「県連のため皆が一緒に」 ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、園田昭憲会長)は27日午後4時からサンパウロ市リベルダーデ区の文協ビル5階同事務所で3月度代表者会議ならびに第48回定期総会を開いた。各県人会代表ら約70人が出席。総会では役員改選が行われ、出席した42都道府県人会の会長により本橋幹久氏(78、鳥取県人会長)を会長とするシャッパ(候補者連記名簿)が拍手で承認された。 総会冒頭、3年間会長を務めた園田氏は「パラグアイ移民の自分がブラジル日系社会の要職に就けた。(第8回日本祭りでの裁判問題など)就任時に県連は多くの懸念材料を抱えていたが、それでも執行部役員、県人会員の皆の協力で乗り切ることができ、心から感謝したい」と述べ、「今年はW杯の後方支援、来年は日伯修好120周年、また日本祭りを継続して成功させるなど、次期執行部も不測の事態にも団結して、ますます県連を繁栄させてほしい」と期待を込めた。 東京都友会の坂和三郎会長が議長を務め総会を進行。昨年度の事業および収支報告、今年度の事業計画、予算案の審議が行われた。 昨年度の収入は約249万レアル(うち第16回日本祭りは231万)、支出は約253万レアルで、日本祭りは約11万レアルの黒字を計上した。今年度予算は約277万レアル。第17回日本祭りでは約25万レアルの赤字を織り込んでいる。いずれも承認された。 代表者会議の席上、園田会長から、安部順二下議より議員割当金10万レアルの寄付を受けられる見込みと発表された。会長は「まだ赤字であり、楽観はできないが少しずつ明るい兆しは見えている。一喜一憂せずに進めていく」と話した。 役員改選では、顧問・相談役の松尾治、与儀昭雄、小森広、長友契蔵、竹下康義5氏が選挙管理委員を務め、本橋氏を会長とする単一シャッパが出席者により拍手で承認された。 本橋氏は第2回の東山農場農業研修生として1960年に渡伯。コチア、南伯産業組合で養鶏などに携わった後は飼料メーカーに勤め、餌の開発、飼料添加物や獣医薬品の開発等にも携わった。鳥取県人会では20年以上副会長、09年から会長を務めている。 就任あいさつで本橋氏は、「会長職は本意ではないものの、引き受けたからには執行部14人全員で誠心誠意努めていく」と抱負を語り、ケネディ元米大統領の 言葉を引用し「国家が皆に何を与えてくれるかでなく、皆が国に何をできるかを問うてほしい。県連のために皆が一緒になって物事にあたっていきたい」と会員 に協力を呼び掛けた。 新執行部は次の通り。会長=本橋幹久、副会長=坂本アウグスト進(栃木)、高野ジョルジ(山梨)、杉本教雄 (静岡)、市川利雄(富山)、山田康夫(滋賀)、原島義弘(千葉)、木原好規(和歌山)、第1会計=南アゴスチンニョ俊男(福岡)、第2同=田呂丸哲次 (熊本)、第1書記=川合昭(秋田)、第2同=玉城道子(青森)。 また本橋新会長の指名により、第3会計に千田曠曉(岩手)、第3書記に杉山エレーナ(京都)が任命され、投票により正監査に大西博巳(広島)、監査補に尾西貞夫(兵庫)、小渕民雄(群馬)、田場ジョルジ(沖縄)の3人が選出された。(敬称略) 【コラム】 モザイク...
Mês: março 2014
中国ブロック5県(広島、岡山、島根、鳥取、山口)の県人会による第15回運動会が4月13日午前8時半からサンパウロ州ジアデマ市のブラジル沖縄文化センター(Av.7 de Setembro, 1670)で開催される。主催者では同5県人会の会員に限らず、広く参加を呼び掛けている。 徒競争や綱引き、タイヤころがし、リレー、嫁探しなど多彩な種目を用意。協賛企業から各種景品の寄付を受けた。会場では弁当などの食事が販売される。 案内に来社した要田武山口県人会長によれば、毎年400人ほどが参加するという。開催の準備を担当するのは、5県人会の青年部の人たち。「皆自分の会のようにやってくれます」と喜ぶ。「どなたでも参加していただいて結構です。できれば子供さんにも日系人の運動会の文化を見てほしい」と話し、参加を呼び掛けた。 当日は中古の服やおもちゃ、衛生用品、保存の効く食料品などの寄付も受け付け、集まった品物は児童施設に寄付される。 問い合わせは各県人会まで。 2014年3月29日付
ニッケイ新聞 2014年3月29日 出光興産サイトから「お客様センター」に、出光佐三の養子に「政美」がいたかどうか問い合わせると、翌日にメールで返答があった。《出光佐三の個人的な情報であるため、弊社よりお伝えすることは致しかねます》とのこと。残念ながら証明は難しいようだ。小田二三男さんは「出光佐三はもともと叔父にあたる方で、父が四男だったことから養子に入った。でも、出光家のあまりに豪華な生活振りに慣れることができず、貨物船に乗ってブラジルに飛び出してしまった。プロミッソンに入植し、その時代に総領事館で苗字を小田に戻した、と聞いています」という。《政美は1917年渡伯の福岡県人で、玄界灘の四股名で相撲界にならした》と(『富流原』86頁)にも書かれる有名人だ。ちなみに出光創業百周年の折り2011年6月20日の新聞広告には、明治生まれの気骨ある出光の名言「日本人にかえれ」との言葉が掲載された。出光佐三と同じく日本への愛情が強く、皇室崇敬が篤いコロニアからも共感を呼ぶ言葉だろう。小田さんは「父は鈴木貞次郎さん(笠戸丸以前の渡伯者)と親しく交際があり、いつも水野龍、上塚周平、平野運平ら4人のことを話していた。遺言は『コロニアのために役に立つことをしなさい』でした。私はそれを少しでも実行しようと思い、今までやってきた」と文協に土地を寄付した動機を語った。「日本人として恥じない行動を」―確かに、そんな父政美の気持ちは、どこか出光佐三を思わせる。小田さんは「ふるさと巡りのみなさんが真っ先にタウバテに来てくれ、最初に黙とうしてくれた。本当にありがたいと感激しています」と感謝の言葉を繰り返した。◎日本の文明開化は明治(1868年)と共に始まったが、ブラジルは一足早く1850年代だった。300年間も続いてきた奴隷輸入が、英国の圧力で1850年に禁止され、そこからイザベラ女王による奴隷解放令(1888年)までが、社会構造の大変革期だったからだ。伯国初の鉄道はリオ北部のマウアから避暑の都ペトロポリスのライス・ダ・セーラ間(約15キロ)まで、1854年に開通した。ちなみに聖州最初の鉄道は1867年、サントス=ジュンジャイー間で明治維新の前年だった。それに次いでセントラル線(以下、中央線)は翌1855年にリオのペドロ二世駅から敷設が開始され、1860年には聖市まで開通した。延長は約500キロもあり、豊饒なパライバ平野の産物をリオや聖市に運び、ドンペドロ二世皇帝のお召列車も通った。戦前にはミナス方面など七つの支線を持つまでになり、まさに国家経済の背骨を支える「中央線」の名に相応しい存在となった。タウバテは聖市から130キロ、リオ市まで280キロ地点に位置する古い駅町だ。米国の開拓時代は「ゴー・ウエスト!(西へ)」を標語に拓いていったが、ブラジルもやはり西へと広がった。1800年頃にリオ側から注目され始めたコーヒー産業は、1850年頃には農業の旗手とみられるようになり、リオから中央線が西方に開けるのにしたがってコーヒー耕地が聖州に広がっていった。世にいう〃オーロ・ヴェルデ(緑の黄金)の時代〃だ。『四十年史』(香山六郎編著、1949年、294頁)にはこの鉄道が文明の〃触媒〃の役割を果たしたとする。《カフェー栽培の伸び拡がった足取りを辿ると、それは鉄道の延長と歩調を合わしている。近代文明を運んで行くレールが百粁のびる毎に、珈琲の緑なす波も亦百キロひろがつて行った》とある。その後、ようやく日本移民の時代となる。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月28日 タウバテ文協会館の土地を寄付した小田二三男さん(88、二世)は現顧問として、ふるさと巡り一行の歓迎会に際し、「こんなにたくさんのお客さんを迎えたのは初めて」と威勢よく乾杯の音頭をとった。二三男さんはノロエステ線プロミッソン生まれで、3歳の時、小学校で日本語を勉強するために文化植民地に移り、一年間学んだ。北米カリフォルニア州の排日運動を嫌い、日本人クリスチャンの一団が1926年に移り住んだところだ。父の小田政美さんは福岡県出身で、「貧乏して栄養失調になり、50代で早死にした」という。タバコを吸い続けて肺ガンとなり、戦後カンポスの療養所で亡くなった。勝ち負け抗争の頃、「私はまだ20歳ぐらい。父はどちらにも付かず、パラグアス・パウリスタに家族で逃げていた」と思い出す。その後、タウバテにあった鐘ヶ江農場で2年間働き、お金を貯めて独立した。鐘ヶ江久之助は同じ福岡県(浮羽郡)の出身者であり、北米で「ポテト王」といわれた牛島謹爾(福岡県久留米出身)の雑誌記事を読んで、「俺は南米で牛島に負けない仕事をする」と渡伯した。トレメンベー地区の200アルケールの土地から始まった「ファゼンダ・リオ・ベルジ」は、「鐘ヶ江農場」として知られるようになり、伯国有数の機械化農業を実践し、一時期は1270アルケールの大農場所有者となった。『曠野の星』(53年6月、19号、51頁)によれば水田250アルケールから籾2万俵収穫、裏作にジャガイモ2万俵、トマト3万箱を生産したというからパライバ平野随一の規模だ。農場内の車道総延長は40キロもあったというから〃鐘ヶ江王国〃を築いていた。同文協50年史『盆栽』には《そこで働いた半数の日本移民は内陸部から移ってきたもので、そこで小作人として働き、鐘ヶ江から農場運営を学び、2年ほどして資金を貯めて独立していった。多くがここで小農から始めて稲作、トマト、ジャガイモで富を築いた》(8頁)とある。《鐘ヶ江農場の存在こそはコロニアの一粒の麦であった》(『富流原』85頁)とされ、小田家はその一つだった。独立農の苗床のような役割を果たし鐘ヶ江農場だったが、小田さんは「でもいろいろな法律問題が起きて、インフレで財政的につまづき、今ではほとんどなくなってしまった」と残念そうにいう。「子孫がリンコンで500アルケールほどの農場をまだ経営していると聞いています」とも。――まさに開拓の古戦場だ。父の時代のことを語る小田さんの目にはしだいに涙がたまりはじめ、必死にそれをこらえている様子が伺えた。「今までほとんど言ったことはないのですが、実は父は出光佐三の養子だったんです」と驚くべき証言をした。出光佐三(さぞう、福島県宗像郡、1885年―1981年)といえば、石油元売り会社・出光興産創業者で、最近の歴史経済小説『海賊とよばれた男』(百田尚樹、講談社、12年)のモデルともなり、再び脚光を浴びている人物だ。これが証明されれば、コロニア秘話となるだろう。さっそく日本の出光興産本社のお客様センターに問い合わせてみた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月27日 第41回県連「移民ふるさと巡り」の参加者122人(ガイドや運転手合わせ計129人)は14日午前9時に東洋街のリベルダーデ広場を出発し、4日間、リオとの間にあるパライバ平野と聖北海岸部の4日系団体と交流して回った。笠戸丸以前の安田良一や東山のピンダ農場、戦前から名を馳せた鐘ケ江農場、ノロエステ線などの奥地から戦後に多くが移動してきた経緯を含め、同地の歴史を振り返ってみた。(深沢正雪記者) 5月に103歳を迎えるタウバテ在住の斉木操さん(広島県)は「大好物はお肉ですね」とはきはきと受け答えをし、同じテーブルに居合わせたふるさと巡り一行を驚かせた。16歳で渡伯してノロエステ線リンスに入植し、なんと在伯86年だ。長寿の秘訣は「なんでも食べる」こと。マリリアを経てタウバテには1955年に入植した。最初の訪問地タウバテ日伯文化協会(漆畑哲雄オスカル会長)で14日、婦人部らの尽力で、昼食会に加えて夕食会も行われ、そんな交流の一コマが展開された。同地文協会長職が3期目となる漆畑さん(62、二世)は、日本国外務省研修生OB会の会長も兼務する。同文協50周誌『盆栽』(1997年、11頁)によれば「Sociedade Agigos de Taubate」として勝ち負け抗争のまっ最中、1947年に同会は創立している。「終戦直後、日本に救援物資を送るために30人集まったのが、日本人会発足のキッカケ。日本文化や日本精神を伝えるために活動を続けてきている」と漆畑さんは胸を張る。1954年に文協は正式登録し、タウバテのセントロに会館を作った。漆畑さんの父五郎さんは1939年、19歳で静岡県から構成家族で渡伯し、1952年にタウバテ市内でバザールを始め、セントロの会館で柔道を20年近く教えたという。哲雄さんは法科や建築など六つも大学を卒業し、タウバテ市議、同市企画経済局長、聖州税務局の監督官を長年務めて定年退職した。1954年にセントロの会館を作ったが手狭になり、1978年に小田二三男さんに現在の土地を寄付してもらい、81年から会館建設を始めた。漆畑さんは「ところが突風が吹いて屋根が飛ばされたりする不運を乗り越え、1997年の創立50周年に和田トシヒサさんらの寄付や活動の収益をつぎ込んで落成式を迎えた。この建物自体が、諸先輩の努力と汗、会員の強い絆の賜」と苦難の歴史を振り返った。日本語学校も生徒数50人を数え、漆畑会長は「半数は非日系の時代になった」という。その他、和太鼓、書道、そろばん、コンピューター、手芸、カラオケなどの教室、ゲートボールやバレーの運動もやっている。2012年10月には創立65周年を記念して慰霊法要や記念式典を祝った。「次は2017年の70周年です」と漆畑さんは表情をキリっと引き締めた。(つづく) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月26日 鳥取の本橋幹久氏が県連会長に――。ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の選挙シャッパ提出が14日午後5時に締め切られた。本橋現副会長を会長候補とする単一シャッパで、副会長、会計、書記ふくめ12人が明記されている。27日の総会で承認されれば新体制の誕生となる。 電話取材に応じた本橋氏は、「総会で決定するため今はなんとも」と話すに留まりつつ、シャッパ提出を認めた。与儀昭雄氏が11年に沖縄県人会長を退任。定款上、県連会長を辞任したことから、本橋氏が強く推されていたが、健康上の理由で辞退した経緯がある。 その任を受け継ぎ、2期を全うした園田現会長(鹿児島)は、事務所移転、6月のW杯に向けた邦人保護の委員会設立など、「在任中に形を整え、引き継ぎたい」と語ってきた。「裁判問題や毎年の日本祭りが大変だった」と振り返り、「今後は鹿児島県人会のために尽くしたい」と話した。赤字を見込む日本祭りについて、「成功に向けて最後まで協力する」と、新体制を支える考えだ。 日本祭り実行委員長として、新体制発足後も引き続き尽力する山田康夫氏(滋賀)は本橋氏について、「まじめで芯を持って取り組む姿勢をもった人」と印象を語り、副会長の杉本教雄氏(静岡)も「みんなで選んだ人ですから」と信頼を寄せている。
ニッケイ新聞 2014年3月21日 大阪なにわ会(下平尾哲男会長)は16日午後に同会館で総会を開き、兼ねてから懸案事項であった会館の第三者への賃貸の件について話し合った。メトロ駅すぐ近くという好立地で、大講堂も備えていることから、次世代をみすえて有効に活用するための議論が以前から行なわれていた。約30人が出席し、会の今後について熱心に話し合った。 開会の辞後に先没者に1分間の黙祷が捧げられ、予定されていた昨年度事業報告の前に、下平尾会長から会館賃貸に関する報告として、「現在は経済的な問題は何もないが、行く先も磐石とは言えない。益々の発展と、代替わりした後の次世代の為に、その準備として会館を第三者に賃貸する事と決めた」との話が飛び出した。以前よりささやかれていたが、会員達の関心もこの件に集中していたようで、それから白熱した質疑応答が繰り返された。移転先の新会館(候補地サンタクルス駅周辺)にも議論は向けられ、移転や改修にかかる費用の捻出、事業縮小化なども心配された。しかし、下平尾会長は「金銭的な面に関しては何も心配する事はない。事業に関してもカラオケ大会などへの会館の貸し出しは出来ない規模だが、会員が今まで通り使う事には何の問題もない」との説明があった。同会館は下平尾会長の父である初代会長、故・数行氏が、私財を投じて建設にこぎ着けた思い出深い建物。この決断は会としても苦汁のものであろうが、「父は会の発足、会館の落成に全精力を捧げた。会館を継続して使う事も大切だが、会の継続が最重要事項、父の遺志を継いで行きたい」と会長が語ると会場から拍手が起きた。なお会館の賃貸は決定事項であるが、その具体的な予定期日は全くの未定。新会館に移転後、現会館の事業を全て移す。下平尾会長は「5年先、10年先になるかもしれない」とした。その他、昨年の会計報告では収入18万6180レ、支出15万5549レ、3万631レが繰り越された。その他、昨年の事業報告、本年度事業計画が説明され、承認を受けた。
ニッケイ新聞 2014年3月21日 元新潟県人会会長の柿島昭三さんが12日、尿道疾患のため逝去した。19日にスザノ市サンセバスチャン墓地に埋葬された。享年85。 戦後の勝ち負け抗争で不和をきたしていた日系社会の融和のため、1956年にカトリック教の修道会「神言会」から5年契約で当地に派遣された。サンパウロ、パラナ州を中心に伝道活動を行った後、60年にスザノ市に移り住み、時計店「ボニファシオ」を30年近く営んだ。 同地文協では2期会長に就任。新潟県人会の創立当初からの会員で、百周年時には会長として日本との交流に尽力した。 初七日ミサは23日午前7時から、同市のサンセバスチャン教会(Praca Joao Pessoa, s/ n, Centro)で執り行われる。
ニッケイ新聞 2014年3月18日 鹿児島県人会(園田昭憲会長)は9日、「定例役員会・定期総会」を同会館で開いた。昨年度の収入は24万2582・13レに繰越金が加算され合計45万9004・93レ。支出は27万8567・29レで、18万437・64レが次年度繰り越しとなった。100周年記念誌の進捗状況を大羽豪三担当は「昨年の百周年式典も含め原稿は提出済み。現在翻訳中で、今月末から第1次校正し、来月末に印刷を開始できれば」と報告した。百周年を機会に、県費留学生が今年から2枠に増設された。松本シンチアさん(26、三世)、園田あきなさん(同、二世)が紹介され、4月から10カ月間それぞれ薬学、教育学を学ぶ。2人は「留学できるのは、皆さんや県の協力あってこそ。県に感謝します」とあいさつした。会館に関して園田会長は、「身の丈にあった会館を」と再度強調したが、売却が難航している様相を伝えた。最後に同氏は、3月で県連会長退任の予定を報告し、「県人会長は残り1年。これまで県連で忙しかった分、会のために働きたい」と述べた。
【福岡発・吉永拓哉福岡支局長】(公財)福岡県国際交流センター主催による「平成25年度福岡県移住者子弟留学生留学証書授与式」が15日、福岡市内の西鉄グランドホテルで行われた。 この日は留学生の親族をはじめ、留学期間中の世話役を務めた福岡県海外移住家族会、身元保証人、学校関係者ら約50人が出席した。 主催者の新宮松比古同センター理事長は挨拶で、昨年10月に福岡市で開催された海外福岡県人会世界大会の際に留学生たちが運営を手伝ったことへの感謝の意を伝え、「帰国しても福岡の友を大事にし、母国と福岡を繋ぐ懸け橋として頑張ってほしい」とエールを送った。 続いて武藤英治同家族会会長の来賓あいさつのあと、留学生たちが壇上へと上がった。 この日、新宮理事長から留学証書を授与されたのはブラジル福岡県人会子弟の細江タニア(29、九州観光専門学校)、松延理恵(24、九州産業大学)、上田ブルナ(23、同)、横尾ロナルド(26、九州大学)さんの4人ほか、南米北米の福岡県人会子弟ら4人。 留学生たちはその後、1人ずつプロジェクターを使って思い出写真を見せながら留学成果報告を行った。 日系3世の横尾さんは昨年の夏休みに全国の観光名所巡りを行った。「日本は小さな国ですが、文化は多種多様で驚きの連続だった」と会場の出席者たちに話した。 サンパウロ州バルゼン・グランデ・パウリスタ市出身の細江さんは「移住家族会の皆さんとは血のつながりはないけれど、第2の家族のようでした」と、涙ぐみながら1年を振り返った。 留学証書授与式のあとは送別会が開かれ、留学生と出席者たちが共に別れを惜しんだ。 2014年3月20日付
園田昭憲会長の退任に伴い、27日の定期総会で行われるブラジル日本都道府県人会連合会の役員改選に向けたシャッパ(候補者連記名簿)提出が14日午後6時で締め切られた。締切までに提出されたのは、本橋幹久・現副会長を会長とするシャッパのみ。総会で会員による承認が行われる。 2014年3月15日付
ニッケイ新聞 2014年3月15日 ブラジル熊本県人会が9日午後、同会館で行なった農業研修生紹介式に約40人が参加し、到着を喜んだ。同研修は2007年に熊本県人会によって企画され、今年から熊本県の協力のもと受け入れが始まった。 「くまもと農業塾」所属の橋本龍生さん(37)と入江徹さん(33)は8日から21日まで、聖州内の農場で経営ノウハウを学ぶ。 橋本さんは上益城郡でハウス施設栽培によるトマト農場を経営する。「日本には無い最新技術を使った大規模農場経営に興味がある。産業として発展していくブラジルの農業を学び、日本での儲かる農業の実践に役立てたい」と意気込む。 入江さんは八代市でレタス、水稲、スイートコーンを栽培する。「少しでも多くを吸収して熊本を良く出来るよう頑張る」と郷土への使命感を表した。 田呂丸哲次会長は「日伯の違いを知り、ブラジルの良いところを日本で役立てて欲しい。交流を作る事が県人会の役割。この活動は毎年続けたい」と研修事業の実現を喜んだ。
ニッケイ新聞 2014年3月14日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の代表者会議が27日、文協ビル会議室で開かれた。1月度の会計報告の後、『第17回日本祭り』についての話し合いが行われた。 25万レアルが見込まれる赤字について「人件費や雑費などもっと経費削減できるはず」「次回以降規模縮小も考えなければ」という声が挙がり、山田康夫実行委員長(滋賀)は「実行委だけでなく、県人会や個人でも企業呼びかけをして欲しい」と、更なる理解と協力を求めた。 留学生・研修生実態調査の報告では本橋幹久氏(鳥取)が、「アンケート調査に回答していない県が数県あり、未だ連絡が無い県もある」と、アンケートの提出を再度呼びかけた。 その後、新たに県人会会長となった白又考範(神奈川)、高橋久子(宮崎)、栗崎邦彦(長崎)3氏の紹介が行われた。また、佐賀も西山実氏が新たに会長職に就く。 今月27日の定期総会では、定款上、園田会長が職を退くため役員改選が行われる。シャッパ提出は同月14日17時までとなる。
今年1月に91歳で死去した小野田寛郎氏(元陸軍少尉)の追悼ミサが12日午前11時からサンパウロ(聖)市のサンゴンサロ教会で執り行われた。親交のあったブラジルの関係者ら約60人が出席。在聖総領事館の佐野浩明首席領事や、また牧場のあるマット・グロッソ・ド・スル(南マ)州や、ブラジリアなど遠方からも訪れ、故人の冥福を祈った。 1944年に遊撃戦指揮の任務を受けてフィリピン・ルバング島に赴任した小野田さんは、終戦後も29年間同島で戦闘を続け、日本へ帰還した翌75年に兄のいるブラジルへ移住した。 南マ州カンポ・グランデ郊外のバルゼア・アレグレ移住地で開拓に挑み、牧場経営を軌道に乗せる一方、同地日本人会の初代会長として農村電化などにも尽力。84年からは日本で「小野田自然塾」の活動を始め、野外活動を通じた青少年の育成に長年取り組んできた。 今回の追悼ミサは聖市の主要日系団体や小野田さんの出身の和歌山県人会、小野田自然塾など計11団体が主催。祭壇の手前には、フィリピンから戻った当時からの小野田さんの写真が並べられた。同教会は町枝夫人と結婚式を挙げた場所でもある。ミサを執り行ったフレイ・アレシオ神父は「このミサを通して心を一つに、小野田さんの永遠の冥福を祈りましょう」と語りかけた。 「日系およびブラジル社会の善のために貢献された小野田さんの素晴らしい人生を末永く人々に伝えられるように」など、6人による共同祈願に続き、最後に主催団体を代表して園田昭憲ブラジル日本都道府県人会連合会会長があいさつ。出席者への感謝とともに、「ブラジル、日系社会の存在を日本に広く知らしめた」と同氏の貢献をたたえた。 移住する飛行機で同行して以来親交のあった尾和義三郎・南米通信社代表は、「毎週2人でサンパウロから牧場の土地に行って木を倒した」と開拓当時を思い出し、「忙しい中たくさんの人が来てくれた。小野田さんの人間性だと思う」と話す。「ブラジルに来るたびいつも出迎えに行っていた」という尾西貞夫・援協副会長も「これだけ来てくれてありがたい」と感謝した。 この日は、25年にわたって牧場の管理を続けてきた佐藤晋平さん(65、福島)も南マ州から訪れた。自然塾の活動を始めてからは日本の冬の時期だけブラジルで過ごしていた小野田さん。「人に任せたら口一つはさまない人。金は出しても口は出さない。だからやりよかった。土地が売れるぐらいまで生きてほしかった」と同氏をしのんだ。 ブラジリアから訪れた柴田アゴスチーニョ退役空軍少将は、2008年に東京で行われた移民100周年式典に共に参加したという。「ブラジリアへ来る時はいつも話をさせてもらった。僕にとってはベテラン。僕がいつも世話になっていた」と振り返り、「今日は来て良かったと思います」と話していた。 2014年3月14日付
ニッケイ新聞 2014年3月12日 「復興に向け、着実に一歩ずつ」。岩手、宮城、福島の3県人会が11日午後2時から、宮城県人会館で『東日本大震災3周忌追悼式』を行った。震災発生日に合わせた平日開催にも関わらず、約100人が集まり犠牲者に黙とうを捧げた。防災関係者による講習や、各県知事から復興に向けた近況報告も寄せられ、3県は当地からの支援に感謝する一方、復興に向けた着実な成果を報告した。 岩手県人会の千田昿暁会長があいさつに立ち、「未曾有の被害から丸3年。故郷に戻れない苦しさを抱える中での生活が続くが、平穏な日々が1日でも早く戻るよう願う」と述べ、黙とうが捧げられた。県連を代表しあいさつに立った秋田県人会の川合昭会長は、「復興に立ち向かう姿勢は、同じ東北人として誇りに思う。がんばれ日本、がんばれ東北!」と力強くエールを送った。そのほか日系団体関係者、在聖総領事館から佐野浩明首席領事、ブラジル国防局からアルミン・ブラウン局長代理もかけつけ、同氏は「自然災害に対する日本の対応力は世界一だと思う。我々は日本から防災を学び、政府は子どもたちへの防災教育を強化している。明るい未来のため、被災地の早期復旧を心から信じている」と願った。3県知事からの現状報告で岩手県の達増(たっそ)拓也知事は、「水産業の水揚げ量は平年の約7割まで回復。4月には三陸鉄道が全面開通する」と明るい話題を提供し、宮城県の村井嘉浩知事は「今年度までに、災害廃棄物の処理が完了する見込み」と復旧に向け着実な成果を挙げている様子を発表した。原発事故のあった福島県の佐藤雄平知事は、「風評被害はいまだ根強い」としながら、実証実験が始まった洋上風力発電に触れ、「新たな産業を創出する取り組みも動き出している」と報告した。震災以降に撮影された被災地の映像が放映され、仮説住宅や復旧が進む港町、被災により雑草の生える宮城県仙台市内、中浜小学校の建物だけが残った同県山元町の様子などが紹介された。最後に福島県人会の永山八郎会長が各関係者への感謝を示し閉会。宮城県人会の中沢宏一会長は、「帰郷したいという被災者が減る中、女川町は従来の計画から規模を縮小し、復興の成功例とされている。震災前の街から形を変えながらでも、柔軟な復旧が必要だ」と語った。 海と大地と共に生きる故郷=岩手県 達増拓也知事 東日本大震災3周忌追悼式が、ここサンパウロにおいて開催されますことを、岩手県民を代表して心から御礼申し上げます。震災での津波発災以降、ブラジルの皆様をはじめ、世界各地からたくさんの温かいお見舞いや激励、義援金の提供など、改めて心から感謝申し上げます。発災から本日で3年となりますが、岩手県においてはこれまで「安全」「暮らし」「なりわい」の3つの原則に基づいて、復興の基盤づくりに全力で取り組んできました。その結果、災害廃棄物の処理に目途が付き、応急仮設住宅からの移転先となる、災害公営住宅では敷地となる事業用地の約6割を取得し、さらに水産業の水揚げ量は平年の約7割まで回復しています。一部運行していた三陸鉄道も4月には全線が復旧します。これからは将来にわたって持続可能な、地域社会の構築を目指す「本格復興」に取り組む期間です。県ではその一年目となる今年を、「本格復興推進年」としています。復興計画に掲げる復興の目指す姿、「いのちを守り 海と大地と共に生きる ふるさと岩手・三陸の創造」を実現するため、住民が復興に参画し、県民がひとつとなって進んで参りますので、より多くの皆様の一層の御支援、御協力をお願いするものであります。結びに、この度の3周忌追悼式の開催に御尽力されました、関係者の皆様に深く感謝申し上げますとともに、御参会の皆様方のますますの御活躍と御健勝を心からお祈り申し上げます。 今も応急仮設住宅暮らし多い=宮城県 村井嘉浩知事 本日、ブラジル宮城県人会をはじめとする東日本大震災の被災3県人会共催の下、本式典を開催いただきますことに、心から感謝申し上げます。時間の経過とともに、震災の記憶の風化が懸念される中、多くの皆様の御尽力により、遠く離れた御地ブラジルでこのような催しが開催されますことは、被災地で復興・復旧に取り組む私たちにとりまして、大変励まされるものであります。震災から早くも3年が経過いたしますが、沿岸部を中心に今なお多くの方々が応急仮設住宅などでの不自由な暮らしを余儀なくされており、経済活動の基盤回復についても、まだまだ課題を抱えた状況にあります。しかしこうした中におきましても、本県では今年度までに、災害廃棄物の処理が完了する見込みとなるなど、復旧・復興への歩みは着実に進んでおります。今後も被災者の生活再生に向けた施設の復旧・復興やまちづくりを一層加速させるとともに、創造的な復興に向け県民一丸となって取り組んでまいりますので、引き続き御支援を賜りますようお願い申し上げます。 新産業を創出する取り組み=福島県 佐藤雄平知事 本日ここに東日本大震災3周忌追悼式が執り行われるに当たり、福島県民を代表し、謹んで追悼の言葉を捧げます。開催に御尽力いただきました3県人会を始め、関係者の皆様に心から敬意と感謝の意を表します。県では地震と津波、原発事故により、あらゆる分野で甚大な被害を受け、風評も根強く残るなど厳しい状態が続いております。一方世界中の方々から温かいご支援と、県民の努力により、着実に元気を取り戻してまいりました。企業の生産活動や、観光地の賑わいも戻りつつあります。本県沖では、世界最大規模となる浮体式洋上風力発電の実証実験が始まり、再生可能エネルギーや医療機器関連といった本県の未来を拓く鍵となる新たな産業を創出する取り組みも動き出しております。県内農産物につきましても、米の全量全袋検査を始めとして、生産、流通、消費の各段階において放射性物質検査をしっかりと行うことにより、国内外の皆様に安心して食べていただけるよう取り組んでおります。環境の回復、農林水産業の再生、観光の振興、雇用の創出などを着実に進め、一日も早く復興を成し遂げてまいりたいと考えております。福島に思いを寄せてくださる方がいらっしゃること、これが復興への大きな支えとなります。これからも「ふくしまから はじめよう。」〃Future From Fukushima.〃を合言葉に、全力で取り組んでまいりますので、引き続きご支援をいただきますようお願い申し上げます。
動画ニュースはこちらhttp://www3.nhk.or.jp/news/html/20140313/k10015936161000.html 戦後29年目に生還し、ことし1月に亡くなった、元日本兵の小野田寛郎さんを追悼するミサが12日、小野田さんが暮らしていたブラジルで行われ、日本とブラジルの懸け橋としても活躍した小野田さんの死を悼みました。 小野田さんは、昭和19年、日本陸軍少尉として派遣されたフィリピンのルバング島で、終戦から30年近くの間ジャングルに身を隠したあと、昭和49年に日本に帰国しました。 帰国後はブラジルに移り住んで牧場を経営したほか、現地の日本人会を立ち上げるなど、ことし1月に91歳で亡くなるまで日本とブラジルの懸け橋として活躍し、ブラジルの日系人からも親しまれていました。 12日のミサは、小野田さんが結婚式を挙げたブラジルのサンパウロにある教会で行われ、現地の日系人団体の代表らが「ブラジルの日系社会、およびブラジルに貢献された小野田さんを追悼します」と述べました。 そして、およそ50人の参列者たちが聖歌を歌って小野田さんの死を悼みました。 小野田さんがブラジルに移住した時からの知り合いだという男性は「小野田さんは真っ白な紙のような純粋な人だった。ブラジルの日系社会で広く愛されていたので、亡くなられて非常に残念です」と話していました。
120人が追悼捧げる 東日本大震災から3年が経過した11日は日本国内のみならず、世界各国で犠牲者を追悼する行事が開かれた。同日、ここブラジルでも岩手、宮城、福島の3県人会の共催による追悼式が午後2時からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の宮城県人会館で行われ、約120人が出席した。式を通じて「東北がんばれ」とブラジルから被災地にメッセージを発信した。 式には日本政府を代表して佐野浩明・在聖総領事館首席領事が出席したほか、深野昭国際交流基金聖文化センター所長、菊地義治援協会長、森田隆ブラジル被爆者平和協会会長、小倉タダシ聖州技術研究所防災研究員らが来賓として出席した。 式開始の言葉で岩手県人会の千田曠曉会長は、震災によって命を奪われた人たちの冥福を祈り「私たち日系人にとっても故郷を思う心は一つです」と思いを述べた。続けて震災で命を落とした犠牲者に対して1分間の黙とうが捧げられた。 日本政府を代表してあいさつに立った佐野首席領事は「日本から遠く離れたブラジルで震災から3年たった今なお、こういう追悼を行っていただけるということ自体が、われわれ日本政府、日本の国民からしてもありがたく心強いことかと思う」と、言葉を添えた。 県連を代表して河合昭秋田県人会会長は「早いものであの日から3年を迎えたが、震災で被害に遭われた方々、私たちブラジル日系人はあなたたちのこ とを決して忘れません。そしてできるだけの支援を続けたいと思っております」と語り、言葉の最後は「日本がんばれ、東北がんばれ」と語気を強めてメッセー ジを送った。 その後、被災3県知事から寄せられた被災地復興状況報告メッセージが各県人会員の代読により報告され、時間の経過とともに着実に復興が進む各県の状況が伝えられた。 また小倉タダシ聖州防災研究員による「東日本大震災の教訓」と題したブラジルの防災に関した講演と、中沢宏一宮城県人会会長による「ブラジルと東日本大震 災」と題したスピーチの場が設けられた。最後は式出席者全員でNHKの復興支援ソング「花は咲く」を合唱し全プログラムを終えた。 【コラム】 モザイク 11日に行われた東日本大震災追悼式は「予想以上に多くの人が参加した」と式主催関係者が驚いた表情で発言していたが、震災から3年がたった現在でも原発の問題や26万人以上が故郷に帰れない状況を心配している人が多い証拠なのかもしれない。震災のこと以外でも当てはまるのだが、ブラジルに来て感じるのは、日本に住む日本人以上に日本を心配している人が多いということ。この事実を日本に伝えるためにも引き続き、震災に関する活動を続けてほしい。 2014年3月13日付
【福井発】福井県日伯友好協会(前田康博会長)は7日、福井市内の料亭寿ゞ屋で2013年度福井県海外技術研修員として南米から来ている藤沢クラウジオさん(25、サンパウロ州出身)、滝沢カロリナさん(20、同)、吉田生田マリアネさん(同)、平グラシエラさん(26、アルゼンチン出身)の「慰労・惜別・激励の会」を開いた。 日系人の4人は昨年の夏以来、父祖の地で8カ月間にわたり、デザインや菓子製造などの企業で研修した。 今月末にはそれぞれが帰国することから、福井県で世話役を務めた同協会が別れを惜しんで一席設けたもの。 この日は前田会長、山本達雄事務局長ら同協会メンバーのほか、福井県議会議員や栗田幸雄福井県国際交流協会会長など多数の関係者が出席した。 4人は上達した日本語であいさつし、「研修の成果を南米で生かして先輩研修員OBのように成功したい」と力強く抱負を述べ、出席者たちに感謝の意を伝えた。 また席上、今月ブラジルから福井県を訪問する予定の全伯和太鼓チャンピオン「飛翔」(コロニア・ピニャール福井村)に贈呈する半被(はっぴ)が披露された。 半被は「ブラジルチャンピオンに着せるのにふさわしいものを」と同協会が高級な生地を使用し17着を用意した。渋い紺色をベースにした半被は、この日の主役でもある藤沢さんがデザインしたもの。研修生としてグラフィックデザインを専攻していたため、同協会が彼に依頼した。 藤沢さんは「私も飛翔と同じコロニア・ピニャール福井村出身です」と述べ、出席者から拍手が送られた。 2014年3月13日付
大阪なにわ会は16日午後2時(第2次招集)からサンパウロ市ビラ・マリアナ区の同会館(Rua Domingos de Mora is.1581)で定期総会を開く。主な議題は2013年度事業・会計報告、今年度事業計画の審議、新会長、副会長、会計理事の選挙など。 2014年3月13日付
県人移住100周年の協力に感謝 ブラジル岐阜県人会の2014年度定期総会が2月16日午前10時半(第2次招集)からサンパウロ市リベルダーデ区のニッケイパレスホテルで開かれ、役員改選では唯一のシャッパを提出していた山田彦次会長の13期目となる長期続投が決定した。山田会長は「会員の皆さんが自分たちの県人会だという思いを持っていただかないと会は発展しない」と述べ、出席した約20人の会員に向けてさらなる協力を呼び掛けた。 総会では、開会宣言の後に山田会長があいさつし、昨年8月に開催された岐阜県人移住100周年、県人会創立75周年で「若い人たちが縁の下の力持ちとなり、会員の方々にご苦労かけたことに感謝している」と述べた。 13年度事業報告に続いて13年度会計報告が行われ、前年度繰越金(46万6866.94レアル)を含めた収入が73万8320.87レアル、支出18万8549.70レアルで、54万9772.17レアルが次期繰越金となることが発表された。 出席者からは、会費(年間150レアル)収入が9900レアルと66人分しか計上されていないことについて、現在の県人会員登録者数が何人なのか という質問もあった。これについて理事会及び事務局からは、登録数は約400人で定款上は2年以上会費を払わない人は会員資格を失うが、年度末に会費を収 める人や長年日本に行っていた人が5~6年分の会費を一挙に払うケースもあるとし、「会員に対する強制権がなく、会費を払うのはあくまで任意で行っても らっている」(山田会長)と説明した。 また、毎月発行しているボレチン(会報)の発行部数を問う声もあった。これについ ても、理事会及び事務局が現在、岐阜県内の市町村、ブラジルの日系団体や会員を含めて毎月約440通を発送していることが発表。会員と県人会をつなぐ重要 な手段であるとし、発行継続についての多数決の結果、今後も継続していくことが決定した。 会員からはボレチン発行とともに県人会のウェブサイトを活用した電子メールの利用を促す声もあったが、現状では電子メールで問い合わせがあるのは月数件にとどまっているという。 14年度事業計画案の後、14年度予算案が発表。10万9700レアルが承認された。 役員改選では、締め切り日の今月6日までに提出された山田会長をはじめとする現役役員のシャッパが承認され、山田会長の13期目続投が決定した。 山田会長は就任あいさつの中で、「会長を引き受けるにあたって、4年前も2年前もシャッパも出すことなく総会の席上で現役執行部がそのまま継続することが 続いてきた。今回は別のシャッパが出ることを期待したが、誰も会長に手を挙げないならシャッパを提出しなければ県庁に対しても不利になると考えた」と唯一 のシャッパを提出したことの理由を説明。「会員の皆さんが自分たちの県人会という思いを持っていただかないと、今後の県人会の発展はない」と強調し、会へ...
