半世紀前には土砂崩れも発生
セーラ・ド・マール(海岸山脈)をバスで駆け上がり山頂を越えると、下界には青く輝くカラグアタツーバの海と街が広がっていた。山を下り海抜2メートルの街に入ったふるさと巡り一行は海沿いの街独特の暑さに包まれ、いよいよここまでやって来たのだなという雰囲気に変わっていた。
午後5時にカラグアタツーバ日本人会館に到着した一行を、1時間少々の短い時間の訪問予定にもかかわらず温かく出迎えてくれた多くの人々がいて、自然と握手も固くなった。
2年後に50周年を迎えるという同日本人会の由井誠吉会長(71、福島)によれば、一行が越えてきた海岸山脈で1967年3月に土砂崩れが起こり、400人強の人々が亡くなるという歴史的大事件があった。その日は由井会長の誕生日だったこともあり、忘れることはないという。集中豪雨により赤い土が見えるほど山一面がはだけていたといい、この土砂崩れによってバナナ園などの農家は打撃を受け、町に住む家族も減ってしまった。
現在日系では約300の家族が住んでおり、そのうち約80家族が日本人会に加盟している。同会で週4回行われているというゲートボールでは練習の成果もあり、数々の大会でもらった多くのトロフィーが会館に飾られていた。
一行を迎えてくれた中には、カラグアタツーバ婦人会の初代会長と2代目会長もいた。2歳の時にブラジルに渡り、ブラジルには何と90年間も住んでいるという初代婦人会長の三木スミエさん(92、岐阜)は、ビリグイやバストスに住んだ後、56年からカラグアタツーバに住んでいるという。婦人会長となった約50年前を振り返り、「当時は50家族ほどがいて、よくバザーや日本舞踊などを行っていた」と教えてくれた。
2代目の婦人会長だった河田律子さん(91、北海道)は9歳の時に来伯し、63年にカラグアタツーバに来てこの町で初めて日系人が経営するホテルを始めた。現在91歳と高齢だが、とても元気な河田さんに長生きの秘訣を尋ねると「腹を立てないことと、心配しないこと」だといい、「歌うことが大好きだから毎日カラオケで歌っていると嫌なことも全部吹き飛んでしまう」と話していた。
ゲートボールにもよく参加しており、午前5時に起きてはカフェと軽食を作り、ゲートボールに持っていって皆で食べるのが楽しみなのだという。河田さんはかつて90年にアルゼンチンで行われたゲートボールの世界大会にも出場しており、「ゲートボールをしながら100歳まで生きたい」と笑顔で話してくれた。
時間はあっという間に過ぎ、会館を後にした一行。海岸の目の前に立ったホテルの周りは、一日中海を楽しみ真っ黒に日焼けした人々で溢れていた。
午後7時過ぎからホテルの隣のレストランで食事が始まり、カラグアタツーバ日本人会から参加した由井会長と黒澤公義さん(60、茨城)と海沿いの街らしく魚の話題で盛り上がった。
記者の出身地で水揚げ量が多いことで有名な千葉県の海を引き合いに、ここの海は潮流が荒くないために魚の餌となるプランクトンが少ないのだという。とはい うものの、かつてこの辺りではイカやイワシなどがよく捕れたのだそうで、サルジーニャ・サウ・モーラ(イワシの塩漬け)にしてごちそうとして食べていたそ うだ。
塩漬けにすることで品質を保てるので、山間部にも運べることができ、畑仕事などで汗をかいた身体の塩分補給にもちょうど良 かったのだと教えてもらった。先人の知恵というのはいつも素晴らしいものだ。残念ながらそのレストランにはイワシの料理はなかったが、いつか食べてみたい と思った。
ここカラグアタツーバの町には八つの海水浴場があり、増える観光客をターゲットにした商店やショッピングセンターも建設されるなど、観光面に力を入れているという。海岸線には別荘が並び週末などの休みには多くの人で海岸はにぎわっているようだ。
黒澤さんは現在、海の近くでサンパウロ中から集まって来る観光客や富裕層をターゲットにしたスーパーを経営しており、店の売りは「切り売り商品」と「日本 的な商品」。店の経営は上々だそうで、値段設定はなかなか強気だが、料理するのが簡単な切り売りの野菜や果物、リベルダーデの日本商品展にも並ぶような日 本食などがよく売れているという。近年は観光客に加え、町の人口も10万人を超えるなど増加しているため、今後10年20年先もうまくやっていける展望だ そうだ。
今日は土曜の夜。近くにはたくさんの屋台やフェイラもある。いったん仕事を忘れ潮風に吹かれながらカイピリーニャを飲む のもいいだろう。恋人や友人、家族などと思い思いの時間を過ごしている人たちの表情を見れば、この街がどれだけ素敵な場所なのかが自然と伝わってきた。 (つづく、倉茂孝明記者)
2014年4月16日付
