06/03/2026

Dia: 31 de março de 2014

「県連のため皆が一緒に」 ブラジル日本都道府県人会連合会(県連、園田昭憲会長)は27日午後4時からサンパウロ市リベルダーデ区の文協ビル5階同事務所で3月度代表者会議ならびに第48回定期総会を開いた。各県人会代表ら約70人が出席。総会では役員改選が行われ、出席した42都道府県人会の会長により本橋幹久氏(78、鳥取県人会長)を会長とするシャッパ(候補者連記名簿)が拍手で承認された。 総会冒頭、3年間会長を務めた園田氏は「パラグアイ移民の自分がブラジル日系社会の要職に就けた。(第8回日本祭りでの裁判問題など)就任時に県連は多くの懸念材料を抱えていたが、それでも執行部役員、県人会員の皆の協力で乗り切ることができ、心から感謝したい」と述べ、「今年はW杯の後方支援、来年は日伯修好120周年、また日本祭りを継続して成功させるなど、次期執行部も不測の事態にも団結して、ますます県連を繁栄させてほしい」と期待を込めた。 東京都友会の坂和三郎会長が議長を務め総会を進行。昨年度の事業および収支報告、今年度の事業計画、予算案の審議が行われた。 昨年度の収入は約249万レアル(うち第16回日本祭りは231万)、支出は約253万レアルで、日本祭りは約11万レアルの黒字を計上した。今年度予算は約277万レアル。第17回日本祭りでは約25万レアルの赤字を織り込んでいる。いずれも承認された。 代表者会議の席上、園田会長から、安部順二下議より議員割当金10万レアルの寄付を受けられる見込みと発表された。会長は「まだ赤字であり、楽観はできないが少しずつ明るい兆しは見えている。一喜一憂せずに進めていく」と話した。 役員改選では、顧問・相談役の松尾治、与儀昭雄、小森広、長友契蔵、竹下康義5氏が選挙管理委員を務め、本橋氏を会長とする単一シャッパが出席者により拍手で承認された。 本橋氏は第2回の東山農場農業研修生として1960年に渡伯。コチア、南伯産業組合で養鶏などに携わった後は飼料メーカーに勤め、餌の開発、飼料添加物や獣医薬品の開発等にも携わった。鳥取県人会では20年以上副会長、09年から会長を務めている。 就任あいさつで本橋氏は、「会長職は本意ではないものの、引き受けたからには執行部14人全員で誠心誠意努めていく」と抱負を語り、ケネディ元米大統領の 言葉を引用し「国家が皆に何を与えてくれるかでなく、皆が国に何をできるかを問うてほしい。県連のために皆が一緒になって物事にあたっていきたい」と会員 に協力を呼び掛けた。 新執行部は次の通り。会長=本橋幹久、副会長=坂本アウグスト進(栃木)、高野ジョルジ(山梨)、杉本教雄 (静岡)、市川利雄(富山)、山田康夫(滋賀)、原島義弘(千葉)、木原好規(和歌山)、第1会計=南アゴスチンニョ俊男(福岡)、第2同=田呂丸哲次 (熊本)、第1書記=川合昭(秋田)、第2同=玉城道子(青森)。 また本橋新会長の指名により、第3会計に千田曠曉(岩手)、第3書記に杉山エレーナ(京都)が任命され、投票により正監査に大西博巳(広島)、監査補に尾西貞夫(兵庫)、小渕民雄(群馬)、田場ジョルジ(沖縄)の3人が選出された。(敬称略)   【コラム】 モザイク...
中国ブロック5県(広島、岡山、島根、鳥取、山口)の県人会による第15回運動会が4月13日午前8時半からサンパウロ州ジアデマ市のブラジル沖縄文化センター(Av.7 de Setembro, 1670)で開催される。主催者では同5県人会の会員に限らず、広く参加を呼び掛けている。 徒競争や綱引き、タイヤころがし、リレー、嫁探しなど多彩な種目を用意。協賛企業から各種景品の寄付を受けた。会場では弁当などの食事が販売される。 案内に来社した要田武山口県人会長によれば、毎年400人ほどが参加するという。開催の準備を担当するのは、5県人会の青年部の人たち。「皆自分の会のようにやってくれます」と喜ぶ。「どなたでも参加していただいて結構です。できれば子供さんにも日系人の運動会の文化を見てほしい」と話し、参加を呼び掛けた。 当日は中古の服やおもちゃ、衛生用品、保存の効く食料品などの寄付も受け付け、集まった品物は児童施設に寄付される。 問い合わせは各県人会まで。 2014年3月29日付
ニッケイ新聞 2014年3月29日 出光興産サイトから「お客様センター」に、出光佐三の養子に「政美」がいたかどうか問い合わせると、翌日にメールで返答があった。《出光佐三の個人的な情報であるため、弊社よりお伝えすることは致しかねます》とのこと。残念ながら証明は難しいようだ。小田二三男さんは「出光佐三はもともと叔父にあたる方で、父が四男だったことから養子に入った。でも、出光家のあまりに豪華な生活振りに慣れることができず、貨物船に乗ってブラジルに飛び出してしまった。プロミッソンに入植し、その時代に総領事館で苗字を小田に戻した、と聞いています」という。《政美は1917年渡伯の福岡県人で、玄界灘の四股名で相撲界にならした》と(『富流原』86頁)にも書かれる有名人だ。ちなみに出光創業百周年の折り2011年6月20日の新聞広告には、明治生まれの気骨ある出光の名言「日本人にかえれ」との言葉が掲載された。出光佐三と同じく日本への愛情が強く、皇室崇敬が篤いコロニアからも共感を呼ぶ言葉だろう。小田さんは「父は鈴木貞次郎さん(笠戸丸以前の渡伯者)と親しく交際があり、いつも水野龍、上塚周平、平野運平ら4人のことを話していた。遺言は『コロニアのために役に立つことをしなさい』でした。私はそれを少しでも実行しようと思い、今までやってきた」と文協に土地を寄付した動機を語った。「日本人として恥じない行動を」―確かに、そんな父政美の気持ちは、どこか出光佐三を思わせる。小田さんは「ふるさと巡りのみなさんが真っ先にタウバテに来てくれ、最初に黙とうしてくれた。本当にありがたいと感激しています」と感謝の言葉を繰り返した。◎日本の文明開化は明治(1868年)と共に始まったが、ブラジルは一足早く1850年代だった。300年間も続いてきた奴隷輸入が、英国の圧力で1850年に禁止され、そこからイザベラ女王による奴隷解放令(1888年)までが、社会構造の大変革期だったからだ。伯国初の鉄道はリオ北部のマウアから避暑の都ペトロポリスのライス・ダ・セーラ間(約15キロ)まで、1854年に開通した。ちなみに聖州最初の鉄道は1867年、サントス=ジュンジャイー間で明治維新の前年だった。それに次いでセントラル線(以下、中央線)は翌1855年にリオのペドロ二世駅から敷設が開始され、1860年には聖市まで開通した。延長は約500キロもあり、豊饒なパライバ平野の産物をリオや聖市に運び、ドンペドロ二世皇帝のお召列車も通った。戦前にはミナス方面など七つの支線を持つまでになり、まさに国家経済の背骨を支える「中央線」の名に相応しい存在となった。タウバテは聖市から130キロ、リオ市まで280キロ地点に位置する古い駅町だ。米国の開拓時代は「ゴー・ウエスト!(西へ)」を標語に拓いていったが、ブラジルもやはり西へと広がった。1800年頃にリオ側から注目され始めたコーヒー産業は、1850年頃には農業の旗手とみられるようになり、リオから中央線が西方に開けるのにしたがってコーヒー耕地が聖州に広がっていった。世にいう〃オーロ・ヴェルデ(緑の黄金)の時代〃だ。『四十年史』(香山六郎編著、1949年、294頁)にはこの鉄道が文明の〃触媒〃の役割を果たしたとする。《カフェー栽培の伸び拡がった足取りを辿ると、それは鉄道の延長と歩調を合わしている。近代文明を運んで行くレールが百粁のびる毎に、珈琲の緑なす波も亦百キロひろがつて行った》とある。その後、ようやく日本移民の時代となる。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月28日 タウバテ文協会館の土地を寄付した小田二三男さん(88、二世)は現顧問として、ふるさと巡り一行の歓迎会に際し、「こんなにたくさんのお客さんを迎えたのは初めて」と威勢よく乾杯の音頭をとった。二三男さんはノロエステ線プロミッソン生まれで、3歳の時、小学校で日本語を勉強するために文化植民地に移り、一年間学んだ。北米カリフォルニア州の排日運動を嫌い、日本人クリスチャンの一団が1926年に移り住んだところだ。父の小田政美さんは福岡県出身で、「貧乏して栄養失調になり、50代で早死にした」という。タバコを吸い続けて肺ガンとなり、戦後カンポスの療養所で亡くなった。勝ち負け抗争の頃、「私はまだ20歳ぐらい。父はどちらにも付かず、パラグアス・パウリスタに家族で逃げていた」と思い出す。その後、タウバテにあった鐘ヶ江農場で2年間働き、お金を貯めて独立した。鐘ヶ江久之助は同じ福岡県(浮羽郡)の出身者であり、北米で「ポテト王」といわれた牛島謹爾(福岡県久留米出身)の雑誌記事を読んで、「俺は南米で牛島に負けない仕事をする」と渡伯した。トレメンベー地区の200アルケールの土地から始まった「ファゼンダ・リオ・ベルジ」は、「鐘ヶ江農場」として知られるようになり、伯国有数の機械化農業を実践し、一時期は1270アルケールの大農場所有者となった。『曠野の星』(53年6月、19号、51頁)によれば水田250アルケールから籾2万俵収穫、裏作にジャガイモ2万俵、トマト3万箱を生産したというからパライバ平野随一の規模だ。農場内の車道総延長は40キロもあったというから〃鐘ヶ江王国〃を築いていた。同文協50年史『盆栽』には《そこで働いた半数の日本移民は内陸部から移ってきたもので、そこで小作人として働き、鐘ヶ江から農場運営を学び、2年ほどして資金を貯めて独立していった。多くがここで小農から始めて稲作、トマト、ジャガイモで富を築いた》(8頁)とある。《鐘ヶ江農場の存在こそはコロニアの一粒の麦であった》(『富流原』85頁)とされ、小田家はその一つだった。独立農の苗床のような役割を果たし鐘ヶ江農場だったが、小田さんは「でもいろいろな法律問題が起きて、インフレで財政的につまづき、今ではほとんどなくなってしまった」と残念そうにいう。「子孫がリンコンで500アルケールほどの農場をまだ経営していると聞いています」とも。――まさに開拓の古戦場だ。父の時代のことを語る小田さんの目にはしだいに涙がたまりはじめ、必死にそれをこらえている様子が伺えた。「今までほとんど言ったことはないのですが、実は父は出光佐三の養子だったんです」と驚くべき証言をした。出光佐三(さぞう、福島県宗像郡、1885年―1981年)といえば、石油元売り会社・出光興産創業者で、最近の歴史経済小説『海賊とよばれた男』(百田尚樹、講談社、12年)のモデルともなり、再び脚光を浴びている人物だ。これが証明されれば、コロニア秘話となるだろう。さっそく日本の出光興産本社のお客様センターに問い合わせてみた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年3月27日 第41回県連「移民ふるさと巡り」の参加者122人(ガイドや運転手合わせ計129人)は14日午前9時に東洋街のリベルダーデ広場を出発し、4日間、リオとの間にあるパライバ平野と聖北海岸部の4日系団体と交流して回った。笠戸丸以前の安田良一や東山のピンダ農場、戦前から名を馳せた鐘ケ江農場、ノロエステ線などの奥地から戦後に多くが移動してきた経緯を含め、同地の歴史を振り返ってみた。(深沢正雪記者) 5月に103歳を迎えるタウバテ在住の斉木操さん(広島県)は「大好物はお肉ですね」とはきはきと受け答えをし、同じテーブルに居合わせたふるさと巡り一行を驚かせた。16歳で渡伯してノロエステ線リンスに入植し、なんと在伯86年だ。長寿の秘訣は「なんでも食べる」こと。マリリアを経てタウバテには1955年に入植した。最初の訪問地タウバテ日伯文化協会(漆畑哲雄オスカル会長)で14日、婦人部らの尽力で、昼食会に加えて夕食会も行われ、そんな交流の一コマが展開された。同地文協会長職が3期目となる漆畑さん(62、二世)は、日本国外務省研修生OB会の会長も兼務する。同文協50周誌『盆栽』(1997年、11頁)によれば「Sociedade Agigos de Taubate」として勝ち負け抗争のまっ最中、1947年に同会は創立している。「終戦直後、日本に救援物資を送るために30人集まったのが、日本人会発足のキッカケ。日本文化や日本精神を伝えるために活動を続けてきている」と漆畑さんは胸を張る。1954年に文協は正式登録し、タウバテのセントロに会館を作った。漆畑さんの父五郎さんは1939年、19歳で静岡県から構成家族で渡伯し、1952年にタウバテ市内でバザールを始め、セントロの会館で柔道を20年近く教えたという。哲雄さんは法科や建築など六つも大学を卒業し、タウバテ市議、同市企画経済局長、聖州税務局の監督官を長年務めて定年退職した。1954年にセントロの会館を作ったが手狭になり、1978年に小田二三男さんに現在の土地を寄付してもらい、81年から会館建設を始めた。漆畑さんは「ところが突風が吹いて屋根が飛ばされたりする不運を乗り越え、1997年の創立50周年に和田トシヒサさんらの寄付や活動の収益をつぎ込んで落成式を迎えた。この建物自体が、諸先輩の努力と汗、会員の強い絆の賜」と苦難の歴史を振り返った。日本語学校も生徒数50人を数え、漆畑会長は「半数は非日系の時代になった」という。その他、和太鼓、書道、そろばん、コンピューター、手芸、カラオケなどの教室、ゲートボールやバレーの運動もやっている。2012年10月には創立65周年を記念して慰霊法要や記念式典を祝った。「次は2017年の70周年です」と漆畑さんは表情をキリっと引き締めた。(つづく) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html