06/03/2026

Ano: 2014

4月13日、ジアデマ市の沖縄県人会運動場にて、広島、岡山、島根、鳥取、山口の中国地方五県の友人や家族・親戚が集まり、「第15回中国ブロック運動会」が開催されました。 前日の雨にもかかわらず、多くの人々、特に5県の日系ブラジル人団体の人々が、この楽しいイベントのためにブラジル沖縄文化センターにやって来ました。 湿って滑りやすくなったグランドゆえに参加者の安全性を心配した主催者は、大半の競技を屋根で覆われているゲートボール場に移動して行なうことにしました。長くて、引き伸ばしたときにゲートボール場に収まりきらない綱引きなどの競技は、外のグランドで行なわれました。 予想されたように、子供たちの徒競走、2人組みで行なうカニ競走、タイヤ転がし、お米の詰まった袋を投げて塔の上にある紙のボールを破裂させる鈴割り競技などでたくさんの転倒がありました。以前の場合と同様、主催者は子供たちが競技と競技の合間も楽しめるように、先生つきの図工や絵のワークショップも設けました。 運動会の活動は主に子供たちを対象としていますが、すべての年齢層の人を含めることができます。 これは、地域社会が主催する形式ばらないイベントであり、すべての人々の参加を必要としています。そのようにして、年齢や世代を超えた接点ができ、つながりが広がり、きずなが深まっていくからです。 この点で、中国ブロック運動会の5県の若者の参加は多くの人々の注意を引くとても美しいものでした。みんな、きちんとユニフォームを着て、主催団体に協力しイベントを盛り上げ、運動会終了後も基礎設備の片付けに従事しました。 最後の競技では、これらの青年部の若者たちが、たくさんの応援とすごい盛り上がりの中、激しいチームリレー競走に参加しました。 運動会のルールに従って、各競技に勝者がいますが、これは地域社会の統合イベントであるのですべての参加者が賞をもらいます。まさに、勝つこと以上に、参加することに意義があるのです。 なぜ中国ブロックなのでしょうか? 中国というのは、広島、岡山、島根、鳥取、山口の5県で構成される日本の地方名です。 日本の最大の島(本州)の西部に位置し、この地方は主要都市から比較的離れています。「中国」地方という呼び名の由来ははっきりしていません。一説には古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされています。 運動会 運動会は、スポーツをまとめたものを意味します。学校、会社(企業)、地域団体(地域社会)などの構成員あるいは関係者が一定のプログラムに従って行う体育的な行事。運動会は、みんなが参加でき、なにか特定のスポーツの実践者である必要はありません。老若男女、日頃運動していない方も楽しめる内容になっています。したがって、マルチスポーツ大会などを、運動会と翻訳することで合意しました。 日本では広く普及していて歴史と人気を持つ運動会ですが、たいてい9月、10月、11月などの秋に開催されます。 ブラジルでは、ほとんどの運動会は偶然にも南半球の秋と一致する、5月から8月の間に行なわれます。ブラジルでは日系ブラジル人団体において、特に日本語学校がある所で開催されます。
去る4月10日(木)19時半より、駐ブラジル日本国特命全権大使に着任された梅田邦夫氏と恵子夫人の歓迎会が文協貴賓室にて執り行なわれました。 「ブラジルへようこそ!そして、日系社会へようこそ!」。日系団体を代表して文協木多喜八郎会長が梅田大使夫妻への歓迎の言葉を述べました。「ブラジルは日本から一番遠い国ですが、現在160万人に達する世界最大の日系社会がある国です。梅田大使は在リマ日本国総領事館総領事としての経験をお持ちということで南米文化もすでに知っておられ、ポルトガル語と同じラテン語に属するスペイン語もお話しになられますので、ブラジルに馴染むのは難しいことではないと思います。ワールドカップ、日伯修好通商航海条約120周年、大統領選挙など、いろいろなイベントが控えておりますが、今後わたしたち日系社会のことをどうかよろしくお願いいたします!」と親しみをこめて挨拶しました。 安部順二下議がその力強い挨拶の中で明かした梅田大使の”サッカー好き”ですが、それは本当のようで、梅田大使の話によると、以前からブラジルが大好きで上司にブラジルへの赴任を直訴していたそうです。そんな梅田大使の挨拶はとても印象に残る、出席者の共感をよぶものでした。まず初めに、盛大な式典を準備した日系社会への感謝を表した後、「ずっとブラジルに行きたかったので、ブラジル大使として今日ここにいられて本当に幸せです」と述べました。 そして、「日系社会のみなさんに3つの感謝と1つのお願いがあります」と述べて聴衆の注意を引き付けました。梅田大使が言及したのは次の4つの点でした。 感謝1ブラジル国における日本人への絶大な信頼日本からブラジルに移り住んだ移民先駆者たち、そしてその後ブラジルで生まれ育った日系人たちが、100年以上の年月をかけて、その勤勉で正直な働きによって築き上げてきたブラジル国内における日本人に対する評価は、日本全体の宝である。現在、日本企業がブラジルに進出しやすい土壌を作った功績は計り知れない。 感謝2日系社会のW杯開催への協力日系主要5団体が迅速にブラジルワールドカップ日本人訪問者サンパウロ支援委員会を立ち上げて、W杯に向けて準備を始め、日本人旅行客への援助を行動に移したことは、日本国内でも高く評価されている。JFA(日本サッカー協会)の小倉純二名誉会長など、日本のサッカー関係者達も日系社会に非常に感謝している。 感謝3日本サッカー界への貢献ネルソン吉村やセルジオ越後はJリーグが出来るずっと以前に日本サッカー界に高い技術をもたらした。1993年に10クラブで開始したJリーグ(日本プロサッカーリーグ)も、1999年からJリーグディビジョン1とディビション2の2部制に移行し、2014年からはJ3リーグ発足と、設立20年で目覚ましい発展を遂げてきたが、それにはブラジル人や日系人の寄与するところが非常に大きい。初期Jリーグで、ジーコ、レオナルド、ドゥンガ、ラモス、ビスマルクなどなど数々の有名ブラジル人選手が活躍し、日本サッカー界を盛り上げ、日本サッカーのレベルを底上げし、日本にサッカーのおもしろさとプロッフェショナルの心構えを教え、サッカーというスポーツを普及させた。 お願い 来る2015年、日伯修好通商航海条約締結120周年でたくさんのイベントを行なう予定なので、実行委員会を早期に立ち上げて準備を進めることで、協力をお願いしたいとのこと 梅田大使はサッカーだけのためにブラジルに来たわけではないことを出席者の笑いを誘いながら強調しました。「首脳レベルの来伯も10年前の2004年、小泉純一郎元首相以来だが、是非とも近い将来に実現させたい」、「日本、ブラジル二国間の政治関係、経済関係、信頼関係もさらに発展させていきたい」と力強く語りました。最後に、日系社会の健勝を祈願し、挨拶の言葉を締めくくりました。 本当に、積極的で、明るくて、自信に満ちた梅田大使に、出席者たちは今後の日系社会の未来に希望と期待を抱くようになったに違いありません。日系社会としても、精一杯梅田大使を支持し、日系社会に活性化に力を合わせて取り組んでいきたいものです。
ニッケイ新聞 2014年4月30日 1954年4月に創立された在伯和歌山県人会連合会(木原好規会長)の創立60周年式典が27日、聖市の北海道協会で開催された。約500人が会の軌跡を振り返り、現在の繁栄を祝った。母県から仁坂吉伸知事、山田正彦県議会議長ら県議11人などから成る公式訪問団、19人のビジネスミッション、民間訪問団あわせ75人が出席した。木原会長は「これは出発点。県人活動の活性化、母県と県人会、日伯親善と交流が一層発展するよう努めたい」と誓った。和歌山県人の最初の移住は1916年にさかのぼり、戦前・戦後を通じて約1400家族、6千人が移住したといわれる。県人で戦前に移住していた松原安太郎氏によるいわゆる「松原移民」が1953年に到着し、戦後移住のさきがけとなった。県人会は和歌山出身者ら有志が設立した植民会社が発展したもので、県人同士の交流、県人移住の振興を主な目的として活動が行われてきた。現在の会員数は約200家族。2000年には会館の改築が行われ、文化活動の場となっている。県連主催の日本祭りでは、ボランティアとして参加する会員数が100人を超える。来伯2回目の仁坂知事は、式典に先立ち県人が多く住むドウラードスを訪問したことに触れ、「日本人の持つ美徳をブラジルの社会において十分発揮され、努力されて今日を築いた。素晴らしい我々の先祖・同胞の努力を心から誇りにし、称えたい」と挨拶した。山田議長は「皆様のふるさと、和歌山の発展のため、さらに全力で取り組んでいく」と会場を沸かせ、県国際交流協会の樫畑直尚理事長は、同会が県人子弟を中心に生活体験型プログラムを実施する本体として活動していると説明。「官民協調で交流を深め、要として精進したい」と話した。80歳以上の高齢者表彰では、最高齢でともに104歳の大宅武男さん(伊都郡、モジ在住)、東喜三さん(串本町、アチバイア在住)が、自ら知事から感謝状と記念品を受け取った。その後の記念祝賀会、アトラクションでは大正琴の演奏、どじょうすくい、サンバショーなどが披露され、会場のあちこちで歓談を楽しむ声が聞こえた。喜志文代さん(89、有田市)は53年に松原移民として移住し、17年を同地で過ごした。「道なき所に道を造り、カフェを3千本植えた。食べるものも慣れていないし、大変でしたよ」と振り返った。「僕らは同じクルパイ移民だったんですよ」。1958年の和歌山植民地(クルパイ植民地、南麻州)への第一陣移民だった平谷勲さん(70、田辺市)、下垣内昭さん(66、みなべ町)は、再会を喜んだ。「これだけの人が来てくれ嬉しい。僕らのことを忘れてくれていない」「県人を思ってくれるその温かい心を、誇りに思う」と、それぞれ知事ら一行の訪問を喜んだ。
「紀州人の誇りを持って」 「紀州人の誇りを持って母県と県人会の日伯親善に努めていきたい」―。1954年に発足した在伯和歌山県人会連合会の創立60周年記念式典が、27日午前10時からサンパウロ(聖)市ビラ・マリアーナ区の北海道協会会館で開催され、木原好規会長は式典あいさつの中でこう強調した。式典には、母県から仁坂吉伸県知事、山田正彦県議会議長をはじめとする県議団・県庁関係者、ビジネス・ミッション及び民間などで構成される合計75人の大型慶祝団も来伯して出席し、地元ブラジルやアルゼンチンなどの県人関係者ら約500人が一堂に会した。 和歌山県人のブラジル移住は1917年に始まり、戦前戦後を通じて1416家族5819人が渡伯し、県系人とその子弟は現在約4万人に及ぶと推定されている。 この日の記念式典ではサンパウロ州軍楽隊による日伯両国歌吹奏、先亡者の御霊(みたま)に対する黙とう、来賓紹介の後、木原会長があいさつ。紆余曲折を経ながら県人会が母県の支援と会員の協力により継続発展してきたことに触れ、今年の60周年の機会に俳句愛好会「くろしお会」による句集発刊と毎年恒例の日本祭りに今や県人会から100人以上のボランティアが参加している状況を説明。また、長年の県費留学生・技術研修生制度から現在は県の交流協会や中南米協会の協力で「生活体験事業(県人子弟受け入れ事業)」として形を変えて県人子弟の受け入れを行ってくれていることに感謝した。さらに、今回75人もの慶祝団が来伯したことに、「過去にこれだけの人たちを受け入れたことがない」と喜びを表し、今後のさらなる日伯親善に努めていく考えを示した。 仁坂知事は、今回知事として初訪問したマット・グロッソ・ド・スル州の松原移住地での入植当時の原始林開拓に思いをはせ、厳しい環境条件の中でも県人移民たちが子弟教育に力を注ぎ、ブラジルの国力を高めてきたことに「同じ和歌山県民として誇りを感じる」と敬意を表した。 引き続き、山田県会議長、谷洋一和歌山県議会南北アメリカ諸国友好議員連盟会長、福嶌教輝在サンパウロ総領事、樫畑直尚公益財団法人和歌山県国際交流協会理事長、迫間(はざま)脩和歌山県中南米交流協会代表、野村アウレリオ聖市議、羽藤ジョージ聖州議、安部順二下議、下本八郎元聖州議、アルゼンチン和歌山県人会の佐藤アレハンドロ代表、本橋幹久県連会長がそれぞれ祝辞を述べた。 祝電披露の後、100歳長寿者表彰として大宅武男さんと東喜三さん(ともに104歳)に仁坂知事と山田県会議長から表彰状と記念品が贈呈された。 また、80歳以上110人の会員への高齢者表彰に続いて、モジ・ダス・クルーゼス市ビリチバ・ミリン在住の梅田幸治氏(90)と、聖州バストス市在住の薮田修氏(72)への功労者表彰も行われた。 高齢者を代表して謝辞を述べた橋詰真八郎氏(80、2世)は、自身らへの表彰とともに長女が25年前に県費留学生として母県に世話になったこと、また、昨年孫が生活体験事業で訪日したことへの感謝を表した。 連邦議会、聖州議会、聖市議会からの功労賞及び賞状授与、記念品交換、日系3団体への寄付に続き、今年の県人子弟受け入れ事業に参加した中野カリナさんが「和歌山は親切で心の温かい人が多いと感じた。今後もこのような事業を続けてほしい」と謝辞を述べた。 和歌山県議会南北アメリカ諸国友好議員連盟の中村裕一事務局長の発声による万歳三唱後に記念祝賀会に移行。舞台下では、仁坂県知事、山田県会議長、木原会長らを中心に記念のケーキカットが行われた。 午後からはアトラクションとして大正琴の演奏が行われ、慶祝団の一員で15年前にサンパウロで大正琴を指導普及した畑美琴峰(はた・びきんほう)氏が見守 る中、琴聖会のメンバーが「浜千鳥」をはじめ、「里の秋」や「荒城の月」などを披露。その後、有志による「安来節」やリズム体操に続いてサンバショーが行 われ、慶祝団と県人が一緒になって会場内を踊り歩いた。 2014年4月29日付
ニッケイ新聞 2014年4月25日 新潟県人会(朝妻エレーナ会長)が26日午前11時から、同会館(Rua Pandia Calogeras, 153 – Liberdade)で「フェイジョアーダ&もち祭り」を開催する。約80人分を用意する特製フェイジョアーダは一皿15レで、臼を使ったつきたての餅は70キロほど準備し、1キロ18レで販売。なくなり次第終了となる。問い合わせは同会(11・3209・5116)まで。
 在ブラジル和歌山県人会(木原好規会長)創立60周年式典をはじめとする記念事業が、24~28日の5日間にわたってサンパウロ(聖)市をはじめ、松原移民が入植したマット・グロッソ・ド・スル州ドウラードス市などで行われる。同事業のために母県から仁坂吉伸県知事をはじめとする慶祝団一行72人が24日から来伯。仁坂氏は県知事として初めて松原移住地を訪問するほか、27日の記念式典、28日の和歌山プロモーションに出席する。  特に和歌山プロモーションでは、世界遺産「熊野と高野」を誇る同県の魅力と和食の原点である「食」情報を発信するセミナーが開催される。 記念事業の日程は次の通り。【24日】午後7時=ドウラードス市長主催晩さん会。【25日】午前8時40分~午前9時=松原移住地訪問。午前11時~午後3時=和歌山県人会ドウラードス支部主催歓迎交流会。午後8時=県知事主催同支部県人会役員との夕食会。【26日】午前8時~午前9時=ドウラードス日本語モデル校訪問。午後1時50分=聖市イビラプエラ公園内開拓先亡者慰霊碑参拝。午後7時=福嶌教輝在サンパウロ総領事主催夕食会。【27日】午前10時~午後3時=聖市ビラ・マリアーナ区の北海道協会(Rua Joaquim Tavora, 605)で在ブラジル和歌山県人会創立60周年記念式典。午後7時=県知事主催サンパウロ県人会役員との夕食会。【28日】午後11時=聖市セルケーラ・セザール区のブルーツリー・プレミアム・パウリスタ(Rua Peixoto Gomide, 707)で和歌山プロモーション。 2014年4月23日付
潮風に吹かれながら船上で談笑 ふるさと巡り最終日の3月17日、一行は1時間ほどかけてやってきたカラグアタツーバの船乗り場で船に乗り込み、午前10時過ぎに出港した。 目指すは、前日訪れたサンセバスチャンの街と海を挟んで向かいにある島で、ピッコ・ド・サンセバスチャンと呼ばれる最高峰1378メートルの山があるイーリャ・ベーラ。その大きさは一見本当に島なのか疑ってしまうほどで、海岸からすぐ山に入る急な山になっている。 この島付近の海はとても奇麗で、特に島の大西洋側はサーフィンなどのマリンスポーツを楽しめるスポットとして有名。前日訪ねたサンセバスチャンの日本人会関係者によると、最近は風の力を借りて進むバルコ・ベーラや、スケートサーフなどが人気だそうだ。 最終日も天候に恵まれ、よく晴れた空の下で波を切って走る船上で風に吹かれる気分は壮快。途中「タイタニック号」という名前の商業船とすれ違うと思わず笑ってしまった一行。サンセバスチャンの近くまで来ると、ペトロブラス社の大型タンカーが深い港に停泊していた。港からはパイプラインが伸びており、いかにも大きな港町を思わせる。 そのほとんど向かいに見えるイーリャ・ベーラの船着き場に、出発から約1時間ほどかけて到着した。その日は観光だけの一日となっており、約1時間の自由時間で一行は町の商店街で魚や果物などを見て回るなどした。 別荘が並ぶ緑色の山の斜面からの景色が見たいと思った記者は、急ぎ足で山の斜面へ向かってみることにした。途中の道にはアセロラの木が生えていたり、宿泊施設や日本食料理店、スポーツジムなども見受けられた。 海を背に自然豊かな山の斜面をゆっくりと登り始め、振り返って下を見てみると、そこには青い海が一面に広がり、ヨットハーバーに停まっているたくさんの船が静かに波に揺られていた。この絶景を見て何となくここに別荘を造りたがる人たちの気持ちを理解できたように感じた。いつまでも見ていられるようなそんな景色であった。 再び船に乗り潮風に吹かれながら談笑したり景色を楽しんだ一行は、サンセバスチャンのレストランで食事を楽しんだ後、午後3時ごろバスで出発しサンパウロ市のリベルダーデまで帰ることとなった。 到着前のバスの中では雷雨に見舞われたが、4日間の日程の中参加者に大きなけがや病気なども無く、今回も素敵なふるさと巡りとなった。(おわり、倉茂孝明記者) 2014年4月23日付
ニッケイ新聞 2014年4月16日 原発事故で損なわれた故郷に対する、ありがちな感傷的コメントを期待した記者の期待を見事に裏切り、永井文子さんは「私は小さい時に来ているから、何も分からんのよね。息子が日本に働きに行っているから、地震の前に一度遊びにいったらしいけど…」とサバサバした様子をみせた。1945年から47年の終戦直後にはツッパンにいた。「夫(永井哲夫、福島県富岡出身)が53アルケール棉をやっていた。多い時はカマラーダを30人ぐらい使っていた」と思い出す。「ソグロ(義父)は『日本が負けたはずない』、私の父や夫、隣の人もカデイヤ(留置場)に入れられた。そこに入りきれなくなって、縄で囲った場所に無理矢理囲うようになったとか聞いて、物騒になったようです」と淡々と話す。だから、日本人がいない場所へわざわざ来たようだ。当地ではバナナ栽培で一旗揚げ、夫と友人でアルゼンチンや欧州に輸出していたという。「この会館作るのに夫は一生懸命にやった。ゲートボールが好きな人で、カンポ(コート)も作った。私は今でもゲートボールやってますよ」と夫との思い出を噛みしめるように語った。子供移民にとって、ほぼ記憶にない祖国との心理的距離は時間と共に遠ざかり、逆に子孫が根を張った伯国との地縁が強まり、ここが「第2のふるさと」になる――。最後の別れ際、食事を用意してくれた婦人部のみなさんと抱き合って惜しむ姿も見られた。◎参加者の斉藤利治さん(としはる、73、二世バウルー生まれ)は「サンセバスチャンでは地元のみなさんが汗をかいて食事を作ってくれたのがうれしかった。でも、ただ食事を食べに行くだけみたいになったのが残念。もっと交流プログラムを充実させてほしい。ピンダのような日本語学校支援ビンゴみたいのは歓迎だ。他の場所でもやったらよかった」と振りかえった。参加者の多川富貴子さん(77、三重)=サントアンドレー在住=は「タウバテで久々の人に敢えてホントによかった。故郷の友人に会ったような気分」と喜びつつも、「今回はその土地の先人にお線香をあげる機会が1回もなかったのが残念」と語り、さらに「ピンダがやったように、他の日系団体も10分でいいから最初に歴史を説明してほしかった」と惜しんだ。今回は初参加組も多く見られた。聖南西イタペーバ在住の田中正さん(ただし、77、佐賀)もそうで「前から参加したかったけど、今回初めて。歳とってから安心して参加できる旅行だね」と感想をのべた。初参加の山口政之さん(89、熊本)=聖市在住=は伯国在住がまだ6年目だ。貿易関係の仕事だった関係から、海外在住歴はイタリア20年を初めスウェーデン、スイス、フランスなど長いが、終の棲家はブラジルに決めたという。「飛行機は600回以上乗りました。旅行が好きで、65歳から世界中を飛び回っています」という強者だ。すでにアマゾンやノルデスチも旅行し、「ブラジルは食べ物美味しいし、日本語が通じる」と気に入っている。生まれは広東省で19歳の時に朝鮮で終戦を迎え、引き揚げて九州大学を卒業してから、世界を股にかけた仕事で飛び回った。妻を亡くし、「今は天蓋孤独の身です。ちょっと寂しいですね」とつぶやく。叔父がブラジル移民だった関係で13年ほど前に一度会いに来た。以来5回来伯する中で永住を決め、07年から住んでいる。「100年前から日本を飛び出してこちらに住んでいる人は勇気のあった人だと思います」と頷いた。◎一行は17日にイーリャ・ベーラを観光した後聖市に向かい、午後7時にリベルダーデ広場で解散し、早くも次回9月のペルー行きで再会することを約束し合っている人の姿も見られた。(終わり、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月15日 天井がなく、梁や屋根裏むき出しの会館には地方の趣が漂っている。裏にはゲートボールコートが3面あるが、舞台には備え付けのマイクもなく、カラオケ教室もないようだ。でも森会長によれば年3回のビンゴを実施し、9月のヤキソバ祭りには500人分が売り切れるという。12月には餅つきも恒例で、180キロを搗くというから本格的だ。元会長の内山田太さん(80、福岡)は1959年に呼び寄せで渡伯した戦後の農業移民だ。最初はイタカケセツーバに入ったが、霜が降りて痛い目に遭い、「霜が降りない場所へ」と海岸山脈をおりて温暖なこの地へ66年にやってきた。以来トマトやピーマンなどの野菜生産に従事してきた。「聖市の方で霜が降りるとセアザの値段が3、4倍に上がる。そうするとこっちは儲かった」と思い出し笑いする。サンセバスチャンは1636年のポルトガル人入植から始まる歴史ある港町だ。「日系漁師も5、6家族いた」というのは住川和代さん(65、和歌山)だ。1960年に家族で渡伯した。和歌山県田辺といえば今も漁港で有名だが、父山崎登さん(故人)はそこで漁師をしていた。来伯当初はモジのコクエイラ区の養鶏場で働いたが1年後にはここへ来た。「わざわざ日本から漁具を送ってもらって始めたんです」。エビやイワシ漁が一般的だが、山崎登さんは車エビ中心で、セアザに送っていた。父について仕事を習っていた住川正吾さん(二世)と和代さんは結婚した。70、80年代が最も景気がよく、「昔は同じところで1カ月も2カ月も漁をしていた」と懐かしむ。「だけど今は15分遅れて着いたらもうないって。だんだん収穫が減って…、取り過ぎらしいです」。「今は日本人の漁師はいません」という。「海の上では『板子一枚下は地獄』と言いますが、夫が漁の最中に危ない目に遭ったりはなかったのですか」と尋ねると、「父も夫も危険があったとは一言も言いませんでした。でも、きっと怖い目に遭ったことはあったでしょうね」と思いやった。加治屋八重子さん(68、二世、スザノ生まれ)は「鹿児島生まれの御爺ちゃんが、ここに視察に来たとき『イーリャ・ベーラが桜島にそっくりだ』って思って、住むことに決めたそうです」という。その祖父も7年前に亡くなった。加治屋家を初め、同地には最盛期で6軒も日系海苔生産者がいたという。八重子さんは「岩についた海苔を地元の人に拾ってこさせて、それを買い取って集める。それをマダラにならないように均等に薄く延ばして乾かすんです。立ちづめの仕事で重労働、あの当時『嫁さんは手先が器用でないと務まらない』と言われた」と日本の農家のような話を思い出しながらする。日本と同じサイズで日産1500~2千枚というからかなり多い。「でも日本製が入ってくるようになって競争が厳しくなり、1992年頃に辞めました。やっぱり日本のは青々としてキレイですから」と残念そうだ。「四世の孫も『フリカケくれ!』って言うんです。やっぱり海苔が好きなんですよ」とほほ笑んだ。「私らがここに来た1950年頃、日本人は3家族ぐらいしかいませんでした」。永井文子さん(90、福島)は1927年、3歳で渡伯し、最初はオーリーニョスに入った。生まれたのは福島県双葉町、東日本大震災の原発事故が起きたあの町だ。今は放射能で大きな被害が出た故郷について質問をすると、数秒沈黙し、戸惑ったような表情を浮かべた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ブラジル東京都友会の2014年度定期総会が、3月21日午後6時からサンパウロ(聖)市パウリスタ大通りの東京都友会館で行われ、役員改選では坂和三郎氏の6期(1期2年)連続となる会長就任が承認された。続投にあたり坂和会長は「来年は都友会創設50周年の節目の年。そこへ向けさまざまな準備をしていきたい」などと目標を掲げた。 14年度の主な活動予定は、新年会、日本祭りのブース出展、ピクニック、留学生や研修生のOB会とその活性化、今後の都友会のあり方の検討など。既に創立50周年記念史の制作にも取り掛かっており、この半世紀のブラジルの政治や経済の変遷をたどりながら、ブラジル社会と都友会とのかかわりを分かりやすく説明した内容となる予定だという。 7月に開催される日本祭りでは、東京の観光名所である浅草寺の雷門にあやかった「雷どんぶり、雷焼きそば、雷天ぷら」などといった日本食を販売する予定。 また、聖市と東京都の間では1990年より姉妹都市提携が結ばれており、留学生制度・研修生制度ではこれまでに合計約70人がブラジルから東京都に派遣されてきた。これについて坂和会長は「3世、4世といった若い世代が日本や世界のことを知り、日系社会やブラジルのリーダーとなってほしいとの思いから制度の復活に向けて積極的に働きかけていきたい」としている。 今月には坂和会長自ら東京都庁を訪れ、舛添要一都知事に制度の復活や来年の創立50周年イベントへの参加を呼び掛ける予定で、16年に控えるリオ五輪の準備期間の視察も兼ねた来伯にもなるということで期待が高まっている。 1世会員が減少する中、都友会は「東京を愛する人の会」として、東京都出身者以外でも「東京を愛する人」なら誰でも参加できるのが特徴。会費などはなく相互の親睦を深めることを第一に活動しており、20年の東京オリンピック・パラリンピックを見据え、ツアーなども計画している。 13年度の会計報告によると、一般会計収入9万2791・84レアル、支出6万7588・07レアルで、次年度繰越金は20万7975・66レアル。14年度予算案は7万7673レアルが承認された。 新役員は次の通り。(敬称略) 【役員】名誉会長=多羅間俊彦、会長=坂和三郎、第1副会長=鈴木壽、第2副会長=山下リジア、第1書記=林慎太郎、第2書記=神田アントニオ、第1会計=右近昭夫、第2会計=岩崎リカルド、監査=岡田本子、佐々木佳子、早川えいじ。 【監事】監査役=大沼博、本田さちえ、森原クリスチーナ。監査補=鈴木サユリ、坂和ユカリ、高木まゆみ。 2014年4月18日付
大型船も着くサンセバスチャン よく晴れた3月16日の日曜、朝日に輝く水面は美しく午前10時のホテル出発前には早起きしてビーチを散歩する参加者も大勢いた。この日は海岸沿いの道路を30分ほど走った先にあるサンセバスチャンに向かうということで、記者はどうも海の街と聞くと男のロマンがそそられてしまう。 海水浴場がひしめくカラグアタツーバの海とは違い、ここサンセバスチャンの海は水深が深いため、世界各国からタンカーなどの大型船が出入りできる港があることで有名だ。 「こんなに大勢の人が来るのは初めてで今日は大忙しだ」とサンセバスチャン日本人会の人が口をそろえながら我々一行を歓迎してくれた。それもそのはずで、126人という大所帯で訪問したらどこであっても大変なはずだが、同日本人会の現在の会員は30家族と多くない。 森孝子会長(70、2世)は、「いつものイベントなどでは小さい鍋を使っているが、今日は大きな鍋を用意して気持ちを込めて作った」といい、さらには「トイレが1960年に会館が造られた当時のままだったのでこれを機に新しくすることを決めた」そうで、何とその工事は前日に終わったばかり。我々一行を迎えるためにわざわざ行われた。 サンセバスチャンは84年に青森県鯵ヶ沢(あじがさわ)町と姉妹提携を結んだそうで、会館には同町出身の舞の海(元相撲力士)の手形色紙や結成5周年の記念プレートが飾られていた。 鯵(あじ)という地名からも海とのかかわりを想像できるが、日本海に面した鯵ヶ沢町の内陸には世界遺産となっている白神山地があり、海と山に囲まれた町としての類似性もあるようだ。 またその隣のプレートに書かれた「16・3・1636」の文字が気になった記者。そう、その日はちょうど3月16日だったからだ。会場にいた同市 役員のオズワルドさんによると「今日は町の誕生日。元の町から分かれて街ができた日」だそうで、中心街では祭りも行われているということだった。 40年前にこの町に移り住んできたという藤田倭文子さん(80、2世)は、大きな港の近くに海が見えるレストランを夫と一緒に経営している。コーヒーや野 菜を作る農家の長女としてリンスで生まれた藤田さんは家族で各地を転々とした後、モジ・ダス・クルーゼスで結婚してサンパウロへ移ったが、空気が悪く子ど もがぜんそくになったためにサンセバスチャンに移り住んできたそうだ。 現在店の仕事は別の人に任せているというが、昔を振り返っ て「世界中からやってくる船の乗組員たちが来店しては、色々な国の食べ物や魚をくれたり、船に乗せてくれたりするのが楽しかった」といい、「世界一大きな 船がやって来たこともあって近くまで見に行った。本当に大きくてびっくりした」と話す明るい表情の藤田さんが印象的だった。 最近 は日本船がやって来ることはほとんどないというが、20年ほど前までは日本からやってきた船員がよくレストランに来てくれていたそうだ。藤田さんは日本で...
半世紀前には土砂崩れも発生 セーラ・ド・マール(海岸山脈)をバスで駆け上がり山頂を越えると、下界には青く輝くカラグアタツーバの海と街が広がっていた。山を下り海抜2メートルの街に入ったふるさと巡り一行は海沿いの街独特の暑さに包まれ、いよいよここまでやって来たのだなという雰囲気に変わっていた。 午後5時にカラグアタツーバ日本人会館に到着した一行を、1時間少々の短い時間の訪問予定にもかかわらず温かく出迎えてくれた多くの人々がいて、自然と握手も固くなった。 2年後に50周年を迎えるという同日本人会の由井誠吉会長(71、福島)によれば、一行が越えてきた海岸山脈で1967年3月に土砂崩れが起こり、400人強の人々が亡くなるという歴史的大事件があった。その日は由井会長の誕生日だったこともあり、忘れることはないという。集中豪雨により赤い土が見えるほど山一面がはだけていたといい、この土砂崩れによってバナナ園などの農家は打撃を受け、町に住む家族も減ってしまった。 現在日系では約300の家族が住んでおり、そのうち約80家族が日本人会に加盟している。同会で週4回行われているというゲートボールでは練習の成果もあり、数々の大会でもらった多くのトロフィーが会館に飾られていた。 一行を迎えてくれた中には、カラグアタツーバ婦人会の初代会長と2代目会長もいた。2歳の時にブラジルに渡り、ブラジルには何と90年間も住んでいるという初代婦人会長の三木スミエさん(92、岐阜)は、ビリグイやバストスに住んだ後、56年からカラグアタツーバに住んでいるという。婦人会長となった約50年前を振り返り、「当時は50家族ほどがいて、よくバザーや日本舞踊などを行っていた」と教えてくれた。 2代目の婦人会長だった河田律子さん(91、北海道)は9歳の時に来伯し、63年にカラグアタツーバに来てこの町で初めて日系人が経営するホテルを始めた。現在91歳と高齢だが、とても元気な河田さんに長生きの秘訣を尋ねると「腹を立てないことと、心配しないこと」だといい、「歌うことが大好きだから毎日カラオケで歌っていると嫌なことも全部吹き飛んでしまう」と話していた。 ゲートボールにもよく参加しており、午前5時に起きてはカフェと軽食を作り、ゲートボールに持っていって皆で食べるのが楽しみなのだという。河田さんはかつて90年にアルゼンチンで行われたゲートボールの世界大会にも出場しており、「ゲートボールをしながら100歳まで生きたい」と笑顔で話してくれた。 時間はあっという間に過ぎ、会館を後にした一行。海岸の目の前に立ったホテルの周りは、一日中海を楽しみ真っ黒に日焼けした人々で溢れていた。 午後7時過ぎからホテルの隣のレストランで食事が始まり、カラグアタツーバ日本人会から参加した由井会長と黒澤公義さん(60、茨城)と海沿いの街らしく魚の話題で盛り上がった。 記者の出身地で水揚げ量が多いことで有名な千葉県の海を引き合いに、ここの海は潮流が荒くないために魚の餌となるプランクトンが少ないのだという。とはい うものの、かつてこの辺りではイカやイワシなどがよく捕れたのだそうで、サルジーニャ・サウ・モーラ(イワシの塩漬け)にしてごちそうとして食べていたそ うだ。 塩漬けにすることで品質を保てるので、山間部にも運べることができ、畑仕事などで汗をかいた身体の塩分補給にもちょうど良 かったのだと教えてもらった。先人の知恵というのはいつも素晴らしいものだ。残念ながらそのレストランにはイワシの料理はなかったが、いつか食べてみたい と思った。 ここカラグアタツーバの町には八つの海水浴場があり、増える観光客をターゲットにした商店やショッピングセンターも建設されるなど、観光面に力を入れているという。海岸線には別荘が並び週末などの休みには多くの人で海岸はにぎわっているようだ。...
ピンダの町に鹿児島の故郷重ねて ピンダモニャンガバ日伯文化体育協会の日本語学校で学んでいたのは若者だけではなく、最高齢は何と昨年傘寿を迎えた上田佐々木やよさん(80、2世)。彼女はこの町の歴史をよく知っている。父親が1929年にピンダの町に移り住んできた際には既に4家族が住んでおり、その中に笠戸丸以前の06年に来伯した安田良一氏の家族がいたと教えてくれた。 上田さんもそうだったのだが、ここピンダの町の良さについて地元の人々に尋ねたところ、大体二つの答えが返ってくるのだった。一つは、安田良一氏がいた町であり、その息子で日系人として初めて大臣となった安田ファビオ良治氏が生まれ育った地であるということ。もう一つは町に溢れる自然の良さだ。 自由移民として来伯した良一氏はさまざまな地を回った後ピンダに移り住み、それまで陸稲が多かった米作において水田作を始め、ピンダを有数の米作地とさせたのだった。80年ほど前に東山農業株式会社がこの土地を購入した後も、彼は支配人としてコーヒー、牧牛、米作と手広く事業を経営し、戦時中の敵性財産処分に遭い大農場を手放すこととなったが、その功績は今でもたたえられている。 また、ピンダ文体協会長の森ジョージ氏(63、2世)が「自然に溢れ空気が良くて住みやすく、とても良い町」と言うようにこの町には豊かな自然があり、日本語学校の生徒たちも「休みには川に行って泳いで遊んでいる」と言っていた。 一行が会館で昼食をごちそうになっていると、思いがけない人たちが会場に駆け付けた。安田ファビオ氏の弟、安田ネルソン氏(87)とその家族計7 人である。ステージ上に上がりあいさつをした彼らを一行は温かい拍手で迎えた。記者は、安田家と長年の付き合いを持つ上田さんと親しいネルソン氏の娘さん から、良一氏とファビオ氏の話を聞くことができた。 彼女によると良一氏は、「他の人よりも先に同地に住んでいたということもあり、日本から移住してきた多くの人たちから頼られる存在であった」そうで、「困っている人がいたら、家に泊まらせてあげたり仕事や住む場所を紹介したりするなど、よく彼らを助けていた」そうだ。 そして、ブラジル中を回った後にピンダに住むことに決めたのには理由があるそうで、「ピンダの温暖な気候や奇麗な自然が出身地の鹿児島に似ていて故郷を思い出したからここに住むことに決めた」のだという。 まだほとんどの日本人がブラジルに行ったことのない時代に、故郷を捨て海を渡ってきた人物とは一体何者かと思っていたが、そんな彼だからこそ故郷に似た土地に愛着がわいたのだろうか。もしかしたら、彼がここブラジルで初めてふるさと巡りをした一人かもしれない。 彼の息子で日系初の大臣となったファビオ氏は、大学で農業を学ぶが中退し、後にコチア組合の役員となって商工大臣となるのだが、彼女によると「人と同じように何かをするのではなく、自分の考えを持って何でもやってやろうという強い気持ちで行動する人だった」そうだ。 「その性格のせいか、商工大臣を務めた期間は5カ月弱と短かった」というが、強い気概を持っていたからこそ初めての大臣となれたのだろうし、その偉業はこの町の人はもちろん多くの日系人を勇気付けたはずだ。 どんな人であっても、故郷の景色や自然というのは心や体が覚えているものだ。交流会の終わりには「ふるさと」の歌の合唱が行われたが、前日タウバテで歌った時とはまた違った気持ちで自らの故郷やその景色を思いながら歌う自分がいた。 午後2時、一直線に立ちはだかるセーラ・ド・マールと呼ばれる海岸山脈を遠くに見据え、その先にある海沿いの町カラグアタツーバを目指してピンダの町を後にした。(つづく、倉茂孝明記者) 2014年4月15日付
日系初の大臣、安田氏を生んだ地 3月15日午前9時、タウバテ市に別れを告げた一行は、バスで約1時間離れた隣町のピンダモニャンガバ市のピンダ日伯文化体育協会の会館を訪問した。 この地は「笠戸丸」以前の移住者である安田良一が米作を水田作で始めた地として有名であり、その息子で日系初の大臣となった安田ファビオ良治が生まれ育った地としても知られている。 会館の前で鮮やかな黄色い法被を着て一行を出迎えてくれたのは、同文協の会館で日本語を学んでいる生徒たちだった。 ピンダでの日本語教育事業は長い歴史を持ち、同文協の前身であるピンダ日本人会が1952年に創設される以前より、街にあった父兄会において行われていたという。第二次世界大戦終結後の勝ち負け騒動などの困難も乗り越えて続けられてきたが、8年ほど前にJICA(国際協力機構)による日系社会青年ボランティアによる日本語教師派遣の話を知り、条件を満たす生徒数の確保や専用教室を寄付金を募るなどして建設し受け入れを始めた。 現在日本語学校には約50人の生徒と6人の教師がいる。派遣教師(1期2年)の3期生として8カ月目を迎える神田和可子さん(28)は、かつてブラジル人に間違われたことでブラジルに興味を持ち始め、このプログラムに参加するに至ったそうだ。 学校の様子について聞くと、3~11歳の生徒がいる子どもクラス(現在18人)ではこれまで鬼ごっこや折り紙などをすることが多かったが、文章の読み書きの能力も付けてほしいとの思いから、新たな取り組みとして習得レベル別(早い人はウサギ組、遅い人はカメ組)に分けた座学での勉強を今年2月に始めたばかりだという。 定期的に行われる学習成果の発表会ではスピーチや紙芝居の一行読み、合唱などを行っている。神田さんは「この8カ月、子どもたちに囲まれて楽しくやって来た。何を残せるか分からないけど目の前のことを一生懸命頑張りたい。帰国後には日本にある在日ブラジル人コミュニティーで、これらの経験を生かせれば」と教えてくれた。 充実した日本語教育が行われていることがうかがえたが、このように力を入れる背景の一つとして考えられるのは、どうやら子弟が就学や就職等の理由で町から減り、青年会もそれに伴ってなくなってしまった背景があるようだ。 婦人会の中尾さんは「学校で日本語を学ぶ若い生徒たちが今後の日系社会を引っ張っていける存在となれるように今のうちから組織立てていけたら」と 期待を寄せており、初代青年会長の鈴木武氏は「先生方は熱心に丁寧に教えてくださり、生徒たちは日本語の中にある日本人の心、情緒などの雰囲気を自然に身 に付けつつある」として父兄一同感謝している。 ピンダ日本人会は64年の会館の落成を機会にピンダ日伯文化体育協会と改め、ピン ダ日系社会の親睦向上のためさまざまな活動を行っている。現在の同文協の会員は170人、婦人会は70人。今は無き青年会は49年に青年有志が話し合い街 を中心に結成され、同年に家長有志による日本語教育を希望する父兄たちの集いである父兄会と合同で運動会を実施した。以来、運動会は現在まで続き、毎年約 500人が集まるピンダ日系社会の伝統行事となっているそうだ。 年中行事の一つとしてよく行われるというカラオケ大会。我々ふる...
ニッケイ新聞 2014年4月12日 ブラジル日本文化福祉協会など34日系団体が「梅田邦夫日本国特命全権大使歓迎会」を10日午後7時半、同文協ビルで行った。各団体の代表ら約150人が集まり、2週間前に到着したばかりの梅田大使の着任を祝った。梅田大使は挨拶で「以前からブラジルで働きたかった」との喜びを表し、「三つの感謝と一つお願い」と前置きした。当日はまず、イピラブエラ公園の慰霊碑参拝や移民史料館視察をしたこともあり「100年以上に及ぶ移民の方々の苦労」に感謝した。二つ目が「W杯サンパウロ支援委員会の活動」、三つ目が「Jリーグなど日本サッカー振興へのブラジルからの協力」に心からの謝意を示した。続けて大使は「日伯修好120周年に向けて早く実行委員を作りたい」と述べ、福嶌教輝在聖総領事と話し合いを進めていることを明かした。「日伯間の政治経済連携を強化し、2004年以来行われていない首脳レベルの往来を実現させたい」との意気込みを語った。福嶌総領事は「今のブラジルにとって最高の人物」と着任を喜び、「課題であるビザのマルチ化や日伯修好120周年の新企画を一緒に進めていきたい」と語った。
ニッケイ新聞 2014年4月12日 1962年渡伯のグアタパラ移民、黒沢公義さん(60、茨城)は、67年からカラグアに住み、19年間のバナナなどのフェイランテ生活を経て、96年頃から商店経営に転じ、現在は最もにぎやかな繁華街にミニスーパー「フェイラ・リブレ」を経営している。 調理済みパック入り野菜など、手間のかかった商品の品ぞろえが豊富で、巻き寿司や弁当などの日本食品も充実しているのが特徴だ。黒沢さんは「この辺にはかつて12軒もキタンダがあったが、多くは淘汰された。僕は一クラス上向けのサービスを提供し、地元富裕層を掴んできた」と苦心の程を語る。冷凍庫を見ると東洋街と同じような韓国アイス「メローナ」も並び、自家製焼きそばソースも売れ筋だという。聖北海岸には聖市の富裕層向けの集合別荘地コンドミニオが次々に開発され増えている。従来のスーパーは観光客向けのものが多かったが、聖市で日本食に慣れた富裕ブラジル人層は、別荘でも同じものを求めると黒沢さんは考え、それが当った。「昔は日本文化とか日系らしさを出さない方が良いと思ってやってきたんだけど、今は逆。むしろ日本文化を強調した方がお客さんの関心を呼ぶんです」と壁にある日本語の額を指さした。◎「たしかこの辺なんだだがな…」。本橋幹久団長(鳥取県人会長)にとってカラグアのお隣ウバツーバは特別な思い出の場所だ。自由時間を利用し、タクシーを雇ってそこへ直行した。ウバツーバまで約40キロ、そこから更に5キロの地点では1970年から77年頃まで戸倉建設がウナギ養殖池を作って試行錯誤していた。その場所を一目見ようと40年前の記憶をたどってやってきたが、「こんなに辺りに家はなかった」と愕然とした様子。北大で畜産を勉強し1960年に東山研修生として来伯、南伯農協で仕事をしていた。当時、欧米の大型飼料会社が上陸した関係から、味の素社などが出資して67年頃に「ラッソン・ヅットラ」飼料会社を作り、本橋さんはそこに移って鶏のエサを担当していた。そんな時にウナギ養殖が始まり、日本まで研究にいってウナギ用飼料を作りあげ、毎週木曜日に納めにきていた。「でも、軌道に乗る前に戸倉が引き上げでしまった」と残念そうにいう。ラッソン・ヅットラ社は1982年頃まで続いたという。地元住民に聞くと、「今バウジール・ジャポネースが住んでるよ」とのこと。戸倉が手放した土地に奇しくも日系人が住んでいるようだ。「お~い、誰かいないか?」。呼び鈴を押しても、柏手を打っても残念ながら返事なし。門の隙間から中を覗くと、養殖池らしきものが確認でき、本橋さんは「池の上に網が張ってあるから、いまも何かの養殖につかっているのかも」と推測し、「とりあえず見られて満足しました」とほほ笑んだ。◎3日目の3月18日、一行はカラグアから15キロ南に下った古い港町にサンセバスチャン日本人会(森孝子会長、正式名称「アトランチコ文化体育協会」)を訪ね、昼食を御馳走になりながら交流をした。1944年にバストスで生まれた森会長は、当地在住50年を数え、会長6年目だ。「若い人はサンパウロなどの町に出ていくばかり。来るのは年金生活者だけ」となげく。1960年頃に創立した約30家族のこじんまりした世帯だ。父森又治さんが会館建設(1972年)の功労者で、森会長の娘サトミさんも飛び回って手伝っており、親子3代で奮闘している。この人数の団体が、130人もの一行を受け入れて交流する英断を下したことに勢いを感じさせた。(つづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月11日 「何事かと思って山を見たら、見渡す限りの山肌が真っ赤になっていた。あの光景が忘れられない」。由井誠吉会長は同地最大の惨劇を思い出す。カラグアタツーバといえば、1967年3月に降り続いた集中豪雨により19日午前に突如起きた山津波が、当時稀に見る大水害として記憶に刻まれた地だ。「忘れもしない、ちょうど僕の24歳の誕生日だった」。狭い海岸沿いの平地から山沿いにかけて、当時はバナナ園が広がっていた。「バナナやっていた人は全滅ですよ。日系人も含めて当時は400人が死んだって言われているけど、本当はもっと多かったでしょうね」。67年3月21日付パ紙は1面で「土砂の塊が幅2キロにわたりものすごい勢いでなだれ込んだ。低地帯では濁流が渦巻、悲惨さを一層盛り上げた」「死者四百、負傷者五百、被災家族一千五百にのぼった」などと一報を流した。さらに同28日付パ紙は「再起不能の烙印を捺された見るも無残な耕作地を前にする地元に人たちにとって、復旧への道はあまりにも長すぎるようだ」と報じ、仏連、赤間学院、生長の家、大本教、協和婦人会などのコロニア各団体が救援物資を送る運動に立ち上がった様子を刻々と伝えた。当時、町の外れにあったジェットゥーバ植民地も大被害に遭い、当時そこの日本人会長だった中西忠勇さん(後の石川県人会及び県連会長)が災害救助に活躍し、叙勲を受けた。地元の話では「あそこには15年ほど前からホーリネス教会のコムニダーデのようになってブラジル人も入っているね」という。◎長井秀夫さん(89、福島)は1948年からカラグアに住む一番の古株だ。家族に連れられて10歳で渡伯し、最初はモジアナ線、続いてグアイサーラ、プロミッソンには土地を買って2年間棉作、さらにサンタクルス・ド・リオ・パルドで7年棉作、終戦近くから直後まで2年間をツッパンで過ごした。まさに勝ち負け抗争の激戦地だった時期だ。「あの頃、ツッパンにユダヤ系のソウザ・レオンという大農場主がいた。彼の経理担当者の日系人が勝ち負けで殺されたとかで、近隣の日系農家を家探しして回っては鉄砲どころか、刃物類を根こそぎ持って行くんだ。農業に使うようなものまで。警察でもないのに、兵隊を連れてきて、それ同然のふるまいをするんだ」と思い出しながら憤る。「父も日本がまさか負けるとは思っていなかった。5年、10年したら日本に帰るつもりで来ていた。だから僕もブラジル学校に行っていない。父は日本語をしゃべったという理由だけで3、4回もカデイア(留置場)に入れられたよ。次の朝、迎えに行ってね。このままツッパンにいたら危ないと思って、カラグアに移った」という。由井会長は長井さんの肩を叩きながら、「この人は会館を作るときに寄付をしてくれた。本当に立派な功労者なんです」と横から解説を加えた。記者が「じゃあ、カラグアが長い旅の終着点ですね」と長井さんに尋ねると「まだ分からないね」と即座に答えた。移民人生の心構えがそこに滲んでいるようだ。「ふるさと巡り」のという何気ない出会いの場には、実に様々な歴史が秘められている。(づづく、深沢正雪記者) この連載はこちらでご覧になれます。http://www.nikkeyshimbun.com.br/2014/2014rensai-fukasawa3.html
ニッケイ新聞 2014年4月12日 東京都友会(坂和三郎会長)が先月21日、聖市ベラ・ビスタ区の同会事務所で2014年度定期総会を行った。役員改選も行われ、坂和会長(80、東京)が6期目の続投となった。同会長は「一世会員減少の中、会員相互の親睦を深め、2020年東京五輪ツアーなどを企画中。後継育成や、04年に途絶えた留学・研修制度の復活も働きかけたい」と述べた。新年会、ピクニック、日本祭への参加など今年の行事予定に加え、来年の創立50周年に向けた記念誌の制作についても確認された。会計報告では、昨年の収入が9万2791・84レ、支出が6万7588・07レで、次年度繰越金は20万7975・66レと報告された。今年の予算案は、収入が9万6171・00レ、支出が7万7673・00レで承認された。 新役員は次の通り(敬称略)。【名誉会長】多羅間俊彦【会長】坂和三郎【副会長】第1=鈴木寿、第2=山下リジア【書記】林慎太郎、神田アントニオ【会計】右近昭夫、岩崎リカルド【理事】岡田本子、佐々木佳子、早川エイジ【監査】大沼博、本田さちえ、森原クリスチーナ、鈴木サユリ、坂和ユカリ、高井まゆみ