ニッケイ新聞 2014年4月4日 ミナス州アルフェナス市からふるさと巡りに参加した福元美代子さん(81、宮崎)は、「タウバテの芸能はすごかった。あれだけのレベルを地方で維持するのは大変な事」と感想を語った。コチア青年の第1回花嫁移民12人の一人として1959年に渡伯した。3年前からミナスに住む娘夫婦に世話になっており、その町には他に日本人がいないそう。「普段日本語が使えないから、この旅では日本語で冗談を言って通じるのがうれしい」としみじみ。中原浩平さん(83、長野)=リベロン・ピーレス在住=は「芸能も料理も充実していた。地元の人が一生懸命やってくれている姿が印象に残った」と満足した様子をみせた。◎♪花は、花は、花は咲く、わたしは何を残しただろう――ふるさと巡り2日目の15日昼、東日本大震災で深く傷ついた日本を元気づけた『花は咲く』をピンダモニャンガーバ日本語学校生徒約30人が合唱すると、同日伯文化体育協会(森ジョルジ会長、会員170家族)の会館を埋め尽くした一行約130人は静まり返った。タウバテから32キロほどリオ寄りの町、通称〃ピンダ〃だ。ここからカンポス・ド・ジョルドン(以下、カンポス)行の登山鉄道が分岐する。最初に全員で同地の先亡者に黙とうを捧げた後、稲垣秀子さんが朗々と『川の流れのように』を歌い上げ、続いて久保田香代子さんが同地の〃生き字引〃鈴木武さんが書いた同協会の歴史(以下、鈴木文書)を朗読した。◎大正12年生まれの同地〃生き字引〃の鈴木武さん(91、東京)は、「ピンダにはなかったけど、カンポス沿線には臣道聯盟支部があってアンシェッタに島流しになった人が6、7人いたね。僕も1945年から47年頃までサントアントニオ・デ・ピニャル(以下サントアントニオ)に居たけど、気候の関係でリオに良い値段で野菜を出荷できたから、一時期は30家族もいた。今は10家族ちょっとかな」と終戦直後の緊迫した状況を振り返った。鈴木さんは1934年に11歳で渡伯した。いわば移住最多期〃団塊世代〃の子供移民だ。1893年生まれの父彦一郎は神奈川生まれだが、東京の世田谷に住み、東芝で働いていた。その後、父は独立して編み物工場をやっていたが、「従兄がブラジルに行くというのを聞き、商売の方がまあまあという感じだったので、それに乗った」という。「あの頃の移民は9割がデカセギ。父も10年働いて儲けたら日本に帰るつもりだった」。来伯当初は平野植民地に1年、パウロ・モンテイロ植民地に2年、プロミッソン管内のジョン・コンデ植民地でも8年間過ごしたという。「ところが父は戦中の1942年、不治の病と言われていた風土病に罹り、それ以降15年間も闘病生活を送った」。東京の工場労働者が、過酷だった当時のノロエステの風土に簡単には適応できるはずもなかった。それに加え、「僕もマラリアに罹って、医者から根治するには土地を変えた方がいいと薦められた。義兄がサントアントニオに居たので、45年に呼ばれてやってきた」とこちらに来た経緯を説明した。サントアントニオのすぐ20キロ先に、マンチケイラ山脈に抱かれた高原都市、結核保養地等で有名なカンポス(標高1630メートル)がある。《40年代に入ってから登山鉄道に沿い、日系人が山脈の谷沿いに登っていき、一時は全伯一の人参産地として名を挙げるに至ったことも忘れてはならない》(『富流原』95頁)という土地柄だ。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
Dia: 7 de abril de 2014
総領事公邸で親睦深める 在サンパウロ(聖)日本国総領事館(福嶌教輝総領事)は3月31日、聖市内の総領事公邸でサッカー・ワールドカップ(W杯)開催記念日伯少年サッカー交流会を開催した。第3回イツー市日伯国際サッカートーナメント(26日付既報)出場のために来伯した15歳以下の選手132人とコーチをはじめ、聖州・市、イツー市役所、日系団体、スポンサー企業から関係者が出席。かつてJリーグで活躍したブラジル人選手、ロンドン五輪日本代表監督の関塚隆氏など約200人が訪れた。 来賓紹介と国歌斉唱に続き、総領事館の佐野浩明首席領事があいさつ。国際サッカー大会を開催したイツー市などに感謝を述べると共に、「我々はW杯期間中、来伯観戦者が事件に巻き込まれない、起こさないよう最善の努力をする」と約束した。 続いて来賓を代表してイツー市スポーツ局長のアントニオ・カルロス・ベルタノッリ・ジュニオール氏が「イツー市で日伯の文化交流が行われることをうれしく思う」と述べた。選手、コーチを代表してあいさつしたヴェルディSSアジュントの折井良夫監督は「同年代のブラジル人選手を肌で感じられ、感謝。来年もぜひ参加したい」と話した。 選手たちには各自収穫があったようで、ヴェルディ相模原FWの須藤優樹さんは「食事は豆が中心だったが少しずつ慣れて、気候もよく住みやすかった」と述べ、「サッカーではしっかり体を入れてボールをキープするなど、一つ一つのプレーをしっかりやらなければと感じた」と話した。 ベルタノッリ・イツー市スポーツ局長は「この大会は前、現市長の力添えなしでは成立していない。市は来年以降も同大会への協力は惜しまない」と語った。 同大会主催者の土井エジソン氏は「ますは成功したことにほっとしている。総領事館やイツー市などの支援もあり、年々拡大している。今回日本のチームは決勝に残れなかったので、次回は期待している」と述べた。 交流会では、11年のフリースタイル・フットボール2011年ブラジル王者のエドワルド・ケイ氏によるデモンストレーションも行われ、会場を盛り上げた。選手たちは食事をとりながら、来賓の元プロ選手らと記念撮影するなど、親睦を深めていた。 2014年4月5日付
主要5団体など34の日系団体共催による梅田邦夫特命全権大使の歓迎会が10日午後7時半からサンパウロ(聖)市リベルダーデ区の文協貴賓室(Rua Sao Joaquim, 381)で開催される。 受付は開始30分前。参加費は1人80レアル。ブラジル日本文化福祉協会(文協)では、出席者は7日までに文協事務局(電話11・3208・1755またはメール=evento@bunkyo.org.br)へ氏名・役職等を連絡するよう案内している。 共催団体(略称含む)は次の通り。文協、援協、県連、商議所、日文連、救済会、希望の家、こどものその、アルモニア教育文化協会、裏千家ブラジル、伯生け花協会、ニッポン・カントリー、熟ク連、コチア青年連絡協、サンタクルス慈善協会、CIATE、ACAL、聖北文体連、ピラチニンガ文協、外務省研修生OB会、JICA帰国研修員同窓会、伯日文化社会統合協会、日本語センター、伯ニッポン移住者協会、仏連、エスペランサ婦人会、伯日研究者協会、農拓協、ふるさと創生協会、日系ゴルフ連盟、伯日青年会議所、ASEBEX、サントアンドレー日系連合、伯桜イッペ連盟。 2014年4月5日付
4月の青葉祭りは5日と19日、午前中からサンパウロ市リベルダーデ区の宮城県人会館(Rua Fagundes,152)で開催される。 イビウナ、カッポン・ボニート地方の有機野菜、農協婦人部連合会の加工品や手作り食品をはじめ、薬草、クエン酸、もちなどを販売。整体、家紋調査・販売などもある。 屋上では天ぷらうどん(5日)、ニシン定食(19日)、はらこ飯、冷やし中華など各種料理を販売する予定。 なお、5日は午後2時から日伯医療交流をテーマとした講演会が開かれる。 問い合わせは宮城県人会(電話11・3209・3265)まで。 2014年4月2日付
ニッケイ新聞 2014年4月3日 03年に山形県米沢市から姉妹都市タウバテに寄付された「山形千歳」と呼ばれる市松人形は、1927年に米国から日本の小学校に贈られた「青い目の人形」への返礼として名工に制作を依頼したものだった。当時350円(教師の月給が40円)と高価で、つぶらな大きな瞳に真っ黒な黒髪、気品が漂う笑顔を浮かべている80センチの和装人形だ。ところが太平洋戦争中、青い目の人形は日本で「スパイ人形」などと言われて多くが処分された。戦後、米国から返礼人形が山形に戻されたらしく、それが03年に姉妹都市友好使節団(木原義一団長)が米沢市を訪れた時、七段の雛人形と共に贈呈された。その時は詳しい説明がなく、田尻会長(当時)は「古くて気持ちが悪い人形だな」という印象だったが、箱に同封されていた1927年10月21日付地元紙のコピーを見ていわれを知り、貴重なものと分かり、タウバテ市博物館の姉妹都市コーナーに展示してもらったという。「両市の友好のシンボルとして大事にしていきたい」と田尻さんは語っている。◎交流夕食会の後には、同地の若者による海藤三味太鼓グループが、玄人然とした見事な演奏を披露し、一行を驚かせた。同文協会員は約200家族だが、最盛期の70~80年代には300家族もいた。市内の日系人総数は500家族程度と推測されるという。同地40年の入江淳さん(84、二世、カフェランジア生まれ)によれば「運動会にも500人は集まり、とても賑やかだ」という。ここに来る以前はパラナ州都クリチーバで家族と農業に従事していたが単身転地した。入江さんはクリチーバ時代の1950年頃、1年間兵役に服した。「水野龍の息子、龍三郎さんと同じ隊だった。水野龍に会ったことはないが、ちょうど兵役中にブラジルに帰って来て、龍三郎さんが休みを取ってわざわざサンパウロまで迎えに行ったのを覚えているよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。24年間同地在住の久保時雄さん(58、二世)によれば「ヤキソバ祭りを年3回開催し、500食ぐらい売れる。お客さんの半分ぐらいはブラジル人ですよ。この会館もヤキソバと寄付で建てました」と振り返った。同地の戦後移住者について元同文協会長の安藤光明さん(72、秋田)に尋ねると、「僕は工業移住で、1963年渡伯。工業移住者だけで30人以上と結構まとまった数が入っている。主にメカニカ・ペザーダ社やダルマ電器、ダイドー、天童木工所、ノーテルス(製材)かな。だから、工業移住者協会の本部が聖市にできたすぐ後に、ここに最初の支部ができた」と思い出す。『盆栽』(9頁)によれば、ヴァルガス独裁政権は1941年にリオ=聖市間の車道建設を企画したが第2次大戦激化で中止された。1948年にヅットラ大統領が工事を再開させ、51年には単線開通、軍事政権中の68年にコスタ・エ・シルバ大統領が複線道路開通式を行なった。この流れでセントラル鉄道は寂れ、車の時代となり、南米一の交通量を誇る大国道となった。交通手段は変わっても、要衝地たるタウバテの役割に変化はなく、多数の企業が工場を設置し、人口が急増して町中で商店を経営する移民も多くなった。コチア産業組合や南伯農協の単協、タウバテ農協などが誕生し、1962年頃には農産展も盛大に開かれた。安藤さんは「海藤司さんも工業移住でノーテルス社に入った。その当時は趣味で芸能をやっていたが、今は本格化して教え子がたくさんいる。タウバテの芸能を一家で支えている」と舞台を指さした。そんな太鼓三味グループの演奏にのせて、最後に炭坑節を地元婦人部や一行の有志が仲良く輪になって踊り、全員で「ふるさと」を合唱し、別れを惜しみながら午後10時にホテルへ戻った。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月2日 14日午後、タウバテ文協の夕食交流会の前に一行は、市内にある陸軍精鋭が集まる航空部隊基地を2時間ほどかけて見て回った。同地文協の元会長、田尻清隆さん(85、鹿児島)は会館の壁に貼られた日系将校の展示を指さしながら、「陸軍ヘリコプター部隊には小原彰陸軍少将ら日系将校がいたので、文協とは関係が深い」と説明していた。小原少将(現在は予備)は同基地の司令官にまでなった人物であり、他にも清田一大佐、木原義一アルマンド大佐ら名だたる日系将官がここに在籍していた。一行の説明役を買ったロナルド・メデイロス・ロペス中佐によれば、陸軍航空部隊の起源は三国同盟戦争(通称「パラグアイ戦争」、1864―1870年)時に有人偵察気球を330メートルの高さまで飛ばしたこと。南米初の軍用航空作戦といわれ、当時の陸軍元帥ルイス・アルヴェス・デ・リマ(通称ドゥッケ・デ・カシアス)が「航空部隊の祖」を兼ねている。最初の戦死者が出たのはサンタカタリーナ州で起きた「コンテスタードの乱」の時だ。反乱軍鎮圧に向かった陸軍のリカルド・キルキ中尉は、当時最新兵器だった飛行機を現地で飛ばしたが、1915年1月に落下事故で死亡した。「当時の機体は今と比べようない脆弱なもの。その勇気は称賛に値する。だから彼は陸軍航空部隊のパトローノ(守護聖人)だ」。ロペス中佐は、基地本部前に設置されたその胸像に敬礼をした後、そう付け加えた。1941年1月に政府は空軍を創設し、陸軍の航空部隊の設備、施設を丸ごと移管した。しかし1984年に起きた英亜間のマルヴィーリャス戦争で、英国軍のヘリコプター作戦が勝利の決め手の一つとなったのをみて、飛行機では離着陸できない場所での行動に対する注目が高まった。そこで86年にヘリコプターによる航空部隊が陸軍内に再結成され、リオと聖市の中間点に位置する戦略的要衝であるこの地に、89年に基地が建設された。「英米仏と同様に近代化されている。南半球最大のヘリコプター部隊だ」とロベス中佐は胸を張る。同航空部隊には仏ユーロコプター社製EC725(国内で組み立て)など80基のヘリが所属する。新鋭のEC725はいっぺんに30人(小隊)が搭乗できる大型機だ。同基地だけで54基、他にアマゾナス州マナウス基地にも米国製の最新鋭機ブラックホークを始め、国内各地に多くが展開しているという。一昨年にリオ市のファベーラ・アレモンを軍と州警の共同作戦で占拠した時も、同基地から出動したヘリがいた。「足元に鉄板が引かれ、防弾になっている」と運転士は説明する。ロペス中佐は「W杯の時も警備で動員され、我々がスタジアム上を飛ぶことは間違いない」と胸を張り、「小原少将を知っているか」と問うと、「彼とは一緒に働いたよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。実は同中佐はタウバテ文協の昔からの会員で、機関紙『盆栽』の執筆者でもある。日系団体と一般社会が力を合わせて共存共栄する精神が、ここにも息づいている。◎夕食交流会の会場となったタウバテ文協会館の壁には、田尻清隆さんが会長時代の2003年に、姉妹都市の山形県米沢市から一体の古い市松人形が贈られた時の新聞記事が貼られていた。この人形はなんと1927(昭和2)年に、米国の子供たちから日本の小学校に友好の証として贈られた「青い目の人形」1万2739体の返礼として、同年に急きょ制作して日本側から送り返された「返礼人形」58体の一つだった。日米の歴史の一幕がタウバテにあった。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月1日 ブラジル日本都道府県人会連合会(園田昭憲会長)の定期総会が27日、県連会議室であり、各県人会代表者約70人が出席した。役員改選では単一シャッパが承認され、新会長に本橋幹久氏(78、鳥取)の就任が決まった。就任挨拶で同氏は「会長職を引き受けることに躊躇もあったが、誠心誠意やる」と述べ、ケネディ元米大統領の演説を引用し、「何をしてくれるかではなく、県連の為に何が出来るのかを考え、一緒に取り組もう」と呼びかけた。3年間会長を務めた園田氏は「パラグアイ移民の私が日系社会の要職につけたのも、与儀前会長から引き継いだ懸念材料を乗り越えられたのも、皆さんの多大な協力があったおかげ」と述べ、「予想もしない問題に遭遇しても団結で乗り越え、県人会のための連合会として、奉仕精神の継続とリーダー的団体として繁栄することを願う」と次期執行部にエールを送った。2013年度の決算報告では249万1427レアルに対し総支出は253万1434レで、4万0レアルの赤字。14年度の予算案の収支は277万3460レが承認された。 ■ 新執行部は次の通り(敬称略)。会長=本橋幹久、副会長=坂本アウグスト進(栃木)、高野ジョルジ(山梨)、杉本教雄 (静岡)、市川利雄(富山)、山田康夫(滋賀)、原島義弘(千葉)、木原好規(和歌山)、第1会計=南アゴスチンニョ俊男(福岡)、第2同=田呂丸哲次 (熊本)、第3同=千田曠曉(岩手)、第1書記=川合昭(秋田)、第2同=玉城道子(青森)、第3同杉山エレーナ(京都)。正監査=大西博巳(広島)、監査補=尾西貞夫(兵庫)、小渕民雄(群馬)、田場ジョルジ(沖縄)
ニッケイ新聞 2014年4月1日 笠戸丸以前、1905年に着任した杉村濬(ふかし)公使(三代目)が聖州の珈琲耕地視察の帰途、タウバテ駅に夜10時半に汽車がとまった。《夜間にもかかわらず市民が本官を歓迎せしごときは、もっとも意外の優遇とぞんじ候》と感激の面持ちで小村寿太郎外務大臣に書き送っている(『富流原』84頁)。そんな日本移民に所縁のある場所であり、この良印象が「日本移民に適地である」と判断する材料の一つになったとも言われる。杉村公使名で頒布された「移民送り出しの適地である」と薦めた報告書(1905年6月)が、ブラジル移民の起爆剤だった。それを読んだ水野龍が翌1906年に来伯した船で、チリに行くはずだった鈴木貞次郎青年に出会い、同行するよう口説いて聖州のコーヒー農場で労働体験をさせ〃実験台〃にした。その経験から「間違いない」となり、笠戸丸移民につながる流れだ。『富流原』(80頁)によれば1830~50年頃のコーヒー栽培はタウバテ地方を中心としたパライバ平野だった。つまり聖州のコーヒー産業はこの一帯から始まり、1850年代にはカンピーナスに移り、さらにテーラ・ロッシャのモジアナ線へと1870年代には中心が移動していった(『四十年史』295頁)。略奪式農業の時代であり、いかなる妖土でも十数年で生産性は落ちていった。1850年の奴隷輸入禁止後、コーヒー耕地労働者としてイタリア移民などが大量導入されたが、奴隷同然の待遇が問題となり、本国政府が渡航費補助を打ち切るに至って、日本移民を入れる流れになる。だから初期移民は大半がモジアナ線周辺に入り、その後、笠戸丸移民当時に建設中だったノロエステ線方面へ移っていった。その杉村報告書を見た西原清東(さいばら・せいとう)が北米から、タウバテの米処であるトレメンベー地帯へ1917年に転住して米作りに着手した。これが日本人タウバテ入植の嚆矢のようだ(『盆栽』8頁)。西原は高知県人で、板垣退助の立志学舎で学び、1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米し、テキサスで大農場を開いて〃ライス・キング〃(稲作王)と呼ばれた人物だ。彼が《浸水のために全滅の悲嘆にくれたが、〃この平野こそが米作に最高の地〃と予言した。いま州最大の米作地となっているのを知るとき、彼の先見の明は忘れられない》(『富流源』1969年、中村東民、84頁)とある。◎14日午後、一行は市内のモンテイロ・ロバット博物館に立ち寄った。同氏は裕福な家に生まれて資産を受け継ぎ、幼年期をこの家で過ごした。《タウバテはバンデイランテス時代の宿場であり、植民地時代のリオ、聖市への交通要衝の駅亭町で、往時からバライバ平原における中心地。セントラル鉄道が開通してからは一層、栄えてきた》(『富流原』81頁)という町だ。戦前を代表する外交官、知識人の一人ロバットを生んだ背景には、そのような経済環境や歴史があった。同地独自の一本足の黒人妖怪サッシ・ペレレを描いた『オ・サッシ』や『ピカ・パウ・アマレーロ農場』などの童話でも知られ、ヴァルガス独裁政権の伯国独自の精神性発揚を高々と謳った時代を代表する作家だ。タウバテ近隣の町々がその作品世界にはモデルとして散りばめられており、パライバ平野を伯国文学史の舞台に組み込んだ作家といえる。一行はサッシの寸劇を観て、タウバテ文協に向かった。(つづく、深沢正雪記者、訂正=小田二三男さんの父の名に間違いがあった。正しくは「政實」) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
