聖市皮切りに10都市をご訪問 【既報関連】日本ブラジル外交関係樹立120周年を記念して、秋篠宮ご夫妻がきょう28日午前、最初のブラジル訪問地であるサンパウロ(聖)市に到着される。ご夫妻は日本を27日に発たれ、ドイツを経由してきょう28日とあす29日に聖市の各種公式行事にご臨席。その後、パラナ、南マット・グロッソ、パラー、ブラジリア、リオ各州の全10都市を訪問され、11月10日にご帰国になる。聖市での2日間にわたる公式行事ご日程は次の通り。 【28日】最初の訪問地である聖市には28日午前にご到着。午後から最初の公式行事としてイビラプエラ公園内の日本移民開拓先亡者慰霊碑に献花された後、引き続き、慰霊碑に隣接する日本館を訪問される。 サンタ・クルス病院では、新記念碑の除幕や日系人医師らとのご懇談も予定されている。 ブラジル日本文化福祉協会ビル内では、日系団体代表者約100人とご懇談。その後、同ビル内の移民史料館をご視察後、記念講堂で日系社会歓迎行事に臨席され、秋篠宮殿下から「お言葉」がある予定。 夕方、ブラジル日本語センター関係者及びJICA派遣日系社会ボランティアたちとも接見される。 【29日】29日午前、救済会憩の園(老人ホーム)をご訪問。引き続き、サンパウロ総合大学(USP)本部キャンパスを訪問され、同大学学生たちとご懇談。午後からはブタンタン毒蛇研究所をご視察後、聖州政庁でジェラルド・アルキミン州知事とご引見の予定。その後、州知事及び在聖総領事館共催の歓迎レセプションに出席される。 サンパウロ新聞 2015年10月28日付
Dia: 29 de outubro de 2015
ニッケイ新聞 2015年10月28日 「富士山通り」に日墨会館は建っている。大きな駐車場にバスが着くと、役員、会員のみなさんが入母屋式の会館前で迎えてくれた。 第二次大戦中、日本とメキシコは国交断絶し、当時メキシコ市にあつた日本公使館の資金が凍結された。しかし平和条約締結後、55年には日墨文化協定が結ばれ、56年には凍結資金全額(約2200万円)が解除返還された。これを日本政府側は、「両国の親善と文化交流に役立てよう」と地元日系社会で創立された「日墨協会」の会館建築費に充てた。 創立者であり会長も務めた松本三四郎氏が1万平米の土地を寄贈、コロニアからの浄財も集め、まさに官民一体となった事業だった。いくつかあった日系団体も吸収一本化され、名実ともにメキシコ日系人を代表する団体となっている。 会館内には、レストランや図書館、日本語教室、プールを含むスポーツ施設なども完備、多くの日本文化イベントも行われている。 一行は美しく広がった日本庭園に感嘆の声を上げながら会場へと向かった。本橋会長は、和久井伸孝会長、メキシコ日系社会の〃顔〃である春日カルロス顧問らとともに、日系人の塔へ献花、記帳も行い、榎本移民に始まる日本人移民、日系人らの冥福を祈った。会場は約150人で埋まり、協会のコーラスで迎えられた。各県別に分かれて座った。和久井会長、04~07年にブラジル大使館に参事官として勤務した清水亨公使らが歓迎のあいさつを述べ、春日顧問は、「メキシコの日系人はブラジルの1%しかおりませんが、みなさんの100倍頑張っています!」と会場を沸かせた。 メキシコ音楽の演奏や余興もあり盛り上がった。同じハッピを着込み歓声が上がっていたのは長野県人会のテーブル。ブラジルの県人会役員が、今回のメキシコ訪問を受け、母県に橋渡しを頼んだ。司会を務めた中村剛副会長(62)や、春日顧問も県系ということで大い交流を深め、「今度はブラジルで会いましょう!」と再会を誓い合っていた。 翌日、都市遺跡「テオティワカン」へ。紀元前2世紀に建造されたとされる宗教都市跡だ。入口から見える月のピラミッドが壮観だ。高さ65、底辺の1辺は225メートル。登っている人の大きさからその偉容ぶりが分かる。階段も248段あると聞き、多くの人が途中まで登るだけで記念撮影を楽しんだ。 時間もないので(このツアーは常に時間がないのだが)、さっそく登ろうと同室者の内村さんに「では後で…」と挨拶すると「自分も登る」というので驚いた。手すりがあるとはいえ、かなり急なので怖い。転げ落ちると事なので、記者は勝手に後ろについた。 登り切るとはるかに広がるメキシコ盆地の風景が清々しい。1万人が10年をかけ作られたという。ここに20万人が住んでいたのだろうか―。ふと気がつくと観光客で一杯となっている頂上部分に内村さんがいない。 大丈夫かなと思いつつ、下までたどり着くと「遅いですよ~」とばかりに笑っている。この調子では、エジプトのピラミッドでも香川県の金毘羅さんでも大丈夫そうだ。長寿の御利益があるのではと、スーパー80歳の後ろ姿をこっそりと拝んだ。(堀江剛史記者)
念願のアカコヤグアへ 昼食後、7人の団員が一行より先行してチアパス州都のトゥクストラ・グティエレスへと向かい、午後2時40分にメキシコ・レストランを出発したそれ以外のメンバーは、メキシコシティにある国立人類学博物館に行く予定になっていた。 ところが、この日(9月27日)は日曜日である上、同博物館内ではブック・フェア(フェイラ・デ・リブロ)が実施され、入場するのに400メートルの列ができているとの情報が入った。 結局、時間がないとして、国立人類学博物館見学は最終日の30日午前に振り返られ、その時間を利用して団員からの希望もあり、メキシコシティ内の土産物屋に行くことになった。 土産物屋は、奥に行けば行くほど迷路のように入り組んでいる。民芸品やメキシコ名物のソンブレロ(つばの大きい帽子)、「ルチャ・リブレ(自由な戦い=プロレス)」のマスクやTシャツなども所狭しと置かれていた。 ただ、ここでの買い物時間も30分と少なく、ゆっくり買い物を楽しむ時間がないことから一部の団員からは苦情も出ていた。 午後5時10分、空港に到着し、トゥクストラ・グティエレスへ国内移動するためにアエロ・メヒコのカウンターで搭乗手続きを行うが、ブラジルと同じく係員の段取りが悪いのか遅々として受付作業が進まず、結局、全員が搭乗手続きを済ませるまで約1時間半を要した。 それでも午後9時半出発の飛行機までには、まだ2時間半以上も時間がある。一行は空港内レストランで夕食を取ったが、記者たちはガイドの許可を得て、近くのフードコートでビールを飲んで搭乗までの時間を待った。 午後9時半発のトゥクストラ・グティエレス行きの飛行機には、日墨協会の和久井伸孝会長も同行してくれた。南東へ約800キロ離れた同地へは午前0時ごろに無時到着。ホテルに着いたのは午前1時を回っていた。◎ ◎4日目の9月28日。この日はいよいよ「榎本殖民団」が入植したアカコヤグアを目指す。 一行は午前7時からの朝食で、朝からボリュームのある食事をたっぷり取っている。それにしても感心するのは、ふるさと巡り参加者が比較的高齢者が多いにも関わらず、皆さん元気なことだ。朝から晩までのハードスケジュールで今回は特に移動も激しいが、ほとんどの人が文句を言うこともなく旅行を楽しんでいる姿には本当に頭が下がる。 午前8時、一夜限りのホテルをチェックアウトして出発する。トゥクストラ・グティエレスの海抜は約500メートルで日中は30度を超える暑さになるという。南に約300キロ離れたアカコヤグアはさらに暑く、太平洋に近いため湿気も多いそうだ。 一行は途中、午前10時ごろのトイレ休憩を挟んで、約4時間半バスに揺られた。午後0時半、アカコヤグアに到着。こじんまりとした町中には、オート3輪タクシーが走り回っていたのが印象的だった。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月28日付
ニッケイ新聞 2015年10月27日 ブラジル秋田県人会(川合昭会長)は25日、「創立55周年式典」を聖市内の三重県人会で開催した。母県から佐竹敬久知事、渋谷正敏県議会議長ら27人の訪問団を迎え、約200人が参加した。記念品の交換などが行われ、祝賀会ではカーニバル隊の参加や訪問団によるドンパン節も。節目の年を祝うと共に、両者の絆がさらに深まる式典となった。 同会は1960年、会員45人で発足した。同県人会館は近年、建物への落書きや壁の老朽化が進んだことから、母県から2200万円の支援を受けこのたび改修を終え、24日にはテープカットも行った。 母県から佐竹知事、渋谷県議会議長および議員、秋田市副市長、湯沢市の高久浩二ふるさと応援大使、地酒「高清水」で有名な秋田酒類の平川順一社長、秋田テレビから佐藤真弓制作部専任部長らが来伯。 式典では日本からの訪問団27人および、中前隆博在聖総領事、菊地義治援協会長、林まどか文協副会長、本橋幹久県連会長、羽藤ジョージ州議らが出席した。川合会長はあいさつで、「仲良く楽しくが県人会のモットー。さらに前進しよう」と呼びかけ、改修への支援に対して謝意を述べた。 佐竹知事は「地理的には離れているが、同じ秋田県人。古里を愛し、発展を願う気持ちに隔たりはない」と語った。秋田県と県人会が互いに記念品を贈呈した後、佐竹県知事から日系3団体へ寄付金が送られ、本橋県連会長が代表謝辞を述べた。県費研修生の代表スピーチで3年前に留学したデニーゼ・ニシオカさん(29、三世)は、「生まれて初めて見た雪に大変感動した。最も印象に残っているのは秋田の人たちのおもてなし」と涙ぐみながら話した。 ケーキカット、鏡割りの後、祝賀会でカーニバル隊が現れると、訪問団員も県人会員も踊りに参加。続くドンパン節では、訪問団が汗だくになりながら陽気に踊りを披露した。記念撮影の後、「ふるさと」を皆で合唱して式典は幕を閉じた。 桜庭照子さん(84)は「古里の人たちの方言が聞けて、本当になつかしい」と感激した様子で話した。大間知康夫さん(28、三世)は、「県人会の結びつきも弱くなっているが、慶祝団一行が来てくれたことで絆をさらに強くする。こういう交流は本当に大切」と笑顔で語った。 □関連コラム「大耳小耳」□ 会館リフォームに2200万もの支援があった秋田県人会。この大型支援の理由を佐竹知事に聞いたところ、「言わば県人会は県の出先機関で市役所や町役場と同じ。支援は当然」とか。会員数が下から10番目という秋田県人会、今後の活動で県の思いにしっかり応えていってほしい。
ビラカロン沖縄県人会(上原テーリオ会長)とウエルカム・プロ(木本マルシオ取締役)主催の「第13回沖縄フェスティバル」が11月7日午前11時~午後9時、8日午前11時~午後8時にサンパウロ(聖)市ビラ・カロン区の同県人会館そばの広場(Praça Haroldo Daltro s/n)で開催する。案内に上原会長、木本氏、照屋武吉実行員長が来社した。 毎年多くの来場者で賑わう同イベントだが、今年の目玉は沖縄のバンドで、日本でも人気を誇るBEGINのショー。BEGINは今回が3回目のブラジル公演で、前回の訪伯時には在聖総領事館元職員の坂尾英矩氏からブラジル音楽の1つ「マルシャ」を紹介されたという。それ以来、日本でのコンサートでも披露を開始。「ビギンのマルシャ、ショーラ」(ショーラとは沖縄の方言で『…しようよ』の意)という作品を今年の夏に発表し、ブラジル文化を日本に伝えている。 「今まで違ったBEGINが観れるはず。マルシャショーラを聴きにぜひお越し下さい」と一行は来場を呼びかけた。 当日は琉球舞踊や沖縄太鼓、空手ショーなどが一日中ステージで披露され、会場では沖縄料理はもちろん、世界各国の料理が販売される。 入場無料だが、保存食1キロを持参のこと。問い合わせは同県人会(電話11・2296・1120)まで。 サンパウロ新聞 2015年10月24日付
神秘的なテオティワカン遺跡 テオティワカン遺跡に到着したが、ピラミッドの見学を前に我々第2グループは先に土産物屋へと連れて行かれる。土産物屋には、高さ2メートル以上もある巨大なリュウゼツランがあった。リュウゼツランはメキシコ名産の「テキーラ」の原料として有名だが、ここではアルコール度数が5%と低い発酵酒を作る様子が説明された。 メキシコには世界に260種類あるリュウゼツランのうち、約150種類があるという。土産物屋の女性がリュウゼツランの茎の先から内側にある薄い膜を取り出した。ビニール繊維のような薄い膜は昔、原住民が紙の代わりに絵を描いたりしたとし、その繊維で織物などを作っていたそうだ。 土産物屋にはテキーラをはじめ、黒曜石や数々の装飾品などが販売されていたが、結構値段が高い。しかし、毎日のスケジュールが詰まったふるさと巡り独特のハードな旅程の中で土産物をじっくり買う時間がほとんどなく、「買える時に買っておくか」と仕方なくテキーラなどを購入した。後でテオティワカン遺跡内にも小さな土産物屋がたくさんあり、我々が連れて行かれた土産物屋よりもはるかに安いことを知ったが、「後の祭り」だった。 おまけに、遺跡内には黒曜石や装飾品などを売り付けてくる地元民が多く、怪しげな日本語で「見て、見て」「これほとんどタダよ」などと、しつこく言い寄ってくるのには閉口した。 気を取り直してガイドのセサルさんの説明を聞く。それによるとテオティワカンには、西暦550年ごろまでメキシコで人口が最も多かった約20万人が住んでいたとし、その7割が芸術家で、残りの3割は農業生産者、商人、神官、数学者や天文学者だったという。 また、遺跡内にある月のピラミッドは正面が南に向いており、太陽のピラミッドは西に向いている。当時の住民にとって太陽の沈む西方向が「死者の世界の入口」=「聖地」とされ、死を超えてまた「生の世界」に戻ると信じられていたそうだ。 説明を受けた一行は、「月のピラミッド」には登らず、「死者の大通り」を歩いて「太陽のピラミッド」を約30分の時間に区切られて登ることに。その理由は、この日第2グループを中心にした7人のメンバーが旅行会社か何かの手違いで、当初の予定より早くチアパス州都のトゥクストラ・グティエレスに行くことになったため、団体行動として7人に時間を合わせることになったと、ブラジルから同行したガイドから聞かされていた。太陽のピラミッドの祭壇広場では原住民による宗教儀式が行われており、鳥の羽根を施した帽子をかぶったり、赤い鉢巻をして顔にペイントした人々が太鼓や笛の音色に合わせて踊っていた。 時間がない我々は、それを尻目に太陽のピラミッドへと登るが、階段は結構急でところどころワイヤーの手すりもあるものの、息切れがするほどだ。日曜日とあって観光客も多く、階段と頂上は人々でごった返していた。 それでも頂上から見える景色は雄大そのもので、これだけの遺跡が存在することに歴史と神秘さを否応無く感じさせられた。 予定時間の午後0時50分にバスを停めている駐車場に集まり、午後1時にテオティワカン遺跡を慌しく出発。地元のメキシコ料理店で昼食を取った。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月24日付
ニッケイ新聞 2015年10月23日 ブラジル沖縄県人会ヴィラ・カロン支部(上原テーリオ会長)が『第13回沖縄祭り』を11月7、8日両日午前11時から、同支部前サッカー場(Praca Haroldo Daltro, 297)で開催する。入場無料。それぞれ午後9時、同8時まで。 特別ゲストとして沖縄県出身で日本の人気バンド「BEGIN」が公演を行う(時間帯は未定だが両日夕方以降)。例年2万人の来場者を数える同祭を一層盛り上げる。 過去2度の伯国公演を通し、当地の伝統音楽「マルシャ」に影響を受けたBEGINは、今年6月アルバム『ビギンのマルシャショーラ』を発売。自身の楽曲をブラジル風にアレンジした作品を収録し、当日は同作からも演奏されることが予想される。 ほかにも舞台ではレキオス芸能同好会など、総勢600人の太鼓隊が登場。琉球舞踊、バンド演奏等も加わり、絶えず舞台を盛り上げる。また沖縄空手の模擬演技には大迫力の400人が登場する。 食事も沖縄そばやサータアンダーギー(沖縄風ドーナツ)や山羊汁(ヒージャージル)等の沖縄料理や各種日本食のバザリスタが100店軒を並べる。 上原会長と照屋武吉実行委員長は「ブラジル中の県人が集まるお祭り。五感で沖縄を味わって下さい」と呼びかけた。 またブラジル側でのBEGINのコーディネーター・木本マルシオさんは、「メンバーは『ちょうど条約が調印された11月にライブができるのは特別なことだ』と話している」と明かした。 問い合わせは同支部まで(11・2296・1120)まで。
グアダルーペ聖堂を見学 3日目の9月27日、ふるさと巡り一行は世界遺産のテオティワカン遺跡に向かうため、ホテルをチェックアウトして午前9時に出発した。この日は夕方から、チアパス州都のトゥクストラ・グティエレスまで飛行機での国内移動となる。、 メキシコシティから北東に約40キロの距離にあるテオティワカン遺跡は、高さ65メートルに及ぶ「太陽のピラミッド」や高さ45メートルの「月のピラミッド」などがあることで有名だ。 この日は日曜日ということもあって平日よりも道は空いているようで、一行はまずバスで約30分の距離のグアダルーペ聖堂を見学する。93%がカトリック教徒で占められるというメキシコでは、「褐色の聖母」が安置されている同聖堂は最も重要な場所と言われ、一行が聖堂を訪れた際もミサが行われており、数多くの信徒や観光客が詰め掛けていた。 ガイドのセサルさんによると、1531年12月9日にアステカ人のフアン・ディエゴの前に聖母が現れて父親の病気を治し、その時に聖母から司教への印としてフアン・ディエゴが花をマントに包んで持っていったところ、マントには聖母の姿が映し出されたエピソードがあるという。そのマントに映し出された聖母の姿は、現在も新聖堂内に額入りで飾られている。 一行はセサルさんの説明を聞きながら、まずは旧聖堂の外観を見学。旧聖堂は18世紀に建てられたという古い建築物のため、地盤沈下の影響で聖堂そのものが傾いているのが肉眼でもはっきりと分かる。 続いて、1974年に造られたという新聖堂でのミサが行われている中、一行は祭壇中央の地下を通って、大型のメキシコ国旗に包まれるように展示された「褐色の聖母」の額に見入った。ちなみに、新聖堂を建設したのはラミレル・バスケスという有名な建築家で、86年に開催されたメキシコ・サッカーW杯会場となったアステカ・スタジアムをはじめ、国立人類学博物館や在メキシコ日本国大使館なども建設した人物だという。午前10時過ぎ、グアダルーペ聖堂を後にした一行は、改めてテオティワカン遺跡へと向かう。途中、車窓からは赤、青、黄色など色鮮やかな家々が山の斜面にびっしりと張り付いているのが見えた。 セサルさんによると、これらはメキシコのスラム街だという。今年は6月に行われた州知事選挙をはじめ、下院議員や州議員などの統一地方選挙が年内に実施される。そうした中、各政党が自分たちの政党カラーを支持する住民にペンキを与え、その政党のカラーペンキを家の壁に塗った人には200~500ペソ(約1400~3500円)の買い物カードが配られたとし、政治家のバラまき政策が横行しているそうだ。 ブラジルでも現政権でバラまき政策が公前と行われているが、メキシコの政党や政治家も同じようだ。 午前11時前、一行は目的地のテオティワカン遺跡に到着した。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月23日付
「週刊日墨」の思いを語る荻野さん 日墨協会(和久井伸孝会長)の歓迎夕食会では、8年前から活動しているという同協会コーラス部混声合唱団15人が「ふるさと」をはじめ、メキシコの歌及び東日本大震災支援曲「花は咲く」を熱唱。また、同協会の会員女性がカラオケを披露し、会場を沸かせた。 食事の前後にメキシコ側の出席者に話を聞いた。 メキシコ沖縄県人会会長の高良アルシデス英樹さん(57、3世)は、サンパウロ市のツクルビー区生まれ。母親がリューマチのため、13年間一緒に神奈川県に住んでいたことがあるが、メキシコに移住して既に17年が経つという。現在、ワインやビール等のアルコール類とハム・チーズ類を販売する商売を行っている。「メキシコも最近は治安が悪く、泥棒も増えています」と話していた。 10歳でメキシコに来て47年が経つという松本安弘さん(57、大阪)は、メキシコ工科大学大学院研究所で太陽電池についての研究をしているとし、記者も同じ「大阪出身の松本」であることを話すと親しみを込めた笑顔を見せた。 会場で、メキシコの邦字紙「週刊日墨(にちぼく)」の代表及び編集長だった荻野正蔵さん(70、茨城)を紹介された。海外邦字紙の大先輩である荻野さんに、ブラジル邦字2紙の記者が一緒にインタビューを行う。 「週刊日墨」は1955年ごろ創刊。67年に荻野さんが日本人学校の教員としてメキシコに渡った時分に「週刊日墨」の社長が亡くなり、当時6人で構成された「邦字紙存続委員会」の一員として大使館、日系団体関係者らとともに荻野さんも加わった。 「メキシコに邦字紙がないのは恥ずかしい」というのが委員会メンバーの考えだったが、当時26歳と若かった荻野さんに白羽の矢が立ち、70年に夫人との2人体制で4ページ建て1200部の「週刊日墨」を引き継いだ。「当初は『できません』と断ったのですが、周りから『(日本人学校の仕事が終わった)午後4時からならできるだろう』と言われて新聞の仕事をやるようになりましたが、そのうち日本人学校を辞め、新聞だけでやっていくようになりました」 記事取り、写真撮影、編集、割り付けはもちろんのこと、営業、広告、発送まですべてを夫人と2人だけで行った。新聞だけでは食べてはいけないため、84年からはレストラン経営も始め、邦字紙発行の資金にした。 「引き継いだ当時は活字を一つ一つ自分で拾っていましたが、そのうちタイプレス、ワープロ、パソコンになり、タイプレスはラテンアメリカではウチが一番早かったと思います」と荻野さんは当時の生活を振り返る。 「メキシコの郵便事情により、新聞がいつ読者のもとに届くかが分からず、海外日系人協会を通じて日本の新聞の『褪(あ)せない』記事を掲載し、日系社会では催しの『ありました』記事が多かったですね。小さな日系社会では下手に書くと軋轢(あつれき)が起こります。書かないことも新聞の一つだという思いがありました」と荻野さんは、海外の邦字紙ならではの経緯も話してくれた。 90年にはそれまでの2週間に1回の発刊を1週間に1回に変更するなど気を吐いたが、結局、97年に廃刊となった。 「(97年の)榎本殖民団入植100周年までは何が何でも頑張るつもりでやりました。最後の一人の読者になるまで新聞を出したいとの思いはありました」と荻野さん。現在、メキシコには駐在員を対象に生活情報などを盛り込んだ2つのフリーペーパーがあるというが、「新聞が無くなって寂しいという声も多いですよ」と邦字紙への思いは今も大きいようだ。 歓迎会会場では、締めくくりに恒例の「ふるさと」を出席者全員で合唱し、最後は全員で万歳をしながら午後10時に「お開き」となった。日墨協会関係者たちの思いのある歓迎に、ふるさと巡りの常連参加者からは「今までの交流で最高だった」との声も聞かれた。(つづく、松本浩治記者) サンパウロ新聞 2015年10月22日付
