ACAL(リベルダーデ文化福祉協会、池崎博文会長)と日系5団体主催の「第42回餅つき祭り」が、昨年の大みそか午前中に聖市リベルダーデ広場で開催された。 年末の風物詩である同祭には約4万人(主催者発表)が訪れ、振る舞われた紅白餅や雑煮を堪能していた。用意された2個入りの紅白餅2万袋は、午前8時半から配布されたが約2時間で底をつくほどの盛況ぶり。同様に3000杯準備された雑煮も配布から2時間余りで無くなった。 餅の準備を担当した鹿又信一(77、東京)さんは「相変わらず盛大でうれしいです。これからも日本文化を広めていくことが私の仕事」と話した。 午前10時から行われた開会式は海藤太鼓の海藤洋平さんによる大太鼓の力強いソロ演奏で幕を開けた。続いて、昨年の全伯太鼓選手権で優勝したサンミゲル・パウリスタ天竜太鼓が演奏を披露。 その後、出席した福嶌教輝在聖総領事や日系団体の各代表者、ジルベルト・カサビ前聖市長らが揃いの赤い法被を着て掛け声と共に餅をついた。 福嶌総領事はあいさつで日系社会が日本文化を伝えていることに敬意を表明した。 同祭後、来賓一行は東洋会館に場所を移し、「ブラジル移民送別の歌」、「蛍の光」、「アデウス・アノ・ベーリョ」、「1月1日の歌」を全員で合唱した後、鏡割りを行い乾杯した。 池崎会長は「皆様に毎年楽しまれている餅つき大会です。今年も順調に終わり良かった」と満足した様子で同祭を振り返っていた。 2013年1月4日付
Ano: 2013
ニッケイ新聞 2013年1月3日付け 日系5団体と在聖総領事館が共催する『2013年新年祝賀会』が元日に聖市リベルダーデ区の文協大講堂であり、各団体の代表ら約4百人が新年を祝った。 文協コーラスのリードによる日伯両国歌斉唱の後、挨拶に立った木多喜八郎文協会長は「巳年となる今年は、特徴として挙げられる冷静さと賢さで、計画を順序良くこなす年にしたい」と新年の抱負を語った。 続いて福嶌教輝総領事も「今年は移住105周年、戦後移住60周年を迎える節目の年。さらなる日系社会の発展と日伯両国の友好親善が強化される1年となることを願う」と挨拶した。 県連の園田昭憲会長による万歳三唱の後は、会場を隣接する大サロンに移して「一月一日」の合唱が行われ、賑やかに会食が開かれた。 家族とともに来場した樋田登さん(84、茨城)は「さらにたくさん日本の企業に進出してもらって、日伯の景気が一緒になって良くなっていったら最高だね」と語り、「毎年必ず参加する」という下田和子さん(75、愛知)も「趣味の社交ダンスを続けながら、カラオケダンスにも挑戦してみたい」と元気いっぱいに抱負を述べた。
ニッケイ新聞 2013年1月3日付け 東洋人街新年恒例の『第42回もちつき祭り』が昨年大晦日、聖市のリベルダーデ駅前広場で行われた。日系諸団体代表や在聖日本国総領事館の福嶌教輝総領事のほか、聖市長として任期最終日を迎えたジウベルト・カサビ氏も訪れて餅つきに参加した。紅白もちと雑煮が振舞われた会場には長蛇の列ができ、それぞれが年越しを祝いながら舌鼓を打った。主催者によれば4万人以上が訪れた。 有志の個人や日系団体から寄付されたもち米は40俵(2400キロ)で、2万袋の紅白もちと3千食の雑煮が用意された。午前9時からの配布が予定されていた会場には、6時ごろから並ぶ人がでるなど長蛇の列ができ、雑煮のバンカ前の列は100メートル以上に。 南米神宮の逢坂和男宮司によって設けられた「茅の輪くぐり」も大きな人気を博し、それぞれが大きな茅の輪をくぐって厄病を払い、神棚に祈りを捧げていた。 夫婦で訪れた栗山安敬さん(78、東京)は「二、三世以降の世代や非日系にも日本文化が浸透してきているのは嬉しいね。雑煮もまさに日本の味で格別美味しい」と笑顔を見せた。 午前10時頃からは、海藤三味太鼓の海藤洋平さんと、昨年の全伯太鼓選手権で優勝したサンミゲル・パウリスタ天竜和太鼓によるパフォーマンスが行われた。迫力のソロ演奏で会場を沸かせた海藤さんは「その場の雰囲気に合わせた即興。気持ちを込めて叩きました」と汗をぬぐった。 特設ステージ上で行われた開会式には、日系3団体の代表やカサビ市長、福嶌総領事らが出席。揃いの赤い法被を着て「ヨイショー!」の掛け声で力強く餅をついた。挨拶に立った福嶌総領事は、主催団体のリベルダーデ文化福祉協会(ACAL)に敬意を表するとともに「今日用意された餅が、皆さんにたくさんの幸運と健康をもたらしてくれることを願います」と話した。 その後来賓一行らはACAL会館に移動し、唱歌「一月一日」「ブラジル移民送別の歌」「蛍の光」を合唱するとともに、つきたてのもちを使った雑煮を食べながら年越しを祝った。ACALの池崎博文会長は「心配された天気も問題なく、最高の祭りになった。これで、新年も前向きな姿勢で進んでいける」と笑顔で話した。
◆山田会長一問一答インタビュー ―県人移住100周年及び県人会創立75周年式典日と記念事業について。 「記念式典は8月25日を予定していますが、場所は(12年12月初旬現在)未定です。当日は仏式法要を式典前に行い、式典及び歓迎昼食会の後、記念懇談 会か講演会を行いたいと思っています。記念事業は、12年12月に開催された第8回日伯交流絵画展をはじめ、各家族の家系図の作成や寺子屋教室の復活も考 えています」 ―周年事業の意義と式典開催について。 「私たちの県人会も50年ほど前から5年ごとの記念式典を開催してきました。しかし、県人会の存在意義があるのか、ないのか、誰のための団体であるの か、など再認識することなく行われてきました。その意味で今回の100周年記念式典をやるべきかどうかは随分と迷いました。100周年そのものは12年初 旬から役員や会員たちと何回も話し合いを行ってきましたが、会員も母県の関係者もどういう思いで参加するのかが分かりにくい状態です。これまでもそれぞれ の時代の式典などの記録はあるのですが、その記録の裏付けとなるものが無く、系統だった移民史もありません。何のために式典をやるのか、役員たちの名誉の ために式典をやるのか、そうしたことを大いに反省し、議論をする必要があると思います」 ―県人会のこれまでの活動と今後の役割は。 「県人会は従来、『親睦会』を名目に故郷を思う同郷の人たちが慰め合ってきました。しかし、時代も流れ、県人会の目的が単なる親睦では成り立たなくなる 中、ブラジル生まれの若い世代が県人会に入る目的は『損か得か』を考えることが基準になりがちです。若い人たちが県人会に入ってくれるのはありがたいが、 興味が無ければすぐに辞めてしまう。彼らは県人会に何を求めているのかなどの話し合いも無い中、今後の県人会の諸問題を解決していく手立てが無いというの が率直な気持ちです。県人移住100周年を通じて、それらのことを改めて見直したいと思っていますが、大変な作業になると思います」 ―母県との関係について。...
2013年に岐阜県人移住100周年、県人会創立75周年の節目を迎える岐阜県人会。26年間にわたって会長職を務める山田彦次会長は、今後の 県人会活動をどのように運営維持していくかを常に念頭に置いている。ブラジルの日系団体、特に各県人会活動が過渡期の状態にある中、従来の運営方法では先 行きがないと言い切る。同県人会の歴史を振り返るとともに、県人会の新しい方向性を模索する山田会長にインタビューした。 ◆岐阜県人会の歴史 岐阜県人会の歴史資料によると、岐阜県人が最初にブラジルに足を踏み入れたのは、1913年3月30日に神戸港出港の「若狭丸」に乗船した11家族44人となっている。その後、わずかながらも移住者が続き、30年代には岐阜県人の姿をサンパウロ市内で少しずつ見かけるようになったという。 35年ごろには当時の在留邦人の間で「名物男」と言われた岐阜市出身の坂井田南州氏(南米時報社長)が岐阜県人に呼び掛け、38年に聖市リベルダーデ区コンセリェイロ・フルタード街の旅館に約15人が集まり、「在伯岐阜県人会親睦会」を発足させたことが県人会創立の始まりとされている。 しかし、当時は交通の便や郵便事情が悪く、会員同士の横の連絡を保つために、「年1回の顔合わせがやっと」という状態だったことが記録されている。この間、第二次世界大戦の勃発により、日本人移住者は途絶え、日本語の会話や集会も禁じられた。 52年末に戦後初の日本人移住が再開され、54年7月には「在伯岐阜県人会」と改称し、県人会活動を復活させた。この間、岐阜県人会ではさまざまな行事を行い、歴代会長は山田現会長で8代に及んでいる。 11年度末現在、同県人会に登録されている会員数は351家族1578人。これは93年の実態調査を基本に推定されている部分もあるという。 2013年1月1日付
今年1年の鹿児島県人会の動き 2月24日=役員総会。2年に1度の役員総選挙が実施され、現会長の園田氏の続投か交代かが注目される。10月上旬=1週間程度を予定に母県にゆかりのある画家、森一浩さん(63)ら数人による「創立100周年記念画展」を開催。開催場所は聖市リベルダーデ区内としている。また同時期に「西郷隆盛記念シンポジウム(仮)」と題し、母県出身の人物の紹介を専門家により講演。より母県に興味を持ってもらう機会を設ける。同月20日=創立100周年祭開催。場所は未定だが、当日大型バスを用意し母県からの歓迎団を迎える。600人規模での開催を予定している。2014年初旬=創立100周年記念誌の発行。 記念誌を制作中! 担当の大羽豪三さん 100周年記念行事の一環として制作中の記念誌。制作を担当しているのは大羽豪三さん(76、鹿児島市永田町)。大羽さんは24歳まで鹿児島で過ごし、1966年に渡伯。70年から90年まで三菱重工に勤務し、94年から2010年までを日本で過ごした。制作を担当した理由について「来伯当初から同会に世話になっている。何か恩返しができれば」と心境を語った。記念誌は主に写真を多く掲載。祝辞や100周年の歩み、式典の様子を掲載する予定。表紙には森一浩画伯の2作品が載る予定で、1作品には相撲界の「行司」で立行司「木村庄之助」に就任(2年前)した母県出身の山崎敏廣さんの肖像画を載せる計画。200ページ、発行部数は2000冊として来年2月ごろに完成させたいとしている。 2013年1月1日付
今年8月、創立100周年を迎える 8月に創立100周年を迎えるブラジル鹿児島県人会。ブラジル日系社会最古の県人会であることは言わずと知れている。同会会員は約1500人、戦前移民が多いことから現在では3世、4世の若い世代の活躍が目立つ。10月20日には「創立100周年記念祭」が開催されることも決定しており、母県から伊藤祐一郎県知事を団長とした同県議員数十人を含む慶祝団が来伯する。現在、園田昭憲会長や安楽良雄同祭実行委員長を中心に、節目となる年を盛大に盛り上げようと記念行事などの調整が進められている。記念するにあたり創立100年の歴史を簡単に振り返る。 同会90周年記念誌によると1913年8月、ブラジル国が独立を宣言した「イピランガの丘」で設立式が行われたのが、ブラジル日系社会初めての「県人会」の始まりとされている。当日、式典には数十人の鹿児島県人が参加して祝福したという。 設立当時の役員は、会長に隈元維高(肝属町)、副会長・鮫島直哉(南さつま市〈旧加世田町〉)、書記・丸野政義(指宿市)。 また設立式後の鹿児島人らしいエピソードとして、サンパウロ市繁華街で夜が明けるまで祝福したという記録が残っている。その出来事から、素朴豪放で薩摩勇人(さつまはやと)の気質を感じ取ることができ、設立の喜びが伝わってくる。 なお設立当時の同会の役割は、相互扶助、病気、病害に対する医療補助、死亡見舞いなどだった。 同会設立と同時期に、聖市モルンビー区の高台に多くの同県人が入植。主に野菜や根菜類を栽培する近郊農業を行い、その後数十年間「鹿児島村」として同入植地はにぎわい、同会の役割も大きかったとしている。 同地には多い時期で約80家族が入植し、小学校も建設された。しかし30年代、電力会社により同地の土地買収が始まり入植者の大部分は、聖市サント・アマーロ区への移動を余儀なくされた。 現在、同県人らによって開拓されたモルンビーの高台にはサンパウロ州知事宅や在サンパウロ日本国総領事公邸などの各国大使館をはじめ、財閥、著名人の豪邸が建ち並ぶ高級住宅街となっている。 その後第二次世界大戦の混乱から同会消滅の危機を迎え、日本人の集会が禁止されるなどして県人会活動は一端解散に追いやられた。 終戦後、勝ち負け抗争が落ち着き「サンパウロ市及び近郊鹿児島県人会」として同会が再開したのは、52年6月まで時代はさかのぼる。 57年には戦後移住者の増加に伴い、全伯に県人会設置が必要という考えから「在伯鹿児島県人会」と改名。67年には法人化を進め現在の「ブラジル鹿児島県人会」となり、コロニア屈指の大型県人会に発展した。 時を置いた80年に念願だった県人会館を聖市パカエンブー区に建設、運営が始まった。現在でも同県人会館は同会の拠点として機能している。 2003年に聖州イタペセリカ・ダ・セーラ市立体育館で開催した同県人会創立90周年祭には約1500人が参加。母県からも100人以上の歓迎団が参加している。 90周年の際、会長を務めた田畑稔さん(80、2世)に当時の県人会の状況を聞くと、「財政的に苦しく同式典が最後になるのではないかという危機感が脳裏にあった」と述べ、「高齢化や若者の県人会離れ、出稼ぎブームなどで県人会縮小に歯止めが掛からなかった」と当時の様子を語った。 それからさらに10年が経過。07年から就任している園田会長らが中心となり経営面の立て直しを実行した。100周年を迎えるにあたり、現在安定した運営が行われている同会に田畑前会長はほっとしている様子だった。 100周年という誰も経験したことのない未知の領域に踏み込む同会。日系社会が今年の動向に注目しているのは当然のことで、年間を通じて過去の功労者に敬意を表する姿勢はもとより、今後に向けた取り組みへの姿勢が必要とされる。具体的には、高齢化や県人会離れをいかに食い止め、魅力ある県人会にできるかが大きな課題。また、母県も財政的にも苦しい状況であることは明白で、独自に運営していかなければならない。 そうした意味で、手助けもなければ競争相手も存在しない「100周年」という真っ白なスタートラインに立たされている。 2013年1月1日付
◆1世最後の移民70年祭=1978年戦後移住者は戦前移住者が築いた基盤を元に農業を始め、さまざまな分野で短期間に発展した。1978年、「1世最後の移民式典」と言われた移民 年祭は、実際には戦前移民の人たちによる戦前移民のための式典だった。聖市パカエンブー競技場に皇太子殿下ご夫妻、ガイゼル大統領を迎えて挙行した式典には7万人もの人たちが集まった。 70年代の日系コロニアは経済的な地位を確立し、母国へ錦を飾る「お里帰り訪日団」が流行していた。毎月チャーター便が両国を往復し、日本が近い存在になっていた。それでも、戦後移住者の多くは自らの社会的基盤を確立するのに苦労していた時代だったといえる。 ◆Uターン出稼ぎ顕著に=1980年代1980年代後半に誰も考えもしなかった逆流現象が日系コロニアに起こった。日本への出稼ぎだった。最初は1世のUターン現象として燎原(りょうげん)の火のごとく広がった日本就労だが、2年後には2、3世にも広がり、年間5万人以上の日系人が日本に職を求めて移動した。「デカセギ」がそのままブラジル語となり、戦前戦後を通じて70年間に日本から25万人がブラジル移住したが、わずか10年間に30万人以上の日系人が日本に移動した。 各地の日系コロニアでは、空洞化現象が顕著になり、運動会や青年部の催しが開催できなくなったり、農地が荒廃するなどさまざまな問題が社会問題化した時期でもあった。 ◆南銀、コチアなど崩壊へ=1990年代1990年代に入り、日系コロニアは経済的に安定したものの大きな変動が起こった。戦前の移民が築いたコチア産業組合、南伯産業組合などの大型農業協同組合が解散し、続いて日本人が設立し親しまれてきた南米銀行が他行に吸収合併された。 1世が築き上げた金字塔を2世の時代になり引き継ぐことの難しさを露呈した形となり、1世の落胆はことのほか大きかった。これらの組合、銀行は日系コロニアを基盤にして成長してきたことから、さまざまな分野で支援を続けてきた。ところが、解散や吸収合併により資金的援助がストップしたことから日系団体は後ろ盾を失い、活動が停滞する結果を招いた。 ◆戦後移住50周年式典開催=2003年戦後移住50周年記念式典を開催し、その流れを5年後の移民100周年につなげようと戦後移住者の中沢宏一氏(当時県連会長)、菊地義治氏(当時援協副会長)、小山昭朗氏(ブラジル工業移住者協会会長)が戦後移住50周年記念祭実行委員会を設立し、動き出したのが2002年だった。 しかし、文協から「移民の周年事業を戦前と戦後に分けるのは好ましくない」と協力を得られず、独自で計画を進めた。翌03年7月、県連主催のフェスティバル・ド・ジャポンに併せて聖州州議会において日本から4人の知事、2人の副知事をはじめ慶祝使節団が参加し、盛大に記念式典を挙行した。また、「桜とイッペーの植樹」をキャンペーンとして実施した。 2013年1月1日付
今年は戦後移住が再開され60周年を迎える。50周年記念式典は物議をかもしながらも戦後移住者の存在感を示したが、還暦を迎える今回は動きが少ない。それでも、ブラジル都道府県人会連合会は7月に実施する第16回フェスティバル・ド・ジャポン(日本祭り)のサブテーマに「戦後移住60周年」を加え、式典を開催する準備を進めている。移り来て60年―。脳裏にさまざまな思いが走馬灯のように駆け巡る。 ◆日系コロニアの再編成期=1950年代日本政府は、終戦直後から海外移住の再開を模索した。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は中国の満州移民が植民地化に加担したとして認めなかった。海外からの引き揚げ者が600万人にも上るため、政府は民間による移住組織を立ち上げ、送り出しを目指した。 これとは別に、ブラジルの場合は戦前移住した親族を頼っての呼び寄せ移住は個別に認め、1950年ごろから少数ながら移住は再開していた。 本格的な集団移住となったのが、52年年末に日本を出発した「さんとす丸」での18家族54人がブラジル戦後移住の最初となった。この移住者がアマゾンの「ジュート移民」と呼ばれる人たちだった。 ◆渡航費免除も、移住者激減=1960年代1960年、日本政府はブラジル政府との間に日伯移住協定を締結したが、戦後移住者が最も多く移住したのは59年の約1万人で、以後激減した。この理由は、日本が高度経済成長期に入り、日本国内で人手不足になったためだった。 戦後最も多く移住した時期には、渡航費は移住者の借金として返済を義務付けられていた。しかし、この借金が重くのしかかっていたため移住者は、日本政府に免除を求めたがなかなか実現せず、海外移住家族会連合会の会長で国会議員だった田中龍夫氏に懇願、田中氏ら国会議員が議員立法で渡航費の無料化を実現したのは66年になってからのことだった。
新しい日系社会の形成を 謹んで新年のお慶び申し上げます。旧年中はいろいろとご支援をいただき、心より感謝申し上げます。 海外最大の日系人集団地であるブラジルで、今年は日本移民105周年を迎え、また戦後の移住が再開されて60年になります。そこでフェスティバル・ド・ジャポン会場で、戦後移住60周年記念祭を行います。また今年は節目である県人会の行事も多くあり、日本とのいろいろな面での交流も盛んになるのではないかと思っております。 県連ではブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会、そして被災県人会である岩手、宮城、福島県人会の後援を得て昨年10月、東日本大震災の被災者への支援、被災地復興への一助として、また被災地の実情、復興の現状を実際に現地で体感し、被災地の気持ちに幾らかでも共有できるならと考え、また風評被害で苦しんでいる地を訪ね、わずかでも応援できればと「東北被災地応援ツアー」を企画し、実施いたしました。またこの企画の延長線として今年は、今回訪問した東北3県より「東北被災者招へい交流事業(仮称)」で招へいする計画が進行しております。 この交流事業が進展し、日本の各県から将来性のある若者たちが来伯し、ブラジルの人たちと交流できればと考えるものです。これまでどちらかと言えば一方通行的だった交流がますます進展するものと思います。 これからの世界、ブラジル社会を考える時、もっと大きな視野に立ち物事を考え進めていくことが大切です。いろいろな面での交流が疎遠になっていく中、新しい日系社会を形成することが大切で、近年減少傾向にあります留学生、研修員制度の継続、明日を作る青少年の短期訪日交流なども県人会などと共に訴えていきたいと思います。 また、県連では、郷土芸能、郷土食の祭典であるフェスティバル・ド・ジャポンを通じて、伝統ある郷土芸能を守ってこられた方々、郷土に永く伝わり郷愁を呼ぶ郷土食をブラジルの地に残すことをこれからも深めていきたいと思います。 また県連が20数年以上続けている「移民のふるさと巡り」も、以前行ったことのある地域も含め、新しい交流を探したいと思います。 今年も昨年同様よろしくお願い申し上げます。 2013年1月1日付
