今年も大盛況となった「第17回フェスティバル・ド・ジャポン」の郷土食コーナー。その1ブース、秋田県人会で働いていた三船広志さん(73)は、日本の俳優だった三船敏郎氏が母親のいとこに当たり、1932年に農業移民で渡伯した同県出身の両親のもと、サンパウロ州オンダベルデ市で生まれた日系2世だ。ブラジルで歩んだ人生をはじめ、初めて両親の母県を訪れた今から7年前のこと、そして日本祭りでのエピソードなど、同氏が涙を流しながら語ってくれた。(倉茂孝明記者)
広志さんはサンパウロ州奥地で牛とカフェのファゼンダを営んでいた三船一家の11人兄弟の7番目の子どもとして生まれ、中学生のころに「子どもにちゃんと勉強させよう」という両親の思いにより、土地や家をすべて売り払ってスザノ市へと移り住んだ。
その後、「もっと勉強すればよかったが、自分には向いていなかった。(敏郎氏と同じ)俳優の道には進むチャンスはなかった」と振り返る広志さんは、スザノ市の高校を卒業後は両親と共に養鶏をしながらしばらく過ごした。
だが、「このままでは将来がない」と思い立った広志さんは鶏肉と卵を販売する店を始め、繁盛して稼いだ金で67年に友人と共に鍋工場を始めた。
これもまた繁盛したというが、「飽きっぽかったから」と今度は90年にぬいぐるみ工場を設立。当時は珍しかった「音楽が鳴るぬいぐるみ」を製作して販売し、2004年まで働き続けた。そんな広志さんは07年、秋田県で開催された国民体育大会に招待を受け、生まれて初めての日本、そして両親が生まれ育った秋田県への訪問が実現した。
飛行機が秋田空港に着いた時のことを広志さんは、「初めてだったのにどうしてか分からないが『帰って来ました』という気持ちになって」と涙を浮かべて言葉を詰まらせ、「両親から働いて苦労した話や懐かしむ話をよく聞いていたから気持ちが入りこんでいた」とさまざまな感情が込み上げて来た当時の気持ちを振り返る。
さらに、「墓参りがしたい」という広志さんのために両親の出身村の副村長が車で墓まで連れて行ってくれたといい、「花束も買ってくれ、雨が降る中で傘を差して待ってくれていた。本当にありがたかった。日本人の心はやっぱり違うと感じた」とうれしそうに思い返す。
その日本人の心が受け継がれている日本祭り。「色々な県がそれぞれ力を合わせてやっていて素晴らしい」と広志さんが参加するようになったのは、今から6年前のこと。同年に秋田県人会のブースを初めて訪れると、「働いている人数は多いが、売る物が少なそうに見えた」という。その日の帰りにスーパーで鶏肉を買って妻と一緒に串カツを約180本作って翌日持っていったところ、どんどんと売れたそうだ。
それを機に翌年からメニューとして串カツが採用され、広志さんはメンバーとして働き始めた。串カツは今では3日で1500本売れる人気メニューになっている。
今年の同祭では、秋田の名酒「高清水」の法被姿で働いていた広志さん。その風貌(ふうぼう)はどこか敏郎氏の面影が漂っており、笑顔で温かく接客する様子が印象的だった。
2014年7月11日付
