ピンダの町に鹿児島の故郷重ねて ピンダモニャンガバ日伯文化体育協会の日本語学校で学んでいたのは若者だけではなく、最高齢は何と昨年傘寿を迎えた上田佐々木やよさん(80、2世)。彼女はこの町の歴史をよく知っている。父親が1929年にピンダの町に移り住んできた際には既に4家族が住んでおり、その中に笠戸丸以前の06年に来伯した安田良一氏の家族がいたと教えてくれた。 上田さんもそうだったのだが、ここピンダの町の良さについて地元の人々に尋ねたところ、大体二つの答えが返ってくるのだった。一つは、安田良一氏がいた町であり、その息子で日系人として初めて大臣となった安田ファビオ良治氏が生まれ育った地であるということ。もう一つは町に溢れる自然の良さだ。 自由移民として来伯した良一氏はさまざまな地を回った後ピンダに移り住み、それまで陸稲が多かった米作において水田作を始め、ピンダを有数の米作地とさせたのだった。80年ほど前に東山農業株式会社がこの土地を購入した後も、彼は支配人としてコーヒー、牧牛、米作と手広く事業を経営し、戦時中の敵性財産処分に遭い大農場を手放すこととなったが、その功績は今でもたたえられている。 また、ピンダ文体協会長の森ジョージ氏(63、2世)が「自然に溢れ空気が良くて住みやすく、とても良い町」と言うようにこの町には豊かな自然があり、日本語学校の生徒たちも「休みには川に行って泳いで遊んでいる」と言っていた。 一行が会館で昼食をごちそうになっていると、思いがけない人たちが会場に駆け付けた。安田ファビオ氏の弟、安田ネルソン氏(87)とその家族計7 人である。ステージ上に上がりあいさつをした彼らを一行は温かい拍手で迎えた。記者は、安田家と長年の付き合いを持つ上田さんと親しいネルソン氏の娘さん から、良一氏とファビオ氏の話を聞くことができた。 彼女によると良一氏は、「他の人よりも先に同地に住んでいたということもあり、日本から移住してきた多くの人たちから頼られる存在であった」そうで、「困っている人がいたら、家に泊まらせてあげたり仕事や住む場所を紹介したりするなど、よく彼らを助けていた」そうだ。 そして、ブラジル中を回った後にピンダに住むことに決めたのには理由があるそうで、「ピンダの温暖な気候や奇麗な自然が出身地の鹿児島に似ていて故郷を思い出したからここに住むことに決めた」のだという。 まだほとんどの日本人がブラジルに行ったことのない時代に、故郷を捨て海を渡ってきた人物とは一体何者かと思っていたが、そんな彼だからこそ故郷に似た土地に愛着がわいたのだろうか。もしかしたら、彼がここブラジルで初めてふるさと巡りをした一人かもしれない。 彼の息子で日系初の大臣となったファビオ氏は、大学で農業を学ぶが中退し、後にコチア組合の役員となって商工大臣となるのだが、彼女によると「人と同じように何かをするのではなく、自分の考えを持って何でもやってやろうという強い気持ちで行動する人だった」そうだ。 「その性格のせいか、商工大臣を務めた期間は5カ月弱と短かった」というが、強い気概を持っていたからこそ初めての大臣となれたのだろうし、その偉業はこの町の人はもちろん多くの日系人を勇気付けたはずだ。 どんな人であっても、故郷の景色や自然というのは心や体が覚えているものだ。交流会の終わりには「ふるさと」の歌の合唱が行われたが、前日タウバテで歌った時とはまた違った気持ちで自らの故郷やその景色を思いながら歌う自分がいた。 午後2時、一直線に立ちはだかるセーラ・ド・マールと呼ばれる海岸山脈を遠くに見据え、その先にある海沿いの町カラグアタツーバを目指してピンダの町を後にした。(つづく、倉茂孝明記者) 2014年4月15日付
Dia: 18 de abril de 2014
日系初の大臣、安田氏を生んだ地 3月15日午前9時、タウバテ市に別れを告げた一行は、バスで約1時間離れた隣町のピンダモニャンガバ市のピンダ日伯文化体育協会の会館を訪問した。 この地は「笠戸丸」以前の移住者である安田良一が米作を水田作で始めた地として有名であり、その息子で日系初の大臣となった安田ファビオ良治が生まれ育った地としても知られている。 会館の前で鮮やかな黄色い法被を着て一行を出迎えてくれたのは、同文協の会館で日本語を学んでいる生徒たちだった。 ピンダでの日本語教育事業は長い歴史を持ち、同文協の前身であるピンダ日本人会が1952年に創設される以前より、街にあった父兄会において行われていたという。第二次世界大戦終結後の勝ち負け騒動などの困難も乗り越えて続けられてきたが、8年ほど前にJICA(国際協力機構)による日系社会青年ボランティアによる日本語教師派遣の話を知り、条件を満たす生徒数の確保や専用教室を寄付金を募るなどして建設し受け入れを始めた。 現在日本語学校には約50人の生徒と6人の教師がいる。派遣教師(1期2年)の3期生として8カ月目を迎える神田和可子さん(28)は、かつてブラジル人に間違われたことでブラジルに興味を持ち始め、このプログラムに参加するに至ったそうだ。 学校の様子について聞くと、3~11歳の生徒がいる子どもクラス(現在18人)ではこれまで鬼ごっこや折り紙などをすることが多かったが、文章の読み書きの能力も付けてほしいとの思いから、新たな取り組みとして習得レベル別(早い人はウサギ組、遅い人はカメ組)に分けた座学での勉強を今年2月に始めたばかりだという。 定期的に行われる学習成果の発表会ではスピーチや紙芝居の一行読み、合唱などを行っている。神田さんは「この8カ月、子どもたちに囲まれて楽しくやって来た。何を残せるか分からないけど目の前のことを一生懸命頑張りたい。帰国後には日本にある在日ブラジル人コミュニティーで、これらの経験を生かせれば」と教えてくれた。 充実した日本語教育が行われていることがうかがえたが、このように力を入れる背景の一つとして考えられるのは、どうやら子弟が就学や就職等の理由で町から減り、青年会もそれに伴ってなくなってしまった背景があるようだ。 婦人会の中尾さんは「学校で日本語を学ぶ若い生徒たちが今後の日系社会を引っ張っていける存在となれるように今のうちから組織立てていけたら」と 期待を寄せており、初代青年会長の鈴木武氏は「先生方は熱心に丁寧に教えてくださり、生徒たちは日本語の中にある日本人の心、情緒などの雰囲気を自然に身 に付けつつある」として父兄一同感謝している。 ピンダ日本人会は64年の会館の落成を機会にピンダ日伯文化体育協会と改め、ピン ダ日系社会の親睦向上のためさまざまな活動を行っている。現在の同文協の会員は170人、婦人会は70人。今は無き青年会は49年に青年有志が話し合い街 を中心に結成され、同年に家長有志による日本語教育を希望する父兄たちの集いである父兄会と合同で運動会を実施した。以来、運動会は現在まで続き、毎年約 500人が集まるピンダ日系社会の伝統行事となっているそうだ。 年中行事の一つとしてよく行われるというカラオケ大会。我々ふる...
