06/03/2026

Dia: 23 de abril de 2014

ニッケイ新聞 2014年4月16日 原発事故で損なわれた故郷に対する、ありがちな感傷的コメントを期待した記者の期待を見事に裏切り、永井文子さんは「私は小さい時に来ているから、何も分からんのよね。息子が日本に働きに行っているから、地震の前に一度遊びにいったらしいけど…」とサバサバした様子をみせた。1945年から47年の終戦直後にはツッパンにいた。「夫(永井哲夫、福島県富岡出身)が53アルケール棉をやっていた。多い時はカマラーダを30人ぐらい使っていた」と思い出す。「ソグロ(義父)は『日本が負けたはずない』、私の父や夫、隣の人もカデイヤ(留置場)に入れられた。そこに入りきれなくなって、縄で囲った場所に無理矢理囲うようになったとか聞いて、物騒になったようです」と淡々と話す。だから、日本人がいない場所へわざわざ来たようだ。当地ではバナナ栽培で一旗揚げ、夫と友人でアルゼンチンや欧州に輸出していたという。「この会館作るのに夫は一生懸命にやった。ゲートボールが好きな人で、カンポ(コート)も作った。私は今でもゲートボールやってますよ」と夫との思い出を噛みしめるように語った。子供移民にとって、ほぼ記憶にない祖国との心理的距離は時間と共に遠ざかり、逆に子孫が根を張った伯国との地縁が強まり、ここが「第2のふるさと」になる――。最後の別れ際、食事を用意してくれた婦人部のみなさんと抱き合って惜しむ姿も見られた。◎参加者の斉藤利治さん(としはる、73、二世バウルー生まれ)は「サンセバスチャンでは地元のみなさんが汗をかいて食事を作ってくれたのがうれしかった。でも、ただ食事を食べに行くだけみたいになったのが残念。もっと交流プログラムを充実させてほしい。ピンダのような日本語学校支援ビンゴみたいのは歓迎だ。他の場所でもやったらよかった」と振りかえった。参加者の多川富貴子さん(77、三重)=サントアンドレー在住=は「タウバテで久々の人に敢えてホントによかった。故郷の友人に会ったような気分」と喜びつつも、「今回はその土地の先人にお線香をあげる機会が1回もなかったのが残念」と語り、さらに「ピンダがやったように、他の日系団体も10分でいいから最初に歴史を説明してほしかった」と惜しんだ。今回は初参加組も多く見られた。聖南西イタペーバ在住の田中正さん(ただし、77、佐賀)もそうで「前から参加したかったけど、今回初めて。歳とってから安心して参加できる旅行だね」と感想をのべた。初参加の山口政之さん(89、熊本)=聖市在住=は伯国在住がまだ6年目だ。貿易関係の仕事だった関係から、海外在住歴はイタリア20年を初めスウェーデン、スイス、フランスなど長いが、終の棲家はブラジルに決めたという。「飛行機は600回以上乗りました。旅行が好きで、65歳から世界中を飛び回っています」という強者だ。すでにアマゾンやノルデスチも旅行し、「ブラジルは食べ物美味しいし、日本語が通じる」と気に入っている。生まれは広東省で19歳の時に朝鮮で終戦を迎え、引き揚げて九州大学を卒業してから、世界を股にかけた仕事で飛び回った。妻を亡くし、「今は天蓋孤独の身です。ちょっと寂しいですね」とつぶやく。叔父がブラジル移民だった関係で13年ほど前に一度会いに来た。以来5回来伯する中で永住を決め、07年から住んでいる。「100年前から日本を飛び出してこちらに住んでいる人は勇気のあった人だと思います」と頷いた。◎一行は17日にイーリャ・ベーラを観光した後聖市に向かい、午後7時にリベルダーデ広場で解散し、早くも次回9月のペルー行きで再会することを約束し合っている人の姿も見られた。(終わり、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月15日 天井がなく、梁や屋根裏むき出しの会館には地方の趣が漂っている。裏にはゲートボールコートが3面あるが、舞台には備え付けのマイクもなく、カラオケ教室もないようだ。でも森会長によれば年3回のビンゴを実施し、9月のヤキソバ祭りには500人分が売り切れるという。12月には餅つきも恒例で、180キロを搗くというから本格的だ。元会長の内山田太さん(80、福岡)は1959年に呼び寄せで渡伯した戦後の農業移民だ。最初はイタカケセツーバに入ったが、霜が降りて痛い目に遭い、「霜が降りない場所へ」と海岸山脈をおりて温暖なこの地へ66年にやってきた。以来トマトやピーマンなどの野菜生産に従事してきた。「聖市の方で霜が降りるとセアザの値段が3、4倍に上がる。そうするとこっちは儲かった」と思い出し笑いする。サンセバスチャンは1636年のポルトガル人入植から始まる歴史ある港町だ。「日系漁師も5、6家族いた」というのは住川和代さん(65、和歌山)だ。1960年に家族で渡伯した。和歌山県田辺といえば今も漁港で有名だが、父山崎登さん(故人)はそこで漁師をしていた。来伯当初はモジのコクエイラ区の養鶏場で働いたが1年後にはここへ来た。「わざわざ日本から漁具を送ってもらって始めたんです」。エビやイワシ漁が一般的だが、山崎登さんは車エビ中心で、セアザに送っていた。父について仕事を習っていた住川正吾さん(二世)と和代さんは結婚した。70、80年代が最も景気がよく、「昔は同じところで1カ月も2カ月も漁をしていた」と懐かしむ。「だけど今は15分遅れて着いたらもうないって。だんだん収穫が減って…、取り過ぎらしいです」。「今は日本人の漁師はいません」という。「海の上では『板子一枚下は地獄』と言いますが、夫が漁の最中に危ない目に遭ったりはなかったのですか」と尋ねると、「父も夫も危険があったとは一言も言いませんでした。でも、きっと怖い目に遭ったことはあったでしょうね」と思いやった。加治屋八重子さん(68、二世、スザノ生まれ)は「鹿児島生まれの御爺ちゃんが、ここに視察に来たとき『イーリャ・ベーラが桜島にそっくりだ』って思って、住むことに決めたそうです」という。その祖父も7年前に亡くなった。加治屋家を初め、同地には最盛期で6軒も日系海苔生産者がいたという。八重子さんは「岩についた海苔を地元の人に拾ってこさせて、それを買い取って集める。それをマダラにならないように均等に薄く延ばして乾かすんです。立ちづめの仕事で重労働、あの当時『嫁さんは手先が器用でないと務まらない』と言われた」と日本の農家のような話を思い出しながらする。日本と同じサイズで日産1500~2千枚というからかなり多い。「でも日本製が入ってくるようになって競争が厳しくなり、1992年頃に辞めました。やっぱり日本のは青々としてキレイですから」と残念そうだ。「四世の孫も『フリカケくれ!』って言うんです。やっぱり海苔が好きなんですよ」とほほ笑んだ。「私らがここに来た1950年頃、日本人は3家族ぐらいしかいませんでした」。永井文子さん(90、福島)は1927年、3歳で渡伯し、最初はオーリーニョスに入った。生まれたのは福島県双葉町、東日本大震災の原発事故が起きたあの町だ。今は放射能で大きな被害が出た故郷について質問をすると、数秒沈黙し、戸惑ったような表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html