戦後の県人団結助けた山内盛彬氏
【既報関連】ブラジル沖縄県人会・沖縄文化センターの定期総会が開かれた2月22日、会場の同県人会館ロビーに琉歌を刻んだ石碑が置かれていた。高さ1.5メートルほどの、苔が点々とついた古びた碑だが、ブラジルの沖縄県系コミュニティーにとっては先人が残した財産だ。石碑の歌は、琉球古典音楽の大家、山内盛彬(やまのうち・せいひん)氏(故人)が詠んだもの。同氏は1952年、戦後の在伯邦人を二分した「勝ち負け」対立に心を痛めて来伯。3年間各地を訪れ、音楽を通じて県人社会の融和に尽力した。長年行方の分からなかった碑が再び日の目を見たのは、建立から約60年が過ぎた昨年のことだった。
石碑に刻まれた琉歌は「平和しにゆくゆる武器よさめ楽や 原子爆弾も吹きよ散らせ」。音楽は世の中を和やかにし、原子爆弾も吹き散らす武器であると、音楽を通じた平和への願いが込められている。
定期総会で歌碑の由来を説明した山城勇名誉会長によれば、山内氏がブラジルを訪れたのは戦後の52年。戦前から音楽家として活動していた同氏は当時、米国コロンビア大学に招聘され、同国で沖縄の音楽を紹介していた。その滞米中、在伯邦人社会が日本の戦勝・敗戦をめぐって対立していることを知ってブラジルへ来たという。
3年間の滞伯中、山内氏は国内各地の県人集団地を訪ねて琉球古典音楽を紹介。音楽を通じて、まだ残る「勝ち負け」対立の空気を和らげ、県人が団結する一助となった。同氏の活動はまた、ブラジルでの古典音楽団体創設にもつながった。
そして54年、サンパウロ400年祭で開催された第7回国際民族音楽会議に沖縄から代表として来伯した金井喜久子氏とともに、山内氏も同会議に参加。その折に、「音楽の力で皆の心を慰め、ウチナーンチュの心を一つにさせたい」との思いを込めて前述の琉歌を詠んだという。
山内氏の自書を刻んだ同碑は、大城亀氏、山内盛長氏ら同氏が滞在した聖市近郊サント・アンドレーの県人や、当時母県救援活動に携わっていた花城清安氏など 有志が資金を集め、54年、当時サント・アンドレーにあった「日本荘」内に建立された。同所は戦前移民の三好綱一氏が地元資産家から土地を借り、日本庭園 を整備した場所で、鳥居や、明治天皇御製の碑などもあった。
山城さんが移住したのはその4年後だが、当時日本荘のあった ファゼンダ・ジュッタに住んでいたことから昔のことを聞いていたという。まだ日本人の団体がないころ。一番手近に集まれる場所が日本荘で、「来て間もない ころは、運動会や演芸会など盛んに行事をしていました」と思い出す。
しかし、周辺開発の進んだ70年代初めに三好氏が土地を返すことになり、日本荘は移転。以後、歌碑の所在については分からなくなっていた。
その後、移民100周年事業「写真で見るブラジル沖縄県人移民の歴史」の編集を進める中で、日本荘の建築物がアルジャー市の日本カントリークラブに移さ れ、その中に歌碑もあることが分かった。昨年7月ごろに山城さん、宮城あきら編集委員長、垣花輝明委員らで同クラブを訪問。敷地内の一角に移設された日本 荘を探したが、一日探しても見つからなかった。断念して帰ろうとした夕方、はるか奥で高く伸びた草の陰に隠れていた石碑を見つけたという。
歌碑の写真は同記念誌に収録され、そしてこのたび、知念直義・野村流古典音楽協会会長、新城盛春・野村流古典音楽保存会会長ら関係者の提案により、会の財産として保存するため同クラブから県人会館へ運ばれた。
総会の席で知念さんは、現在庭園を管理する三好さかえさん(綱一氏の息子の夫人)から「どうぞ良い所へ置いてもらったら、そのほうがいいでしょう」と承諾 を受けた経緯を振り返り、「三好さんの家族の温かい協力を得ることができた」と感謝の気持ちを表した。山城さんは、「我々の平和を願う心を子弟、世界に伝 え、見るたびに平和を思い出すよう身近に置いてもらいたい」と希望を述べた。
提案を受け、総会の席で歌碑をジアデマ市の沖縄文化センター内に設置することが承認された。しばらくは同会館内に置いてイベントなどの来訪者に見てもらい、今後具体的な移設時期などを決める予定という。
2015年3月7日付
