地元の藤本氏と花嫁移民の福元さん
タウバテのヘリコプター基地で最新モデルの輸送機を見学している途中、ふいに興奮気味の2人の元に呼び寄せられた。そこに居たのは参加者の福元美代子さん(82、宮崎)とタウバテ日伯文化協会の藤本隆男さん(74・熊本)。何かと尋ねれば、2人が同じ移民船仲間だったことが分かったのだという。
1959年9月28日に「あめりか丸」に乗ってサントス港に到着して以来、約半世紀を超えた邂逅(かいこう)であった。陽気な藤本さんは初めは誰か思い出せなかったというが、一人で船に乗っていたという彼女のことを「べっぴんさんだったけど他人の女性だったから」とほろ苦い笑い話と共に回想した。
だが、なぜ一人だったのか見当がつかない若い記者に「私は写真結婚だったのよ」と福元さん。「コチア青年だった夫に写真を送り、夫不在の結婚式を日本でやった」というから驚いた。
渡伯からの人生を「いい結婚ではなかったかな」と冗談交じりで振り返ったが、ふるさと巡りの醍醐味(だいごみ)の一つである思いがけない再会は、思い出話に花が咲くだけでなく、それぞれの人生を報告し合い、苦労をねぎらい合うそんな瞬間なのだろう。
基地を後にした一行は、タウバテ生まれの有名な童話作家モンテイロ・ロバットの旧実家で、現在は彼の代表作「シチュー・ド・ピカパウ・アマレーロ」の名前を取った記念公園を訪れた。
同作品に登場するキャラクターのモニュメントや、樹齢200年以上のジャッカの木などさまざまな植物に囲まれた建物の中に入ると、そこは小さな劇場になっていた。所狭しと一行が席に着くと有名なエミリア、ドナベンタ、アナサーセの3人によるにぎやかな寸劇が披露され、会場は同作品の世界観に包まれた。
再びタウバテ文協会館へ戻った一行は、午後7時過ぎから交流会を行い、初めに東日本大震災で亡くなった人々、移住し歴史を築いてきた先輩「先亡者」に対し1分間の黙とうが行われた。
あいさつに立ったタウバテ文協会長の漆畑オスカル氏(62・2世)によると、タウバテに住む日系人は約500家族おり、会員は約200家族。日ごろは週4回のゲートボールや毎日手芸を行うなどして活動しているという。
続いて本橋団長が「この移民ふるさと巡りも今回で41回目。1世にとってふるさととは日本だが、親と来た人やここで生まれた人など背景はさまざまでも、植民地には皆の心に響くものがある。それが(ふるさと巡りが)長く続く理由だろう」と述べた。
サンパウロ民謡協会の理事を務め、タウバテ市で民謡教室を開いている海藤司氏の息子夫婦らによって日本舞踊や太鼓などの本格的な日本の伝統芸能がステージ上で披露され、締めの一曲には出身地山形県の民謡「花笠音頭」が選ばれた。
山形県とタウバテ市には実は深いつながりがある。山形県米沢市とタウバテ市は74年より姉妹都市の提携を結んでおり、会場に設けられたタウバテ市紹介コーナーには、ある人形の写真が載った本紙の過去の記事コピーが紹介されていた。
その時の団員で元タウバテ文協会長の田尻清隆さん(85、鹿児島)に聞いてみると、「両市の友好のシンボルとしてもらった人形だが、初めは古くて気持ち悪 い人形だなと思っていた」という。けれども「この人形は、1927年にアメリカから日本に贈られた『青い目の人形』のお礼として同年日本からアメリカに送 られ、2003年に山形に里帰りしたもの」であり、「日米の友好のシンボルをいただいたということをタウバテに戻ってから知って驚いた」そうだ。
終盤にはタウバテ文協関係者と一緒に大きな輪になって「炭坑節」が始まり、皆の一糸乱れぬ完璧な踊りに驚いていた記者に「お年寄りはみんな遊んでいるか ら」の一言。最後に「ふるさと」の歌を合唱し、本橋団長は「別れは再会の始まり。次のふるさと巡りにでもまた一緒にどこかへ行こう」と締めくくった。
初めて参加したふるさと巡り。日本からはるかかなたのブラジルの田舎町で、思いがけずどこか時代遅れとは言えない日本の古き良き温かさや奥深さと出会い心温まった、そんな初日の夜だった。(つづく、倉茂孝明記者)
2014年4月11日付
