泊先のプラザ・カルダス・ダ・インペラトリス・リゾート&スパには六つのプールのほか、サウナや散歩道、スポーツコート、トレーニングジムなどが用意されており、一行は大いに羽を伸ばした。 今回の旅に兄弟で参加していた宝キヨシさん(73、2世)は「ここはご飯もおいしいし、温泉も気持ちよくてパライゾだよ」と温泉に浸かりながら、弟のカズオさんと笑っていた。 また、30年前に当地に来たことがあるという中原陽出子さん(77、2世)は「あのころは小さく古いホテルが一つあっただけで、辺りはただの山だったのに」と、その発展ぶりに驚いていた。 5日目の午後1時半からは、ブラジル健康表現体操協会所属の参加者ら10人が、ホテルのデッキで体操を披露した。最後は一般の人も参加して清々しい山の中でのびのびと身体を動かしていた。 また、5日目にはフロリアノーポリスにオプショナルツアーで参加した人もいた。その1人、草川一郎さん(81、2世)は「プライア(海岸)やつり橋など5カ所を巡ってきた。レストランも魚介類がとてもおいしかった」と満足気な表情を浮かべていた。 5日目の夜は全員が集まっての会食となった。県連の本橋幹久団長(77、鳥取)があいさつに立ち、「過去最大規模のふるさと巡りもここまで無事に終えられて良かった。これも皆さんの協力のお陰だ。南部は新しい日系コロニアが多いが、今後こういった所との付き合い方も考えていく必要がある」と話した。 最終日は朝の出発からバス別の行動となり、サンパウロまでの720キロをバスで約13時間かけて移動した。1号車は午後9時過ぎにサンパウロ市リベルダーデ広場に到着し、6日間の旅行を通して仲良くなった参加者同士の別れを惜しみつつ解散となった。 今回が初参加だった石村典栄さん(84、2世)は「とても素晴らしく、実のある旅だった。特に温泉ホテルではとてもリラックスできた。またぜひ参加したい」と旅の感想を答えた。 同じく初参加だった三宅昭子さん(70、秋田)も「とても旅は楽しかった」と話す一方、「ジョインビレやイタジャイでは現地の日系人の方とあまり交流を深められず、少し残念だった」と今後の改善を希望していた。 なお、次回のふるさと巡りは10月17日~23日にかけて、ドミニカ共和国を訪れる予定だ。ふるさと巡りとしてドミニカ共和国を訪れるのは初めての試みで、サントドミンゴ、ジャラバコア、コンスタンザの3カ所での交流が予定されている。既に多くの申し込みがあり、当初の定員60人を突破したため、定員を拡充して100人まで募集する予定だ。 世界に広がる日本移民の絆が、今後もふるさと巡りの事業を通じて深まることを願うばかりだ。(おわり、毛利健人記者) 2013年4月17日付
工場見学を終えた後は、SANJOのリンゴ農園でわずかな間だが、リンゴ狩りを楽しんだ。この農園には10ヘクタール1万本のリンゴの木がある。日本とは異なり、一本一本を離さずに群生させて育てているのが特徴的だ。上部には、ひょう被害を防ぐネットがあるが、過去にひょうを防げず破れてしまったこともあるといい、当地のリンゴ栽培の難しさを思わせた。 農業を今も営む参加者の平谷勲さん(69、和歌山)は周辺の岩がごろごろとした寒冷な土地に目を向け、「気候だけはいいものの、土地はあまりリンゴには向かないように思える。よくここまで農場が大きくなったものだ」と感心していた。なお、今年のサンジョアキンのリンゴは出来はいいものの、玉が小さいという。 その後一行は、サンジョアキン文化体育協会会館へ向かった。そこには、同文協(降旗キヨシ会長)の会員らが、手作りの焼きそばを準備してくれていた。 同文協は現在61人の会員が所属し、その大半がSANJOで働いている人、もしくはその家族だ。花見会や運動会などのほか、年間4~5回焼きそば会を開き、毎回約300皿が売れるという。当地の焼きそばはあんかけ風で、野菜たっぷりほくほくなのがこの寒冷な気候に合う。 会館ではミサが行われた後、この焼きそばが会食として振る舞われた。コチア青年の第1回移民で渡伯したという荒木滋高さん(81、三重)は、「コチア青年は初めて会った人でも兄弟のように感じる。ここでもコチアの同胞たちがあんなに立派な工場まで建てていて我がことのようにうれしい」と感激した様子で、SANJO組合員らと話を弾ませていた。楽しい時はあっという間に過ぎ、気付けば時計の針も午後10時を回っていた。最後は荒木さん、小林誠さん(70、和歌山)、県連事務局の伊東信比古さん(69、大分)のハーモニカの伴奏により、会場全体で「ふるさと」を合唱。住む場所や世代は違えど、同じ心の古里を持つ日系人としての絆の強さをしみじみと感じさせられた。 翌朝は冷え込みが厳しく、気温も10度を下回った。街路樹も色付き始めており、旅の疲れもあって記者には布団から出るのが辛かったが、午前7時半の集合にはさすが元気なコロニアの年配方、ほとんどの人が間に合っていた。その後、1号車の人々はホテル近くにあるマトリス教会(Igreja Matriz)を見学した。 ここにはサンジョアキンの石を用いた女神像や天使像、心臓の像などが置いてあった。また、近くの広場や市議会にも石像があったが、これらはすべて故人の大槻エルソン氏(3世)の作品だ。息子のアンデルソン氏の話によると、大槻氏は1972年にリンゴ栽培のために当地に入植し、ある日、家の台所からサンジョアキンに多く転がる石を見て、石像を作ることを思い付いたという。 以来、2回市議会議員を務めるなどしながらも創作を続け、2000年に州議会議員選挙に敗れてからは創作により力を注ぐようになった。大槻氏は07年に逝去するまでに約700点もの像を手がけ、これらの作品はブラジルのみならず世界中で展示されているという。 秋模様の広場で大槻氏の石像に見入っていると、ブラジル人の清掃夫が話しかけてきた。彼は「これらの石像はサンジョアキンのシンボル。ここの人間は皆ジャポネースに感謝しているよ」と誇らしげに胸を張った。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月16日付
10日よりサンパウロ(聖市)入りしていた若林健太外務大臣政務官(49、自民党、長野選出参議院議員)の歓迎懇談会が、11日午後7時50分から日系34団体の共催により、サンパウロ市リベルダーデ区の文協ビル2階貴賓室で行われ、約150人が出席した。 壇上には若林政務官をはじめ、木多喜八郎文協会長、菊地義治援協会長、園田昭憲県連会長、羽藤ジョージ・サンパウロ州議員、福嶌教輝在サンパウロ総領事などが登壇した。 出席者の紹介の後、木多文協会長は「若林政務官の訪伯を日系社会の代表が総出で出迎えることができ、日伯の絆はより強くなった。サンパウロへようこそお越しいただきました」と歓迎の辞を述べた。 次に若林政務官があいさつに立ち、「2008年には農水相だった父もブラジルを訪れ、当地の日系社会から手厚い歓迎を受けたと聞いており、かねがねブラジルにはぜひ来たいと思っていた。今回、念願かなってブラジルの地を踏むことができとてもうれしい。当地での日本の外交と日系企業の進出は、移住した先輩方が苦労して築いた信頼の土台の上に成り立っている。その貢献に心から敬意を表します」とスピーチを行い、会場から盛大な拍手を受けた。 その後、菊地援協会長が乾杯の音頭を取り、懇談会では若林政務官の前にあいさつを求める人の列が続いた。 2013年4月16日付
イタジャイに1泊した後、一行はサンジョアキンへの旅路に就いた。1号車のバスの中ではいつの間にか1人の客がピアーダを皆の前で披露し、バス内をわかせていた。マイクを握るのは、今回で27回目の参加となる清水秀英さん(78、愛知)だ。「色々なことを調べるのが好きで、つい皆に教えたくなってしまう」と語る清水さんは、その後クイズ大会を開き、ともすれば退屈になりがちなバス移動で皆を楽しませていた。 サンジョアキンに着くと、辺りは荒涼とした丘陵が広がっていた。サンジョアキン市は人口約2万5000人の小さな街だ。標高が1300メートル程あるため冷え込み、上着を着込むようガイドからの指示があった。レストランで昼食を取った一行はその後、SANJO(サンジョアキン農業組合)の工場へ向かった。 SANJOはコチア産業組合が1994年に解散した後、組合員たちが自ら出資し作られた農業組合だ。名前はサンジョアキンの略称に由来し、現在は78人(うち3人が非日系)の組合員がいる。当日は日曜のため工場は稼働していなかったが、一行のために工場を特別に開けてもらえた。衛生管理のために着せられた白衣に、「まるで原発のように厳重だ」などと少しざわめきながらも、皆ガイドの説明一言一句に耳を傾けていた。 中でも圧巻だったのは、2010年から稼働したワイン用の新工場だ。1基にワイン500本が入るというコンテナがたくさん積まれた冷暗室にはワインの甘い香りがほのかに漂い、一行の購買意欲をこれでもかというほどに高めていた。もちろん記者もたまらず1本購入した。 02年から始まったSANJOのワイン作り、現在では年間5~6万本出荷している。ブラジルワインは概して白ワインより赤ワインの方が国際的に評価を得ることが多かったが、当地の寒冷な気候は特に白ワイン用のシャルドネ種(Saviao branque)栽培に適しており、数々のコンクールでも受賞するなど高い評価を得ているという。 しかし、SANJO理事の飯田義孝パウロさん(57、2世)の話では、「ワインの出荷量は年々少しずつ伸びているものの、ブランド力が必要な市場なので輸入品が強く、まだ黒字事業にはなっていない」状態だという。一方のリンゴは20年前から3万トン伸び、現在年間4万2000トンを出荷するなど好調だ。 現SANJO組合長を務める清水信良さん(51、東京)は「3年前から婦人部が始めたリンゴジュースは順調なので、そういった加工品にも力を注いでいく。リンゴの貯蔵庫も増やしていきたい。しかしリンゴばかりに頼るわけにはいかず、ワインは今後も根気強く続けていく。今年はSANJO設立20周年の記念年なので、大いに盛り上げていきたい」と今後の抱負を話した。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月13日付
ニッケイ新聞 2013年4月12日 サンジョ組合の新商品Sanditoの100%生リンゴジュースは特に「味が濃い」と好評で、150グラム当たり10個のリンゴが入っているというから当然だ。でもいくら良い製品を作っても販売手腕が物を言うのが、商売の世界だ。 そして、うまい話にもちろんタダはない。元々その年の気候に強く左右され、競争が激しいから利益率も高くない。その中で売り上げの2%をロイヤリティとしてディズニーに収めなければならず、清水信良組合長も「ほんと高いよね」と痛し痒しといった様子だ。 夜10時頃、交流会の最後は、荒木滋高さん(しげたか、80、三重)=ブラジリア在住=のハーモニカに合わせて、全員で恒例の「ふるさと」を大合唱し、握手で別れを惜しんだ。 ◎ ◎ 一行は午前8時過ぎ、カウダス・ダ・インペラトリスの温泉ホテルに向かう途中、断崖絶壁の景色で有名なアウミランテに立ち寄ってから、同リゾートホテルに泊まった。 到着直後、参加者の四條幹さんの体調が悪くなり、添乗員が強く薦めて緊急入院する一幕もあった。娘が医師の関係で、同病院の担当医と娘が直接に連絡を取り合い、研究検査後に聖市に運ばれることになったという。 天理教の伝道師をする西沢定子(さだこ)さん(83、三重)はもう10回以上このツアーに参加している。「目が悪いから風景とか全然見えないんだけど、皆さんとしゃべるのが楽しみ。出身県を聞いてそこの民謡を歌うと皆さん喜んでくれるの。知り合いになるのが生きがい。私は115歳まで生きるのが予定」と一気にまくし立てた。 一方、コチア青年の森本勝一(77、高知)、美栄子さん(75、二世)夫妻=サンロレンソ・ダ・セーラ在住=は参加者名簿に、1960年にスザノ市の同じ「日の出植民地」に入った小池みさ子さんの名があるのに気づき、添乗員に紹介してもらい約50年ぶりの再会を果たした。 森本さんは顔を見てすぐに分かったが、小池さんの方はポカンとしていたので、「あんたボケたんか」というと、彼女は「あっ!」と分かったという。 森本さんは「あの頃はご飯とフェイジョン、たまにイワシの塩漬けが普通の食事。パトロンも同じものを食っていた。モルタデーラとガラナがご馳走だったな」と懐かしむと、小池さんは「みんなでバタタを植える作業をして、その後、ご馳走がでるのが楽しみだったわね」と相槌をうった。 小池さんはその時の情景をこう詠んだ。 《とっさには思い出(い)だせず移住初期つき合いし人に出遇うも》 こんな短歌が生まれるのも旅の醍醐味だ。 最後の夕食となった26日晩、本橋幹久団長は皆を前に「これで主な集団地は一通り回った。次回からは今まで回ったところを2度目、3度目に訪ねることになる」と挨拶した。 一行の神林義明さん(76、長野)は「実はサンジョアキンに入植しようと思ったこともあった」と明かす。「だって兄がリンゴ作りをやっていたし、後沢先生は長野県の須坂園芸場長をされていたから、日本にいた頃から面識があった。心が動いたね。でも子供が小さかったし、リンゴの苗を植えてから4年間も無収入だって聞いたから泣く泣く諦めた」としみじみ語った。 翌日朝8時過ぎに出発して一路聖市を目指した。参加者はそれぞれが感じた感慨を胸に、午後10時過ぎにリベルダーデ広場で解散した。 (終わり、深沢正雪記者)
ニッケイ新聞 2013年4月12日 静岡県人会の名誉会長だった鈴木静馬さんが7日午後8時過ぎ、心疾患で1年ほど入退院を繰り返した後、自宅で逝去した。翌日午後、イビウーナ市のパス墓地に埋葬された。享年81。 1932年静岡県袋井市生まれ。58年に自由渡航で渡伯し、洗濯屋の下働き、自動車の修理見習いなど様々な職を経て、イビウーナ市の斉藤養鶏場の幸子さんと結婚、経営に携わった。 県人会会長を1995年から計9年間務め、05年には、自身の出身校静岡県立磐田農業高等学校による「ブラジル生徒派遣交流事業」の実現に尽力、事業は今も続けられている。 聖南西文化体育連盟の会長も務めた。文化功労章(世界平和科学貢献紋章院)、コメンダドール章、グランクルース章。 初七日法要は13日午後3時から、佛心寺(Rua Sao Joaquim 285, Liberdade)で執り行われる。
ニッケイ新聞 2013年4月11日 「『石は人間が動かせるが、気候は動かせない』って後沢博士がよく言っていました」。サンジョアキンをリンゴ団地の候補地として選んだ後沢憲志博士の有名な言葉を繰り返すのは、74年入植の草分け平上文雄さん(63、和歌山)だ。 「後沢博士は日本から白樺を持ってきて、これが白くなれば良いリンゴができると言った。そして本当に白くなったんです」と懐かしむ。「でも、僕は和歌山生まれだから、それまで白樺自体見たことなかった」と笑う。リンゴには年間で7度以下が700時間も必要なのだという。「州内でもここだけ」と平上さんは言う。 1959年に渡伯し、当初はパラナ州ウライに入ったが、数年後に聖州マイリンキに初めて自分の土地を買った。当初、コチア産組が始めていたバイーア州ペトロリーナの欧州向け果実生産地を視察に行った兄は、「あそこは子供の教育に向いてない」との感想を漏らした。その直ぐあとにサンジョアキンの話が出てきて、兄から「リンゴ作りに行ったらどうか」と薦められ、平上さんは決心した。 最も新しい集団地の一つだけに、サンゴタルドしかり、ペトロリーナしかり、ブラジル農業の拡張期の名残があちこちにある。まさに70、80年代のコチア産組全盛期の勢いが感じられる逸話が満載の場所だ。 リンゴの苗木は植えてから4、5年目以降でないと収穫できない。その間、無収入でも持ちこたえられるような、例えば兄弟が他で収益を上げて支えられるような人を組合は選んだ。それでも「最初の16家族中、3家族は抜けた」と振り返る。 「最初は誰もリンゴ作り知っている人がいなかった。後沢博士だけが頼り。リンゴの収穫ができるまで、えんどう豆やバタタの種芋を作ったり、手探りで生き延びた」という。「新しい土地だったから凄い種芋ができてお金になった。最初は種芋サマサマだったよ」。 平上さんは1989年、コチア産組が80年代に経営不振にあえぎ、遅々として再建が進まない様子に見切りをつけて独立し、平上兄弟商会を設立した。現在では250ヘクタールもリンゴ栽培し、「だいだいサンジョ組合の5分の1の規模。収穫には500人を雇っている」という。 「かつてはフライブルゴのリンゴ生産の方が多かったが、今ではこっちの方が多いぐらい。それでもリオ・グランデ・ド・スルはまだ多い」と表情を引き締めた。 相方として聖市で販売担当をする兄は、ゴルフ場ヴィスタ・ベルデ(カステロ・ブランコ街道51キロ)も経営している。 「入植当初のここは、サンパウロではあった電話も電気も水道もない状態。ないないズクシの開拓地なのに妻は不平も言わず来てくれ、本当によくやってくれた」としみじみ語り、「もちろん、今だから言うけどね!」と笑った。 ◎ 交流会で会った同地組合の百合勝一さん(69、愛媛)は、「ディズニーが『うちのマークを使ってくれ』と組合に売り込みに来たんですよ」と意外な話を披露する。7、8年前のことだ。百合さんはリンゴ団地開設の翌75年に入植した古参だ。 子供向けの小粒リンゴを9個ほどで一パックにした商品は、大手スーパーなどで「モニカ」「セニーニャ」など各種ブランド名で売り出されている競争の激しい商品分野だ。元々は「Sandito」ブランドだったが、ディズニーの絵柄を袋に採用していから、「どんどん売れるようになった。『モニカ』とかは、最初はボクらを競争相手とも思っていなかったようだが、今じゃ戦々恐々としていると聞くよ」と余裕の笑みを浮かべた。(つづき、深沢正雪記者)
袖ヶ浦と交流深いイタジャイ イタジャイ文協の建物は少しこじんまりとした印象を受けたが、これは袖ヶ浦市にあるブラジルとの交流団体「太陽の友達の会(アミーゴス・ド・ソル)」から援助を受けた3000ドルを基に造った、日伯友好の証しとも呼べる建物だという。そのほか、2008年には袖ヶ浦市の協力で同市内に鳥居ができたり、「袖ヶ浦通り」や「袖ヶ浦市場」なる所があったり、また双方の定期的な人材交流があるなど、両市はこれまで着実な関係を築いてきた。 また、日本からもイタジャイが08年に豪雨被害に遭った際、2000レアル分の救援物資を文協として受け取り、そのお返しとして東日本大震災発生の際には他の州内各文協と協力し、3800レアルを義援金として送金するなどしている。 しかし、最近「太陽の友達の会」内で派閥分裂争いが起きるなどしており、若干両市の関係が機能不全になりつつあると同文協関係者らは不安を口にしていた。 なお、当地でも日本のアニメは根強い人気があり、毎年5月に行われ今年で8年目を迎えるイタジャイのアニメイベント「Anime-kei」には、2日間で約3000人の来場者があるという。その大半は非日系の若者たちだ。当地の公文で日本語教師を務める斉藤アイコさん(3世、47)の話によると、イタジャイの公文の日本語クラスに所属する生徒13人も、ほとんどがアニメや漫画好きの非日系人だという。 その後、海が臨める海岸沿いのレストランで、イタジャイ文協会員ら7人と共に一行は夕食を楽しんだ。記者はその1人である関口のぶさん(茨城、73)と同席に着き、話を聞くことができた。 関口さんは同じ茨城県出身で夫の健次郎さん(76)と共に、サンパウロ州ピンダモニャンガバに58年入植した。その後、「寒冷なサンタ・カタリーナで小麦を作ろう」という夫の発案によって、親の「鳥のようにすみかを変えるな」という反対も押し切り、61年にサンタ・カタリーナ州ガスパーラに入植した。しかし、意外な夏の暑さに小麦を断念、レタスやトマトなどをブルメナウに卸すようになった。 しかし、「去年もうかったと思えば今年は大不作になったりする」という気候の不安定さに泣かされ、ついには子どもを抱えて橋の下で生活するまでになってしまった。長女の学校の入学金も払えず、教師が情けで入れてくれたこともあったという。 そのような生活から抜け出すためにも一念発起、イタジャイのコロニア・ジャポネースへ移住を図ったのは72年のことだ。当時イタジャイを始めとするサンタ・カタリーナ州沿岸地帯に人口が増え始め、野菜需要も増加したものの、周辺に野菜農家が不足していたため多くの野菜は鮮度が低く、高価だった。そこで、野菜作りに詳しい日系人らを集めて蔬菜(そさい)園芸移住地を設定し、生産物をイタジャイ氏中央市場に流そうと画策された。これに応じた関口さんも含む日系家族の多くは、ポルト・アレグレなどから再入植してきた。しかし、州政府や市役所、国際協力事業団(現・国際協力機構)の後押しはあったものの資金援助はなく、その後も苦しい生活だったという。 今となっては、コロニア・ジャポネースに残るのは関口さん夫婦も含め3家族のみだ。決して楽だったとは言えない半生だが、それでも関口さんは「色々苦労はあったけど、心の奇麗な人と結婚できて子どもも立派に成人し、何度か日本に帰ることも考えたけどやはり帰らず良かった。私は今幸せです」と静かに手を合わせていた。 (つづく、毛利健人記者) 2013年4月12日付
若林健太外務大臣政務官(49、自民党、長野選出参議院議員)が8~14日の日程でアルゼンチンとブラジルを訪問しており、10日からサンパウロ入りした。翌11日午前11時からイビラプエラ公園内の開拓先亡者慰霊碑を参拝し、県連(園田昭憲会長)関係者や長野県人会の北澤重喜前会長らが出迎えた。 若林政務官は、慰霊碑に刻まれた故・田中角栄氏の揮毫(きごう)を見ながら「力強いですね」などと話し、木原好規和歌山県人会会長から慰霊碑の説明を受けた後に碑に向かって手を合わせた。 若林政務官は、在ベレン総領事館の縮小問題に地元から大きな反発の声があることについての本紙の取材に対し、「自民党内部でも(在ベレン総領事館の縮小問題については)さまざまな意見が出された。同地に進出する日系企業もあり、現地との関係を深めることは大切だが、日本の厳しい財政事情の中で新しいところ(南スーダン、アイスランド両大使館)を建てるためには仕方がない。また(ベレン総領事館の)事務量が以前より減少していることを考えての決断では」と述べた。 また、ブラジル日系議員による情報で、6月に岸田文雄外務大臣が来伯する可能性については、「まだ確定していないので何とも言えない」と答えるにとどまった。 若林政務官一行はその後、改修工事の準備をしている日本館を訪問し、内部を見て回った。 2013年4月12日付
在ブラジル長野県人会は、1月26日に行われた総会の役員改選で高田アルマンド隆男氏を会長に選出した。高田会長ら同県人会役員一行が9日、新体制のあいさつのため本紙を訪れた。 同県人会初となる2世会長の高田会長は、今後の抱負について「若者を増やすために行事の拡充を図るなど、魅力ある県人会を目指したい」と意気込みを語った。 また、北澤重喜前会長は「総会では2世に会長を任せて大丈夫かというような心配の声も上がったが、思い切って新しい世代に任せて良かったと感じている。物心両面で新しい役員たちを支えたい」と述べた。 なお、新執行部は次の通り(敬称略)。 会長=高田アルマンド隆男、第1副会長=赤羽ロベルト昇、第2副会長=大島紘邦、第1会計=佐藤満、第2会計=篠原オラシオ裕之、第1書記(日語)=春日洋呉、第2書記(ポ語)=神津ソニアいずみ。 2013年4月12日付
13日(土曜日)◎モジ・ダス・クルーゼス市の秋祭りは、午前10時から同市内の文協スポーツセンター(Av. Japao, 5919)で。14日も。◎花まつりの「お練り」は、午前11時半からサンパウロ市(聖市)のリベルダーデ広場で。◎名画友の会4月観賞会は、午後0時15分から聖市リベルダーデ区の熟年クラブ連合会(旧老ク連)会館(Rua Dr. Siqueira Campos, 134)で。 14日(日曜日)◎サウーデ文化体育協会の慈善バザーは、午前8時から聖市ジャルジン・サウーデ区の同会館(Rua Diogo Freire, 307)で。◎文協古本市は、午前9時から聖市リベルダーデ区の文協ビル展示室(Rua Sao Joaquim, 381)で。◎日教寺のチャリティーバザーは、午前9時半から聖市ビラ・マリアーナ区の同寺(Rua Ibaragui Nissui, 166)で。...
昼食後、ジョインビレ文協集(しゅう)太鼓部の若いメンバー12人が一行の前で演奏してくれた。演目は、神奈川県三崎地方発祥の一つの太鼓を3人でたたく高度な技量が試される「ぶち合わせ太鼓」、滋賀県水口地方発祥の太鼓・鉦(しょう)・篠笛各楽器のコンビネーションが軽快な音を鳴らす「水口囃子(ばやし)」、埼玉県秩父地方発祥の演奏者の独奏が見られる強烈なリズムの「秩父屋台囃子」の3曲。それぞれ違ったタイプの演目でありながらも、部員らは日ごろの練習の成果あって息のぴったり合った演奏を披露し、思わず記者も筆を止めてしまう程だった。 同じく演奏に聴き入っていた邨上清さん(75、2世)は「今までサンパウロなどでも色々な太鼓演奏を見てきたが、今日のが一番良かった。特に鉦や篠笛は演奏が難しいだろうが、見事な躍動感だった」と舌を巻いていた。演奏が披露された後には集太鼓部援助のため、集太鼓部オリジナルのマグカップ購入が呼び掛けられ、あっという間に完売していた。 その後集太鼓部からの希望で、一行と太鼓部員らで記念撮影が行われた。この写真に収まった集太鼓部の桜井征爾さん(20、3世)は、「演奏を聴いていただいた皆さんの笑顔がとてもうれしかった。こうして今後も皆で喜びを共有していきたい」と顔をほころばせていた。 太鼓を通して交流を楽しんだ一行はジョインビレを後にし、90キロ南に位置する次なる目的地、イタジャイを目指した。 イタジャイは人口約19万人で、サンタ・カタリーナ州内陸部の工業地帯に対する外港都市として栄えてきた。1979年にはサンパウロ市内の邦字紙に勤めていた中野博さん(故人)が仲介役をして、同じ港湾都市である千葉県袖ヶ浦(そでがうら)市と姉妹協定を結ぶなど、日本とも少なからぬ縁のある土地だ。 そんな当地にもイタジャイ日伯文化協会(大場レジーナ会長)が存在する。夕食前に同文協へ足を運び、話を聞くことができた。 同文協は87年に設立され、現在約40家族100人が所属している。当地には日系農業植民地(コロニア・ジャポネース)もあるが、基本的に日系人はジョインビレと同じく、他地域から移ってきた専門職の人たちが多い。特に当地は大きな病院があることから、医師が多いという。 同文協の行事としては運動会や焼きそば会などを行っているが、特に力を入れているのは毎年8月開催の「すき焼き会」だ。既に毎年約500人が来場する人気イベントになっているという。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月11日付
グループ民舞皿踊り創立20周年主要メンバー交代で新たに継続 リベイロン・ピーレス文化協会(村木アントニオ会長)の傘下団体として活動する「グループ民舞皿踊り」(川添博代表)の創立20周年記念式典が7日午前10時から同文協会館で開催され、民舞OBや関係者など約300人が一堂に会した。川添代表によると、主要メンバーの世代交代により、今回の20周年を節目に解散する意見もあったという。しかし、メンバーや父兄などから継続してほしいとの声が多く、これまでのように頻繁に各種イベントの舞台に立つことは難しくなるが、民舞の活動そのものは続けていくことになった。 同日午前に行われた記念式典では、デウニッセ・モウラ・リベイロン・ピーレス副市長、宮岡康雄サント・アンドレー日系連合会会長、栗崎邦彦長崎県人会副会長、ABC地区各日系団体代表や民舞を支えてきた婦人たちが来賓として登壇した。 川添代表はあいさつで20年の歴史を振り返り、民舞の目的について子供たちが日本文化を継承しながら自ら日系人としての意識を持ち、「勤勉で正直な大人になってほしいとの気持ちでやってきた」と強調した。また、1992年の長崎県人会創立30周年の時に諫早(いさはや)市から来伯した「皿踊り」メンバーの踊りに引かれ、その後、同年12月の文協日本語学校終業の際に踊りを披露したことが民舞の始まりとし、翌93年に正式結成。これまでサンパウロを中心に遠方ではレシフェ、ゴイアニア、マリンガ等の各地の日系イベントに招待されて出演したほか、97年の天皇皇后両陛下ご来伯時での踊り、98年の移民90周年でサンバチーム「バイバイ」の行進に一緒に参加したことや、2008年の移民100周年で250人のメンバーを募って「南中ソーラン」をサンボドロモで披露したことなどにも言及した。 そうした中で、「20年もたつと子供たちも大人に成長し、仕事、学校の勉強や恋愛・結婚等と忙しくなり、この20周年を機会に『有終の美』を飾って解散してもいいとの意見があった」ことを明かした。しかし、「会議で改めて話し合ったところ、『せっかくここまで来たので何とか続けてほしい』との声もあり、今までのようなアプレゼンタソン(舞台披露)は減ることになるが、継続することで意見が一致した」とし、今後も活動を続ける上で関係者への協力参加を呼び掛けた。 村木文協会長、栗崎長崎県人会副会長、モウラ副市長の祝辞に続き、記念品贈呈が行われ、民舞指導教師の川添敏江夫人などから創立メンバーたち一人一人に手渡された。 お礼の言葉として登壇した川添夫人は、この20年間で323回に及ぶアプレゼンタソンを実施してきたことを説明し、「踊りを通して各地の皆さんに感動を与えたいとやってきましたが、皆様方の拍手に支えられながら生徒たちも多くのことを学んできました」と述べた。 創立メンバー代表としてあいさつした小林キヨカさん(36、2世)は、「手の出し方、足の運び方、声の出し方など生徒全員がそろわなければ演技は成り立たなかった。また礼の大切さや多くの友達ができたことは、これからの人生にとって大きなプラスになると思う。これからも夫婦そろって元気に頑張ってほしい」と川添夫妻への感謝を込めた。 引き続き、主要メンバーの大坪由美子さん(29、2世)、中村リカさん(26、2世)、沢田メグミさん(27、2世)が、川添夫妻への感謝の言葉を述べた。 昼食後には、舞台上で民舞による踊り「大村音頭」を皮切りに、新生ACALや健康表現体操メンバーによる体操など約20演目が披露。躍動感溢れる生徒たちの踊りが観客の目を引いた。 最後は、遅れて出席した西本エリオ、羽藤ジョージ両州議も参加して会館内で出席者全員による盆踊りが行われ、フィナーレを飾った。 2013年4月11日付
ニッケイ新聞 2013年4月10日 初めてサンジョアキンを訪れた曽我義成さん(75、岐阜、青年隊4期)は「日系の組合でもあれだけの施設を持っているところは少ない」と感心していた。 同じく宮家文男さん(77、島根、コチア青年1回12期)も「コチア産組が崩壊して以来、どんな形でサンジョアキンが生き残ってきたのか、一度この目で見てみたかった。すごく立派な工場なので感心した」と頷いていた。 ◎ ◎ 交流会の先駆者慰霊ミサで「1974に日本移民の先駆者14人が来て以来、この町は一変した」と褒め称えたのは、同地に57年間も住むマトリス教会のブレヴィオ・オゼラメ司祭(モンセニョール)だ。 オゼラメさんによればこの町の産業史は3段階に区切れる。(1)町の創始から1950年までは細ぼそとした「牛を中心とした牧畜の時代」、(2)50年から70年頃まではパラナ松の切り出しによる「マデイレイロ(製材業)時代」で、「往時には160軒もあった。他に産業は皆無だった」という。ところが伐採しすぎて松が枯渇し町が衰退した。そこへ1974年に忽然と現れたのが、(3)日本人を旗振り役とする「リンゴ時代」だった。 オゼラメさんは「フジ種は世界一この土地に合っている。リンゴ生産者はこの付近だけで1200戸もあり、実に多くの雇用を産み出し、若者に仕事を与えた」と手放しで礼賛した。 オゼラメ司祭は「近年、ジャバリ(猪)が州内に北上してきたと聞く。元々はウルグアイとかから侵入したらしいが、大きいものでは200キロにもなり、地上1・5メートルぐらいまでの穀物や野菜は食い尽くすという。もしこの町まで来たらリンゴが危ない。でもIBAMA(国立自然環境保護院)は捕獲を禁止し、撃ち殺したら人間のほうが監獄にぶち込まれる。憂慮すべきことだ」と心配していた。 一行の一人、ミナス州でバタタ生産をする長井光男さん(68、山口)=タツイ市在住=も「ミナスでは大豆やトウモロコシ農家を中心にジャバリの被害がかなり出ている。でも捕獲禁止だから困ったもんだ」と同意する。 交流会では現地の山口福友さん(75、愛媛)がマイクを前に、一行に訪問を感謝する言葉をのべた。聞けば、1960年に愛媛県人会の呼びせで渡伯し、聖州在住時の69年頃から浪曲師としてならし、「甚平渡し」などを唸って77年には「名人」位を取ったという。 ところが「浪曲に熱を入れすぎて、農業では振るわなかった」とか。ソロカバで百合栄一さんの農場に入り、彼がサンジョアキンでリンゴ生産を始めたことから、呼ばれて同地に転住し、やはり百合農場で働いた。 百合さんはコチア組合員として卓越した業績をすでに持っていた人格者で、サンジョアキンに来た当時すでに70歳だったが、未知のリンゴ生産に挑戦して見事に30ヘクタールの模範的農場を仕上げた。西森多光さん、岡本壮平さんらと並ぶ初期の功労者の一人だ。 「百合のオヤジは、こんなワシを100%信用してくれた。84年には収穫の純益の4分の1をくれた。38町歩の土地、今住んでいる家、フォードの新車、トラクターが一年で買えるくらいの大金だった」とリンゴで再起した人生を振り返った。 「ここは北パラナ出身者が多いんですよ」というのは、同地の佐藤俊彦さん(62、二世、アサイ出身)だ。父・彦也さんがコチア産組幹事で、74年に入植した草分けだ。「アサイでは大豆、とうもろこし、葡萄などの雑作をしていた」。 彦也さん同様、アサイにいた岡本壮平さんは、同じ年に始まっていたミナス州サンゴタルドのセラード開発にコチア産組から責任者として指名されて赴いたが、土地はサンジョアキンに買っており、むしろこちらに本腰を入れたのだと振り返った。 (つづく、深沢正雪記者) ...
ニッケイ新聞 2013年4月9日 《ブラジルの雪降るというりんごの地》 3月24日(日)午後4時からのサンジョ組合施設の見学にあたり、パラー州のトメアスー移住地から遠路はるばる参加した三宅昭子さん(70、秋田)は、そう詠んだ。 「よその植民地を実際に見て、話をして見たかった。わずか40家族なのにまとまっているところが凄い」と感じたという。さらに「アマゾン80周年(09年)の時にはたくさんの人がトメアスーまで来て下さったのに、忙しくてあまり会えなかった。今回はゆっくり会ってあの時のお礼が言いたかった」と参加した動機を語った。 見学用の白衣、帽子に着替え、まるでアニェンビー国際展示場のように巨大なリンゴ選別棟に入ると、プーンと爽やかなリンゴの香りが鼻をつく。ガイドによれば販売や選果作業に330人が雇用されているという。 それまでリンゴといえば9割が亜国産だった1970年、連邦農務省とSC州政府は国産化を計画した。州農牧公社(EPAGRI)はサンジョアキン試験場を設立すると同時にコチア産組に協力を依頼し、1973年からリンゴ団地造成が始まり、翌年には最初の入植者16戸が400ヘクタールを拓いた。 JICAは1971に同州へリンゴの権威・後沢憲志博士を派遣したのを皮切りに、専門家を続々と送るなどの協力をし、日伯協力の結晶としてリンゴ国産の夢は実現された。元々はコチア産組の単協だったが、94年に同産組が解散したことを受け、当初はサンジョ有限会社、96年から同組合として独立した。 組合員の大半はリンゴ生産者で76組合員おり、うち非日系が4人。経営多角化の関係で、ワイン生産に力を入れており、葡萄やブルーベリーの生産者もいる。 組合紹介ビデオによれば1993年当時、年1万5千トンだった生産は、現在では3万3千トンまで拡大した。圧巻なのは480トンも入る保冷庫(2度)が60室もあることだ。このおかげでほぼ一年を通して出荷することが可能になった。保冷庫内にガスを封入して無酸素にすると数カ月の長期保存に耐えるからだ。その代わり、封を解いたら5日間で売りきる必要がある、とガイドは説明した。 葡萄畑は25ヘクタールあり、ワイン貯蔵庫ではすでに樫の樽に10万本分が眠っている。日本人が当地で生産する数少ないワインだ。すでに国際賞も受賞するなど、渋みの少ないふくよかな味が特徴として知られつつあり、寝かされてさらに深い味わいを増しているに違いない。ブルーベリーも4トン生産され、ジャムやジュースに加工されている。移住地、政府、JICAが三位一体で取り組んできただけあり、実に立派な施設だ。 その日の晩8時頃からサンジョアキン文化体育協会の体育館で交流会が行われ、婦人や青年が総出で焼きそばを振舞った。降旗キヨシ会長(51、二世)は61家族が会員で、加入していない日系人は3、4家族しかいないというから、ほぼ全員といえる高い加入率だ。 組合と文協には直接の関係はないが、会員の大半はリンゴ生産者だ。年に4、5回も焼きそば祭りをし、各300皿を売るという。他には運動会、父の日、母の日、新年会も行う。9月には花見もあり、施設内に植えられた100本ほどの桜の下に持ち寄りで100人ほどが集まる。 ジョインビレ同様に百周年後に和太鼓集団が町にできたが、降旗会長は「みんな非日系ばかり。日系人は興味がない」と苦笑いする。 さらに深く訊ねると「働き盛りの年代は仕事で、それどころじゃない。太鼓をやるような10代、20代の若い日系人は、大学とかでフロリアポリスやクリチーバ、聖市に出てしまっていて少ない」というのも原因のようだ。 (つづく、深沢正雪記者) コラム【大耳小耳】...
その後、バスは貨物専用のジョインビレ駅やキリストの心臓をかたどった教会のカーザ・ダ・コラソン、ロシアのボリショイバレエ団が持つ国外唯一の付属学校などを見学した。参加者の牧野恒司さん(73、長野)は、ジョインビレ市内を回った感想を「ヨーロッパの風情が残っていて、住みやすそうないいところだね」と奇麗でのんびりした街並みを見て語った。 昼食の前にはレストランで、参加者の小池みさ子さん(75、長野)がジョインビレ在住の筒井惇さん(78)との邂逅(かいこう)を喜ぶ場面が見られた。2人は以前よりコロニア文芸誌「椰子樹」を通した交流があったものの、顔を合わせるのは初めてだという。小池さんは「同じ短歌を詠む者としてお会いできてうれしい」と感極まった様子で、いつまでも尽きることなく会話を続けていた。 なお当地で一行を出迎えたのは、ジョインビレ日伯文化協会(佐藤マリオ会長)の会員らだ。ジョインビレ文協が設立されたのは1993年、今年で20年目の比較的新しい文協だ。ジョインビレ日本語学校は91年に当地の有志らによって設立されたので、それよりも後に同文協が設立されたということになる。 ジョインビレに暮らす日系人の多くは技師や医師、商人などの職業を持って移住してきた人であり、日系入植地があったわけでは無いことが設立が遅くなった原因だという。設立に携わった佐藤会長は、「当時の文協設立には初めてのことばかりで、多くの苦労があった」と振り返る。現在は40家族150人が会員だ。しかし、同文協も他の文協と同じく「文協を担う次世代の後継者不足」に悩んでいるという。 そういった中で最近同文協が力を注いでいるのが、2008年に設立された集(しゅう)太鼓部だ。同年、日本移民100周年記念事業として東京にある民族歌舞団「荒馬座」がジョインビレで出張公演を行ったことから、同文協で太鼓やはやしをやろうとする機運が高まったという。さらに日本政府から太鼓を寄贈を受けられたことで、集太鼓部は発足した。 現在同部に在籍する部員は35人で、10代の若者が中心だ。また、その多くを非日系人が占める。パラグアイのイグアス移住地から定期的に講師を招いているほか、毎月演奏会を開くなど、その腕を磨くことに余念が無いようだ。練習は文協会館が無いため、日本語学校で行っているようだ。(つづく、毛利健人記者) 2013年4月10日付
